2013年5月31日金曜日

夏休みのボランティア活動、コリアタウンで移民支援

5月中旬から8月下旬まで、長い夏休みだ。
夏休み中、コリアタウンで活動している移民労働者支援団体で、ボランティア活動をすることになった。
アメリカで移民関連のボランティア活動をしたいと、渡米前から考えていたので、とてもうれしい。

この団体で今月末まで活動していた日本の友人が、このボランティア活動を紹介してくれた。
感謝の一言だ。

週に一回、午前9時半~11時半、団体事務所の一室で、近所に住む移民にパソコンの基本的な使い方を教える。
僕の最初の活動日は30日。この日、パソコン教室に参加したのは、中南米系の中年男性と若い女性、中国出身・朝鮮族の男性、韓国出身の女性の4人だった。中国と韓国出身の二人は、60~65歳くらいだ。

文書作成とインターネットの利用方法を組み合わせた作業の練習をした。
マイクロソフトのワード文書に、名前と日付、そして好きな野菜や動物などの英単語を書いてもらった後、その英単語でグーグル検索した画像をコピー。次に、その画像を元のワード文書に張り付けて、文書を保存してもらった。

中南米系の女性は、「I like watermelon」と文章を書いた後、スイカの画像をグーグルで探してコピー。文章の下に、画像を張り付けると、にっこり。
文章に「too much water」と書き加えたかったようだが、スペルが「tomach water」となっていたので、正しいスペルを伝えた。
「次はwaterで画像を探してみたら」と促すと、彼女はハート型の滴の画像を見つけ、スイカの画像の下に張り付けた。

それぞれペースは違うけど、彼らの反応から、文章と画像をネットを使って組み合わせる楽しさや便利さは分かってもらえたと思う。

彼らは、ほとんどパソコン経験はない人たちなので、文章作成中に「Enter」で改行することから教えないといけない。「右クリック」と「左クリック」を使い分けることなどは、やや難しい作業になるので、これから繰り返し練習したいと思う。

また、参加者はみんな英語が苦手なので、スペイン語と韓国語も使って説明した。
言語が好きな僕としては、韓国語は初級であるとしても、英語とスペイン語、韓国語の3ヶ国語が使える環境はとても刺激的だった。

しかし、パソコンと英語の理解度が異なる4人の参加者を一人のボランティアで指導するのはなかなかきつい。教室が始まって40分ほど経つと、スペイン語が話せるボランティアの女性がサポートに加わってくれたので、とても助かった。彼女はアメリカ生まれで、両親がそれぞれコスタリカとエクアドル出身らしい。

午前11時半になった。
中南米系の二人に続いて、朝鮮族の男性と韓国人の女性が互いに 요(ット ポァヨ = またね)」と声をかけて帰宅した。

とりあえず夏休み限定だけど、僕自身も、また来週ね、と言える場所ができたことがうれしかった。


この団体の活動は、大学院における僕の研究テーマとは直接関係がない。

しかし、移民をめぐる問題は、今日の日本も抱えている。
世界中から移民が集まるロサンゼルスでは、移民支援団体はどのような問題を抱え、どのような方法で支援を行っているのか。
ボランティア活動を通して観察することで、日本に帰国した時に、日本の移民支援団体関係者らにアメリカの状況について、何かしら伝えることができるかもしれない。
そんなことも念頭に置きながら、ボランティア活動に取り組みたいと思う。


・この団体やコリアタウンに関する以前の記事は、こちら
・ボランティア活動の続報については、こちら

2013年5月26日日曜日

アメリカで継承する伝統、モン族のシャーマニズム

5月下旬から6月上旬は、大学の終業シーズンだ。
アメリカでの留学を終えて帰国する人も多い。

先日、ロサンゼルスで研究していた日本人留学生の送別会に行った。
共通の友人である韓国人女性のアパートで食事をした。

7人集まった。僕を含めて全員、アメリカでいうところのアジア系だ。
日本で育った人が3人、韓国で育った人が1人、韓国とアメリカで育った人が2人だった。

もう一人は、韓国人女性の夫。
彼はタイで生まれて、1歳のときにアメリカに難民として移り住んだモン族だった。

ベトナム戦争中、アメリカ軍はラオスに暮らすモン族の一部を、反共産主義の兵士として訓練した。しかし、戦後、行き場を失ったモン族はアメリカに難民として移り住んだ。

彼も1980年ごろ、家族とともにアメリカに渡ってきた。1980年代はベトナム戦争後にインドシナ難民が増えた時期だ。詳しくは聞かなかったけど、おそらく彼の家族の場合、ベトナム戦争後にタイに逃れて彼が生まれた後、アメリカに移り住むことになったのだろう。


