2013年12月22日日曜日

先住民の魂を追う、サンタバーバラに日帰り旅行

オレンジ色の屋根に白壁の家々という街並みが人気のサンタバーバラ(Santa Barbara)へ日帰り旅行に行った。

サンタバーバラは、1786年、カリフォルニア支配を本格的に開始したスペインが、ミッション・サンタバーバラ(Mission Santa Barbara)を建設した町だ。ミッションとは、カトリック教会の神父が先住民の改宗を進め、それをスペイン軍が護衛する宗教的・軍事的な植民地支配の拠点。スペインは当時、カリフォルニア州太平洋岸地域の21ヶ所にミッションを先住民の労働力で建設し、支配を固めた。

当時、サンタバーバラでスペインが改宗の対象とした人々は、現地の先住民チューマッシュ(Chumash)族だった。サンタバーバラのミッションを見学する前に、先住民の文化について理解を深めようと、彼らの聖地だった岬ポイントコンセプション(Point Conception)に向かうことにした。ロサンゼルスからサンタバーバラは車で西へ2時間、ポイントコンセプションはさらに西へ1時間半かかる。

ポイントコンセプションの地図(クリックで拡大可能。Google Mapから)

チューマッシュ族の世界観では、人間が死んだ3日後に、その魂が墓から出て、生前のゆかりの場所をさまよう。その2日後に墓に戻る。その後、魂は太平洋の波が打ち寄せるポイントコンセプションから、死後の世界に向かうと考えられていたという。

グーグルマップで行き方を調べて印刷した紙を手に、自宅を午前9時過ぎに出発。神々しく光る太平洋岸に出たと思うと、キャンプ場に到着した。どうなっているのかと思い、キャンプ場の職員に聞くと、「ここからポイントコンセプションまでは私有地なので車では行けないんです。あなたと同じようなケースも多いですし、グーグルは地図から経路を省くべきですよ」と教えてくれた。キャンプ場から海岸沿いを歩くと数時間かかるが、それではサンタ・バーバラを散策する時間がなくなる。仕方なく引き返した。


やや残念だったけど、周囲の海の雰囲気はつかめたので良しとしよう。その後、サンタバーバラ中心部から少し東側のモンテシート(Montecito)という町にある有名なイタリア料理店トラットリーア・モリー(Trattoria Mollie)へ向かった。

店内に入ると、同店女性シェフのモリーさんが出版したレシピ本が置いてある。女性はアフリカ系だ。すると事前に調べてくれた妻が「エチオピアの人らしいよ」と言う。エチオピアは20世紀前半に5年間、イタリアの植民地支配を受けていたが、それがなんらかの背景にあるかどうかは分からない。けど、意外で興味深い。オバマ大統領も食事に来たらしい。

広い店内には、3組の客が食事をしていた。僕の右手に座っている女性2人がたまたま視界に入った。その1人が有名な昼間のトークショーの女性司会者に似ている。そう思うやいなや、彼女の声が聞こえ、その女性司会者に間違いないと分かった。しばらくすると、モリーさんが現れ、彼女に抱擁してあいさつしていた。

僕らはピザ・マルガリータとフィオレンティーナ風タリオリーニ(平打ちパスタ=写真)を注文した。味にも量にも満足したけど、それぞれ12ドルと15ドルと良心的な値段でさらに好感を持った。有名人の休日も垣間見れた。

アルデンテでおいしい。


食事を終えて、ミッション・サンタバーバラへ向かった。現在の施設は1820年に建設され、その後、修復を重ねつつ、今日まで現役の教会として利用されている。観光客は入場料が必要だが、教会に入ると、礼拝をしたり、懺悔をしたりする現地の信者が何人かいた。

ミッション・サンタバーバラの教会


ミッションを出てダウンタウンへ。周辺は高級そうな住宅が多い。チューマッシュ族が暮らしていた豊かな土地は、スペイン、メキシコ、アメリカの支配を受けて今日に至る。

ダウンタウンを軽く歩いた後は、そのまま海辺に向かう。ちょうど日が沈み、辺りはすっかり暗くなった。こじんまりとした鮮魚店で生ガキとウニを買う。生ガキはその場でちゅるっと食べた。午後7時半に帰宅。あったかいごはんにウニをのせて美味しくいただいた。

新鮮な魚がビニールでラップされて販売されていた。

この量で約6ドル。身も大きく甘かった。

2013年12月21日土曜日

移民都市ロサンゼルスの日常、挑戦から学ぶ

今日で大学院留学2年目の秋学期が終わった。
今学期はロサンゼルス史の授業とチカーノ/ラティーノ研究の授業を受けるとともに、初めてティーチング・アシスタント(TA)にも取り組み、学部生にカリフォルニア史を教えた。

ロサンゼルス史の授業は、大量の歴史資料を保管している文化施設ハンチントン図書館(Huntington Library)の一室で受けた。その日だけ車を使ったが、それ以外はいつも通り電車で通学した。

ある朝、電車に乗ると地元小学生の団体が乗り込んできた。電車に乗るやいなや大騒ぎする子どもたち。「ごめんなさいね~(Sorry guuuys!)」と女性教員が他の乗客に声をかける。子どもらの人種・エスニシティは、ヨーロッパ系、アフリカ系、ラティーノ、東アジア系、南アジア系とさまざま。子どもたちは自然史博物館の最寄り駅で降りて行った。

その後、電車は大学キャンパス前の駅に到着。駅から大学キャンパスへは横断歩道を一つ渡らないといけない。車道を走る自動車は一台もなかったけど、僕を含めて、学生たちは赤信号が青信号(実際は白信号=写真)に変るのを待つ。学生たちの人種・エスニシティも小学生たちと同じで多様だ。それぞれの祖先を辿れば、世界各地にたどり着くだろう。

信号が変わると、学生たちは黙って横断歩道を渡り始めた。

安全を示す歩行者用の信号は、歩行者の形の白い電光で表示される。

今学期の授業は、こうして多様な背景を持つ人々が信号で立ち止まり、また動き出す移民都市の日常を、非日常として歴史的に考える機会になった。


一方、妻は新しい挑戦として菓子店でアルバイトを始めた。家計をサポートするだけでなく、現地の人々と一緒に何かに取り組むことで、アメリカ社会について理解を深め、英語を練習する貴重な機会だ。

妻は昨年1年間は移民対象の英語教室に通って、メキシコや中国、タイなど出身の仲間たちと交流を深めた。今でも月に数回は彼女たちと一緒に遊んでいる。そんな仲間たちも今年からそれぞれ仕事を始めているらしい。今回の妻のアルバイト探しでも、外国人や日本人の友だちがアドバイスをくれた。

外国人は、外国人同士のネットワークを生かしつつ、現地の生活に溶け込んでいく。
公費で運営されている英語教室は、外国人に言葉を教えるだけでなく、こうした外国人同士のネットワークを生み出す基盤にもなっている。


今日、妻は菓子店に向かい、基本的な業務の練習をした。同僚は親切な人たちばかりらしい。
僕は昼過ぎから大学に向かい、TAで担当した学部生の成績について教授と最終確認をした。

作業を終えると午後6時。ほぼ常夏といってもいいロサンゼルスでも、この季節の朝晩は冷え込む。ダウンタウンから帰りがけの妻が車でキャンパスまで迎えに来てくれた。

ささやかな打ち上げということで、そのまま自宅アパート近所のタイ料理店に車で向かった。妻はタイカレー、僕は平たい米粉麺パッキーマオ(写真)を食べた。こういう一日はありがたい。

平たい麺の料理パッキーマオ。唐辛子を漬けた酢をかけて食べた。

2013年11月17日日曜日

リトル・トーキョーの記憶を守る、和菓子店モデルの舞台鑑賞

兎追ひし彼の山 小鮒釣りし彼の川

舞台の幕が上がると、観客席をまっすぐ見つめて役者たちが歌いだした。

日系コミュニティとして発展したリトル・トーキョーで、今年開業110周年を迎えた和菓子店「風月堂」をモデルにした舞台を見に行った。お世話になっている日本人の先生が誘ってくれた。

風月堂は岐阜県出身の鬼頭精一が1903年に開業。現在は孫の鬼頭ブライアン氏が引き継いでいる。第二次世界大戦が起きた20世紀、ロサンゼルス社会も日系人社会も大きく変化した。風月堂は、そのような時代を生き抜き、今日まで営業している数少ない日系商店の一つだ。

舞台は日系劇団The Graceful Crane Ensembleによる「Nihonmachi: The Place To Be」。リトル・トーキョーをモデルにした日系コミュニティで、和菓子店を営業する日系三世の男性が、亡くなった祖父や父の霊に過去へ導かれて、世界恐慌や強制収容を耐え抜き、日系社会の絆をつなぎとめてきた店の歴史を知り、店を守り続けようと決心する物語だ。

舞台の様子(Japanese American Culture & Community Centerホームページより)

100年前にアメリカに渡った日本人移民とその子孫の心のやりとりを、各時代に流行した日本語と英語の歌を織り交ぜながら表現している。

舞台では、祖父は祖母とは日本語で話し、孫には「カスタマー・ナンバー・ワンね」と日本語のアクセントの入った英語で話す。

祖父と父が、強制収容所から解放されて、日系コミュニティに戻る。
何もかも失い途方に暮れると、美空ひばりの「川の流れのように」が流れる。

役者たちが「知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道」と歌い始めると、会場からはすすり泣く声や一緒に歌う声が聞こえてくる。会場一階の約600席は、日系二世や三世と思われる人たちが大半だ。

日本語のセリフも多かったが、その意味が分かるかどうかよりも、日本語の響き自体が両親や祖父母のことを思い出させて、観客の記憶を刺激する。そして、それが涙になったり、笑いになったりして、会場を一つにしていく。

高齢の二世や、三世を中心とした観客がいるからこそ、こうした会場の雰囲気が味わえるとしたら、役者にとっても観客にとっても、今しか経験できない貴重な舞台といえるだろう。

劇団ホームページで、脚本担当のソージ・カシワギは「二世にとって、特に日本語の歌は一世の両親の記憶を呼び起こす。三世も祖父母や両親が歌う様子を見ながら育ってきたので、これらの歌は彼らの心に響く」と述べている。

戦後のシーンは、「Material Girl」などアメリカのポップミュージックが中心となる。孫の男性が自分の青春時代を思い出し、当時の音楽に合わせて踊っていると、祖父の霊が現れて一緒に踊る。

舞台は、日系アメリカ人が経験した世代間の葛藤は取り上げていない。しかし、日系人が過去を振り返ることで現代を前向きに生きていくというテーマは、三世代を音楽を通して交流させることでうまく表現していた。

