2013年12月22日日曜日

先住民の魂を追う、サンタバーバラに日帰り旅行

オレンジ色の屋根に白壁の家々という街並みが人気のサンタバーバラ(Santa Barbara)へ日帰り旅行に行った。

サンタバーバラは、1786年、カリフォルニア支配を本格的に開始したスペインが、ミッション・サンタバーバラ(Mission Santa Barbara)を建設した町だ。ミッションとは、カトリック教会の神父が先住民の改宗を進め、それをスペイン軍が護衛する宗教的・軍事的な植民地支配の拠点。スペインは当時、カリフォルニア州太平洋岸地域の21ヶ所にミッションを先住民の労働力で建設し、支配を固めた。

当時、サンタバーバラでスペインが改宗の対象とした人々は、現地の先住民チューマッシュ(Chumash)族だった。サンタバーバラのミッションを見学する前に、先住民の文化について理解を深めようと、彼らの聖地だった岬ポイントコンセプション(Point Conception)に向かうことにした。ロサンゼルスからサンタバーバラは車で西へ2時間、ポイントコンセプションはさらに西へ1時間半かかる。

ポイントコンセプションの地図(クリックで拡大可能。Google Mapから)

チューマッシュ族の世界観では、人間が死んだ3日後に、その魂が墓から出て、生前のゆかりの場所をさまよう。その2日後に墓に戻る。その後、魂は太平洋の波が打ち寄せるポイントコンセプションから、死後の世界に向かうと考えられていたという。

グーグルマップで行き方を調べて印刷した紙を手に、自宅を午前9時過ぎに出発。神々しく光る太平洋岸に出たと思うと、キャンプ場に到着した。どうなっているのかと思い、キャンプ場の職員に聞くと、「ここからポイントコンセプションまでは私有地なので車では行けないんです。あなたと同じようなケースも多いですし、グーグルは地図から経路を省くべきですよ」と教えてくれた。キャンプ場から海岸沿いを歩くと数時間かかるが、それではサンタ・バーバラを散策する時間がなくなる。仕方なく引き返した。


やや残念だったけど、周囲の海の雰囲気はつかめたので良しとしよう。その後、サンタバーバラ中心部から少し東側のモンテシート(Montecito)という町にある有名なイタリア料理店トラットリーア・モリー(Trattoria Mollie)へ向かった。

店内に入ると、同店女性シェフのモリーさんが出版したレシピ本が置いてある。女性はアフリカ系だ。すると事前に調べてくれた妻が「エチオピアの人らしいよ」と言う。エチオピアは20世紀前半に5年間、イタリアの植民地支配を受けていたが、それがなんらかの背景にあるかどうかは分からない。けど、意外で興味深い。オバマ大統領も食事に来たらしい。

広い店内には、3組の客が食事をしていた。僕の右手に座っている女性2人がたまたま視界に入った。その1人が有名な昼間のトークショーの女性司会者に似ている。そう思うやいなや、彼女の声が聞こえ、その女性司会者に間違いないと分かった。しばらくすると、モリーさんが現れ、彼女に抱擁してあいさつしていた。

僕らはピザ・マルガリータとフィオレンティーナ風タリオリーニ(平打ちパスタ=写真)を注文した。味にも量にも満足したけど、それぞれ12ドルと15ドルと良心的な値段でさらに好感を持った。有名人の休日も垣間見れた。

アルデンテでおいしい。


食事を終えて、ミッション・サンタバーバラへ向かった。現在の施設は1820年に建設され、その後、修復を重ねつつ、今日まで現役の教会として利用されている。観光客は入場料が必要だが、教会に入ると、礼拝をしたり、懺悔をしたりする現地の信者が何人かいた。

ミッション・サンタバーバラの教会


ミッションを出てダウンタウンへ。周辺は高級そうな住宅が多い。チューマッシュ族が暮らしていた豊かな土地は、スペイン、メキシコ、アメリカの支配を受けて今日に至る。

ダウンタウンを軽く歩いた後は、そのまま海辺に向かう。ちょうど日が沈み、辺りはすっかり暗くなった。こじんまりとした鮮魚店で生ガキとウニを買う。生ガキはその場でちゅるっと食べた。午後7時半に帰宅。あったかいごはんにウニをのせて美味しくいただいた。