モン族と聞いて、クリント・イーストウッドが監督・主演した映画『グラン・トリノ(Gran Trino)』(2008)を思い出した。
アメリカに移り住んだモン族の若者と、保守的な高齢の白人男性が、人種・エスニシティや年齢の違いを超えて友情を深めていくという物語だ。

映画の中では、アメリカで暮らすモン族の若者が経験する暴力や非行などにくわえ、モン族の家庭の様子も描かれていた。
とても印象深い映画だったけど、映画の中のモン族の描き方が、モン族の人々にとって正確なのかどうか、せっかくだから彼に聞いてみようと思った。

映画の中では、たくさんの親族が集まって食事をする場面があった。
その場面では、シャーマン(呪術師)もいて、祈とうなどを行っていた。
とてもエキゾチックな場面の一つでもあった。

そこで、彼に「あのマジシャンというかなんというか、ああいう人は今でもいるんですか」と聞くと、「ああ、シャーマンね。アメリカに住むモン族の間でも今でも一般的ですよ」と教えてくれた。

たとえば、子どもを泣き止ますときなどもシャーマンの力を借りるという。
モン族の間では、子どもが泣くのは、子どもの魂が体から抜け出たからだ、と考えられるという。シャーマンは魂を呼び戻すために祈とうする。
また、子どもの名前をつけたり、占いをしたりもするという。

「僕の母親もシャーマンですよ」と彼が言った。
「いつからシャーマンなんですか」と聞くと、「アメリカに来てからシャーマンになって、僕も小さいころは母親が祈とうしているときに、ドラムみたいなやつを隣でたたいていましたよ」。
「どうやってシャーマンになるんですか」と続けると、「スピリットを感じた人がシャーマンになれる」ということらしい。

モン族のシャーマニズムは、必ずしも彼らが東南アジアに住んでいなくても、同郷の人々が一緒に暮らしていれば、アメリカ国内でも新たなシャーマンが生まれて継承されていく、ということなのかもしれない。

映画全体のモン族の描写については「あっているところはあっているけど、あっていないところはあっていないという感じ」と、彼は話していた。

送別会は、モン族の移民から直接、話を聞く貴重な機会にもなった。

2013年5月25日土曜日

TA制度と留学生、「入学後」の受け入れ

アメリカ大学院留学、一年目が終わった。
これから8月下旬まで長い夏休みだ。

夏休みが終わると秋学期。はじめてティーチング・アシスタント(TA)をする。

TA制度は、大学院生が教授をサポートする形で教育業務に関わり、大学から奨学金などを得るとともに、将来、大学で教えるための技術を学ぶ制度だ。
具体的には、25人程度の学部生に対して授業(議論の進行)をしたり、彼らの課題を採点したりする。

博士課程の大学院生の多くはTAをする。僕のような英語が母語ではない留学生も担当する。

ただ、実際に、留学生がTAとして学部生に授業をする場合、スムーズに英語が使えるかどうかが問題となる。
僕の大学では、留学生がTAをする場合、英語力を確かめる口頭試験を事前に行う。

その試験に落ちた場合は、夏休みの間に英語の授業を受けないといけない。
不合格は一時的には悔しいけど、英語の勉強ができることは、むしろありがたい。
英語の授業は授業料が発生するけど、僕の大学の場合、留学生が所属する学部などが支払ってくれることが多いようだ。

「どっちに転んでもいいや」という気持ちで、僕も先日、試験を受けてきた。


試験では、受験者は与えられたテーマについて説明する。
僕の場合は歴史学部ということもあってか、「colonialism(植民地主義)」か「revolution(革命)」を選んで説明せよ、ということだった。

