2015年8月9日日曜日

移民、ナポレオン、人種分離、歴史刻むニューオリンズ

7月のニューオリンズ二泊三日旅行の続き――

二日目の朝は宿泊したホテル「Q & C Hotel」すぐ近くの食堂「Majoria's Commerce Restaurant」で、ケージャン風エッグベネディクトを食べた。期待通りスパイシーで美味しい。アメリカ南部発祥のトウモロコシ粉を茹でた朝食グリッツ(grits)も注文。これはかなり質素な味わい。

スパイシーなケイジャン風エッグベネディクト

接客してくれたアフリカ系のおばちゃん店員が話す南部の英語はリズムがあり、その愉快な響きが朝から心地よかった。

その後は1718年に創設された聖ルイス教会へ。アメリカで最も古いカトリック教会の一つだ。涼しい教会内でしばらく休憩した後、教会に隣接し、18世紀末にスペイン庁舎として建てられたカビルド(Cabildo)へ。現在はニューオリンズを中心としたルイジアナの歴史を学ぶ博物館となっている。

聖ルイス教会(写真中央)の前にある公園ジャクソン・スクエアには、20ドル札に印刷されているアンドリュー・ジャクソンの像が立つ。教会の左手の建物がカビルド。

ここではルイジアナで暮らしていた先住民、17世紀末から代わる代わるこの地を支配したフランス、スペイン、そしてアメリカの歴史を紹介。その歴史は移民の歴史でもある。ニューオリンズは南北戦争(1861~1865年)前、ニューヨークに次ぐアメリカ第二の港町で、アイルランド人やドイツ人、イタリア人らに加え、ルイジアナに根付いたフランス文化に惹かれ、カリブ海地域やフランスからフランス語を話す移民もたどり着いた。

1820年代には1万人、1830年代は5万人、1840年代は16万人、さらに1850~1855年は25万人がニューオリンズからアメリカに入国したが、南北戦争後、その数は激減する。

戦争中は移民の海上輸送が困難になった。戦後はニューヨークとシカゴ、カリフォルニアを結ぶ大陸横断鉄道が完成したため、ニューオリンズからミシシッピー川の蒸気船でシカゴへ向かう必要性も減った。さらに、大型化した蒸気船でミシシッピー川の砂州を越えるのが難しくなった。これらが移民数激減の要因となった。

それは戦争や鉄道網の発展によって、経済発展と移民流入の重心がニューオリンズからシカゴに移っていく過程でもあった(シカゴについては、こちら)。移民の行き先がどこであれ、19世紀のアメリカ白人は、太平洋岸まで続く西部の広大な土地に自分たちの文明を広めるとともに、その恵みを享受する運命があると信じていた。「Manifest Destiny(明白なる運命)」として知られるこの思想は、西部に生きる先住民に対する侵略を正当化するものに他ならなかった。

このカビルドという博物館で、もう一つ楽しみにしている目玉展示があった。それは一時はヨーロッパの大半を支配し、北アメリカ情勢にも大きな影響を与えたナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)のデスマスク。やや無造作に展示されているのが意外だったけど、ガラス越しにナポレオンの顔を10分ほど見入った。ものすごい鼻が高い。考えようでは、ただの銅の「塊」だけれども、本人の顔で象られたデスマスクには「魂」も少し含まれているような気がして静かな迫力があった。

ナポレオン・ボナパルトのデスマスク


博物館の中を歩いていると、なんだか陽気な音楽が聞こえる。館内放送かと思いきや、二階の窓から博物館前を見下ろすと、アフリカ系男性8人のジャズバンドが演奏している。

カビルド前の広場でジャズを演奏するバンド

街中でジャズを演奏しているのは、このバンド以外にもいくつかあった。特に印象的だったのは、中高生ぐらいの男子たちのバンドだ。フレンチ・マーケットという食事や買い物が楽しめる場所で、シャーベットを食べながら、彼らの演奏を聞いた。Tシャツ、ジーパン、スニーカーという普段の恰好で観光客をもてなす彼らを見ていると、この街にジャズが根付いていることがよく分かる。

若者たちのジャズバンド

その後は、1890年代にルイジアナ州の人種分離政策に異議を唱えたホーマー・プレッシー(1862~1925年)の墓に向かった。

白人といっても不思議ではない外見のプレッシーだったが、黒人の血が流れていることを理由に、白人専用列車の乗車を拒まれ逮捕される。この人種分離政策に対して最高裁判決は、白人専用車を用いて社会的に人種集団を分離すること自体は合憲という内容だった。この判決は「分離すれども平等」という論理で人種差別を容認したプレッシー判決(1896年)として今日では知られている。

人種分離は人種差別を再生産し、奴隷身分から解放された多くの黒人を再び抑圧した。南北戦争後に発展したこの人種差別思想が、最高裁によって否定されるのは1954年のブラウン判決まで待たなくてはいけない。

というわけで、墓地まで歩いたものの、墓地は許可を得た観光ガイド付きじゃないと入れないらしい。外からなんとなく墓地の雰囲気は掴めたので「まあいいか」と、その場を後にした。


ホテルで休憩した後、街の中心部フレンチ・クオーターに戻って夕食を取ることにした。
口コミサイトで評判のいい料理店「Acne Oyster House」へ。ガーリックバターのかかった炭火焼牡蠣、ソフトシェルクラブという殻ごと食べられるカニの揚物、オクラでとろみをつけた魚介シチュー「ガンボ(gumbo)」に加えて、地ビールのアビータ・アンバー(Abita Amber)を注文した。

柔らかい殻ごど食べられるソフトシェルクラブの揚げ物

前夜も牡蠣を食べたけれど、この店の方がニンニクが利いていて美味しい。カニは腹の部分が食べ応えあり。ガンボもエビとカニなどの出汁が出ていて食が進む。ビールは麦芽の風味がしっかりしているけどマイルドで飲みやすかった。

ルイジアナの地元料理ガンボ

お会計を終えて、妻がトイレから出るのを待っている間、店員のアフリカ系のおばちゃんに「ルイジアナの人はガンボを家庭でも食べるんですか」と聞いてみた。

「食べるわよ。例えば、うちなら、シュリンプ、ホットサーシャ、スモールサーシャ、それにチキンウィング」と教えてくれたけど、「サーシャ」ってなんなんだ。改めて尋ねると「ホットサーシャよ」と同じことを言うから、んん~っと思ったけど、すぐにそれが南部英語で発音した「ソーセージ」だと分かった。
「いいですね。この店でそのガンボを出したらいいんじゃないですか」と返すと、おばちゃんはワハハと大きく笑って、ちょうどトイレから出てきた妻と僕に「来てくれてありがとうね」と言って仕事に戻った。

夕食後、夜のミシシッピー川沿いの公園を散歩した。ニューオリンズに来た移民の功績を記念する石像がライトアップされている。イタリア系アメリカ人の団体が1995年に建てたものらしい。土台には「自由、機会、そしてよりよい生活を新しい国に求めて母国を離れた勇敢な男性また女性たちに捧ぐ」と刻まれていた。

夜のミシシッピー川

ミシシッピー川に対岸の照明が反射して揺れる。翌日はロサンゼルスに帰る。今度はいつここに来るだろうか。もう来ないかもしれない。わからないけど、来てよかったとしみじみ思った。


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