最後は役者全員が舞台に集まり、「上を向いて歩こう」を合唱し、観客がスタンディング・オベーションで応えた。


舞台が終わると、会場の外で風月堂の和菓子がふるまわれた。僕は豆大福にくわえ、アメリカ風にアレンジしたピーナッツバター大福を食べた。20世紀、大きく変容を遂げたロサンゼルスで、変わらず愛され続けてきた和菓子。味わい深い。

リトル・トーキョー付近は近年、再開発が進んでいる。風月堂は和菓子だけでなく、かつてのロサンゼルスの記憶を守る場所でもある。

舞台終了後、風月堂の和菓子が観客にふるまわれた。
色とりどりの大福

2013年11月9日土曜日

日系人の強制収容、TA授業で議論

第二次世界大戦中、アメリカ西海岸で暮らす日本人約4万人と、彼らの子どもである日系アメリカ人約7万人の計11万人以上が、強制収容所に送られた。

当時、西海岸には敵国人のドイツ人約9万7千人、イタリア人約11万4千人もいたが、彼らとその子どもたちがまとめて強制収容所に送られることはなかった。

「なんでドイツ人もイタリア人もいたのに、日本人と、アメリカ人であるその子どもたちだけ強制収容されたんだろうか」

ティーチング・アシスタント(TA)を担当しているカリフォルニア史の授業で、20人ほどの学生(学部生)に問いかけた。

学生らは各3~5人の5グループに分かれ、テキストを読みながら、その答えを探す。

「日本に忠誠心があると思われたから」
「同化できないと思われたから」
「疑わしいと思われたから」
「見た目が違うから」

いろいろと答える。僕は「じゃあ、なんで同化できないと思われたの。なんで疑わしいと思われたの」とさらに質問する。
ある学生が「血ですか」と答えた。

テキストでは、歴史学者スーチェン・チャンが、強制収容を指揮したドゥウィット(DeWitt)将軍の作成した文書を紹介している。

そこで、チャンは「その文書は、日本人は『敵性人種(enemy race)』であり、『その人種的愛着は(アメリカに)移住しても消えることはなく』、その『人種的特徴』は二世、三世と世代を経ても『薄まることはない』、と宣言した。こうして(中略)日本に出自を持つすべての人が、アメリカの市民権の有無に関わらず、海岸部から排除された」と述べている。

強制収容が実行されるまでの過程には様々な要素が絡んでくるが、このドゥウィットの文書は、アメリカで生まれ育った若者であっても、日本人の血を引き継いでいれば、アメリカに対する脅威であり続ける、という人種主義的な考え方を明確に表していた。


TA授業は週に一コマ50分で、学生は25人ほど。僕は二コマ担当している
授業内容は、教授の方針によってさまざま。今学期は、重要事項だけ教授と他のTAと確認したうえで、授業内容はTAが自由に設計する。

この日の授業は、最初の30分を日系人強制収容に充て、残りの20分は戦後に発展したロサンゼルス近代建築についてふれた。


20世紀中頃のロサンゼルス近代建築は、例えば、ケース・スタディ・ハウス#22(リンクはこちら)が有名だ。

グループごとに白紙のプリント用紙を配って、「今週の教授の講義などで見た建築物を参考に、典型的なロサンゼルス近代建築の家を描いて」と指示した。その後、学生らの描いた絵をホワイトボードに張り付けて、大きなガラス窓、平たい屋根、広々とした室内など、その美的特徴と機能的特徴について簡単に説明してもらった。
それに、高速道路の建設や郊外の発展なども絡めて、現在のロサンゼルスの街並みが、戦後の経済発展とどのような関わりがあるか確認した。

自分たちの絵がホワイトボードに張られるので、学生たちもそれなりに集中する。「この絵はええ感じやね」と褒めると、あるグループの学生らが互いにハイタッチをしていた。




TAの経験から得ることは多い。これで大学から給料を得ている。また、授業プランを立てたり、学生の個別の質問に応えたり、将来、大学などで教えるための技術を磨いている。そして、留学生の僕にとっては英語の練習になる。


今学期は残り一ヶ月、無事に乗り切りたい。

2013年10月20日日曜日

日本と韓国とアメリカ、ガーデナ市の焼肉店で

「Lady Generation 海よりたくましく 未来を生き抜く為には♪」

ある週末、ガーデナ市にある日本の有名百円均一ショップで流れていた曲は、篠原涼子の「Lady Generation」(1995年)だった。ロサンゼルスで暮らし始めてから、日本語はいつも妻と話しているけど、日本のポップミュージックを聞く機会はほとんどない。そんな日々の中で、とつぜん1990年代のヒット曲を聴くと、とても懐かしい。ガーデナ市には、日系人が多く暮らしており、日系食料品店や日本料理店もたくさんある。市長も日系人だ。

先月、ある歴史学関係のイベントで、ガーデナ市に住む日系人の年配の女性と知り合った。いろいろと日系人の歴史について教えてくれた。アメリカで生まれ育った日系二世の女性で、流ちょうな日本語を話す。日本に一時帰国した妻が和菓子を買って帰ってくれたので、先週、その女性にお土産として渡しに行った。不在だったので、手紙を添えて、女性の家のドアノブに和菓子の入った紙袋をぶら下げておいた。


その後、近くにある焼肉店に妻と向かった。同市内に住む韓国出身の知り合いのおばさんが食事に誘ってくれた。おばさんが大家をしている下宿で、僕の日本の大学院の先輩が今年6月まで1年間、暮らしていた。その縁で、先輩の帰国後もよくしてくれる。ありがたい。おばさんは日本にも1990年代中頃まで20年近く暮らしていたので、日本語も話せる。

ガーデナ市では、1980年代以降、韓国人移民も増えており、韓国料理店も多い。
この前から、気になっていた焼肉店「고향갈비(故郷カルビ)」に連れて行ってくれた。
最近、下宿を始めた日本人の18歳の青年も一緒に来た。

庶民的な店内にはテーブルが20台ほどある。平日の午後5時だけど、たくさんの客がいる。韓国系だけでなく、アフリカ系やラティーノの客も多い。

僕らが席につくと、おばさんが「A세트 개 주세요 (Aセット、四つください)」と注文してくれた。Aセットは薄くスライスした牛肉、鶏肉、豚肉の食べ放題セット。それに、スライス状のモチやサラダも付いてくる。値段を見ると一人10ドル弱だった。焼き肉にサラダとスライスモチを包み、焼肉用の韓国味噌を少しつけて食べると抜群においしい。この店の人気の理由が分かった。

食事中、韓国と日本とアメリカの3ヶ国で暮らしてきたおばさんが、それぞれの国の文化や経済の違いについて、自身の経験から話してくれた。ガーデナ市や南隣のトーランス市には、日本人や韓国人が多く暮らしており、おばさんにとって暮らしやすい環境が整っているらしい。今後もアメリカで暮らし続けていく予定のおばさん。「民主主義と平等。これがいちばん大事」と話していた。

しばらくすると僕の携帯電話が鳴った。「ハロー」と出ると、日本語が返ってきた。日系人の女性が、お土産のお礼に電話をかけてくれた。


カリフォルニア州と一口に言っても、地域間の特色の違いは大きい。ガーデナ市の場合、100年以上前に暮らし始めた日本人の子孫や、30年ほど前から増え始めた韓国人移民、またその他のマイノリティの影響が絡まりあって、今日の地域社会ができあがっている。

2010年の国勢調査によると、市内人口約5万9千人の主な人種構成は、アジア系が26.2%、白人が24.6%、アフリカ系が24.4%、その他の人種(some other race, SOR)が18.9%となっている。

アメリカの国勢調査では、人種カテゴリーに関する質問とは別に、ヒスパニック・ラティーノかどうか問う項目もある。
ガーデナ市のヒスパニック・ラティーノ人口は、10年前の調査時に比べて2割増えて、市内人口の37.6%となっている。彼らの多くは、自分たちの人種カテゴリーとして「白人」または「SOR」を選ぶ。

これらを考慮すると、ガーデナ市は、アジア系、アフリカ系、ラティーノの人々が万遍なく暮らしているといえる。ちょうど焼肉店の客層と一致する。焼肉店では、韓国味噌の入った小皿の他に、赤いソースの入った小皿があった。味見すると、トルティージャチップ用サルサの味がして、なんだこれは、と思っていたけど、ラティーノが多い客層に合わせて提供していたのかもしれない。次回、その焼肉店に行ったら、店員に質問してみよう。

2013年10月5日土曜日

非合法移民に運転免許、社会の一員として

昨日、カリフォルニア州のジェリー・ブラウン知事が、非合法移民の自動車運転免許証取得を可能にする法案に署名した。

カリフォルニア州には、合法的な書類を持たずに入国または滞在している非合法移民が約280万人いると推定されている。彼らの多くが仕事や生活で、自動車を必要としているが、これまで非合法移民による運転免許の取得は認められてこなかった。

この法律の狙いは、非合法移民の免許取得を認めることで、彼らの交通ルールに対する理解や自動車保険の加入を促し、重大な交通事故を未然に防ぐことだ。無保険者による交通事故を減らすことにもつながる。これまで激しい議論が重ねられてきた、この法案が成立した背景には、低賃金労働者として地域経済を支えている非合法移民に対する理解の深まりがある。

ロサンゼルス・タイムズのネット記事を読んだり、リンクしてあった地元テレビ局KTLAのニュース動画も見たりすると、この種の法律が抱える問題も指摘されているが、それ以上に非合法移民に対する理解の深まりが伝わってくる。

昨日の午前、ロサンゼルス市役所の前には、ロサンゼルス市のエリック・ガーセッティ市長、ホセ・ゴメス大司教ら移民の権利拡大に尽力してきた有力者にくわえ、移民支援団体関係者や非合法移民が集まり、ブラウン知事による法案の署名を見守った。

ブラウン知事は「もはや非合法移民が社会の陰に隠れて暮らすことはない。彼らはカリフォルニア州内でしっかりと生活し、尊重される」とスピーチで述べた。

テレビレポーターが、市役所前に集まった人々にインタビューする。セルヒオ・ロペスという名前の男性は「Oh my god! I'm so really really happy. I feel so blessed today(オーマイゴッド。本当に本当にうれしいです。今日、本当にありがたいと感じています)」と英語で応えている。

テレビ画像に下の方には、字幕で「undocumented immigrant(非合法移民)」と男性の肩書が紹介されている。非合法移民は、国境管理の観点では強制送還の対象だ。だけど、このテレビニュースでは、男性の顔と名前が丸出しになっている。

子どもの頃に親に連れられて不法入国した非合法移民の若者が、顔と名前を自ら公表して、彼らの合法化を求めて活動している様子は、テレビで何度も見たことがある。だけど、自分の判断でアメリカに入国した非合法移民の大人の顔と名前を、ここまであからさまに報道しているニュースを見るのは初めてだった。

