2012年12月30日日曜日

買い物を通して見る人種・エスニシティ

ロサンゼルスは世界各地の食材がほとんど手に入る。
旅行者ではなく、アメリカに長期間暮らす移民にとって、慣れ親しんだ出身地の食事を続けることは大切なこと。というわけで、買い物を通して、移民社会の様子も伝わってくる。

僕ら夫婦は、ふだんは近所の一般的なスーパー「VONS」などを利用しているが、だいたい月に2回は韓国系スーパー、1回は日系スーパーに行く。
韓国系スーパーは、和食に使う食材も低価格でたくさん置いてある。

先日、ロサンゼルスに来て初めてのお鍋を食べよう、ということで、韓国系スーパーに買い出しに行った。
白菜、エノキ、大根を買い物かごに入れ、次は長ネギを探していると、ハングルで「파(大葱)」という野菜の商品説明に日本語でも「東京ねぎ」と書かれていた。
見慣れている長ネギ・白ネギよりは、青い部分が長いが、それを購入した。
大根などはキムチに使われるため、ものすごく安い。この日、買った小ぶりの大根は一つで12円くらいだった。

お鍋の味付けは、中国系スーパーで買った鶏ガラスープの素に、しょうゆ、酒、塩を加えて、味を調えたもの。それに骨付きの鶏肉を放り込んだので、多少そこからダシもとれたと思う。
ところで、土鍋はどうしたのか、というと、日系スーパーで20ドルほどで購入。ついでに、ガスボンベも1.5ドルほどで購入し、日本から持ってきたカセットコンロにはめ込んだ。

味は大満足。ロサンゼルスの冬は、夜になると、けっこう寒いので、味だけでなく温かさも楽しめた。


ロサンゼルスで手に入れた道具と食材で作った鳥鍋



韓国系スーパーでは韓国語、中国系スーパーでは中国諸語、日系スーパーでは日本語が聞こえる。それぞれの地域出身の客が集まる。
お店の客層は、その店がどこの国関係の店であるかだけでなく、その店がロサンゼルス市内のどこの地域にあるかでも、だいぶ変わってくる。

たとえば、ロサンゼルス市の西部にあるショッピングモールは、比較的、白人層の多い地域に立地している。僕のアパートの近くにあるので、ときどき足を運ぶが、客層はいろいろなエスニック集団の人々がほぼ偏りなく来ているようだ。ただ、モール内の映画館は、白人が多い印象を受けた。

一方、ロサンゼルス市中心部に近い地域にあるショッピングモールは、アフリカ系やラティーノが多い地域にあり、客層はほぼアフリカ系とラティーノだ。店内には、アフリカ系の人々の趣向に合わせた美容院なども入っている。
先日、そのモールに妻と買い物に行った。クリスマス直後だったので、商品の値段もぐっと下がっていて、いい買い物ができた。

このモールについては、低所得者が多い地域にあることから、人気クチコミサイトで、アフリカ系の地域住民らが賛否両論のコメントを投稿している。一部の人は、この地域を「ゲットー(低所得の人種エスニック集団が集住する地域)」とも呼んでいるらしい。

ある女性は「私はモールの近所で育って、いつもこのモールを『ゲットー・モール』だと思ってきました。理由は、モールが『ゲットー』にあるからじゃなく、テナント、商品、常連客らがすべてかなり『ゲットー』っぽかったから」と一段落目は手厳しい。しかし、モールは近年、新装開店したらしく、彼女も「ウォルマートがモールの質を下げてはいるけど、リモデルはいい感じ」、「今はけっこう好きです」と印象が変わったらしい。とくに、店内のベトナム人女性らによる、ネイルスパがお気に入りらしい。

アジア系移民の商店でいえば、ほかにもインド人店主のおもちゃ屋さん、中国人のマッサージ店などが出店している。アフリカ系の多く暮らす地域で、アジア系移民が商売をするケースが少なくない。

クチコミサイトで、別の女性は「私は自分の町にある、このモールが好きですよ。(モールや地域についての)ステレオタイプはみんな必要ないんじゃないかしら。だって、嫌いなら来なけりゃいいだけでしょ」。このモール付近では盗難が多いという偏見に対しては、「ビバリーヒルズやオレンジカウンティとか、安全と思われている地域でも、盗まれるときは盗まれます。だから、このモールに悪いイメージを持つ必要なんてないわ」と投稿している。

治安面に関しては、ロサンゼルス市警派出所がモールの中に設けられており、付近の安全を守っている。僕らがモールの駐車場に入ると、パトカーが5台ほど目に入ったので一瞬ギョッとした。安心感がある一方で、モール内に派出所があること自体が地域の治安事情を示している
いずれにせよ、このモールがあることは、この地域と他地域の物質面の格差を和らげる効果もあるのだろう。




ベニスビーチ近くの、アボットキニー(Abott Kinney)通りは、個性的な洋服店や小物店が集まっていて、おしゃれな大人が集う場所になっている。
ウィンドウショッピングをしていると、素敵な和風小物店を発見。モダンなデザインの日本の民藝品を豊富に取り揃えている。柳宗理デザインの食器も多く、こだわっているな、と思っていたら、日本人が経営する店だった。
ちょうど妻の故郷・大分県の小鹿田焼(おんたやき)もあり、妻がなつかしがっていた。
僕の好きな鳥取県の中井窯もあるだろうかと探したが、ぱっとは見当たらなかった。

だけど、ちゃんと中井窯の食器はいくつか日本から持ってきた。
買い物を通して、故郷の食材も大事だけど、食器も大事だと感じた。

日本からロサンゼルスに持ってきた鳥取県の民藝品・中井窯の急須と湯呑み

2012年12月18日火曜日

二つの国家の間で、マンザナール収容所、日系人の歴史

第二次世界大戦中、アメリカ西海岸に住む日本人移民、そして、その子どもらで日本に祖先を持つ日系アメリカ人ら約12万人(以下、日系人)は、「敵性外国人(enemy alien)」として、アメリカ本土内陸部の計10ヶ所の収容所に送られた。
アメリカ政府当局は当時、「転住所(Relocation Center)」と呼んだが、収容された人々は「収容所」「強制収容所」などと呼んでいる。

その一つで、約1万人が過ごしたマンザナール収容所跡を訪ねた。

ロサンゼルス中心部を午前9時に出発。高速道路を北東に2時間ほど走ると、あたりは何もない荒野に。
ちょうどモハベ砂漠の西端にあたるのだろうか、乾いた大地に生えている植物の葉は、みずみずしい緑色ではなく、枯れているようなうすい黄色だった。サボテンも点々と。それ以外はほとんど何も見当たらない。

道中の高速道路14号は、レッド・ロック・キャニオン州立公園を通る。約1000万年前の湖底が隆起して風化した地形らしい。

道中には、真夏には避暑地として人が集まるのだろうか、馬や牛のいる牧場やキャンプ場などがある地域もあったが、基本的には何もない乾いたアメリカ大陸の素顔の上を僕らの車は走っていく。

出発から4時間ほど運転して、ようやくマンザナール収容所跡に到着した。

案内センター前の駐車場で、車から降りて、ぐるっとあたりを見回した。ちょうどここは大きな二つの山脈の間に位置する。東側のイニョー山脈は、茶色く土っぽい山肌。西側のシエラネバダ山脈は、ごつごつした灰色の岩肌に雪が積もっている。やはり、それ以外は何もない。荒涼としているが、とくにシエラネバダ山脈のウィリアムソン山(標高4386メートル)の荘厳な姿はしばし見とれてしまうほどだ。同じカリフォルニア州内だが、気温は10度以下まで下がる。