新鮮な魚がビニールでラップされて販売されていた。

この量で約6ドル。身も大きく甘かった。

2013年12月21日土曜日

移民都市ロサンゼルスの日常、挑戦から学ぶ

今日で大学院留学2年目の秋学期が終わった。
今学期はロサンゼルス史の授業とチカーノ/ラティーノ研究の授業を受けるとともに、初めてティーチング・アシスタント(TA)にも取り組み、学部生にカリフォルニア史を教えた。

ロサンゼルス史の授業は、大量の歴史資料を保管している文化施設ハンチントン図書館(Huntington Library)の一室で受けた。その日だけ車を使ったが、それ以外はいつも通り電車で通学した。

ある朝、電車に乗ると地元小学生の団体が乗り込んできた。電車に乗るやいなや大騒ぎする子どもたち。「ごめんなさいね~(Sorry guuuys!)」と女性教員が他の乗客に声をかける。子どもらの人種・エスニシティは、ヨーロッパ系、アフリカ系、ラティーノ、東アジア系、南アジア系とさまざま。子どもたちは自然史博物館の最寄り駅で降りて行った。

その後、電車は大学キャンパス前の駅に到着。駅から大学キャンパスへは横断歩道を一つ渡らないといけない。車道を走る自動車は一台もなかったけど、僕を含めて、学生たちは赤信号が青信号(実際は白信号=写真)に変るのを待つ。学生たちの人種・エスニシティも小学生たちと同じで多様だ。それぞれの祖先を辿れば、世界各地にたどり着くだろう。

信号が変わると、学生たちは黙って横断歩道を渡り始めた。

安全を示す歩行者用の信号は、歩行者の形の白い電光で表示される。

今学期の授業は、こうして多様な背景を持つ人々が信号で立ち止まり、また動き出す移民都市の日常を、非日常として歴史的に考える機会になった。


一方、妻は新しい挑戦として菓子店でアルバイトを始めた。家計をサポートするだけでなく、現地の人々と一緒に何かに取り組むことで、アメリカ社会について理解を深め、英語を練習する貴重な機会だ。

妻は昨年1年間は移民対象の英語教室に通って、メキシコや中国、タイなど出身の仲間たちと交流を深めた。今でも月に数回は彼女たちと一緒に遊んでいる。そんな仲間たちも今年からそれぞれ仕事を始めているらしい。今回の妻のアルバイト探しでも、外国人や日本人の友だちがアドバイスをくれた。

外国人は、外国人同士のネットワークを生かしつつ、現地の生活に溶け込んでいく。
公費で運営されている英語教室は、外国人に言葉を教えるだけでなく、こうした外国人同士のネットワークを生み出す基盤にもなっている。


今日、妻は菓子店に向かい、基本的な業務の練習をした。同僚は親切な人たちばかりらしい。
僕は昼過ぎから大学に向かい、TAで担当した学部生の成績について教授と最終確認をした。

作業を終えると午後6時。ほぼ常夏といってもいいロサンゼルスでも、この季節の朝晩は冷え込む。ダウンタウンから帰りがけの妻が車でキャンパスまで迎えに来てくれた。

ささやかな打ち上げということで、そのまま自宅アパート近所のタイ料理店に車で向かった。妻はタイカレー、僕は平たい米粉麺パッキーマオ(写真)を食べた。こういう一日はありがたい。

平たい麺の料理パッキーマオ。唐辛子を漬けた酢をかけて食べた。

2013年11月17日日曜日

リトル・トーキョーの記憶を守る、和菓子店モデルの舞台鑑賞

兎追ひし彼の山 小鮒釣りし彼の川

舞台の幕が上がると、観客席をまっすぐ見つめて役者たちが歌いだした。

日系コミュニティとして発展したリトル・トーキョーで、今年開業110周年を迎えた和菓子店「風月堂」をモデルにした舞台を見に行った。お世話になっている日本人の先生が誘ってくれた。

風月堂は岐阜県出身の鬼頭精一が1903年に開業。現在は孫の鬼頭ブライアン氏が引き継いでいる。第二次世界大戦が起きた20世紀、ロサンゼルス社会も日系人社会も大きく変化した。風月堂は、そのような時代を生き抜き、今日まで営業している数少ない日系商店の一つだ。