アメリカの非合法移民は、日本では「不法移民」と報じられている。「不法移民」と聞くと、強制送還の対象という印象が強い。しかし、日本語の「不法移民」という言葉では、カリフォルニア移民社会の非合法移民に対する認識は理解しにくい。少なくとも、この日、市役所前に集まった人たちにとって、非合法移民とは合法的な書類を持たない「社会の一員」という認識の方が強いんじゃないだろうか。

テレビ局も、この男性の顔と名前を公表しても、彼が不法滞在以外の犯罪を犯さない限り、当局が彼を強制送還することはない、という自信があり、この男性自身も自分を支えてくれる人たちがたくさんいることを知っている。そういった非合法移民をめぐる社会的な認識が、こうした報道自体を可能にしているように思う。

ロサンゼルス・タイムズのネット記事に寄せられたコメントが示すように、カリフォルニア州内においても、非合法移民に対する批判は根強い。それ以上に、知事や市長が非合法移民の社会的貢献を認め(ラティーノ有権者の票が視野に入っていたとしても)、地元テレビ局が非合法移民を「陰」に隠さず、顔と名前を公表して、彼らの声を報じている事実は力強い。

・この法案署名に関するロサンゼルス・タイムズの記事は、こちら

2013年9月22日日曜日

郵便局の日常、カリフォルニア社会の多様性

近所の郵便局に向かった。
コスタリカの友人が現地特産のコーヒーを送ってくれたが、配達時に僕が家にいなかったので、郵便局まで取りに行った。

この郵便局には、いつもたくさんの人が訪れている。
窓口前に並ぶ人たちは、初対面でも、いろいろと話し出す。アメリカの日常だ。
この日は元軍人の白人のおじいさんと、かつて夫が海軍にいて、今は息子が海軍にいる白人の奥さんが話していた。

奥さんは「夫は冷戦時にロシア(当時ソビエト連邦)の潜水艦を探知する仕事をアイスランドでしていたんですよ」などと話した後、「Thank you for your service」とおじいさんに声をかけて窓口に向かった。
アメリカに住むと、軍人や元軍人に、人々がこの言葉をかける場面をしばしば見かける。

僕の前には、3歳くらいの男の子を連れた、メキシコ系の小柄な女性が並んでいた。オアハカ州出身の人かなと思った。夏休みにボランティア活動をした移民支援団体に来ていたオアハカ州出身の人たちと、なんとなく面影が似ていたからだ。

窓口の郵便局員はみんなアフリカ系の人たちだ。アメリカでは、多くのアフリカ系の人々が、公共性の高いサービスを提供する施設で働いている。僕のアパート最寄りの自動車運転免許試験場(DMV)の職員も、9割以上がアフリカ系の人たちだ。
歴史的に抑圧を受け続けてきたアフリカ系の人たちが安定した生活を送るために努力し、闘ってきた結果とも考えられる。一方で、アフリカ系の人々が、アメリカで社会上昇する際に重視されている起業家精神を育むことが難しい社会状況も残っている。

郵便局の利用者だけでなく、郵便局員もおしゃべりをしながら働いている。こういう感じは好きだ。
隣の窓口の女性職員が、僕の窓口の女性職員に「お昼、マクドナルドに行こうと思うんだけど、どうする」と話しかける。おなかが減った。
女性職員に不在届と免許証を見せてしばらくすると、コスタリカから届いた小包を持ってきてくれた。

郵便局は遠いところにいる家族や友人と、手触りのある手紙や小包を通してつながることができるから、昔から好きな場所だ。この日も、こうしてコスタリカの友人とつながることができた。またお返しに何か送ろうと思う。

コスタリカの友人が送ってくれたコーヒー。コスタリカのホストファミリーが飲んでいる商品(左)と、友人のおすすめ(右)。

郵便局に訪れただけでも、カリフォルニア社会の人種・エスニシティの多様性を実感できる。僕も、この郵便局に来たアジア系男性として、この多様性の一部になっている。昨年、渡米したころは、こうした場面がとても刺激的だった。けど、一年が過ぎて、この多様性が徐々に日常的になってきた。日常的になると、見えるものもあるけど、見えなくなるものもある。見えるものも、見えなくなるものも、どちらも見ていきたい。

2013年8月16日金曜日

労働運動と地域支援、ボランティア活動を終えて

운전하고 싶은데(運転したいんだけど)」

中国出身のおじさんが言う。おじさんは朝鮮族だから、韓国・朝鮮語が母語だ。

おじさんは右ひじから先、左手首から先がない。
手がなくても運転できるのか、聞いているみたいだ。
おじさんの言う「장애인」という言葉の意味が分からなかったが、韓国人のおばさんが英語で、それは「障害者」のことだと教えてくれた。

おじさんとインターネットを使って、どのように障害者が運転免許を取得できるか調べた。
カリフォルニア州の自動車免許試験場(Department of Motor Vehicles、DMV)の住所を見つけた後、DMVのホームページで障害者に関する情報を探した。
すべてのDMVに障害者の質問を受け付ける特別窓口があることを伝えると、おじさんはほっとしたような表情を見せた。


この日は、ボランティア活動として、コリアタウンの移民支援団体で、5月30日から毎週木曜日に続けてきたパソコン教室の最終日。7月4日の独立記念日を除き、計11回、ラテンアメリカや韓国、中国出身の人たちにインターネットの簡単な使い方を教えた。毎回5~11人が参加した。

これまで、インターネットで地図、写真、ビデオなどを調べる方法を練習し、インターネットを利用する際の注意点も確認した。パソコンの操作方法は何度も繰り返し伝えないと、なかなか覚えてもらえなかったけど、それぞれ少しずつ上達した。

ラティーノにはスペイン語で、韓国人と中国人(朝鮮族)には韓国語で説明するように心がけた。
僕の韓国語は初級レベルなので、はじめの頃は難しかったが、自分が知っている数少ない単語を結び付けて、どうにか説明する練習にもなった。

多くの参加者は低所得の移民で、自宅にパソコンがない。これだけインターネットに情報が溢れていても、気軽に情報を手に入れることはできない。それだけに、このパソコン教室で、出身国の地図や写真を見たり、電子メールを送ったりする作業を楽しんでくれたようだ。

この日は、そうした作業の復習として、①コリアタウンから、サンディエゴ市のバルボア公園に行く方法をグーグルで調べる、②バルボア公園内の室内植物園の写真をグーグルで探す、③出身国の新聞社のホームページを見つけて最新ニュースを読む、という三つの作業をした。

それぞれ作業のスピードは違うものの、うまく使いこなしていた。


「Hoy es la última clase(今日が最後のクラスか)」

メキシコ人のおじさんが声をかけてくれる。このおじさんはいちばん出席率が高かった。
「Sí(そうなんですよ)」と答えると、「Entonces, ya no vengo (じゃあ、僕も来なくなるなあ)」と言う。

おじさんの一言は、この移民支援団体におけるパソコン教室の機能を分かりやすく示している。
この団体にとって、パソコン教室そのものは、それほど重要な活動ではない。
最も重要な活動は、勤め先で賃金未払いなどの被害にあった移民労働者の権利を守ることだ。
具体的には、移民労働者の相談を受けた後、カリフォルニア州の労働基準監督署に被害を訴え、雇用者が罰金を支払うまで、移民労働者を支援する。

移民労働者がこの団体を知らなかったら、泣き寝入りすることもあるだろう。
しかし、普段から本人や友人が、この団体のパソコン教室などに参加していれば、何か問題が起きた際、この団体に安心して早い段階で相談することができる。
パソコン教室は、労働運動を展開する団体と移民労働者を結びつける接点の一つとして機能しているわけだ。

この団体は、英語教室と工作教室などのサービスも提供している。これらの教室も、移民の生活を支えると同時に、移民労働者と団体の接点として重要な役割を担っている。また、これらの教室の参加者が、この団体が計画したデモ行進などに参加することも珍しくない。

労働運動と地域支援は、切り離せない関係にある。


午前11時半、この日の参加者が帰っていく。最後に、中国出身のおじさんが残っていた。
おじさんは、手はないけど腕を器用に使って、教室の窓を開けたり、机を並べたりして、いつも手伝ってくれた。中国の朝鮮族についても、ときどき教えてくれた。

전화번호 주세요(電話番号ください)」と言うので、新聞紙の切れ端に僕の電話番号を書いて手渡した。肩を組むように、腕で僕の背中をさすってから、「バイバーイ」と言って帰っていった。

来年の夏も、また機会があれば、ぜひこのパソコン教室を担当したい。

2013年8月11日日曜日

国境越えて「分かち合い」、移民支援団体のBBQ

ボランティア活動をしている移民支援団体のバーベキューに、妻と一緒に参加した。

バーベキュー会場は、ロサンゼルス市中心部から車で2時間ほど北に行った農園。支援団体メンバーのラティーノ家族ら約40人が参加して、にぎやかなバーベキューとなった。

メキシコ、エルサルバドル、グアテマラ出身の大人たちに加え、アメリカ生まれの子どもたちもたくさん参加した。

食事用のテーブルには、タマル(tamal)など、ラテンアメリカでおなじみの食材が並んでいる。タマルは、野菜や肉を詰めたトウモロコシ粉の生地を、プラタノの皮で包んで蒸した料理。鶏肉が入ったタマルと、フリホーレス(豆)が入ったタマルの2種類が用意されていた。

初めて食べたフリホーレス(豆)のタマル

炭火コンロでは、スパイシーに味付けされた鶏肉ケバブやソーセージが香ばしく焼かれていた。豚肉のスペアリブもおいしかった。


昼食後は小さなテニスコートで、バレーボールの規則に従って、サッカーボールを蹴り、勝ち負けを決めるゲームをした。最初は子どもたちと一緒に遊び、その後は大人だけで真剣勝負をした。

このゲームは、この日、農園を管理していた韓国人男性2人が教えてくれ、一緒にプレーしてくれた。
この農園は、移民支援団体と関係の深い韓国人移民らが、それぞれ資金を出し合って、共同で購入したもの。彼らが交代で、農園で飼育しているニワトリやガチョウの世話や、山小屋の維持管理をしている。

この日、出会った韓国人男性の一人は1990年代、大阪で働いていた人だった。日本語は標準語だけでなく、大阪弁も堪能。関西出身の僕はちょっと懐かしい気持ちになった。

彼らは、国境を問わず誰もが一緒に集まれる場所として、農園を運営しているらしい。
農園の名前も「分かち合い」という意味で나눔(ナヌム)」となっている。


僕がゲームをしている間、妻はラティーノのおばさんやおじさんたちと会話を楽しんだ。

妻は今年6月まで、近所のスペイン語教室に通っていた。
その時に勉強した単語と文法を使って「(支援団体で)パソコンの勉強をしているんですか」と、あるおばさんに声をかけてみた。
すると、「いえ、英語の勉強です」と返事が来るやいなや、スペイン語でたくさん話され、すぐに何が何だか分からなくなった。