マンザナール収容所跡の東側に見えるイニョー山脈

ちょうど70年前、太平洋岸の温暖な地域から、ここに強制的に連れてこられた人たちは、初めてこの景色を見たとき、僕らのように景色を楽しむ余裕はないままに、名も知らぬ、遠い場所に連れてこられたのだ、と実感させられことだろう。

まずは、案内センター内に入って、マンザナール収容所について22分間の映画を見た。
日本人移民の開始、第二次世界大戦、強制収容、日系人青年の米軍での活躍、戦後補償などが、当時、ここに収容された人々の声を通して紹介されている。

収容された日系人は、部屋を区切る板がなくプライバシーが守れないバラック小屋に住まわされ、食事は大食堂で食べた。
収容所内には病院や学校、野球場、劇場なども建てられ、ある程度の文化的な生活も送ることができた。
しかし、それらも強制収容による自由の否定という前提になりたった生活だった。

再現されたバラック小屋
収容者の3分の2は、アメリカ生まれのアメリカ市民だった。
彼らは日本人の血を引いているという理由で、アメリカ市民としての自由を奪われたことになる。
映画の中で、ある男性は「(収容所内学校の)先生たちもこういう環境で、『民主主義』について教えるのはたいへんだっただろうね」とふり返っていた。

上映室を出ると、米軍に志願して功績をあげた日系人の写真と紹介文をのせたパネル20枚ほどが載っていた。
いちばん真ん中の写真は、ハワイ出身のダニエル・イノウエ氏。日系アメリカ人として最初の下院、および上院議員となった人物で、日米関係の強化にも尽力した。

彼自身はハワイ出身で、強制収容の対象ではなかったため、マンザナールと直接関係はないものの、日系人の歴史においては、もっとも重要な人物の一人だ。
なんの因果だろうか、ちょうど僕らがマンザナールを訪ねた翌日の17日、88歳で息を引き取ったという。


案内センターを出た後は、自分の車にのって、収容所跡内を移動し、ところどころで車を降りて見学するという形になっている。
この収容所には、2平方キロメールという広い土地に、バラック小屋504棟が並んでいたらしい。
再現されたバラック小屋や監視塔などもあるが、とくに印象に残ったのは、「日本庭園」跡だった。

収容された日系人らが作った日本庭園跡
収容されていた造園師と草花農家の男性らが、日米の衝突によって強制収容されたという状況にあっても、なにかしら静かで平和な時間が持てますように、という思いを込めて、池と橋、花畑などをそろえた庭を造った。
戦後、日系人が解放されると、庭は強い風によって運ばれた砂や石で埋没してしまったが、造園師の子孫らが2008年に、埋もれた庭を掘り起こしたという。
もちろん、いまは水は流れていないけど、この荒涼とした場所に、緑豊かな庭園をつくりあげた人たちがいたということは感慨深かった。

庭園跡地から、また車にのってしばらくすると、収容者らが1943年に建てた慰霊塔がある。
収容所内では150人がなくなったらしい。慰霊塔の周辺には、少し地面が盛り上がった墓がいまでもいくつか残されている。
慰霊塔の背後では、ウィリアムソン山に太陽が沈もうとしていた。一気に冷えてきた。
マンザナールの歴史は知っていたけど、ここにこないと分からない、乾いたようで神々しい空気の質感があった。それは大きな二つの山脈に挟まれることで、より強く感じられる。

ウィリアムソン山を含むシエラネバダ山脈。山々を背景に、白い慰霊塔が建てられている=2012年12月16日撮影

案内センターには、収容者全員の名前が刻まれたスクリーンが展示されていたが、その背景にも、ウィリアムソン山がシルエットで描かれていた。
くわえて、その山頂部分には、大きくアメリカの国旗の絵も描かれている。

マンザナール収容所跡は、現在、アメリカの自由の在り方を問いかける記念碑となっている。
ただ、これはアメリカ、また日本に限らず、二つの国民国家による衝突が、いやおうなく、その間に置かれた移民に大きな影響を与えるということ、また、そのような状況にあっても、それぞれの移民は生き抜くために行動するということの両面を学ぶうえで、重要な史跡だといえるだろう。

背後のスクリーンには、マンザナールに収容された日系人らの名前が書かれている。真珠湾攻撃と9・11テロ攻撃を重ね合わせた手前のパネルでは、こうした攻撃が、アメリカ市民の自由の侵害につながってはいけないという願いが込められている。

乾いた大地でも、こうした動物が生きているようだ。
・TBSドラマ『99年の愛~Japanese Americans~』は、日本人移民とその子孫らの経験をわかりやすくまとめている。関連サイトは、こちら

2012年12月15日土曜日

留学生活の息抜き、つながる日本の人・情報

アメリカ大学院留学、最初の学期を無事に終えた。
博士課程の勉強の進め方だけでなく、ロサンゼルスでの暮らし方も一から学んだ4ヶ月半だった。

大学図書館で働く日本人女性の司書さんのご厚意で、図書館関係者の打ち上げパーティーに招待していただいたので、妻とおじゃました。
午後5時半。大学の一角にある素敵な催し会場に入ると、おしゃれに着こなした人たちがたくさん集まっていた。
料理は、アメリカ生活ではおなじみのブッフェ形式だけど、料理の質が高かった。
ぷりっぷりのエビのバター炒めやラビオリは目の前で料理してから、自分の皿に置いてくれる。
サラダには、蒸した芽キャベツやルッコラなど、ふだん家で食べない野菜が並ぶ。
ちょっとリッチな気分で、同じ丸テーブルの席に着いた人たちを話をした。

ブッフェ形式の料理。カボチャとリンゴのスープもおいしかった。

僕らを招待してくれた司書さんを中心に、そのテーブルには自然と日本に関係のある人たちが集まった。
司書さんのだんなさんはアメリカ人の日本研究者で、日本語も堪能。
司書さんの友だちで、この大学の日本人卒業生の女性は、アメリカ人の婚約者と参加。
くわえて、なんと、別の日本人女性の司書さんも、アメリカ人のだんなさんと同席していた。
アメリカの一つの大学に、日本人司書さんが二人もいるというのは、うれしい驚き。日本語の史料も使いながら勉強する身としては、とても心強い。

と思いながら、周りを見回すと、アメリカ以外出身の司書さんは日本人だけに限らないようだ。
韓国出身の50歳代の女性司書さんにもあいさつ。韓国関係の図書を担当しているらしい。

今年3月に3週間、ソウルの大学で韓国語を勉強したので、ここぞとばかりに韓国語で簡単な会話をしていると、「韓国語のの名前は?」と聞かれ、なんのことかわからなかったが、「韓国では日本の名前を使いましたよ」と答えた。「じゃあ、私が韓国語の名前をつけてあげるわ」と言われ、さらにわからなくなったが、「キムとかパクみたいな感じですか」と聞くと、「そうよ」と笑顔で答えてくれた。
どういう名前になるのか分からないけど、とても感じのいいかたで、楽しい会話だった。