舞台は日系劇団The Graceful Crane Ensembleによる「Nihonmachi: The Place To Be」。リトル・トーキョーをモデルにした日系コミュニティで、和菓子店を営業する日系三世の男性が、亡くなった祖父や父の霊に過去へ導かれて、世界恐慌や強制収容を耐え抜き、日系社会の絆をつなぎとめてきた店の歴史を知り、店を守り続けようと決心する物語だ。

舞台の様子(Japanese American Culture & Community Centerホームページより)

100年前にアメリカに渡った日本人移民とその子孫の心のやりとりを、各時代に流行した日本語と英語の歌を織り交ぜながら表現している。

舞台では、祖父は祖母とは日本語で話し、孫には「カスタマー・ナンバー・ワンね」と日本語のアクセントの入った英語で話す。

祖父と父が、強制収容所から解放されて、日系コミュニティに戻る。
何もかも失い途方に暮れると、美空ひばりの「川の流れのように」が流れる。

役者たちが「知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道」と歌い始めると、会場からはすすり泣く声や一緒に歌う声が聞こえてくる。会場一階の約600席は、日系二世や三世と思われる人たちが大半だ。

日本語のセリフも多かったが、その意味が分かるかどうかよりも、日本語の響き自体が両親や祖父母のことを思い出させて、観客の記憶を刺激する。そして、それが涙になったり、笑いになったりして、会場を一つにしていく。

高齢の二世や、三世を中心とした観客がいるからこそ、こうした会場の雰囲気が味わえるとしたら、役者にとっても観客にとっても、今しか経験できない貴重な舞台といえるだろう。

劇団ホームページで、脚本担当のソージ・カシワギは「二世にとって、特に日本語の歌は一世の両親の記憶を呼び起こす。三世も祖父母や両親が歌う様子を見ながら育ってきたので、これらの歌は彼らの心に響く」と述べている。

戦後のシーンは、「Material Girl」などアメリカのポップミュージックが中心となる。孫の男性が自分の青春時代を思い出し、当時の音楽に合わせて踊っていると、祖父の霊が現れて一緒に踊る。

舞台は、日系アメリカ人が経験した世代間の葛藤は取り上げていない。しかし、日系人が過去を振り返ることで現代を前向きに生きていくというテーマは、三世代を音楽を通して交流させることでうまく表現していた。

最後は役者全員が舞台に集まり、「上を向いて歩こう」を合唱し、観客がスタンディング・オベーションで応えた。


舞台が終わると、会場の外で風月堂の和菓子がふるまわれた。僕は豆大福にくわえ、アメリカ風にアレンジしたピーナッツバター大福を食べた。20世紀、大きく変容を遂げたロサンゼルスで、変わらず愛され続けてきた和菓子。味わい深い。

リトル・トーキョー付近は近年、再開発が進んでいる。風月堂は和菓子だけでなく、かつてのロサンゼルスの記憶を守る場所でもある。

舞台終了後、風月堂の和菓子が観客にふるまわれた。
色とりどりの大福

2013年11月9日土曜日

日系人の強制収容、TA授業で議論

第二次世界大戦中、アメリカ西海岸で暮らす日本人約4万人と、彼らの子どもである日系アメリカ人約7万人の計11万人以上が、強制収容所に送られた。

当時、西海岸には敵国人のドイツ人約9万7千人、イタリア人約11万4千人もいたが、彼らとその子どもたちがまとめて強制収容所に送られることはなかった。

「なんでドイツ人もイタリア人もいたのに、日本人と、アメリカ人であるその子どもたちだけ強制収容されたんだろうか」

ティーチング・アシスタント(TA)を担当しているカリフォルニア史の授業で、20人ほどの学生(学部生)に問いかけた。

学生らは各3~5人の5グループに分かれ、テキストを読みながら、その答えを探す。

「日本に忠誠心があると思われたから」
「同化できないと思われたから」
「疑わしいと思われたから」
「見た目が違うから」

いろいろと答える。僕は「じゃあ、なんで同化できないと思われたの。なんで疑わしいと思われたの」とさらに質問する。
ある学生が「血ですか」と答えた。

テキストでは、歴史学者スーチェン・チャンが、強制収容を指揮したドゥウィット(DeWitt)将軍の作成した文書を紹介している。

そこで、チャンは「その文書は、日本人は『敵性人種(enemy race)』であり、『その人種的愛着は(アメリカに)移住しても消えることはなく』、その『人種的特徴』は二世、三世と世代を経ても『薄まることはない』、と宣言した。こうして(中略)日本に出自を持つすべての人が、アメリカの市民権の有無に関わらず、海岸部から排除された」と述べている。