その後、おばさんが日本語を教えてほしいと言うので、妻は「こんにちわ、ありがとう、さよなら」と簡単な日本語のあいさつを教えた。おばさんはポケットからメモ帳を取り出して、「adios=sayonara」などと書き込んでいたらしい。

妻は「こちらが話しかける気持ちであれば、向こうもいろいろ話しかけてくれる」と話していた。

参加者は大きな木の下にテーブルやイスを置いて食事と会話を楽しんだ。


午後4時。子どもたちが楽しみにしていたピニャータ(piñata)割りの時間がやってきた。ピニャータは、アメやガムなどのお菓子がたくさん入った紙製の人形のこと。木の枝や天井からピニャータを吊るし、子どもたちが棒でたたき割って、中から飛び出してきたお菓子を拾う。ラテンアメリカでは、誕生日パーティーでおなじみだ。

アニメ映画のキャラクターを模ったピニャータ

年齢の小さい子どもから一列に並んで、順番に人形をたたく。人形を吊るすヒモを、大人が引っ張ったり、緩めたりして、人形を動かす。ぶらぶらと逃げ動く人形を、子どもたちが一生懸命、たたく姿がかわいらしい。小学校の高学年くらいの子どもは力が強いので、目隠しをして挑戦。なかなか当たらないので、周りの人たちから笑顔がもれる。

最後は無事に人形が裂けて、お菓子が飛び出し、子どもたちが一気に群がった。
あるメキシコ人のおじさんは「最近はアメリカ人の子どももピニャータをするらしいよ」と話していた。

ピニャータ割りを見たところで、一足先に帰ることにした。
支援団体スタッフに加え、韓国人男性にもあいさつ。日本語が話せる男性は「友だちを連れていつでも来てくださいよ」と気さくに言ってくれた。

分かち合いは気持ちがいい。異なる国や地域の人々が共生する社会を築くには、分かち合いはとても重要なことだと感じた。

2013年8月4日日曜日

麺料理に舌鼓、カンボジア・タウンを歩く

ロサンゼルス大都市圏には、カンボジア人移民も多い。
ロングビーチ(Long Beach)市にあるカンボジア系コミュニティのカンボジア・タウン(Cambodia Town)を訪ねた。

2010年の国勢調査によると、アメリカに住むカンボジア系住民は約27万7千人いるという。
その多くは、1970~1980年代に難民としてアメリカに入国した人々とその子孫だ。

カンボジア共産党(クメール・ルージュ)が1975年、カンボジアの政権を握ると、多くの難民がアメリカへ向かった。初期の難民たちは教育を受けた人たちが多かった。1979年、カンボジア共産党政権をベトナムが倒すと、新たに多くのカンボジア人が難民としてアメリカに移住した。

国勢調査局が1992年にまとめた報告書によると、1975年以前、カンボジア人移民はほとんどいなかったが、交換留学生としてカリフォルニアで学ぶカンボジア人学生は1950年代後半から少数いたという。
そうした学生たちがロングビーチに小さなエスニック・コミュニティを作っていたことから、1970年代以降、多くのカンボジア人難民がロングビーチに集まったという。

そして「カンボジア・タウン」という地域の名称は2007年、カンボジア人のリーダーたちが運動した結果、ロングビーチ市に正式に認められ、現在は「Cambodia Town」と書かれた看板もたくさん設けてある。

カンボジア・タウンの道路標識


エスニックコミュニティに行くとき、いちばん楽しみにしているのは食事。けど、カンボジア料理といっても、具体的にどんな料理か頭に浮かばない。

クチコミ検索サイト「Yelp」で調べたところ、「プノンペン・ヌードル・レストラン(Phnom Penh Noodle Restaurant)」という店を見つけた。
検索サイトには、なんだかつけ麺のような食べものの写真が掲載されている。食べたことがない料理だったので、その店に行くことにした。

午後1時ごろに自宅を車で出発し、約40分で店に到着した。
店員は客もカンボジア系の人たちが多そうだ。クメール語や英語でにぎやかに話している。

注文を聞きに来てくれた店員がすすめてくれた「プノンペン・ヌードル」(5ドル)を注文した。
スープの入っていない皿に、米麺、パクチー、ネギ、揚げニンニク、おそらくブタの肝臓、エビなどが入っている。そして、たくさん肉が付いた豚骨入りのスープを添えてくれる。
スープはそのまま飲んだり、麺にかけたりして食べるという。

プノンペン・ヌードルは、スープ入りか、スープ別皿か、選べる。店員は、写真のようにスープ別皿をすすめてくれた。写真奥のモヤシやライムも麺に入れて混ぜる。

これが抜群においしかった。麺には、しっかり味がついている。テーブルの辛口ソースや甘口ソースをかけて、麺と具を混ぜれば、さらにおいしい。そして、しっかり豚骨の出汁がとれたスープをすすると、どんどん食が進む。
チャ・クアイ(Cha Quai)という揚げパン(0.75ドル)も注文した。これは、スープに浸して食べるらしい。これもなかなかおいしかった。


店を出て南に10分ほど歩けば、カンボジア・タウンの中心部、アナハイム通りと交差する。
アナハイム通り沿いには、カンボジア人経営の飲食店、食料品店、民族衣装店、ビデオ店、宝石店などが並んでいる。この地域はラティーノも多いので、メキシコ系の店もたくさんある。

クメール文字で店名を書いた民族衣装店

カンボジア系食料品店「ドン・マイ・スーパーマーケット(Dong Mai Supermarket)」に入った。
カンボジア系住民でにぎわっている。カンボジアから輸入した食料品を買おうと物色したけど、なかなか見つからない。ほとんどがタイやベトナムの輸入品だ。
店員に聞くと、カンボジア料理は、こうしたタイやベトナムで生産された食料品で作ることができるらしい。

ドン・マイ・スーパーマーケット

魚の身をすりつぶして瓶に入れた商品がたくさん売られていた。これは使い方が分からないが、きっと東南アジアの人たちにとっては、おなじみの食材なんだろう。

果物コーナーで、見たことのない果物を見つけた。
切った状態で売ってある。皮はぶつぶついがいがした感じ。皮を取り除いて食べられる部分だけを入れたパック詰めも売っていた。何か分からないけど、甘い香りがしておいしそうだから、買うことにした。
この果物の英語名はなにか、レジの店員に聞いたら、なんだったけな、という顔をした後に「チャッルー」と言った。わからない。なんなんだろうか。
よく聞くと、これは僕が前から食べたかった世界最大の果物「ジャック・フルーツ」だということが分かった。

以前、ベトナム系コミュニティのリトル・サイゴンで見つけて以来、食べたいと思っていたけど、丸ごと買うには、大きすぎる。カンボジア・タウンで、小さなパック詰めを買うことができて、ラッキーだった。

買物を終えて、車を駐車した場所に戻る。その途中、カンボジア系ビデオ店にも立ち寄った。クメール語のカラオケCDもたくさん売っている。店内のテレビでは、若い女性歌手のプロモーションビデオ兼カラオケビデオが映っていた。
「これはカンボジアの歌ですか」と店員に聞くと、にっこりうなづいてくれた。
日本にJポップ、韓国にKポップがあるように、カンボジアでもCポップが人気みたいだ。


自宅に帰って、ジャックフルーツを食べた。
パイナップルとライチとパパイヤとカキを足したような味だ。独特の甘いにおいがする。
果物好きな母親は、いつかジャックフルーツを食べてみたいらしい。
両親がアメリカに来たら、ジャックフルーツを食べさせてあげたいと思う。

ジャックフルーツ。黄色いかたまりから種を取り除いて食べる。

・リトル・サイゴンで見つけたジャックフルーツについては、こちら
・国勢調査局が1992年にまとめた報告書PDFは、こちら

2013年7月31日水曜日

未払い賃金支払いで合意、高級すし店の元従業員へ

おしゃれな洋服店が集まるメルローズ通りに出かけた。
アメリカで最も有名なホットドック店の一つ「Pink's」がある。名前は何度も聞いていたけど、食べたことはなかったので、一つ買ってみることにした。


注文しているお客さんが、チリドッグが楽しみで、やや興奮しているように見えた。

平日の午後4時だったけど、店の前には30人ほどの行列ができていた。
注文は妻にお願いして、店の周りをぶらぶらしていると、店の前に置かれた新聞販売ボックスに目が止まった。


ロサンゼルスでは、路上に新聞販売ボックスが置いてある。これに25セント硬貨を何枚か入れて、新聞を取り出す。右側のボックスが、スペイン語新聞ラ・オピニオン。

ラティーノ対象のスペイン語新聞ラ・オピニオン(La Opinion)の販売ボックス。透明なプラスチック越しに一面記事が見える。
写真付きで一面に紹介されていたメキシコ人男性は、前回のブログ記事(こちら)で取り上げた高級すし店の元従業員だった。

新聞記事の見出しは「Sabrosa victoria(味わい深い勝利)」だった。



この高級すし店は日本人がビバリーヒルズで経営している。今年3月、この店がメキシコ人元従業員に適正な賃金を支払っていなかったことが明らかになった。

メキシコ人元従業員の訴えを受けて、状況を調査したカリフォルニア州労働基準監督署が、高級すし店に対して、労働法違反の罰金約6万6千 ドル(約660万円)を支払うように命じた。そのうち約3万8600ドル(約386万円)が、そのメキシコ人元従業員を含む
元従業員3人に対する未払い賃金だった。

問題が明るみに出てから4ヶ月間、労基署の罰金命令にも新聞社の取材にも、店側は応えてこなかった。同紙によると、ようやく罰金を支払うことに店側が同意したようだ。

実際、労基署が罰金を命じても、店側が応じないケースが大半という。
メキシコ人元従業員は同紙の取材に、こう答えている。

「これは僕一人の勝利じゃなくて、同じ経験をしているすべての労働者の勝利です。やればできるんだ、法律には従わないといけないんだ、こんなに有名なレストランでも法律に逆らうことはできないんだ、という一つの例です」


妻がホットドッグを注文している。
少し長い9インチのソーセージが入ったチリドッグを一つ買って、二人で食べた。

ソーセージはピリ辛。チリソースも味わい深く、いい豆を食べている、という感じ。
また食べに来たい。新聞記事じゃないけど、「sabroso」という言葉が、ぴったりの味だった。
1939年開店の歴史ある店が、今も大人気なわけが分かったような気がした。

ソーセージのパリッとした食感、チリソースのドロっとした食感、また、パンのしっとりとした食感。三つの食感が絶妙に合わさっておいしい名物チリドッグ。

・ラ・オピニオンのオンライン記事は、こちら

2013年7月21日日曜日

移民都市ロサンゼルス、労働問題と労働者支援

ロサンゼルスでは、多くの移民が低賃金労働者として働いている。
ロサンゼルス郡人口の35%は外国生まれなので、労働者だけでなく、雇用主も移民ということが珍しくない。
そのため、移民労働者と移民雇用主の間で、問題が起こることもある。