妻とぷりぷりエビをおかわり。こちらのエビは日本より安いけど、ふだんの生活ではあまり食べないので、食い意地がでた。


パーティで出会った日本や韓国出身の司書さんらは、東アジア資料室関連の仕事をしている。
この資料室は、図書館の一角にあって、日本、韓国・北朝鮮、中国の参考資料がずらっと並ぶ。
書庫に行くと、日本で出版された書籍が何千冊も収められており、ちょっと日本に帰ったような気持ちになる。同じ書庫には、中国や韓国の書籍も豊富にそろえてある。

資料室には、朝日新聞とジャパンタイムスなど、東アジアの新聞も置いてあり、僕もときより立ち寄る。
朝日新聞は「国際版」で、日本の新聞紙に比べて、やや幅が狭く、縦が長いアメリカの新聞紙に印刷されており、文字の幅がやや狭い感じだが、記事は日本で購読されているものとほぼ変わりない。

この日も、パーティ前に立ち寄った。
アメリカ時間で12月14日だったが、日本の13日までの国際版が置いてあった。

もっぱら16日投開票の衆議院選挙の情報が並ぶ。
日本の情報はネットでいくらでも入るんだけど、こうして紙面をばらばら開いて、ざっと記事を見渡して、ぱっと目に入った見出しから、記事を読んでいくようなリズムは気持ちがいい。

12月上旬の紙面をめくると、話題の人を紹介する「ひと」欄で、日系アメリカ人の経験についてドキュメンタリー映画を撮影した、すずきじゅんいちさんが紹介されていた。幼いころに小学校の体育館で見た映画『マリリンに逢いたい』の監督らしい。
すずきさんは最近までロサンゼルスに住んでいたらしく、その間に知った日系アメリカ人の歴史に心動かされたことがきっかけとなって、日系アメリカ人をテーマにした映画三部作を撮ったらしい。

この日のパーティでは、アニメーション制作経験のある日本人女性にも出会った。映像関係ということで、すずきさんの記事の話をしてみると、なんと彼女もその映画制作に関わっていたという。

いろんな情報にふれるように心がけていれば、いろんな人につながっていく。
最初の学期を終えて、パーティでちょっと息抜き。こういう機会に感謝して、来学期にのぞみたい。

2012年12月9日日曜日

アメリカ大統領選、多様化する人口・価値観

日本の衆院選が間近に迫っている。
12党と諸派と無所属の1504人が小選挙区・比例区に立候補。過去最高の立候補者数らしい。

個人的には投票率がどう変化するのか注目している。
2005年の郵政選挙の投票率は前回(2003年)比7.65ポイント増の67.51%。続く2009年の政権交代選挙は69.28%と、過去2回の衆院選は投票率が上昇傾向にある。今回はどれだけの人が実際に投票所に足を運ぶだろうか。

僕も「在外投票」しようと考えていたけど、手続きに数ヶ月かかるため、残念ながら、今回は間に合わなかった。
いつ解散総選挙があるかわからないので、在外投票する意志がある人は、海外生活を始めたら、できるだけ早い段階で、手続きを済ませておく必要があるようだ。

今回の衆院選は、多党乱立で、争点がはっきりしないという声もある。その点、アメリカの場合、民主党・共和党の間で争点はだいたいはっきりしている。
ちょうど一ヶ月ほど前に、オバマ大統領が再選を決めた。
しかし、今回の大統領選は、細かい争点よりも、むしろ将来のアメリカの姿に対する有権者の価値観の違い、また、その変化が見てとれたように思う。備忘録として記録しておく。

接戦になるという事前の世論調査とは逆に、選挙人票332対206という圧倒的な差をつけて、オバマ大統領が勝利した。
失業率8%台という厳しい経済状況において、経済に詳しいとされていた対抗馬に現職が大差で勝ったことは何を意味しているんだろうか。

CNNの出口調査によると、女性の55%、18~29歳の若者の60%、アフリカ系の93%、ラティーノの71%、アジア系73%がオバマ支持。一方、白人の59%がロムニー支持という結果だった。

この結果を受けて、アメリカが「白人」と「その他」に分断された、という印象を受けた人もいただろう。ただ、「白人」と「その他」の境界線(カラーライン)自体は、歴史的にはアメリカが独立したときから根強く、むしろ、奴隷制があった過去の方がより厳しかった。今回の選挙で、新たに深まった分断ではない。
くわえて、白人の39%がオバマ支持であったことからも、「白人」と「その他」というように、人種集団でスパっと分かれる分断ではないことははっきりしている。

むしろ、投票の分かれ目は、「(従来の)白人男性中心主義のアメリカ」と「(白人も含む)多様性のアメリカ」という将来像の違いにあったんじゃないだろうか。

この違いは、民主党・共和党の支持者拡大に向けた戦略にも見てとれた。
選挙前には、両党がそれぞれ全国大会を開いて、正式に立候補者を決定する。
共和党の大会会場を埋め尽くしたのは、ほぼ100%白人だった。一方、民主党の大会会場は白人、アフリカ系、ラティーノ、アジア系・・・と、人種エスニシティの多様性を象徴するようなかたちで支持者が集まっていた。「別の国か」と思うほど、まったく異なる印象を受けた。

おそらく、共和党は、勢いを増す「ティーパーティー」など白人保守層の価値観をもとに、「白人」と「その他」の違いをハッキリさせる作戦で支持拡大を狙ったものの、実際は、共和党が期待をかけた白人有権者の間でさえ、そうした価値観の共有が十分には広がらなかったのだろう。

追い風の中で「Yes We Can」のオバマ氏が圧勝した2008年大統領選では、白人有権者の43%がオバマ支持、55%がマケイン支持だった。
対照的に今回の選挙は、依然として移民人口が増え、経済状況も悪く、白人保守層の反発も強いなか実施された。しかし、それでも白人有権者の39%がオバマ氏に投票し、ロムニー支持は59%にとどまった。
つまり、今回の選挙をとおして、「白人」と「その他」という人種的な分断が深まったというより、アフリカ系初の大統領が誕生した2008年選挙時と同様に、今もそうした分断が基本的には弱まる傾向にあることが、改めて示されたといえるんじゃないだろうか。

オバマ陣営の選挙戦略スタッフは、選挙後のテレビインタビューで「中産階級を増やす」という訴えが響いたと話していた。白人に比べて、経済力の弱い人種・エスニシティ少数派の期待とも重なる。

国勢調査局の予測では、アメリカの人口は、今後ますますマイノリティの人口比率が高まっていき、2042年には過半数を超えるという。実際、2010年6月~2011年6月に、アメリカで生まれた赤ちゃんの50.4%はラティーノやアフリカ系といったマイノリティで、初めて過半数を上回った。

このような人口動態の変化に伴って、アメリカの将来像に対する有権者の考え方の境界線も変わっていくだろう。とくに共和党は新たな対応が求められている。次回の大統領選では、どのような支持者らが共和党全国大会の会場を埋めるのか注目したい。

僕の移民研究のクラスの先生は、熱烈な民主党支持者だが、その人でさえ、オバマ大統領の圧倒的な勝利には驚いたという。「次は、ヒラリーで8年、その次はフリアン・カストロ(メキシコ系アメリカ人3世)で8年」と期待を込めていた。