僕は「colonialism」を選んだ。ちょうど今学期の最後の授業が植民地主義関係だったので、やりやすいテーマだった。

試験当日は、試験官2人から、自分の研究について5分ほど質問を受けた後、「colonialism」について説明した。
試験官は、学部生が質問するだろうと想定した質問をばんばん挟んでくる。
彼らは受験者の意見や「正解」を求めているのではなく、そうした質問が授業で出てきた場合に、それをTAとして建設的な議論につなげていけるか見ているようだ。

15分ほど時間がたったところで、試験が終了した。
すると、試験官の一人の女性が「私も植民地主義の遺産の一人よ」と言った。「どういう意味ですか」と僕が聞くと、「私の父はオランダ人、母はインドネシア人なの」と教えてくれた。
インドネシアは、第二次世界大戦中に日本が南方作戦で占領するまでオランダの植民地だった。
植民地主義は過去のことではなく、いろんな形で現在につながっていると、予期せぬところで改めて実感する機会となった。

試験翌日の昼、結果が分かった。合格していた。


僕の通う大学は、アメリカで最も留学生が多い大学の一つだ。
年間に9千人以上の留学生を受け入れている。

世界中から届く大量の出願書類を処理して、留学生に入学許可を出すだけでも、大学にとっては膨大な作業だろう。

しかし、留学生の受け入れという観点では、それだけでは足りない。

TAは留学生も担当しないといけない。
当たり前といえば当たり前だけど、厳しい平等主義ともいえる。
けど、留学生の英語力を確かめないまま、大学が留学生にすべて任せてしまうと、結果的に学部生の授業の質に偏りが出る可能性もある。

その意味では、僕が受けた口頭試験は、出身国に関わらず博士課程の学生を平等に扱うことと、学部生の授業の質を維持することを、両立する仕組みとして機能している。

留学生であれ、外国人労働者であれ、移民の受け入れは、彼らが入国した後にどのような生活が送れるかが重要だ。
昨年8月に渡米するまでの2年間、滋賀県で外国人労働者の子どもたちの教育支援活動に参加していた。
移民の受け入れにおいては、「入国後」や「入学後」の支援が不可欠だと痛感した。

TAのための口頭試験は、留学生に対する「入学後」の受け入れ体制の一例として勉強になった。

2013年5月14日火曜日

アワビに想う、カリフォルニア先住民の生活、語源と歴史

5月8日が今学期、最後の授業だった。
その日は議論の司会進行役も兼ねていたから、いつもより気を引き締めて登校したけど、今学期でいちばん英語の調子が良かった。語学力が伸びていると実感できるのはうれしい。

ちょうど妻がキャンパス近くのスーパーまで買い物に来ていたので、授業後に合流した。
スーパーまでは同級生2人といろいろおはなし。授業は終わっても、最終課題は提出していないので、まだまだ気が抜けないね、などと話をした。

スーパーに到着。買い物中の妻を探そう。
そのスーパーは韓国系アメリカ人が経営しているらしいけど、お客さんのほとんどが中南米系のラティーノだ。
かつて中央アメリカで栄えたマヤ文明やアステカ文明に欠かせない世界三大穀物の一つ、トウモロコシ売り場は人だかりになっていた。
ビニール袋にトウモロコシを入れるラィテーノのおじさん、おばさん、若い奥さん、そして、うちの妻!
完全に溶け込んでいて、とても心強かった。
ちなみに、トウモロコシは5本で1ドルだった。

その後、車でコリアタウンのスンドゥブ店に行った。ここに来るのは3回目だ。
ほとんど勉強する暇がなく、感覚が抜けてきた初級・韓国語をここぞとばかりに使い、「この料理はご飯も一緒に来ますか」などと質問して、スンドゥブとカルビ焼きを注文した。

食事が済むと、その近くの別のスーパーへ。魚介類コーナーに行くと、アワビ1個が通常5.99ドルのところが、3.99ドルで売られていた。

日本ではほとんどアワビは食べたことがないし、ましてや生のアワビは買ったこともない。
手ごろな値段なので、買ってみることにした。
妻が「エクスキューズ・ミー」と魚介類担当の店員に声をかけると、ラティーノのおじさんが「ハウ・メニー?」と聞いてきたけど、僕が反射的に「ウーノ (一つ)」と答えると、向こうもスペイン語に。