今年3月、高級住宅街ビバリーヒルズにある日本人経営の高級すし店が、メキシコ人元従業員に適正な賃金を支払っていなかったことが明らかになった。

メキシコ人元従業員の訴えを受けて、状況を調査したカリフォルニア州労働基準監督署が、高級すし店に対して、労働法違反の罰金約6万6千 ドル(約660万円)を支払うように命じた。そのうち約3万8600ドル(約386万円)が、そのメキシコ人従業員を含む従業員3人に対する未払い賃金という。

この高級すし店で客が支払う平均的な金額は、来客1組につき約1,100ドル(約11万円)。全国的にも有名な高級すし店ということもあって、ロサンゼルス・タイムズが今年3月、ニューヨーク・タイムズが今月、それぞれ報じた。7月20日現在、高級すし店側は、罰金命令を不服として、未払い賃金の支払いに応じていないという。


実は、この問題については報道される前から知っていた。
昨年11月、ロサンゼルス・コリアタウンに本拠地を置く移民労働者支援団体で、メキシコ人元従業員を応援する集会が開かれた。

僕は大学院の授業や友人の紹介を通して、この支援団体を知っており、たまたま応援集会を見学する機会を得た。

団体事務所の集会部屋には、移民労働者を含む団体メンバーに加え、労働組合や他の市民団体の代表者ら計約30人が集まった。
ラティーノ、アジア系(韓国、中国、日本、タイ系など)、白人など集まった人たちの人種・エスニシティも様々だ。

元従業員は緊張した面持ちながら、集まった人たちを前に、自分の経験をスペイン語で話し始めた。この支援団体のメンバーが、英語と韓国語に通訳した。

彼は2006年から高級すし店で働き始め、皿洗いから調理まで担当してきた。
仕事は、ときに午後1時から翌日午前1時まで約12時間続いたが、休憩は許されず、残業代もなかった。
さらに、2012年春、風邪をこじらせ、日本人経営者に早退したいと仕事中に願い出たところ、それを理由に解雇された。
そこで、この支援団体を訪ね、助けを求めたという。

元従業員は集会前、緊張して何度も話す内容を練習していたが、多くの支援者に囲まれて、無事に話し終えるとほっとした表情を見せた。


この支援団体は、これまでは主にコリアタウン内の韓国系やメキシコ系の飲食店などにおける労働問題に対して抗議活動を続けてきた。今回のように、高級住宅街の高級料理店に対する抗議活動は珍しいという。

彼らは、カリフォルニア州の労働基準監督署(The Division of Labor Standards Enforcement)に問題を訴えるだけでなく、問題のあった飲食店に対して抗議デモを行うなどして、移民労働者をサポートする。

今回の問題を報じたロサンゼルス・タイムズの記事によると、ロサンゼルスはアメリカで賃金未払い率が最も高い都市で、年間に推定14億ドル(約1,400億円)が労働者に支払われていないらしい。
滞在資格や言語の問題から、移民労働者が未払い賃金の被害にあうことも少なくない。

新聞社の取材に高級すし店側が答えていないため、両者の意見を比較することができないが、少なくとも支援団体が存在しているということは、問題が起きた場合に移民労働者がどこかに助けを求められるという点で重要だ。

公的機関の罰金命令にも、新聞社の取材にも応じないという高級すし店側の姿勢は、なかなか理解しがたいが、今後も問題の推移を注視していきたい。

・ロサンゼルス・タイムズの記事は、こちら
・ニューヨーク・タイムズの記事は、こちら
・この高級すし店の料理について詳しく書いた個人ブログの記事は、こちら

※追記
その後、店側が罰金の支払いに合意した。詳しくは、こちら

2013年7月20日土曜日

アメリカのクレジットカード、1年間かけて取得

アメリカ国内の銀行が発行したクレジットカードを手に入れた。
これでロサンゼルスでの留学生活が、より快適になりそうだ。
アメリカ国内では、ガソリンスタンドのセルフ給油機などで、日本のクレジットカードが使えないケースがあるからだ。

しかし、日本人がアメリカに渡って銀行口座を開設しても、すぐにクレジットカードは手に入らない。
アメリカ国内の会社が発行したクレジットカードの適切な利用実績がないと、ちゃんと返済できる人だと信用してもらえず、カード作成申請を受理してもらえない。
日本国内の銀行などが発行したクレジットカードの利用実績は、アメリカでクレジットカードを申請する際には役に立たない。

昨年、渡米直後に銀行口座を開設した時、銀行員さんがセキュアード・クレジットカード(secured credit card)という練習用クレジットカードについて教えてくれた。

これは、あらかじめセキュアード・クレジットカード用の口座に、一定の金額をデポジットとして預けたうえで、そのデポジット額を上限にクレジット機能が使えるカードだ。
デポジットが300ドルなら、利用額が300ドルを上回らない程度にカードを使い、請求書が送られて来たら、小切手などで支払う。
もしも、カード利用者が返済できない場合は、デポジットから返済されるため、銀行はリスクを背負わなくてもいいという仕組みだ。
それを1年近く繰り返すと、この人はちゃんとクレジットカードが使える人ですね、と認識されて、デポジットが返金される。その後、正規のクレジットカードを申請できるようになるわけだ。

というわけで、このセキュアード・クレジットカードを作って、最近まで使い続けてきた。デポジット300ドルが返金されたので、そろそろと思い、銀行でクレジットカードを申請すると、問題なく受理してくれた。
セキュアード・クレジットカードは年会費39ドルがかかるため、キャンセル。今後は年会費無料の正規のクレジットカードだけを利用する予定だ。

海外で暮らすと、日本で当たり前だったことが、当たり前でないこともある。
クレジットカードもそういったものの一つだったけど、1年間かけて手に入れるとなんとなく達成感があった。

2013年7月13日土曜日

アジア人移民の歴史、サンフランシスコ・エンジェル島を歩く

サンフランシスコ滞在2日目は、アジア人移民と関わりが深いエンジェル島(Angel Island)に向かった。

エンジェル島は、サンフランシスコ湾内にある小さな島で、サンフランシスコの埠頭から、片道8.5ドルのフェリーで行くことができる。
フェリーはBlue & Gold Fleet社が運営している便を使い、第41番埠頭(Pier 41)を、午前9時40分に出発。約30分ほどでエンジェル島に到着する。その間、海から見たサンフランシスコの街並みが見えるので、ただの交通手段以上に乗船を楽しむことができた。

フェリーからみたサンフランシスコ市街地の景色

エンジェル島は、カリフォルニアをメキシコから獲得したアメリカが軍事施設また検疫所として利用してきたが、1910~1940年には移民管理施設が置かれた。アジアから来る多くの中国人や日本人らの入国審査を受けた場所であり、特にアジア系アメリカ人史においては重要な場所として記憶されている。

現在、島は州立公園に指定されており、その歴史に関心がある人だけでなく、周囲が海に囲まれた島でハイキングを楽しむ人も訪れている。


日本人移民の場合、1907~1908年の日米紳士協定によって、日本人労働者のアメリカ入国は禁止されたが、アメリカ国内にいる日本人の配偶者の入国は許されていた。そのため、紳士協定から1920年まで、かなり多くの日本人女性がアメリカに入国した。

アメリカで暮らす日本人既婚女性は1900年、わずか410人だったが、1920年には2万2千人までに増えた。日本人移民が家族を持ってアメリカに定住していく過程で、女性の移民は重要な役割を担った。
こうした女性たちが入国審査を受けた場所が、このエンジェル島だったわけだ。

彼女たちの多くは、いわゆる「写真花嫁」と呼ばれる人々だった。
写真花嫁とは、太平洋を挟んで行われた、写真による見合いで結婚し、渡米した女性たちのことだ。
結婚願望のある日本人男性が、自分の写真を日本に送り、日本で暮らす男性の家族が、仲介者を通して花嫁を探し、男性不在のまま、見つけた女性との入籍手続を済ます。これで、会ったことない一組の男女は戸籍上、結婚したことになる。

男女が一度も会ったことがないという点が特徴的で、アメリカ社会からは不道徳な行為と批判されたが、当時の日本社会で慣例的に行われていた見合い結婚と似た方法だった。

そして、女性は単身渡米して、サンフランシスコで男性と初めて会う。
しかし、多くの男性が、日本に送る写真を修正したり、まるで他人の写真を使ったりしていたため、本物と写真がまるで違うと感じる女性も少なくなかった。

エンジェル島の資料室に、当時、到着したばかりの写真花嫁たちの写真が展示されていた。
しっかりとした着物を着て、きれいに髪も結っている。その後、新しい生活でさまざまな困難に直面し、男性と別れる女性もいたが、多くの女性は写真で結ばれた男性と添い遂げたという。

エンジェル島に1910年代に到着した「写真花嫁」たちの写真が資料室で展示されていた。


中国人労働者と配偶者のアメリカ入国は1882年の中国人排斥法によって禁止されたが、その後もエンジェル島から入国する中国人はたくさんいた。なぜだろうか。

興味深いことに、それには1906年のサンフランシスコ大地震が関係している。
地震による火災で、サンフランシスコ市内の移民関連記録がほとんど消失してしまった。それをチャンスに、中国人移民の多くが偽の証明書を作るなどして、自分たちはアメリカ市民だと訴えた。
さらに、アメリカ市民の子どもは自動的にアメリカ市民と認められたため、多くの中国人が偽の出生証明書などを手に、エンジェル島からアメリカに入国することになる。

しかし、エンジェル島で移民官から、彼らが本当にアメリカ市民の子孫であるか尋問を受ける。
そこで彼らは、アメリカの中国人移民の家族関係について事前に勉強し、移民官の質問に答えられるように準備していた。

審査中の中国人移民は、エンジェル島内のバラックに収容された。収容人数に対してバラックは狭いうえ、不潔だったため、彼らの一部はバラックの壁に不満や怒りを込めて詩を刻んだという。

移民管理施設跡


僕の旅行に話を戻すが、エンジェル島に到着した直後、痛恨のミスをした。
島の地図を読み間違えてしまい、目的地の移民収容所だった建物がある場所と逆の方向に歩いてしまった。
30分ほど歩いて間違いに気づいて折り返し、どうにか移民収容所の近くまでたどり着いたが、帰りのフェリーの出発時間も迫っていた。ゆっくり関連施設を見学することができないまま、島を去ることになった。

きっとサンフランシスコに行く機会はまたあるだろう。そのとき、もう一回訪ねたいと思う。

※以上の記事は、Brian Niiya, ed. Enclyclopedia of Japanese American History (2001) とRonald Takaki, Strangers from A Different Shore (1998)を参照した。