・アメリカの新生児人口に関する国勢調査局のサイトは、こちら

2012年11月22日木曜日

エスノバービア、中国系移民の郊外、飲茶に舌鼓

ロサンゼルスのチャイナタウンといえば、ダウンタウンと思う人が多いだろう。
中華料理店や輸入食料品店が並び、観光にはうってつけだ。
だが、実際にここに住んでいる中国系移民はそれほど多くはない。

1970年以降、多くの中国系移民(ここでは広い意味で台湾も含む)は郊外に集住し、サバービア(suburbia=郊外)ならぬ、エスノバービア(ethnoburbia=マイノリティによる郊外)を形成している。実際に中国系移民が多く暮らしているという意味では、こうしたエスノバービアが今日のチャイナタウンといってもおかしくない。

中国風の外観のショッピングセンター=モンテレーパーク市、2012年11月16日撮影
その一つがロサンゼルス郡モンテレーパーク市だ。
1970年代から、香港や台湾、また中国本土から来た移民が住み始めたという。
同市に住む中国系移民は1970年の2,200人から1999年の約2万5千人に増え、人口の4割を占めるまでになったという。

ちょうど今月、僕が誕生日を迎えたということで、日本人の友人と妻と3人で、モンテレーパーク市に飲茶を食べに行った。
ちなみに友人は日本で通っていた大学の先輩で、来春まで一年間、ロサンゼルスで資料収集などをしている。昨年の今ごろは、先輩と僕らがロサンゼルスに住んでいるなど想定していなかっただけに、うれしい巡り合わせだ。

多くの昼食客でにぎわう飲茶店=モンテレーパーク市、2012年11月16日撮影
向かった飲茶店は、オーシャン・スター・レストラン(Ocean Star Restaurant)。
店に入ると、大広間にテーブル50卓以上が並び、昼食に訪れた客でにぎわっている。
さっそく店員の中国人男性が何語かわからないけど、席に案内してくれる。
「ジャスミンティーでいいですね」という英語はわかったので、それを注文して席につくと、大広間の奥の方から、点心が載ったワゴンを押す女性店員らが、他のテーブルをよけながら、どんどんとやってくる。
そして、僕らのテーブルに到着するなり、矢継ぎ早に料理を薦めてくれるが、広東語なのでさっぱりわからない。ただ、直接、点心を見て選べるので、言葉はそれほど問題にはならないのが飲茶店のいいところだ。

ちょうどコイが池のエサに群がるような感じでワゴンが僕らに群がるので、やや圧倒されたが、ワゴンの上の点心は、どれもこれも食欲をそそるものばかり。しかも、すべてうまい。
あれやこれや10皿ほど頼み、入店から30分ほどでおなか一杯になった。
支払いはチップ込みで32ドル(約2600円)。安かった。
妻の母親が中国語や太極拳を学ぶほど中国が好きなので、ぜひ連れてきてあげたい。

次から次へと注文し、あっという間にテーブルは料理でいっぱいになった=モンテレーパーク市の飲茶店「オーシャン・スター・レストラン」、2012年11月16日撮影
食後は飲茶店の周辺を散歩。道行く人はほとんどアジア系の人たちだった。
たまたま見つけた中国系スーパーマーケット「99 Ranch Market」へ。エスニック・スーパーはそれぞれお国柄が出るが、妻はパック入り肉団子の種類の豊富さに驚いていた。また、中国だけでなく、日本や韓国の食料品も豊富にそろっている。アジア系に限らず、ラティーノも買い物を楽しんでいた。

中国系スーパーの棚にはずらっとパック入り肉団子が並ぶ=モンテレーパーク市、2012年11月16日撮影
スーパーを出てから、ちょっとした喫茶店でタピオカ入りドリンクを購入。先輩はタピオカ入りのパッションフルーツ・スムージーを注文。少し味見させてもらったが、さっぱりとした甘味で、食後にぴったりだ。

しばらく歩いた後、車に乗って周辺の街並みを見てまわった。落ち着いた雰囲気の住宅地にはきれいな家、商業地には漢字の看板を付けた店が並ぶ。
1970年代、中国系移民を呼び寄せるため、移民募集企業は、香港や台湾の新聞に「チャイニーズ・ビバリーヒルズ」というふれ込みで広告を掲載したという。
それから約40年、ビバリーヒルズとまでいかないにせよ、ここが彼らの中産階級としての豊かさをよく示す町になったことは間違いないだろう。

・参考にした研究論文の閲覧先サイトは、こちら

2012年11月17日土曜日

リトル・エチオピアで昼食、スパイス効いた移民の味

「アムハラ語って知っている?」と妻が言う。
もちろん、知らない。

「午前6時が、午前0時なんだって。だから、お昼が午前6時なんだって」
もちろん、意味がわからない。

妻によると、アムハラ語はエチオピアの公用語で、独自の文字も持っているらしい。
また、エチオピアでは午前6時を午前0時としているらしい。

こうした話をなぜ妻が教えてくれるかというと、彼女が通う英語教室の仲良しがエチオピア出身の女性だからだ。
英語教室では出身国や年齢が異なるさまざまな外国人が一緒に勉強している。
妻は特にエチオピア、インドネシア、中国、メキシコから来た女性らと仲良しで、英語教室の後は自主的に集まって、ヨガを楽しんだり、スペイン語を勉強したりしているらしい。

エチオピアはおもしろい、ということで、エチオピア料理店が集中しているロサンゼルス市内のリトル・エチオピアに妻と出かけた。

200メートルくらいの通りの両側に、エチオピア料理店やエチオピア輸入品店などが並ぶ。
輸入品店に入ると、エチオピアの音楽CDやアムハラ語の書籍だけでなく、さまざまな香辛料などの食材も並んでいる。なによりも、店内の人々の会話から聞こえるアムハラ語が、この町の雰囲気に欠かせない要素だ。

リトル・エチオピアがあるフェアファックス(Fairfax)通りは交通量も多い=ロサンゼルスのリトル・エチオピア、2012年11月11日撮影
料理店などの評価サイト「Yelp」で調べたエチオピア料理店「Rosalind's」へ。
とにかく、エチオピア料理について何もわからないので、メニューを渡されるなり、「おすすめはなんですか」と聞いた。すると、鶏肉の煮込みと牛肉の炒め物を薦めてくれた。楽しみだ。

しばらくすると、二人分の料理が載った大皿一枚と、インジェラというエチオピアの主食パンが10個くらい載った別の皿を店員が持ってきた。
しかし、店員はナイフやフォークは持ってこず、そのまま厨房のほうへ戻っていった。

メニューを見返すと「エチオピア料理の正しい食べ方」が事細かに説明されている。
「アメリカでは、料理を手で食べるのは原始的な人々だけだという意見もあるでしょうが、この考え方は非常に偏っています。というのも、エチオピアでは特定の料理を手を使って食べるからです」とのこと。
詳しく読むと、このインジェラというパンをちぎって、それをスプーンやフォークのように使って、具材をつかんで口に運ぶという。
さっそく実践しようと、インジェラに手を付けると、とても冷たい。メニュー説明によると、冷たい状態が普通らしい。

インジェラ(写真左)をちぎって、大皿に載った料理をつかんで食べる。赤い鶏肉料理が中心。上下に牛肉料理が置かれ、左右には野菜料理が添えてある=ロサンゼルスのリトル・エチオピア、2012年11月11日撮影