強制収容が実行されるまでの過程には様々な要素が絡んでくるが、このドゥウィットの文書は、アメリカで生まれ育った若者であっても、日本人の血を引き継いでいれば、アメリカに対する脅威であり続ける、という人種主義的な考え方を明確に表していた。


TA授業は週に一コマ50分で、学生は25人ほど。僕は二コマ担当している
授業内容は、教授の方針によってさまざま。今学期は、重要事項だけ教授と他のTAと確認したうえで、授業内容はTAが自由に設計する。

この日の授業は、最初の30分を日系人強制収容に充て、残りの20分は戦後に発展したロサンゼルス近代建築についてふれた。


20世紀中頃のロサンゼルス近代建築は、例えば、ケース・スタディ・ハウス#22(リンクはこちら)が有名だ。

グループごとに白紙のプリント用紙を配って、「今週の教授の講義などで見た建築物を参考に、典型的なロサンゼルス近代建築の家を描いて」と指示した。その後、学生らの描いた絵をホワイトボードに張り付けて、大きなガラス窓、平たい屋根、広々とした室内など、その美的特徴と機能的特徴について簡単に説明してもらった。
それに、高速道路の建設や郊外の発展なども絡めて、現在のロサンゼルスの街並みが、戦後の経済発展とどのような関わりがあるか確認した。

自分たちの絵がホワイトボードに張られるので、学生たちもそれなりに集中する。「この絵はええ感じやね」と褒めると、あるグループの学生らが互いにハイタッチをしていた。




TAの経験から得ることは多い。これで大学から給料を得ている。また、授業プランを立てたり、学生の個別の質問に応えたり、将来、大学などで教えるための技術を磨いている。そして、留学生の僕にとっては英語の練習になる。


今学期は残り一ヶ月、無事に乗り切りたい。

2013年10月20日日曜日

日本と韓国とアメリカ、ガーデナ市の焼肉店で

「Lady Generation 海よりたくましく 未来を生き抜く為には♪」

ある週末、ガーデナ市にある日本の有名百円均一ショップで流れていた曲は、篠原涼子の「Lady Generation」(1995年)だった。ロサンゼルスで暮らし始めてから、日本語はいつも妻と話しているけど、日本のポップミュージックを聞く機会はほとんどない。そんな日々の中で、とつぜん1990年代のヒット曲を聴くと、とても懐かしい。ガーデナ市には、日系人が多く暮らしており、日系食料品店や日本料理店もたくさんある。市長も日系人だ。

先月、ある歴史学関係のイベントで、ガーデナ市に住む日系人の年配の女性と知り合った。いろいろと日系人の歴史について教えてくれた。アメリカで生まれ育った日系二世の女性で、流ちょうな日本語を話す。日本に一時帰国した妻が和菓子を買って帰ってくれたので、先週、その女性にお土産として渡しに行った。不在だったので、手紙を添えて、女性の家のドアノブに和菓子の入った紙袋をぶら下げておいた。


その後、近くにある焼肉店に妻と向かった。同市内に住む韓国出身の知り合いのおばさんが食事に誘ってくれた。おばさんが大家をしている下宿で、僕の日本の大学院の先輩が今年6月まで1年間、暮らしていた。その縁で、先輩の帰国後もよくしてくれる。ありがたい。おばさんは日本にも1990年代中頃まで20年近く暮らしていたので、日本語も話せる。

ガーデナ市では、1980年代以降、韓国人移民も増えており、韓国料理店も多い。
この前から、気になっていた焼肉店「고향갈비(故郷カルビ)」に連れて行ってくれた。
最近、下宿を始めた日本人の18歳の青年も一緒に来た。

庶民的な店内にはテーブルが20台ほどある。平日の午後5時だけど、たくさんの客がいる。韓国系だけでなく、アフリカ系やラティーノの客も多い。

僕らが席につくと、おばさんが「A세트 개 주세요 (Aセット、四つください)」と注文してくれた。Aセットは薄くスライスした牛肉、鶏肉、豚肉の食べ放題セット。それに、スライス状のモチやサラダも付いてくる。値段を見ると一人10ドル弱だった。焼き肉にサラダとスライスモチを包み、焼肉用の韓国味噌を少しつけて食べると抜群においしい。この店の人気の理由が分かった。

