2013年7月11日木曜日

多様性の街・サンフランシスコ、アジア人移民の第一歩

夏休みを利用して、サンフランシスコなどカリフォルニア北部に車で3泊4日の旅行に出かけた。

初日はスペイン・メキシコ統治時代、アルタ・カリフォルニアの首都だったモンテレー(Monterey)市を目指して、太平洋岸の道路を走った。

ロサンゼルス市を午前9時半ごろに出発し、午後1時半過ぎにゾウアザラシのコロニー(営巣地)がある海岸(Piedras Blancas付近)に到着した。
夏は出産期でないため、海岸一面ゾウアザラシという状況ではなかったけど、10匹ほど近くで見ることができたので満足した。

ゾウアザラシは陸にいる間は何も食べない。ときどき、ひれで体に砂をかけていたけど、砂をかける理由はよく分かっていないらしい。

次に太平洋岸の断崖に架けられたビクスビー・クリーク橋で車を止めた。多くの観光客が絶景を写真に収めていた。

1930年代に造られたビクスビー・クリーク橋と断崖の景色

午後6時ごろにモンテレーに到着。この町は、1950年代まで漁業が盛んで、海産物の缶詰工場の労働者らで活気に溢れていた。その缶詰工場跡地を観光商業地として活用しているキャネリー・ロウ(Cannery Row)を散歩した。その後、埠頭沿いで営業する小さなレストラン「LouLou's Griddle in the Middle」で、評判のいいクラムチャウダーとイカフライを食べた。店員さんもみんな感じがよくて、居心地が良かった。目の前で調理している様子が見えるのも楽しい。

キャネリー・ロウ周辺は、たくさんの観光客でにぎわっていた。

食後、サンフランシスコ中心部から少し離れたホテルに向かって、一泊した。


翌日はサンフランシスコ観光。僕は3回目のサンフランシスコだけど、この街は何度来ても魅力的だし、まだ行ったことがない場所もいろいろ。

今回はメキシコ系アメリカ人の市民権運動が盛んだった1970年代に、運動の一環として芸術活動が展開されたミッション地区に初めて足を運んだ。街中を歩いている人は、ほとんどラティーノだ。

地区内のいろいろな建物の壁に壁画が描かれている。
特にミッション通りと交差するクラリオン通り(Clarion Alley)という路地には、多くの壁画が集中している。1990年代、ミッション地区に暮らす芸術家らが、この路地の両側の建物の壁に絵を描き始めたという。路地自体はやや汚れているが、この無料路地裏美術展の雰囲気にいい感じでマッチしていた。

スプレーで描かれた壁画もあった。見ごたえあり。

その後、ミッション地区から20分ほど西へ歩いて、アメリカを代表するゲイ・コミュニティのカストロ地区に向かった。

カストロ通り沿いには、素敵な飲食店や雑貨店が続いており、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのローマ字頭文字)の自尊心と社会運動を象徴する虹色の旗がいたるところに飾ってあった。ある洋服店のディスプレーには、男性のマネキン2体が抱き合うような形で置かれていた。このように、性別に関わらず、人を愛する権利を認め合うカストロ地区は、社会の多様性また人権という観点で、重要な役割を果たしていると感じた。

カストロ通り沿いの電灯の柱などには、虹色の旗が飾られている。

カリフォルニア州で同性婚を認める最高裁判決が下された6月下旬、この通りで盛大なパレードが開催されたらしい。

電線からぶら下がったハートを見つけた。性別に関わらない愛の街に似合う、しゃれたいたずらだ。


午後はチャイナタウンに向かった。19世紀後半に形成されたチャイナタウンで、サンフランシスコの中心的な観光地となっている。独立記念日の後の週末だったせいか、歩道が観光客でいっぱいになるほど、にぎわっていた。ところどころで、おじいさんが二胡を演奏していた。

チャイナタウン入口にある中国風の門。この門の前後約600メートルに中国料理店などの店が並ぶ。

カリフォルニア州で1848年に金が見つかる(ゴールド・ラッシュ)と、サンフランシスコの人口は一気に増加する。鉱山労働者としてサンフランシスコに到着した中国人は、その後、アメリカ大陸横断鉄道の建設にも大きく貢献する。サンフランシスコ市内に暮らす中国人は1870年には約1万2千人に達し、低賃金労働者として地域経済の発展を支えた。当時、中国人はアメリカ市民に帰化することが許されなかったうえ、中国人を主な対象にした差別的課税もあった。さらに1882年、中国人に対する反感が白人の間で強まった結果、中国人排斥法が連邦議会で可決され、中国人労働者のアメリカ入国は禁止された。

ゴールドラッシュから150年以上たった今日、サンフランシスコ市の市長は中国系アメリカ人のエドウィン・リーだ。リー市長の就任は、サンフランシスコ地域社会の多様性に対する考え方の歴史的な変化を象徴しているといえるだろう。

オバマ大統領も来店したという評判の飲茶店「Great Eastern Restaurant」で昼食。ふだんロサンゼルスの飲茶店で注文しない、黒胡椒ソースのスペアリブや魚肉ミートボールなど点心4品に加えて、揚げたエビのピリ辛甘酢ソースという一品料理も注文した。どれも大満足だった。

店員は30~40歳代の男性が中心だった。みんな広東語で会話をしている。
ちょうど僕らが食事を終えて店を出るとき、客用の丸テーブルに店員6人ほどが座って、まかないを食べていた。ぱっと見たところ、豚足を煮込んだようなものだ。
客室フロアーで店員がまかないを堂々と食べているところを見て、活気があっていいなと思った。

チャイナタウンの鶏肉店では、手羽先や足など部位ごとに分けて鶏肉を販売していた。


そのままチャイナタウンから、埠頭が続く湾岸などを歩いた後、ジャパンタウンに車で向かった。
ここは20世紀前半に日本人移民が集住した地域だ。

サンフランシスコも日本人移民の歴史と縁が深い。
明治維新翌年の1869年、カリフォルニアに渡った最初の日本人はサンフランシスコに到着した。
彼らは明治維新によって政治力を奪われ、行き場を失った会津若松の侍たちだった。政変が移民を生み出すのは、今も昔も変わらない。
その後、カリフォルニアの日本人労働者は、中国人移民が禁止された1882年以降、本格的に増えていくが、日本人移民に対する反感も高まって1924年に日本人移民も禁止されることになる。

現在、ジャパンタウンは、日本料理店や日本関連の雑貨店などが集まる観光地になっている。
サンフランシスコ旅行をした8年前、ジャパンタウン内の日系スーパーに立ち寄ったことはあるが、じっくり地域を歩くのは初めてだった。

ジャパンタウン中心部にあるジャパン・センターというショッピングモールに入ると、紀伊国屋書店や日本風クレープ店、「味覚のれん街」と名づけられた日本料理店コーナーなど、たくさんの店舗が入っていた。日系人や日本人以外の来客も多かった。アニメ関連の店もあり、猫の耳の飾りを頭に着けた非アジア系アメリカ人の若者たちもいた。

ジャパン・センター内には、人気キャラクター「たれぱんだ」のぬいぐるみ帽子をかぶった人(左から2人目)もいた。

モールの広場には、大きな大阪城の模型が置かれていた。おそらく、サンフランシスコ市が大阪市の姉妹都市だからだろう。

大阪城の模型

その翌日は、中国や日本などから来たアジア人移民の歴史と関わりが深いエンジェル島にサンフランシスコの埠頭からフェリーで向かった。

・サンフランシスコ滞在2日目の記事は、こちら

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