2013年6月6日木曜日

留学生の集い、アメリカで東ティモールを学ぶ

僕と同じ奨学金を受給している留学生仲間の集まりがあり、妻と一緒に参加した。
キプロス、コロンビア、シンガポール、東ティモール出身の友人らと計9人で集まった。

留学生を対象にしたイベントなどを通して、いろいろな国から来た人たちと出会う機会がたくさんある。
今回、会った仲間の出身国は、どれも行ったことがないし、今後、いつ行けるかもわからない。
だから、留学生仲間を通して、海外について知ることができるのはありがたい。


東ティモールの友人の話は、いつも考えさせられる。

東ティモールは2002年にインドネシアの支配から脱して、独立した。
インドネシアが1975年に東ティモールを侵攻する前まで、ポルトガルの植民地だった。

東ティモールの言語状況は複雑だ。
現地の言葉であるテトゥン語(または方言)を日常的に話す以外に、ポルトガル支配時代に教育を受けた世代(当時のエリート層)はポルトガル語を、インドネシア支配時代に教育を受けた友人の世代はインドネシア語を、そして東ティモール独立後に教育を受けた世代はテトゥン語に加えてポルトガル語を学ぶ。
国際共通語として英語も重視されているという。

そのため、若い世代は、学校でポルトガル語を勉強し、家庭でテトゥン語を話すものの、テレビをつけるとインドネシア語という状況も珍しくないという。

独立後の公用語はテトゥン語とポルトガル語になった。ポルトガル語はインドネシアの支配に対する独立運動を象徴する言語とされている一方、ポルトガル語を実際に使える人はとても少ない。さらに、多くの人々はテトゥン語に対して愛着が強いだけでなく、ポルトガル語より英語を重視する声もあり、ポルトガル語の公用語化は多くの問題を含んでいるという。(参考・Andrea K. Molnar, East Timor: An Introduction To The History, Politics and Culture of Southeast Asia's Youngest Nation (2005) )

友人にとってもポルトガル語が課題となっている。
帰国後、東ティモールの大学で教える可能性があるが、インドネシア支配時代に教育を受けたため、現在の若い世代が学校で使うポルトガル語で十分に授業ができないという。
そのため、「ああ~、東ティモールに帰ったら、ポルトガル語の勉強をしないと・・・」と言っていた。
ポルトガルに留学して、ポルトガル語を学ぶ若者もいるらしい。

ポルトガルとインドネシアの支配によって、東ティモールの人々が使う言語が短い期間に大きく変化してきた。
東ティモール独立後、ポルトガル政府はポルトガル語教師を派遣するなど、東ティモールの教育支援に力を入れているが、過去に植民地支配を受けていたことなどから、ポルトガルに複雑な思いを抱く若者もいるらしい。



東ティモール周辺の地図(国際協力機構サイトから)

外務省によると、東ティモールの面積は、東京と千葉、埼玉、神奈川の合計面積とほぼ同じ。人口は約118万人(2011年)だ。宗教はカトリックを中心としたキリスト教。主要な輸出品はコーヒーと天然ガスで、通貨は米ドルを使用している(独自のセント貨も使用)。現在、オーストラリアとアメリカ、ポルトガル、スペインにくわえ、日本も東ティモールに対する主要な経済支援国となっている。

過去の日本との関係を振り返ると、第二次世界大戦中、日本軍と連合国軍が東ティモールで衝突し、現地に住む多くの人々が戦火に巻き込まれて命を失った。日本は1942~1945年の3年間、東ティモールを含むティモール島を占領した。戦時中、日本が占領した地域で、東ティモールは唯一中立国であるポルトガルの植民地だったため、サンフランシスコ平和条約による賠償請求権を得ることはなかった。(参考・高橋茂人「東ティモールへの戦後補償―日葡国交再開と戦争被害請求権問題を中心に」

かつて列強に支配された国や地域には、今日でも植民地主義の影響が残る。日本も列強の一つだった。東ティモールの話を聞いて、今日も残る植民地主義の影響を、歴史的また構造的に理解する姿勢が大切だと改めて感じた。

留学生としてアメリカで暮らしているからこそ、様々な国の留学生と出会う機会が多い。そのおかげで、アメリカにいながらにして、アメリカ以外の国について、その国の出身者から直接話を聞く機会も多い。それは、留学先の国がどこであれ、留学すること自体のメリットの一つだといえるだろう。

将来、機会があれば、ぜひ東ティモールを訪ねてみたい。

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