「ちっさいのとおっきいの。どっちにする?」と聞かれ、ちっさいアワビを注文した。
大きなアワビはフリスビーくらいの大きさ。おばけアワビという印象で、食欲はわかなかった。
水槽からアワビを取り出したおじさんに「これじゃ少ないでしょ。二人なんだから、2個にしたら」と勧められたので、そうすることにした。

アワビが入ったビニール袋を受け取った妻が「グラシアス(ありがとう)」と勉強中のスペイン語でいうと、「オウ!ベリー・グッド、スパニッシュ!」と喜んでくれた。

ロサンゼルスでは一日にいろんな言語が話せるから楽しい、と妻と日本語で話をしながら、帰途についた。


アワビは英語では「アバローニ(abalone)」という。
スペイン語でも、同じような発音だった気がしたが、手元の辞書で調べてみると、「オレハ・マリーナ(oreja marina)」と書いていた。「海の耳」という意味だ。

ただ、なんとなくしっくりこないので、ネットなどで改めて調べてみると、「アブロン(abulón)」とも呼ばれていることがわかった。これまでスペイン語でアワビという単語を使う機会はなかったので、はっきりと認識してはいなかったけど、この言葉はかすかに聞き覚えがあった。

さらに調べると、もともとカリフォルニア海岸部に暮らしていた先住民が、アワビを「アルアン(aluan)」と呼んでいたのが語源らしい。
18世紀後半、領地確保を狙うスペイン人がカリフォルニアの支配を強め、それを「アブロン」と呼び始めた。
そして、19世紀中ごろ、金鉱発見をきっかけに押し寄せたアメリカ人が、今度は「アバローニ」と呼び始めたらしい。
つまり、「アバローニ」「アブロン」は、ヨーロッパではなく、アメリカ大陸で生まれた単語だったわけだ。

先住民も「アルアン」を食べていたんだろう。
一つの単語を通して、かつての先住民の生活が想像できた。
ちなみに、その部族の子孫は現在も生きている。

今後、外国語の語源を探るとき、「英語/スペイン語」のように、どの国の言葉なのか、だけではなく、「ヨーロッパ大陸/アメリカ大陸」のように、どの土地の言葉なのか、という捉え方も意識したい。学び多きアワビだった。


アワビは新鮮なうちに食べようということで、その日の深夜に食べた。
冷蔵庫から出すと、まだぐにゃぐにゃと動いている。
一つは刺身に、もう一つはバター焼きに。肝も含めて、美味しくいただけた。

アワビの刺身。甘みもあって美味しかった。

アワビのバター焼き。肝も食べやすかった。

ところで「アワビ」の語源ってなんなんだろうか。

2013年5月7日火曜日

シンコ・デ・マヨの交流会、アパート住民の背景いろいろ

同じアパートに住む人たちとアパート中庭で昼食パーティーをした。
それぞれが何か料理を持ち合うポットラック形式だ。

ふだんはほとんど顔を合わせない住民とこうした形で集まれるのは、素敵な管理人さんのおかげ。管理人さんは子どもに音楽を教える仕事をしている30代女性だ。彼女自身も住民の一人としてアパートに住みながら、不動産会社と住民をつなぐ「resident manager」を務めている。
パーティーは彼女が企画してくれた。

午後1時、住民らが中庭に集まってきた。
コンピューター技術者として働くインド人男性2人はサモサを持ってきてくれた。メキシコ系アメリカ人の住民は、チキンサラダとトスターダ(トルティージャを焼いたもの)。大学で神経科学のポスドクとして働いているイタリア人男性はアップルパイ。ユダヤ系の管理人さんは、ブルガリア料理を参考にしたスイカのサラダを準備してくれた。
わが家はチラシずしを持って行った。

サモサ。ドクター・ペッパーに似た味の缶ジュース(右上)も美味しかった。

住民は全部で14人集まって、わいわい3時間ほど話をした。

わが家のお隣さんは、メキシコ系カップルの男女とルームメイトの白人男性の3人で暮らしている。
男性二人は4~5年、軍隊に所属し、アフガニスタンやイランでラジオ基地の設置業務などに携わったらしい。そのときに知り合った縁で、いま一緒に暮らしている。