食事中、韓国と日本とアメリカの3ヶ国で暮らしてきたおばさんが、それぞれの国の文化や経済の違いについて、自身の経験から話してくれた。ガーデナ市や南隣のトーランス市には、日本人や韓国人が多く暮らしており、おばさんにとって暮らしやすい環境が整っているらしい。今後もアメリカで暮らし続けていく予定のおばさん。「民主主義と平等。これがいちばん大事」と話していた。

しばらくすると僕の携帯電話が鳴った。「ハロー」と出ると、日本語が返ってきた。日系人の女性が、お土産のお礼に電話をかけてくれた。


カリフォルニア州と一口に言っても、地域間の特色の違いは大きい。ガーデナ市の場合、100年以上前に暮らし始めた日本人の子孫や、30年ほど前から増え始めた韓国人移民、またその他のマイノリティの影響が絡まりあって、今日の地域社会ができあがっている。

2010年の国勢調査によると、市内人口約5万9千人の主な人種構成は、アジア系が26.2%、白人が24.6%、アフリカ系が24.4%、その他の人種(some other race, SOR)が18.9%となっている。

アメリカの国勢調査では、人種カテゴリーに関する質問とは別に、ヒスパニック・ラティーノかどうか問う項目もある。
ガーデナ市のヒスパニック・ラティーノ人口は、10年前の調査時に比べて2割増えて、市内人口の37.6%となっている。彼らの多くは、自分たちの人種カテゴリーとして「白人」または「SOR」を選ぶ。

これらを考慮すると、ガーデナ市は、アジア系、アフリカ系、ラティーノの人々が万遍なく暮らしているといえる。ちょうど焼肉店の客層と一致する。焼肉店では、韓国味噌の入った小皿の他に、赤いソースの入った小皿があった。味見すると、トルティージャチップ用サルサの味がして、なんだこれは、と思っていたけど、ラティーノが多い客層に合わせて提供していたのかもしれない。次回、その焼肉店に行ったら、店員に質問してみよう。

2013年10月5日土曜日

非合法移民に運転免許、社会の一員として

昨日、カリフォルニア州のジェリー・ブラウン知事が、非合法移民の自動車運転免許証取得を可能にする法案に署名した。

カリフォルニア州には、合法的な書類を持たずに入国または滞在している非合法移民が約280万人いると推定されている。彼らの多くが仕事や生活で、自動車を必要としているが、これまで非合法移民による運転免許の取得は認められてこなかった。

この法律の狙いは、非合法移民の免許取得を認めることで、彼らの交通ルールに対する理解や自動車保険の加入を促し、重大な交通事故を未然に防ぐことだ。無保険者による交通事故を減らすことにもつながる。これまで激しい議論が重ねられてきた、この法案が成立した背景には、低賃金労働者として地域経済を支えている非合法移民に対する理解の深まりがある。

ロサンゼルス・タイムズのネット記事を読んだり、リンクしてあった地元テレビ局KTLAのニュース動画も見たりすると、この種の法律が抱える問題も指摘されているが、それ以上に非合法移民に対する理解の深まりが伝わってくる。

昨日の午前、ロサンゼルス市役所の前には、ロサンゼルス市のエリック・ガーセッティ市長、ホセ・ゴメス大司教ら移民の権利拡大に尽力してきた有力者にくわえ、移民支援団体関係者や非合法移民が集まり、ブラウン知事による法案の署名を見守った。

ブラウン知事は「もはや非合法移民が社会の陰に隠れて暮らすことはない。彼らはカリフォルニア州内でしっかりと生活し、尊重される」とスピーチで述べた。

テレビレポーターが、市役所前に集まった人々にインタビューする。セルヒオ・ロペスという名前の男性は「Oh my god! I'm so really really happy. I feel so blessed today(オーマイゴッド。本当に本当にうれしいです。今日、本当にありがたいと感じています)」と英語で応えている。

テレビ画像に下の方には、字幕で「undocumented immigrant(非合法移民)」と男性の肩書が紹介されている。非合法移民は、国境管理の観点では強制送還の対象だ。だけど、このテレビニュースでは、男性の顔と名前が丸出しになっている。

子どもの頃に親に連れられて不法入国した非合法移民の若者が、顔と名前を自ら公表して、彼らの合法化を求めて活動している様子は、テレビで何度も見たことがある。だけど、自分の判断でアメリカに入国した非合法移民の大人の顔と名前を、ここまであからさまに報道しているニュースを見るのは初めてだった。