鶏肉の煮込みは、コショウ、ニンニク、ショウガ、ナツメグなどで味付けした赤いワット(Wot)ソースに鶏肉が入った料理。とても柔らかいインジェラが破れないように、そっとソースをつかんで食べた。スパイスが効いていて辛く、味わい深い。手羽元は、指を突っ込んで肉をほぐして食べた。もちろん指はワットソースまみれでまっかっか。牛肉も唐辛子と一緒に炒めてあり、ピリッと辛くていける。
インジェラ自体はやや酸味が効いていて、好き嫌いは分かれるだろうけど、料理と一緒に食べると、それほど酸味も気にならない。なにより、初めての食材を初めて手で食べる経験自体が刺激的だ。

おなか一杯で店を後にした。リトル・エチオピアの他の料理店でも、エチオピア人かどうかにかかわらず、多くの人が昼食を楽しんでいる。

エチオピア人移民の増加は、多分に漏れず、アメリカの外交政策と関係が深い。
1974年、アメリカが支援していたエチオピア皇帝がクーデーターによって失脚。政治の不安定化や貧困拡大などによって、多くのエチオピア人がアメリカに移民した。2000年の国勢調査によると、大半は東海岸で暮らしているが、ロサンゼルス郡内でも約5千人が暮らしているという。
リトル・エチオピア界隈には、1980年代後半から徐々にエチオピア人の商店が増え始め、現在は約15店舗に及ぶという。
そして、ロサンゼルス市議会は2001年、この特色ある地域を正式に「リトル・エチオピア」と呼ぶ提案を可決した。

ロサンゼルスには「リトル…」と呼ばれている地域がいろいろあるが、それぞれのリトルが出身国や移民の歴史を物語っている。

「Little Ethiopia」と書かれた交通標識もある
昼食後によった近所のショッピングモール(The Grove)で、ガラス入りのサボテン置物を購入した。気に入った。

ガラス入りサボテン置物。写真の商品は一つ19ドル。
置くタイプを18ドルで購入。自宅の窓から入る自然光で撮影するといい感じに。

・参考にしたロサンゼルス・タイムスのまちぶら記事は、こちら

2012年11月9日金曜日

ラティーノ票の動向、スペイン語新聞、アメリカ大統領選

11月6日午後5時、大学院の授業を終えて帰路につく。
キャンパス前の地下鉄の駅から自宅最寄の駅までは約20分。そこから、10分ほど歩いて自宅アパートへ向かう。その道すがら、いつも通りがかるスーパーマーケットの入口前で、ラティーノの少年が板チョコを売っていた。12歳くらいだろうか。
ふだん大人の物売りには足を止めないが、少年ということもあって、自然と板チョコを一枚買った。

「いくらなの」
「一枚なら3ドル、二枚なら5ドルです」
「じゃあ、一枚もらうね。ワン、トゥー、スリー。はいどうぞ」
「種類はどれにしますか。キャラメル味やクランチがあります」
「じゃあ、クランチ」

少年は抱えた箱の中から、板チョコを一枚取り出して、僕に手渡した。はたして今夜どれだけ売り上げがあるだろうか。ファストフードなら3ドルあれば一食分は食べられるだろうなどと考えながら、板チョコを手に少し歩くと、同じスーパーの別の入口前で、15歳くらいのアフリカ系の少女が別のチョコレートを売っていた。

アメリカ大統領選、投開票日の夕方だった。

自宅に到着し、さっそくテレビ観戦。
選挙結果は、接戦になるという事前の予想に反して、オバマ氏の圧勝だった。
オバマ氏はヒスパニック・ラティーノを中心に人種・エスニック少数派や女性らから幅広い支持を得た。オバマ氏が連呼していた「middle class(中産階級)」の増加という主張も響いたのだろうか。

翌日7日の夜、ロサンゼルスで毎日約40万部を売り上げるというスペイン語新聞「La Opinión」 を購入した。ドラッグストアの前に新聞販売用の箱がいくつか置いてある。それに25セントコイン2枚を入れて、最後の一部を取り出した。

一面は、選挙結果を受けてシカゴ市の会場で登壇したオバマ大統領とその家族の写真だった。
見出しは「¡Cuatro Año Más!(4年、再び!)」。
記事の書き出しは「Fue el momento que todos esperaban(すべての人が待ち望んでいた瞬間だった)」と、オバマ氏への強い支持を示していた。

大統領選投開票日翌日のスペイン語新聞La Opinión

関連記事では「El voto latino con Obama(ラティーノ票、オバマとともに)」と題して、ラティーノ票の動向調査の結果を掲載していた。

「オバマ大統領は、全国のラティーノ有権者の75%という記録的なレベルの支持を得ており、1990年のクリントン氏の72%を超える歴史的な数字だ」

全国のラティーノ票の75%がオバマ氏に、23%はロムニー氏に向かったという。
ラティーノ有権者が関心を持っている政治テーマは、それぞれ雇用(53%)、移民政策(35%)、教育改革(20%)、健康(14%)という結果だったという。

この調査は、新聞社が民間調査会社に委託して、投票日前の11月1~5日、期日前投票した、もしくは、当日6日に確実に投票する予定のラティーノ計5600人の投票先を電話で調査したとのことだった。

記事の最後には、全国のラティーノに投票を呼び掛ける市民団体「Mi Familia Vota」事務局長のコメントが紹介されていた。「これで移民政策改革や移民問題を解決しないといけないということに、政党も政治家も気付くときが来たと思う」

ラティーノ少年から買った板チョコを食べながら、しみじみ読んだ。

2012年11月4日日曜日

コリアタウンのラティーノ労働者支援 ②

ロサンゼルス・コリアタウンで働くラティーノ移民労働者を支援する団体を訪ねた。
午前中に英語教室とパソコン教室を見学した後、スタッフらと近所の韓国料理店で昼食をとった。

店内にはテーブル約30台が並び、計約100人の客がビビンパやキムチチゲなどを食べている。そのほとんどが、コリア系アメリカ人というより、韓国から来た韓国人という感じだ。
昼食に来たスーツ姿の会社員らしき人はいるが、観光客のような人は見当たらない。ソウルに来たのかと目を疑う。

昼食を食べに来た韓国人らでいっぱいの韓国料理店=ロサンゼルス・コリアタウン、2012年11月1日撮影

もちろん飛び交う言葉は、客も店員も韓国語だ。
僕のテーブルは、僕を含めて日本から来た学生2人、その団体を取材中のフィリピン系アメリカ人のカメラマン、香港系アメリカ人とグアテマラ系アメリカ人のスタッフ2人の計5人だった。アジア系が多いためか、店員のおばちゃんも韓国語で話しかけてくる。

僕は牛肉スープと石焼ご飯のセットで約5ドル。米は紫色の古代米のような種類で見た目にも楽しい。韓国と同じように、無料のキムチもついてくる。日本の友人はソルロンタンのセット(約6ドル)を食べていた。これもおいしそうだ。

牛肉スープと石焼ご飯のセットは約5ドル。味も量も申し分ない。
食事を楽しみながら、この団体にとっても最も重要な活動である労働者支援について話を聞いた。
コリアタウンでは、多くのラティーノ労働者がスーパーマーケットやレストランで働いているが、雇用者が最低賃金を守らなかったり、残業代を支払わなかったりするケースは後を絶たない。