女性はアメリカ生まれだが、スペイン語を話して育ったので、「私の第一言語はスペイン語なの」という。彼氏の男性は、メキシコ出身の両親が子どもにスペイン語のアクセントが残ることを心配して、英語中心で彼を育てたので、スペイン語は彼女ほどうまくはない。ただ、それでも日常会話は問題なくできる。ルームメイトの男性は、メキシコ系の二人と住む機会を活かして、スペイン語を勉強しているという。

彼氏の男性は、イラクで勤務していたころ、意外にもスペイン語が役立つ機会があったという。
あるとき、現地のイラク人たちと米兵の間で英語のコミュニケーションがうまくとれないことがあった。しかし、たまたまイラク人の一人がキューバ留学経験者でスペイン語がぺらぺらいうことが分かった。そこで、男性がスペイン語を使って対応したという。

アメリカは移民の国だから、米兵の中でも、さまざまな言語を使える人たちがいる。第二次世界大戦中に日系アメリカ人兵士が日本語能力を米軍の業務で生かしたように、言語能力を海外で生かす米兵はきっと多いのだろう。


管理人さんは大学生時代に1年間、イタリアに留学していた。
せっかく同じアパートにイタリア人住民がいるんだから、ということで、そのイタリア人男性に週に一度、イタリア語を教えてもらっている。

僕らにも「いつか日本料理を教えてよ」と声をかけてくれる。
夏休みに入ったら、他の住民も招いて、簡単な日本料理を一緒に作って食べる催しをしてもいいな、と思う。

こうして管理人さんの呼びかけを中心に、アパートの住民の信頼関係が深まると、より安心して暮らすことができるのでありがたい。

最近、アパート入口の扉のカギが不審者に壊された形跡が見つかったので、アパート管理会社がドアを補強したところだった。アパート近辺は治安のいい場所だけど、何が起こるかわからないので、住民の間で信頼関係があることにこしたことはない。

パーティには、このアパートに住んで40年以上になるユダヤ系のおじいさんも参加した。
ロサンゼルスの歴史や地理にものすごく詳しい百科事典のようなおじいさんだ。
このアパートで過去にあった事件について聞くと、住民がアパート外側のゴミ捨て場で銃で撃たれたこと、住民のテレビを泥棒が盗んだことなどを話してくれ、みんな心配そうに聞いていたが、すべて1970年代の話だった。というわけで、近年は大きな事件はないようだ。


しばらくすると、「今日はシンコ・デ・マヨ(Cinco de Mayo)だよ!」とメキシコ系のカップルがテキーラを持ってきた。

シンコ・デ・マヨは、スペイン語で「5月5日」という意味。1862年5月5日、ナポレオン三世がメキシコを征服しようと派兵したフランス軍に対して、軍勢で劣るメキシコ軍が勝利したことを記念した日だ。
メキシコでは独立記念日の9月16日が最も大切な祝日であり、シンコ・デ・マヨは一部の地域を除いて祝日にはなっていない。
一方、シンコ・デ・マヨは、メキシコ系アメリカ人の間では、メキシコ系としての誇りを感じる記念日として特に重視されている。

ユダヤ系の管理人さんが「ハヌカー(Hanukkah)と同じね」と言った。
ハヌカーはユダヤ教の年中行事の一つだが、ユダヤ系アメリカ人の間で特に大きく扱われている。
僕も9年前の留学中に、ユダヤ系アメリカ人のルームメイトの実家に招いてもらい、ハヌカーに参加したことがあった。

アメリカでは、それぞれのエスニック集団が、少数派でありながらも、文化的な遺産に誇りを持って結束し、それを後世に継承していくため、独自の方法で祝祭日を発展させていく。シンコ・デ・マヨやハヌカーは、そうした現象の典型的な例だ。

アメリカで暮らす移民とその子孫が独自に作り上げていく祝祭日は、アメリカ人/メキシコ人、もしくはアメリカ人/ユダヤ人と切り分けては理解することができない、メキシコ系アメリカ人(Mexican American)やユダヤ系アメリカ人(Jewish American)というアイデンティティの在り方そのものをよく表している。

わが家にとっては、アパートの住民と関係を深める良いシンコ・デ・マヨになった。

※シンコ・デ・マヨの実際の発音は「スィンコ・デ・マヨ」の方がより正確。