アメリカの非合法移民は、日本では「不法移民」と報じられている。「不法移民」と聞くと、強制送還の対象という印象が強い。しかし、日本語の「不法移民」という言葉では、カリフォルニア移民社会の非合法移民に対する認識は理解しにくい。少なくとも、この日、市役所前に集まった人たちにとって、非合法移民とは合法的な書類を持たない「社会の一員」という認識の方が強いんじゃないだろうか。

テレビ局も、この男性の顔と名前を公表しても、彼が不法滞在以外の犯罪を犯さない限り、当局が彼を強制送還することはない、という自信があり、この男性自身も自分を支えてくれる人たちがたくさんいることを知っている。そういった非合法移民をめぐる社会的な認識が、こうした報道自体を可能にしているように思う。

ロサンゼルス・タイムズのネット記事に寄せられたコメントが示すように、カリフォルニア州内においても、非合法移民に対する批判は根強い。それ以上に、知事や市長が非合法移民の社会的貢献を認め(ラティーノ有権者の票が視野に入っていたとしても)、地元テレビ局が非合法移民を「陰」に隠さず、顔と名前を公表して、彼らの声を報じている事実は力強い。

・この法案署名に関するロサンゼルス・タイムズの記事は、こちら

2013年9月22日日曜日

郵便局の日常、カリフォルニア社会の多様性

近所の郵便局に向かった。
コスタリカの友人が現地特産のコーヒーを送ってくれたが、配達時に僕が家にいなかったので、郵便局まで取りに行った。

この郵便局には、いつもたくさんの人が訪れている。
窓口前に並ぶ人たちは、初対面でも、いろいろと話し出す。アメリカの日常だ。
この日は元軍人の白人のおじいさんと、かつて夫が海軍にいて、今は息子が海軍にいる白人の奥さんが話していた。

奥さんは「夫は冷戦時にロシア(当時ソビエト連邦)の潜水艦を探知する仕事をアイスランドでしていたんですよ」などと話した後、「Thank you for your service」とおじいさんに声をかけて窓口に向かった。
アメリカに住むと、軍人や元軍人に、人々がこの言葉をかける場面をしばしば見かける。

僕の前には、3歳くらいの男の子を連れた、メキシコ系の小柄な女性が並んでいた。オアハカ州出身の人かなと思った。夏休みにボランティア活動をした移民支援団体に来ていたオアハカ州出身の人たちと、なんとなく面影が似ていたからだ。

窓口の郵便局員はみんなアフリカ系の人たちだ。アメリカでは、多くのアフリカ系の人々が、公共性の高いサービスを提供する施設で働いている。僕のアパート最寄りの自動車運転免許試験場(DMV)の職員も、9割以上がアフリカ系の人たちだ。
歴史的に抑圧を受け続けてきたアフリカ系の人たちが安定した生活を送るために努力し、闘ってきた結果とも考えられる。一方で、アフリカ系の人々が、アメリカで社会上昇する際に重視されている起業家精神を育むことが難しい社会状況も残っている。

郵便局の利用者だけでなく、郵便局員もおしゃべりをしながら働いている。こういう感じは好きだ。
隣の窓口の女性職員が、僕の窓口の女性職員に「お昼、マクドナルドに行こうと思うんだけど、どうする」と話しかける。おなかが減った。
女性職員に不在届と免許証を見せてしばらくすると、コスタリカから届いた小包を持ってきてくれた。

郵便局は遠いところにいる家族や友人と、手触りのある手紙や小包を通してつながることができるから、昔から好きな場所だ。この日も、こうしてコスタリカの友人とつながることができた。またお返しに何か送ろうと思う。

コスタリカの友人が送ってくれたコーヒー。コスタリカのホストファミリーが飲んでいる商品(左)と、友人のおすすめ(右)。

郵便局に訪れただけでも、カリフォルニア社会の人種・エスニシティの多様性を実感できる。僕も、この郵便局に来たアジア系男性として、この多様性の一部になっている。昨年、渡米したころは、こうした場面がとても刺激的だった。けど、一年が過ぎて、この多様性が徐々に日常的になってきた。日常的になると、見えるものもあるけど、見えなくなるものもある。見えるものも、見えなくなるものも、どちらも見ていきたい。