団体が支援した、あるメキシコ人労働者は過去4年間に6万ドル(約480万円)の賃金不払い被害にあった。団体は労働者とともに、雇用者に抗議するとともに、カリフォルニアの労働基準監督署(The Division of Labor Standards Enforcement)に訴えた結果、雇用者に支払い勧告が出されたという。
しかし、勧告には法的拘束力がないので、雇用者がきちんと支払に応じないことも多い。
そのため、労働者が一定の不払い賃金を確実に取り返す妥協策として、支払要求金額を減額して決着するケースも少なくない。
結局、この労働者は妥協案をとって、3万ドル(約240万円)を取り返したらしい。

そんな話をしながら、若手スタッフが「これじゃ半分じゃないですか」と不満をもらすと、先輩スタッフが後輩の気持ちを理解しつつも「妥協案をとるかどうかは、もう労働者個人の判断だから、私たちはどうしようもないよ」と話していた。

団体パンフレットによると、彼らは1992年の設立以来、不払い賃金計1千万ドル(約8億円)以上を労働者のために取り返したという。膨大な不払い賃金は、移民労働者の置かれた厳しい状況をよく示している。
経済的搾取の対象になりやすいうえ、英語も苦手な移民労働者にとって、こうした団体の支援ほど心強いものはないだろう。
くわえて、移民労働者のなかには、合法的な入国また滞在資格を持たない非合法移民も多い。彼らは搾取されていても強制送還の恐れから表立って雇用者に立ち向かえない。団体は、こうした非合法移民労働者の支援も積極的に行っているという。

団体の資金は、寄付や公的な助成事業などで賄われているものの、もちろん潤沢とはいえない。団体の代表は、スタッフやボランティアの「献身(dedication)」なしには活動は維持できないと話していた。

・この日の午前の様子は、こちら

2012年11月2日金曜日

コリアタウンのラティーノ労働者支援 ①

ロサンゼルスに暮らすコリア(韓国・朝鮮)系アメリカ人にとって、経済や文化の中心地であるコリアタウン。ダウンタウン中心部から地下鉄で約10分の地域で、約11万7千人の住民が暮らしている。

一般的に「コリアタウン」と呼ばれているが、住民の58%は中南米出身のラティーノ。韓国人移民やその子孫を中心としたコリア系アメリカ人住民は22%だ。
それでも、コリア系の商売、教会、市民活動などに関わる施設が集中しており、タウン外に住むコリア系アメリカ人も足しげく通う。

自動車の広告看板もハングル表記。コリア系商店やメキシコ系商店などが同じ建物に混在し、店名などもハングル、スペイン語、英語で表記されている=ロサンゼルス・コリアタウン、2012年11月1日撮影
コリアタウンで1992年から活動している移民労働者支援団体を訪ねた。日本で通っていた大学の友人が現在、この団体でインターンをしている縁で紹介してもらった。

この団体の大きな特徴は、コリア系アメリカ人が中心となって運営し、ラティーノを中心とした労働者を支援しているということだ。マイノリティ集団が互いに支えあっているという点でとても興味深い。
彼らは、コリアタウンで働く労働者の権利擁護活動を基軸に、労働者と家族の学習支援、住環境改善などにも活発に取り組んでいる。

この日は、午前中にあった、移民対象の英語教室とパソコン教室を見学しつつ、学習支援サポートも少しだけさせてもらった。インターン中の友人が指導を担当している。
参加者はメキシコ出身の30歳と70歳代の男性2人と、中国の朝鮮族の60歳代くらいの男性1人。参加者は多いときは20人近くなるらしいが、この日はたまたま少人数だった。

英語教室では「GO」や「COME」といった頻繁に使う不規則活用の動詞を20個ほど勉強した。
友人が「GOの過去形はなんですか」と英語で聞くと、30歳のメキシコ人の男性が「we?(ウィー?)」と自信なさげに答えるが、誰もはっきりとは分からない。友人が分かりやすい例文を使って「GOはWENTですよ」と教える。

中国出身の男性は、「EAT(食べる)」→「ATE(食べた)」と自分の単語練習帳にアルファベットで書いた後、発音をハングル表記で書き加えていた。

参加者3人がアメリカに来たのは、2ケ月~3年前とそれほど長くはない。
基本的な単語や文法も分からないことも珍しくないので、友人も丁寧に指導していた。

団体施設内の壁画風の絵は、さまざまな人種エスニック集団の連帯を象徴している。「JOBS WITH DIGNITY(尊厳ある労働)」というスローガンが印象的だ=ロサンゼルス・コリアタウン、2012年11月1日
休憩時間にメキシコ出身の2人とスペイン語で話をした。
英語の勉強について、年配の男性は「お店に行くにしてもなにかと英語が必要だからねぇ」。30歳代の男性も「la necesidad exige」と簡潔に答えた。とにかく生活に必要だからやらざるを得ない、と考えているようだ。


その後、参加者3人はパソコンを使って、さきほど勉強した英単語の一覧表を作った。

僕はおもに中国出身の男性のお手伝いをした。
彼は右ひじから先、左手首から先がないため、パソコンをどうつかうのだろうかと最初は思ったが、右ひじと左手首でマウスをはさんで動かし、キーボード上の決定ボタンを左手首でぐっと押して、スムーズではないにせよ、十分に使いこなしていた。
男性は無事に表データを保存してパソコンを閉じるとにっこりと満足げだった。

学習支援で、移民の英語力やパソコン技術を一気に上げるのはむずかしいが、ちょっとした達成感や、他の参加者やスタッフと交流する安心感は、かけがえのないものだ。
僕は日本で2年間、外国につながる児童生徒の学習支援活動に携わっていた。ここの参加者と比べると、年齢や出身国はまったく違うけど、学習支援活動の役割としては大いに重なるものがあった。

年配のメキシコ人男性は、パソコンを使うのは初めてだったという。
「分からないことばかりで難しいね。練習用にパソコンを買おうと思う。ありがとうね」といって帰った。

そろそろ正午。スタッフらと団体施設近くの韓国料理店に昼ご飯を食べに行った。それぞれソルロンタンやキムチチゲなどを食べながら、コリアタウンで起こっている労働争議について具体的な話を聞くことができた。(つづく)

・続きの記事は、こちら


2012年10月28日日曜日

インド人の老紳士、マリブーの夕日、太平洋の向こう

ロサンゼルスの国際交流団体が主催する留学生歓迎会に妻と参加した。
南カリフォルニア地域の大学院に通う留学生や団体スタッフら約50人が招かれた。
キプロス、シンガポール、チリ、ポーランド、ニュージーランド、ミャンマーなど、確認できただけでも15カ国から学生が集まった。

会場は、海岸沿いの高級住宅地が有名なロサンゼルス郡マリブー市内の邸宅。
大きな駐車場、庭園にプール、白亜の邸宅とゲストルームらしき離れ、そこから見えるオーシャンビュー・・・と、ふだんの生活とちがいすぎて、ややふわふわした気分になってしまう。

はじめて会う人ばかりなので、誰に声をかけようか見回していると、老紳士が声をかけてきた。
白いターバンにサングラス、シャツには蝶ネクタイという出で立ちに、杖をついている。
ターバンにくわえ、インド系の顔とアクセントから、おそらくパンジャーブ地方に祖先を持つインド人と思って話していると、その老紳士が歓迎会のホストで、この邸宅の主ということがわかった。