この翌日は、サンフランシスコから約3時間、東に車で走ったところにあるヨセミテ国立公園に向かい、絶景を楽しむことができた。

マーセド川から見上げたヨセミセ渓谷

・サンフランシスコ滞在1日目の記事は、こちら


2013年7月11日木曜日

多様性の街・サンフランシスコ、アジア人移民の第一歩

夏休みを利用して、サンフランシスコなどカリフォルニア北部に車で3泊4日の旅行に出かけた。

初日はスペイン・メキシコ統治時代、アルタ・カリフォルニアの首都だったモンテレー(Monterey)市を目指して、太平洋岸の道路を走った。

ロサンゼルス市を午前9時半ごろに出発し、午後1時半過ぎにゾウアザラシのコロニー(営巣地)がある海岸(Piedras Blancas付近)に到着した。
夏は出産期でないため、海岸一面ゾウアザラシという状況ではなかったけど、10匹ほど近くで見ることができたので満足した。

ゾウアザラシは陸にいる間は何も食べない。ときどき、ひれで体に砂をかけていたけど、砂をかける理由はよく分かっていないらしい。

次に太平洋岸の断崖に架けられたビクスビー・クリーク橋で車を止めた。多くの観光客が絶景を写真に収めていた。

1930年代に造られたビクスビー・クリーク橋と断崖の景色

午後6時ごろにモンテレーに到着。この町は、1950年代まで漁業が盛んで、海産物の缶詰工場の労働者らで活気に溢れていた。その缶詰工場跡地を観光商業地として活用しているキャネリー・ロウ(Cannery Row)を散歩した。その後、埠頭沿いで営業する小さなレストラン「LouLou's Griddle in the Middle」で、評判のいいクラムチャウダーとイカフライを食べた。店員さんもみんな感じがよくて、居心地が良かった。目の前で調理している様子が見えるのも楽しい。

キャネリー・ロウ周辺は、たくさんの観光客でにぎわっていた。

食後、サンフランシスコ中心部から少し離れたホテルに向かって、一泊した。


翌日はサンフランシスコ観光。僕は3回目のサンフランシスコだけど、この街は何度来ても魅力的だし、まだ行ったことがない場所もいろいろ。

今回はメキシコ系アメリカ人の市民権運動が盛んだった1970年代に、運動の一環として芸術活動が展開されたミッション地区に初めて足を運んだ。街中を歩いている人は、ほとんどラティーノだ。

地区内のいろいろな建物の壁に壁画が描かれている。
特にミッション通りと交差するクラリオン通り(Clarion Alley)という路地には、多くの壁画が集中している。1990年代、ミッション地区に暮らす芸術家らが、この路地の両側の建物の壁に絵を描き始めたという。路地自体はやや汚れているが、この無料路地裏美術展の雰囲気にいい感じでマッチしていた。

スプレーで描かれた壁画もあった。見ごたえあり。

その後、ミッション地区から20分ほど西へ歩いて、アメリカを代表するゲイ・コミュニティのカストロ地区に向かった。

カストロ通り沿いには、素敵な飲食店や雑貨店が続いており、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのローマ字頭文字)の自尊心と社会運動を象徴する虹色の旗がいたるところに飾ってあった。ある洋服店のディスプレーには、男性のマネキン2体が抱き合うような形で置かれていた。このように、性別に関わらず、人を愛する権利を認め合うカストロ地区は、社会の多様性また人権という観点で、重要な役割を果たしていると感じた。

カストロ通り沿いの電灯の柱などには、虹色の旗が飾られている。

カリフォルニア州で同性婚を認める最高裁判決が下された6月下旬、この通りで盛大なパレードが開催されたらしい。

電線からぶら下がったハートを見つけた。性別に関わらない愛の街に似合う、しゃれたいたずらだ。


午後はチャイナタウンに向かった。19世紀後半に形成されたチャイナタウンで、サンフランシスコの中心的な観光地となっている。独立記念日の後の週末だったせいか、歩道が観光客でいっぱいになるほど、にぎわっていた。ところどころで、おじいさんが二胡を演奏していた。

チャイナタウン入口にある中国風の門。この門の前後約600メートルに中国料理店などの店が並ぶ。

カリフォルニア州で1848年に金が見つかる(ゴールド・ラッシュ)と、サンフランシスコの人口は一気に増加する。鉱山労働者としてサンフランシスコに到着した中国人は、その後、アメリカ大陸横断鉄道の建設にも大きく貢献する。サンフランシスコ市内に暮らす中国人は1870年には約1万2千人に達し、低賃金労働者として地域経済の発展を支えた。当時、中国人はアメリカ市民に帰化することが許されなかったうえ、中国人を主な対象にした差別的課税もあった。さらに1882年、中国人に対する反感が白人の間で強まった結果、中国人排斥法が連邦議会で可決され、中国人労働者のアメリカ入国は禁止された。

ゴールドラッシュから150年以上たった今日、サンフランシスコ市の市長は中国系アメリカ人のエドウィン・リーだ。リー市長の就任は、サンフランシスコ地域社会の多様性に対する考え方の歴史的な変化を象徴しているといえるだろう。

オバマ大統領も来店したという評判の飲茶店「Great Eastern Restaurant」で昼食。ふだんロサンゼルスの飲茶店で注文しない、黒胡椒ソースのスペアリブや魚肉ミートボールなど点心4品に加えて、揚げたエビのピリ辛甘酢ソースという一品料理も注文した。どれも大満足だった。

店員は30~40歳代の男性が中心だった。みんな広東語で会話をしている。
ちょうど僕らが食事を終えて店を出るとき、客用の丸テーブルに店員6人ほどが座って、まかないを食べていた。ぱっと見たところ、豚足を煮込んだようなものだ。
客室フロアーで店員がまかないを堂々と食べているところを見て、活気があっていいなと思った。

チャイナタウンの鶏肉店では、手羽先や足など部位ごとに分けて鶏肉を販売していた。


そのままチャイナタウンから、埠頭が続く湾岸などを歩いた後、ジャパンタウンに車で向かった。
ここは20世紀前半に日本人移民が集住した地域だ。

サンフランシスコも日本人移民の歴史と縁が深い。
明治維新翌年の1869年、カリフォルニアに渡った最初の日本人はサンフランシスコに到着した。
彼らは明治維新によって政治力を奪われ、行き場を失った会津若松の侍たちだった。政変が移民を生み出すのは、今も昔も変わらない。
その後、カリフォルニアの日本人労働者は、中国人移民が禁止された1882年以降、本格的に増えていくが、日本人移民に対する反感も高まって1924年に日本人移民も禁止されることになる。

現在、ジャパンタウンは、日本料理店や日本関連の雑貨店などが集まる観光地になっている。
サンフランシスコ旅行をした8年前、ジャパンタウン内の日系スーパーに立ち寄ったことはあるが、じっくり地域を歩くのは初めてだった。

ジャパンタウン中心部にあるジャパン・センターというショッピングモールに入ると、紀伊国屋書店や日本風クレープ店、「味覚のれん街」と名づけられた日本料理店コーナーなど、たくさんの店舗が入っていた。日系人や日本人以外の来客も多かった。アニメ関連の店もあり、猫の耳の飾りを頭に着けた非アジア系アメリカ人の若者たちもいた。

ジャパン・センター内には、人気キャラクター「たれぱんだ」のぬいぐるみ帽子をかぶった人(左から2人目)もいた。

モールの広場には、大きな大阪城の模型が置かれていた。おそらく、サンフランシスコ市が大阪市の姉妹都市だからだろう。

大阪城の模型

その翌日は、中国や日本などから来たアジア人移民の歴史と関わりが深いエンジェル島にサンフランシスコの埠頭からフェリーで向かった。

・サンフランシスコ滞在2日目の記事は、こちら

2013年7月1日月曜日

日系アメリカ人の過去と現在、ガーデナ市で日系イベント

ロサンゼルス郡ガーデナ(Gardena)市。一世紀以上前から、日本人移民と、その子孫の日系アメリカ人が暮らしてきた。
この地域の日系アメリカ人に対してコミュニティ活動を行っている日系団体ジャパニーズ・カルチュラル・インスティテュート(Japanese Cultural Institute)が主催する、年に一度のお祭りイベントに、日本の大学院の後輩と妻と3人で足を運んだ。

会場前に置かれたイベントの横断幕

正午過ぎに、団体敷地内のイベント会場に到着。さっそく太鼓の音が聞こえてきた。
すでに日系人を中心に、子どもから高齢者まで、幅広い世代の人々でにぎわっている。
会場入り口付近から、屋台が続く。
かつてカリフォルニア州に渡ってきた日本人移民の多くが沖縄県出身者であったり、ハワイを経由してアメリカ本土に来たりしたことから、沖縄やハワイの料理もいろいろ販売されていた。

サーターアンダギー店には、行列ができていた。

ラウラウ(Lau Lau)という食べものを出している屋台を見つけた。
何か分からないので、屋台のおじさんに聞くと、タロイモの葉で包んだ豚肉を蒸したハワイ料理らしい。
食べたことがないので、挑戦してみた。

食事コーナーのテーブルに座って、ラウラウの入った弁当箱を開くと、タロイモの葉で包んだちまきのようなもの、ごはん、キャベツなどの浅漬けに加え、刻んだトマトとサーモンを混ぜたサラダも入っていた。
豚肉はとてもジューシーで申し分ない。妻は浅漬けが気に入ったらしい。

ハワイ料理のラウラウ。豚肉の上には、白身魚の切り身も入っていた。

ほとんど豚肉を食べ終わったところで、同じテーブルに座った50歳代くらいのコリア系のおじさんから、「そのタロイモの葉も肉と一緒に食べるんだよ」と教えてくれた。
たしかに、蒸された葉は豚肉の肉汁が染み込んで、おいしそうだったので、どうしようかと思っていた。
すると、同じテーブルに座っていた別の日系人のおじいさんも「それ(タロイモの葉)は値段が高いよ」と付け加えた。
どうやら、僕らはメインの葉を食べ残していたみたいだ。その後、3人でおいしく葉の部分もいただいた。初めて食べる料理は、こういうことが面白い。

そこから、おじいさんの奥さんも含めて、いろいろと話が盛り上がった。会話は英語だ。
おじいさんから「日本のどこから来たの」「英語はどこで覚えたの」などと質問され、いろいろ答えているうちに、おじいさん自身の話にもなり、「僕はキベイだよ(I'm Kibei)」と教えてくれた。
キベイとは、アメリカ生まれの日系人2世だが、若いころに日本で教育を受けるため、日本で暮らした後、再びアメリカに帰った人たちだ。そのため、キベイ(帰米)という。

すると、おじいさんの奥さんが「この人の人生っておもしろい(interesting)のよ」と笑顔で話す。
どういうことだろうかと、おじいさんに目を向けると、「僕はね、日本軍とアメリカ軍のどっちにも入ったんだよ。日本にいたときに、日本軍に徴兵されてね。けど、入隊した途端に戦争が終わったんだ。その後、アメリカに帰るでしょ。そしたら、今度はアメリカ軍に徴兵されたんだよ」と教えてくれた。「帰ってすぐにアメリカ軍に入ったんですか」と聞くと、「朝鮮戦争ね」と答えてくれた。

軍隊に入ることは前提として命がけだけど、両親の生まれた国と自分の生まれた国の両方によって、そういう命がけの状況に置かれた人がいた、という事実はとても重たい。
だけど、おじいさんは過去を俯瞰したように、楽しそうに語りかけてくる。
二つの国家のはざまで翻弄されながらも、笑顔で語るおじいさんに、国家ではコントロールしきれない個人のちからを感じた。

おじいさんは、現在87歳という。奥さんも80歳代で、二人とも元気そのものだ。奥さんは今も車の運転を続けていて、時速130キロ近くの速度で高速道路を走ることもあるという。
奥さんは「ラスベガスまで運転するのよ」とニコリ。すると、コリア系のおじさんが「彼(おじいさん)の運転だと遅くて、ラスベガスにたどり着かないよ」と冗談を挟む。
おじいさんは、そんな二人に挟まれて、ニコニコしていた。

しゃんとしてきれいな奥さんに、若さの秘訣は何か聞いたら、「ノンキでいることね」と、「ノンキ」だけ日本語のまま答えてくれた。

ハワイ音楽やフラダンスなども披露された。


おじいさんたちと別れた後、イベントの出し物をいろいろ見て回った。
ステージでは、ハワイ音楽やフラダンスが披露されて、多くの人々が焼きそばやかき氷などを食べながら聞き入っていた。アメリカでは、焼きそばもかき氷も、エスニック料理といえる。

子どもが遊べるコーナーもあった。バスケットボールのリングが置かれ、日系人の子どもたちがシュートの練習をしていた。バスケットボールは、日系人コミュニティーの絆を深めるスポーツとして重要な役割を果たしてきた。現在も日系人選手を中心としたリーグが存在し、人気のスポーツだ。

バスケコーナーの隣には、「PACHINKO」というコーナーがあった。かなり古い機種のパチンコ台が並べられ、子どもたちが遊んでいた。

古い機種のパチンコ台で遊ぶ子どもたち

この団体の2階建ビルでは、第二次世界大戦中の日系人強制収容所に関する展示に加え、団体が主催している日本語教室の生徒が作った日本語のポスター展示などもあった。

日本語教室の生徒の作品も展示されていた。

その後は、イベント会場を出て、周辺の住宅地を歩いて回った。
車で通りすぎると、他の地域と同じように見えるが、ゆっくり歩くと、マツを植えたり、砂利をしきつめたり、庭先が日本庭園スタイルになっている住宅が多いことに気付く。
団体スタッフに聞くと「そうですよ。今でも、この周辺にたくさん日系人が住んでいます」と教えてくれた。
車の交通量が多い大通りには、ハングル文字が目立つ。近年、ガーデナ市に移り住む韓国人移民が増えてきているという。

イベント会場周辺の住宅地。庭先にマツを植えるなどして日本庭園の要素を入れていた。

住宅地を40分ほど歩いて、イベント会場に戻ると、この日、会う予定だった日本の大学院の先輩が到着していた。先輩が、この団体に関する過去の記録の歴史調査を行っていた関係で、今回のイベントを教えてもらった。調査などを終えて、もうすぐ帰国するところだったので、団体スタッフを僕に紹介してくれた。先輩には、日本にいたころから、お世話になっていたが、アメリカでもいろいろと気づかってくれる。感謝の一言だ。

団体のリーダーの女性に挨拶した。団体は地域の高齢者を中心に、さまざまなサービスを行っているが、今後は日系人と日本人が交流できるような機会も増やしていきたいという。

たしかに、ロサンゼルス都市圏には、約7万人の日本人が暮らしているものの、何世代も前にアメリカに移住した日本人の子孫である日系人と関わりを持つ人は多くない。言葉の壁も影響しているかもしれない。

ありがたいことに、僕は日系人とも日本人ともふれあう機会が多い。そうしたコネクションを活かして、何かしら団体のイベント広報など、お手伝いできることがあれば喜んでしたい、とリーダーに伝えておいた。


4時間ほど滞在して、イベント会場をあとにした。
こうしたたくさんの日系人が集まるイベントに参加したのは初めてだった。
日系人の過去と現在について、いろいろな話を聞く貴重な機会となった。

後輩も「あのおじいさんの話は本にしたほうがいいんじゃないすかね」と言い、妻も「大昔にアメリカに移民した日本人の子孫の人々と思うと、感慨深かった」と話していた。

2013年6月26日水曜日

在ロサンゼルス総領事館、パスポート更新や在外選挙に

海外で生活することは、住んでいる国の国籍を取得しない限り、法的に外国人として生活するということでもある。
僕の場合は法的に「日本国民」という外国人なので、在ロサンゼルス日本国総領事館に行く機会もある。

パスポートの更新のために総領事館に足を運んだ。現在、持っているパスポートは今年で10年目なので、有効期限が切れてしまう。
総領事館はロサンゼルス市のダウンタウン中心部にある高層ビルの17階に入居している。
この高層ビルは1990年代初めに建てられ、高さは52階。ロサンゼルスの高層ビル群の中の主要な建物の一つだ。

在ロサンゼルス総領事館は、この高層ビルの17階に入っている。

総領事館に行くことをロビー受付で伝え、来客用シールをもらい、胸に張り付けたら、エレベーターで17階へ。
顔写真を張った申請書、現在のパスポート、アメリカ滞在資格を証明する書類(I-20など)、現住所を証明する書類(カリフォルニア州の免許証など)を提出しないといけない。ただ、僕の場合は結婚を機に本籍を変えたので、戸籍抄本も必要だった。
書類一式を提出して窓口の職員にオッケーをもらえば、それだけなので、混んでいなければ、時間はかからない。
一週間後以降に再び総領事館に行って、195ドル支払えば、新しいパスポートが手に入る予定だ。

窓口のカウンターに在外選挙制度について広報する小冊子が置いてあったので、手に取った。
小冊子は、金色の屏風を背景に桜の花を散りばめたデザインで、表紙に「日本で咲く 海外の一票」と書いてある。

在外選挙制度について広報する小冊子

できる状況であれば、できるだけ選挙には参加しようと思っているので、あらかじめ在外選挙参加のための手続きをしておいた。先日、「在外選挙人証」なるものが自宅に届いたところだ。

この「在外選挙人証」と身分証明書を持って、総領事館(ロサンゼルスの場合、リトル・トーキョーの日米文化会館)に出向けば、投票できる。
投票期間は、選挙の公示日の翌日から、各大使館や総領事館が決めた締切日まで。外務省のホームページによると、公示日の翌日から7~11日以内に投票しないといけないようだ。
もちろん、近くに総領事館などがない地域もあるため、郵便投票もできる。

この「在外選挙人証」を得るには、申請から2~3ヶ月かかる。6月下旬の今から申請しても、7月投開票の参議院選挙には間に合わないかもしれないけど、次の選挙で投票したい人は早めに手続きしておいたほうがいいかもしれない。

日本で生まれ育った個人であれば誰でも、当たり前のこととして、日本のパスポートの取得・更新や投票ができるわけではない。当たり前ではないことから生じる問題も考えないといけない。総領事館という「国」の一部にふれて、改めてそう感じた。


首が痛くなるほど見上げないといけない高層ビルの東隣には、1917年からダウンタウンのにぎわいを支えているグランド・セントラル・マーケット(Grand Central Market)がある。

果物、野菜、肉、魚介類、またスパイスなどを販売する商店にくわえ、ラテンアメリカ、アジア、中東などの料理店がひしめき合っており、ラティーノを中心にたくさんの客でにぎわっている。隣の高層ビルとは、まるで違う世界だ。

店員も客も、スペイン語を話すラティーノが多い。

このマーケットが好きで、ダウンタウンに来るときは、いつも立ち寄ってしまう。
そういうわけで、パスポート更新の手続きをした後、妻とマーケットでタコスを食べることにした。
ランキングサイト「Yelp」でも評価が高い人気のタコス店「Tacos Tumbras a Tomas」へ。
スペイン語勉強中の妻が一皿2.5ドルのタコスをスペイン語で注文して二人で分けた。トルティージャは4枚入っているので十分な量だ。

その後、マーケットの地下の雑貨店に向かった。ここに来た最初の数回は、地下の存在を知らなかったけど、ある日、トイレを探していたときに見つけた。

雑貨店は100円ショップのような感じで、一つ1ドル強の商品がずらっと並ぶ。かゆいところに手が届きそうな商品が多いなあ、と眺めていると、ここ最近、いろんな店で探していたけど、どうしても見つからなかった商品を偶然見つけた。それは「皿立て」だった。

居間のインテリアに、鳥取県の民芸品・中井窯の皿を飾ろうと思っていたけど、皿を支える道具がないため、今まで飾ることができなかった。見つけた皿立ての材質はプラスチックだけど、透明で目立たない点が気に入った。しかも、2個1.4ドルと安かったので、迷わず購入。帰宅後、さっそく中井窯の皿を置いて飾った。

鳥取県の民芸品・中井窯の皿

※追記
後日、リトル・トーキョーにある日米文化会館で在外投票した。日本で投票する場合に比べて、やや作業が多かった。まず、投票用紙を請求する申請書に記入。その後、投票用紙に候補者名などを書いて、小さな封とうに入れる。次に、それを別の封筒に入れて、その封筒に自分の署名などを書き入れた後、立会人の署名をもらう。その後、自分の選挙区のの選挙管理委員会宛ての郵送用封筒に、二重の封筒に入った投票用紙を入れる。日本から離れた場所で、不正な投票が起きないように、厳重にチェックされているという印象だった。

※追記2
ダウンタウンの再開発の影響で2015年までに、Grand Central Market内の店舗は観光客やビジネスマンを対象としてオシャレな場所に変化し、魅力的だった庶民的な雰囲気はほとんど消えてしまった。

2013年6月24日月曜日

移民支援の英語教室③、友だちと学ぶ

妻は昨年9月から、近所のアダルトスクール(日本のカルチャーセンターみたいなもの)の英語教室(ESL=English as a Second Language)に通い始め、先日3学期10ケ月の授業を修了した。
公式の修了証明書はないが、先生が厚意で手作り修了証明書を作って、生徒らに手渡してくれたらしい。
妻も、メキシコ、タイ、イラン、ルーマニア、ペルー、シリア、チュニジア、ガーナの仲間たちと記念撮影。いい思い出になったようだ。