老紳士は約60年前に歯科医として、インドの首都ニューデリーからロサンゼルスに来て、こちらで開業したらしい。ということは、今は80歳前後だろうか。「当時、ロサンゼルスのインド人留学生は20人程度だったよ。それが今では50万人くらいのインド人がカリフォルニアに住んでいる」と振り返る。
20年以上前から、毎年、ロサンゼルスで学ぶ留学生を邸宅に招待してきたという。

邸宅はいわゆる高級住宅。留学生の歓迎イベントのホストが、アメリカに移民して成功したインド人(現在はアメリカ市民)の老紳士で、会場のランチもすべてインド料理というのが、いかにもアメリカらしい。

ひよこ豆のインドカレーやナンなどインド料理のブッフェが提供された

歓迎会の後は、もともと知り合いだったシンガポール人の友人夫妻と、そこで知り合ったチリ人夫妻と、僕ら二人で、邸宅近くの海岸へ。砂浜で休憩したり、散歩したりしていると、夕日が空の色調をゆっくり変えながら、太平洋に沈んでいった。これから日本やインドでは日が昇るんだろう。

太平洋に沈んでいく夕日=マリブー市

その後、みんなでレストランで夕食をとっていろいろ話してから、午後9時くらいに帰宅した。

2012年10月24日水曜日

アメリカ大統領選、投票ウィキで最新情報を

11月6日はアメリカ大統領選の投開票日。
この国の4年に一度の国民的イベントを現地で見られることはラッキーだ。

大学のキャンパスを歩いていると、民主党・共和党の支持者がそれぞれ学生らに有権者登録を呼びかけている。

「外国人なので投票はできないんですが、ちょっと興味があるので、一枚いただけますか」と民主党の支持者から、有権者登録票をもらった。登録票の束のとなりに、オバマ氏の写真も。

氏名、住所、生年月日、運転免許証番号、社会保障番号(Social Security Number)などを登録票に記入した後、署名して、ロサンゼルス郡の関係事務所に郵送するという仕組みだ。日本のように20歳を過ぎれば、投票案内状が届き、投票日を待つという仕組みとちがって、アメリカでは有権者登録をしないとアメリカ市民であっても投票できない。ちなみに、登録に関する電話での問い合わせは、スペイン語、中国語、ベトナム語、日本語など9ヶ国語で対応している。

内側に記入して、そのまま郵送できる有権者登録票

「オバマ氏のチラシを置いているということは、ここでは民主党の支持者が有権者登録を呼びかけているってことですよね。共和党支持者もやっているんですか」と聞くと、「ええ。彼らは向こうのほうでやっているんじゃないかしら」とのこと。
ちょうど登録票に記入していた学生が「このサイトを見たらいろいろ情報がありますよ」と、「バロットペディア(Ballotpedia、Ballot=投票)」というサイトを教えてくれた。

このサイトをのぞいてみると、なかなか興味深い。
スタッフとボランティアらがアメリカ国内の投票に関する、あらゆる情報を書き込み形式で更新しているウィキサイトだ。内容はかなり充実している。1916年に設立された女性参政権運動団体を基盤とした非営利団体がスポンサーとなっている。

もちろん今年の大統領選の関連ページもあるが、テーマ別ページもおもしろい。
死刑、中絶、タバコ、水・・・と約90のテーマそれぞれについて、アメリカ国内各州で行われた直接請求などの投票結果が詳しく説明されている。

「移民(immigration)」のテーマを選んでみると、関係する各州の投票結果がずらりと並び、それぞれの州の移民に対する法的な姿勢がよくわかる。たとえば、1994年のカリフォルニア州の「提案187号」をクリック。この提案は、非合法移民への公的サービスを否定するのが目的。州内の投票では可決されたが、その後、連邦裁判所が無効とした。カリフォルニア州で急増した非合法移民への反感・懸念を象徴する提案として、よく知られている。

有権者登録に話を戻すが、近所の運転免許試験場(Department of Motor Vehicles)に行ったときも、試験申請と同時に有権者登録もできるようになっていた。アメリカでは歴史的に人種・エスニシティ少数派の投票率が低い。
運転免許試験場は、人種・エスニシティにかかわらず、誰でも来るので、ひろく投票を呼びかけるのに適した場所なんだろう。

僕が通う大学院では、授業中に先生が「昨日の大統領候補者討論会、見た?」「授業はここまで。これからオバマとデートがあるから(討論会中継を見るから、という意味)」などと大統領選にふれることがしばしば。残り2週間にせまった投開票日に向けて、アメリカ市民の関心もますます強まっていくだろう。

3回目の大統領候補者の討論会では、外交について民主党で現職オバマ氏(右)と共和党のロムニー氏が議論した=テレビ映像から、10月22日撮影
・バロットペディアのサイトは、こちら

2012年10月14日日曜日

社会人のアメリカ留学、貯金と奨学金

カリフォルニア州は全米で最も日本人留学生が多い。

日米教育委員会によると、2010~2011年、日本人留学生2万1290人の約半数がカリフォルニア州、ニューヨーク州、ワシントン州、ハワイ州、マサチューセッツ州で学んでいる。

学部留学が49.5%、大学院留学が21.8%、そのほか(短期プログラム等)が20.1%となっている。

日本人留学生のうち、どれくらいが社会人留学かというデータはなかなか見つからないが、ロサンゼルスでは、社会人留学している人にもしばしば出会う。


社会人留学を「派遣留学」「休職留学」「退職留学」の三つに分けてみる。

派遣留学は、会社などの留学制度などを使って留学するケース。人材育成の一環なので、会社が留学費用をサポートしてくれる。なんらかの社内選考があることが多い。

休職留学は、会社を休職し、会社員の身分は保ちつつ、留学するケース。この場合、留学費用は自費だ。休職なので、留学後に元の職場に戻ることができる。
会社によっては「自己充実制度」などと称して、社内選考があるケースも。

退職留学は、会社員の身分は失う。もちろん、留学費用も自費だ。留学後に転職して別のキャリアを築きたい人には、これも選択肢の一つだ。

ここで問題になるのは、休職留学と退職留学の場合の留学費用をどうまかなうか。
アメリカの場合、学費と生活費を合わせると、かなり高額になる。
特に、経営学修士(MBA)プログラムの学費は極めて高く、2年間のコースで1千万円前後になるケースも珍しくない。
それに生活費が加わるので、実際は1千万円では済まない、となると、お手上げという感じに。

それでも、MBAなど専門職修士課程に留学する人はいる。
知っている限りでは、貯金と奨学金で対応している人たちが多い。

ある知人は、会社を退職した後、NGOで国際支援活動を経験。その後、世界銀行の奨学金を受け、アメリカで公衆衛生学修士(MPH)プログラムに入学した。

別の知人は、会社を退職した後、MBA留学費用のほぼ全額を自分の貯金で支払って、アメリカで勉強している。ただ、給料の高い会社に勤めていないと、短期間で十分な貯金をすることは難しい。



留学費用は、留学先が修士課程か博士課程かで、かなり異なる。

修士課程は、基本的には自費というケースが多い。
博士課程は、大学院生がティーチング・アシスタントなどとして、教育業務に関わるため、その労働対価として学費などが免除されるケースが少なくない。卒業まで学費と生活費をまとめてカバーしてくれる博士課程もある。