英語教室の最終日は、生徒がそれぞれ食べものを持ち寄ってポットラックパーティを楽しんだ。

この10カ月間で妻の英語はだいぶ上達したと思う。

妻いわく、英語の上達の理由は、英語教室の授業に休まず通い、宿題を着実にこなしたこともあるけど、それ以上に、英語教室で友だちをつくったことが大きいという。
たしかに、彼女は毎週のように、英語教室の後に友だちと喫茶店に行ったり、休日にお出かけしたりしていた。妻にとっては、模擬の会話ではなく、本当の会話で、英語を練習する機会となった。

また、妻が友だちが使う単語を新たに覚えたり、逆に相手の発音を直してあげたり、互いに協力しあって英語を勉強できた。

さらに、それぞれの人生や出身国の文化などについても、たくさん友だちから学んだ。英語教室で学んだことは、英語だけじゃなかったようだ。

そして、一度、友だちになってしまえば、英語教室が終わった後も付き合いが続く。ついこの前は、英語教室で知り合った中国人の友だちたちと一緒に、ビーチバレーを楽しんだ。

英語教室に通った10カ月間をふり返って、妻は「英語を話すことが習慣になった。もともと知っていた英単語をどうやって実際の会話で使えばいいのかもわかった。それと、英語教室の授業は、アメリカの生活に根差した英語を教えてくれたこともよかった」と話している。

ただ、英語教室は先生以外はみんな外国人なので、まだネイティブの話す英語のスピードには慣れていない。今後は、ロサンゼルスでアルバイトを探して、より実践的な英語力を覚えたいらしい。


素晴らしい英語教室が近所にあってよかった、と僕も思う。
このアダルトスクールは、カリフォルニア州内に約300校以上あり、州内に住んでいる人の多くは、自宅の近所で見つけることができるだろう。

カリフォルニア州アダルトスクール連盟のサイトには、「アダルトスクールは、子どもを持つ人、高齢者、障害者、また移民などすべての大人を支援します。豊富なプログラムのほとんどは、無料もしくは少しの授業料で参加できます」と書かれている。

実際に妻の通った英語教室も激安だった。
1学期3ヵ月、週15時間で、授業料はわずか40ドルだった。
ただ、生徒の英語力にかなり差があるので、授業の進行が遅かったり、内容が基本的な文法だったりすることもあった。

それでも、経済的な負担をあまり感じずに、英語を学ぶだけでなく、友だちをつくることができる場所として、アダルトスクールの存在は、とてもありがたい。英語以外にも、スペイン語など他の外国語教室やカメラ教室なども開かれているので、いろいろな形で利用することができるだろう。

・アダルトスクール一覧は、こちら
・妻の通う英語教室についての過去記事は、こちら

2013年6月16日日曜日

全米最大ベトナム系コミュニティ、リトル・サイゴンを歩く

カリフォルニア州オレンジ郡の「リトル・サイゴン」を訪ねた。
アメリカ最大のベトナム系コミュニティだ。

アメリカで暮らすベトナム人は1975年まで、とても少なかった。
北ベトナムの勝利によってベトナム戦争が終わった1975年以降、南ベトナムを支援していたアメリカに多くのベトナム人が難民として移り住んだ。アメリカに住むベトナム人は1990年、約61万4500人に達した。その半数がカリフォルニア州内に集中した。

なかでも、オレンジ郡はベトナム人の人口が多かった。
そうした人口の集中を象徴する地域がリトル・サイゴンだ。
英語も分からないまま、難民として見知らぬ土地にたどり着いた人々が、互いに支えあい、故郷に思いをはせることのできるコミュニティとして発展してきた。
留学前から、必ず訪ねたいと思っていたエスニック・コミュニティだ。


午後2時過ぎ、アメリカ留学中の日本人大学院生の友人と、妻と僕の3人で出発。オレンジ郡はロサンゼルス郡の南隣だ。高速道路を使って、約1時間でリトル・サイゴンに到着した。

最初に訪れたのは、ベトナム系ショッピングセンター「アジアン・ガーデン・モール(Asian Garden Mall)」。ベトナム風にアレンジした大きな建物内には、洋服店、ビデオ店、飲食店など何十もの店が入居している。

アジアン・ガーデン・モール。駐車場がいっぱいだったので、裏側の路上に駐車した。

干物店に入って、ベトナム風スルメをいくつかしがんで試食した。なかなか味わい深い。
ベトナムの民族衣装アオザイを着た女性客もちらほら。素敵な雰囲気だ。

この日、モール中央の催し会場で、たまたま大きなイベントが行われていた。
ステージに向かって並べられた椅子に座った人たちで、会場は埋め尽くされている。
来場者は、ほぼ全員ベトナム系の人たちだ。ステージの催しも、ベトナム語のみで進行される。
なんのイベントか知りたいと、ステージ上の横断幕を見るものの、これもベトナム語だけなので、まったく何か分からない。横断幕に「25」という数字が書かれていたので、きっと何かの25周年なんだろうと思ったが、すっきりしないので、40歳代くらいの男性に聞いてみた。
リトル・サイゴンを拠点にしたラジオ局の開設25周年記念ということだった。

モール中央の催し会場は、来場者でいっぱいだった。
モール建物の前の広場では、屋台が並んでいた。
お昼をほとんど食べていなかったので、勢いでベトナム風焼鳥を1本注文した。けっこう大きめで1本2ドルで済んだ。

熱々かなと思ったけど、意外と焼き立て感のない焼鳥だった。

次に向かったのは、モールから道路を挟んで正面にあるベトナム系スーパー「エイ・ドン・スーパーマーケット(A Dong Supermarket)」。ここは今日の目玉訪問先の一つだ。妻は自宅でベトナムの麺料理フォーを作る食材を全部買ってしまおうと考えていた。

フォーは、牛や鶏の出汁に米麺を入れた料理だ。
ベトナム料理店でフォーを頼むと、いろいろな香草とモヤシが皿にもられて出てくる。
この香草を手に入れたいと思うけど、同じような葉っぱがたくさん陳列されていて、どれがどれだか分からない。

買い物中のベトナム人夫妻に妻が尋ねると、だんなさんが親切に陳列棚の前を歩き回って、バジルを手渡してくれた。「シラントロ(コリアンダー)も」とすすめてくれたが、妻が「それは家にあります。ありがとうございます」と断るやいなや、今度は一緒にいた夫妻の息子が「これもフォーに」とミントを持って来てくれた。ありがたい。すると、次は僕たちの背後から、別のおばさんの声。「これもいるわよ」と、またバジルを持ってきてくれた。香草を求めてスーパー内で露頭に迷う日本人3人に対するベトナム人買物客の親切さは爽快だった。

人生で初めて見た食べもの。買物客は傾けたり、たたいたりして熟れ具合を確かめていた。この大きな食べ物を買う人がとても多かった。今回はナゾのままにしておいて、次回は必ず買ってみよう。

生麺と乾麺、スープの素などフォー関連の食材に加えて、南国の果物ランブータン(ライチの仲間)やパッションフルーツジュースなどを購入して店を出た。帰り際にパン店で、2ドル25セントのアイスベトナムコーヒーを買い、飲みながら車に戻った。

パン店の商品陳列棚の上に並べられたベトナムコーヒー。注文すると、これに氷を加えて出してくれた。甘くて苦くてとてもおいしい。


その次に向かったのは、ベトナム人移民の仏教寺院「チュア・フエ・クァン寺院(Chua Hue Quang Buddhist temple)」。午後4時ごろに到着したが、外から見ると、あまり人気のない印象だった。
靴を脱いで寺院に入ると、正面に大きな白い仏像が据えられていた。仏像の右側で小さな尼僧さんが手招きする。近づくと、僕ら3人それぞれに一本ずつ線香を手渡し、念仏の仕方を教えてくれた。

住宅地の中の一角にある「チュア・フエ・クァン寺院」

仏像の手前に立って、火のついた線香を合唱しながら挟み、「ナモアギダファ」と3回、頭をかがめながら念仏する。「ナモアギダファ」は「南無阿弥陀仏」のことだ。ただ、一回ではなかなか覚えられない。尼僧さんは「ナモー・・・アギー・・・ダファ・・・」とゆっくり教えてくれる。念仏を終えると、線香を香炉に差し込む。その後は、床に伏せて礼拝しながら、再び念仏を繰り返す。

立派な仏像の手前で、尼僧さんが念仏の仕方を教えてくれた。

念仏の後は寺院の奥の部屋に案内してくれた。
そこでは、亡くなったベトナム人移民や子孫らの何百枚もの写真を小さな仏像と一緒に安置している。

尼僧さんは、ある男の子の写真を指差した。尼僧さんの英語はかなり理解しにくいが、笑顔で熱心に話してくれるので、なんとなく分かる。

「この男の子は高校生だったの。この子は一人っ子だから、ご両親も辛かったようです。けど、亡くなった後、眼球と心臓、腎臓を臓器提供して3人の患者を助けたの」
「この写真は私の母親と父親。母親は2年前、父親は4年前にベトナムで亡くなりました」

この部屋は、こうした無数の死者を供養する部屋になっているという。
思いがけず、尼僧さんにお世話になった。寺院をあとにするとき、「どんな人でもこのお寺に来ていいので遠慮なく来てください」と言ってくれた。


次は夕食だ。寺院から車で数分の場所にある「バンズ・レストラン(Van's Restaurant」に到着した。ネットで検索すると「Van's」だが、店先には「Van Restaurant」と書かれている。

午後6時過ぎ。40人ほど客が入っているが、ほとんどベトナム人だ。
ウェイターのおじさんが注文を聞きに来た。パリパリに焼いた生地で炒め物を包んだクレープのような料理「バンセオ」、たこ焼きのような料理「バンコット」、生春巻き、牛肉フォーの4品を注文した。

たくさんの油でしっかり焼かれた「バンセオ」。香草にくるんで食べるとさっぱりして、いくらでも食べられそうだ。

ぜんぶ大満足だったが、特にバンセオが印象的だった。
バンセオの中には、エビ、豚肉、モヤシの炒め物が入っている。クレープを具ごと引きちぎり、それをレタスと香菜で包む。その後、やや甘いダレに浸した後、口に放り込む。豪快に手で食べるのも楽しい。友人も大満足していた。
この店はバンセオが人気らしく、あちこちのテーブルで、レタスと香菜が山盛りになっていた。
牛肉フォーなど他の3品も文句なくおいしかった。

たこ焼きにエビをのせたような「バンコット」。外はカリカリだけど、中はとろとろしている。辛いソースをかけると、よりおいしかった。

もうこれ以上食べられないというくらい、お腹いっぱいになり、しばらく話した後に店を出た。
会計はチップを入れて29ドルだった。一人約10ドルだった。この店には、また必ず行くと思う。
けど、この店がなくても、またリトル・サイゴンに行きたい。
そう思わせる親切な人々がたくさんいた。

・本記事掲載の約2年後にリトル・サイゴンについて改めて書いた記事は、こちら