僕の場合は、大学を卒業した後、日本の会社に就職し、4年間働いた。その後、日本の大学院修士課程を修了した後、アメリカの大学院博士課程に進学して現在に至る。
一般的な大学生留学と社会人留学を足して二で割ったような感じだ。

留学費用については、渡米前に応募した留学奨学金、留学先大学院の奨学金、会社員時代の貯金を組み合わせて、学位取得まで生活していく予定だ。


そのほか、アメリカの大学院に入学するには、いろいろと準備しないといけないことがある。

アメリカ留学一般については、書籍やネットで詳しい情報が手に入る。
書籍では、日米教育委員会編の「アメリカ留学公式ガイドブック」が詳しい。

・日米教育委員会の関連サイトは、こちら

2012年10月11日木曜日

ロサンゼルスのユダヤ教徒集住地

先日、大学院の先生の自宅におじゃまして授業を受ける機会があった。
この日はユダヤ教の重要な祝日だった。
敬虔なユダヤ教徒である先生。近所のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の行事に参加するため、いつものように大学に来て授業をすることができなかった。

たまたま僕の家と先生の家が近かったので、妻に車でさっと送ってもらった。
授業まで少し時間があったので、先生の家の近所を散策していると、いたるところでユダヤ教徒を見かけた。
男性はキッパーという小さな円形の縁なし帽子を頭頂部にのせるようにかぶっており、女性も黒や灰色といった落ち着いた色の服を着ていた。

シナゴーグ付近を歩く、キッパーをかぶったユダヤ教徒男性ら=2012年10月9日撮影

少し歩くと、大きなシナゴーグを見つけた。ユダヤ教の戒律に従って調理されたコーシャ食品を売る食料品店やキッパーの専門店なども並んでいる。
この日は、ユダヤ教徒は働いてはいけない日なので、店はすべて閉まっていた。
住宅地に入ると、キッパーをかぶった青年らがアパートのベランダでバーベキューを楽しむ姿もあった。
おそらく、このバーベキューもコーシャ食品を使っているのだろう。


ビバリーウッド地域の中心部に建つシナゴーグ=2012年10月9日撮影

先生の家に着き、授業が始まる前にいろいろ聞いてみた。
先生は昨年からロサンゼルスに住んでいる。借家を見つける第一条件は、シナゴーグが近所にあるかどうかだったという。
週に一度の安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)には、ユダヤ教徒はシナゴーグに行く。安息日に車の運転は好ましくないため、敬虔なユダヤ教徒の多くは、シナゴーグに歩いて行ける範囲で家を探すらしい。
というわけで、周辺にシナゴーグがいくつかある、このビバリーウッドという地域は、ロサンゼルスで最も大きいユダヤ教徒の集住地だということがわかった。近所には、イラン系ユダヤ教徒や、ヘブライ語を話すイスラエル人(もしくはイスラエル系アメリカ人)もいた。

案内された部屋の本棚には、ヘブライ語の書物がずらり。先生は幼いころにヘブライ語を勉強していたので、それらの本を読むことができるという。
「アメリカに住んでいるユダヤ人の何パーセントくらいが実際に宗教的な生活を送っているんですか」と聞くと、「分からないけど、25%くらいだと思う」と言っていた。

そうこうしているとほかのクラスメイトも集まった。
コーヒーを入れてもらった後、授業中の軽食として生のニンジンも出てきた。
移民に関心のある僕としては、たまたまユダヤ教徒の集住地に来て、好奇心から少々興奮していたため、「このコーヒーとニンジンの組み合わせもユダヤ文化的なものですか」と質問してみた。

先生はやや答えに窮するような表情。そして、正面に座ったアメリカ人のクラスメイトが笑いをこらえるのに必死そうだったのを見て、自分がバカな質問をしていたことに気づいた。
コーヒーとスティックサラダがたまたま一緒に出てきただけだった。今後は気を付けたい。

2012年10月7日日曜日

アメリカ大統領選、ヒスパニック/ラティーノ有権者

たまたまアメリカの公共放送PBS(the Public Broadcasting Service)を見ていると、興味深いインタビュー番組を放送していた。

インタビューを受けているのは、全米で毎日平均200万人の視聴者をもつというスペイン語ニュース番組「Noticiero Univision(ノティシエロ・ウニヴィシオン)」のメインキャスター2人だ。

アメリカでは中南米、カリブ海系の、いわゆる「ヒスパニック/ラティーノ」が約3500万人(総人口の12%、2010年国勢調査)暮らしており、最大のマイノリティ集団となっている。

そうしたラティーノコミュニティに対して、「Noticiero」は、スペイン語で世界情勢、自然災害、大統領選挙など国内外を問わず幅広く報道している。ちなみに「Univision」は放送局名だ。

PBSでインタビューを受けたキャスター2人は、メキシコ系アメリカ人2世のマリア・エレナ・サリーナス(Maria Elena Salinas)と、メキシコ出身でアメリカ国籍もあるホルヘ・ラモス(Jorge Ramos)。2012年大統領選とラティーノ有権者の動向について語っていた。

ラティーノ有権者は民主党支持者が比較的に多いが、サリーナスとラモスも基本的にはオバマを支持する方向で発言していた。
サリーナスは「ラティーノ有権者は大統領選挙の結果を握る集団です。ということは、今回はオバマが勝つということでしょう」。ラモスも、オバマ大統領の移民政策に物足りなさを感じつつも、オバマ大統領が指示したドリーム法案などを評価している。

共和党候補ロムニー氏については冷ややかだ。ロムニー氏は、ラティーノ有権者へのアピールも含め、父親がメキシコで生まれたことを明らかにしている。英語版ウィキペディアによると、アメリカ市民の祖父母がメキシコで生活していたときに生まれた子どもということらしい。
また、ロムニー氏の息子がなかなか流ちょうなスペイン語でロムニー氏への支持を訴える選挙CMを流している。
キャスター2人は、父親の出生話とスペイン語CM自体は歓迎しつつも、「父がメキシコ生まれで、自分がラティーノであると認めない人はいない」(ラモス)、「細かい政策を見ていくとラティーノの期待に沿うものではない」という趣旨でインタビューに答えていた。

大統領選におけるラティーノ有権者へのアピールについて、ラモスは「私はこれをコロンブス症候群と呼んでいるんですが、ラティーノは4年に一回(大統領選のたびに)、『再発見』されて、また残りの3年間は忘れられてしまう」と皮肉っていた。

最後に、この大統領選の争点としては、ラティーノ住民の失業率の高さを引き合いに「経済・雇用」をあげていた。この点は人種・エスニシティを問わず、同じ問題意識を共有している。また、アメリカの移民の歴史を振り返れば、移民排斥の声は経済不況の時に高まる。その意味でも、経済は重要なポイントといえる。

彼らはラティーノコミュニティのスポークスマン的な役割も担っているといえるだろう。
サリーナスが「エスニック・メディアとメインストリーム・メディアという区別がありますが、我々はもうメインストリームなんです。唯一の違いは言葉が違うというだけです」と話していたのが印象的だった。

先日、僕の通っている大学院で講演した著名な社会学者によると、2035年には、これまでマジョリティだった、いわゆる白人はアメリカ人口の過半数を切る可能性が高く、アメリカの未来のリーダーは、こうしたラティーノの若い世代から選んでいく必要があると話していた。
もちろん、中南米からの移民が今後も現在の調子で増え続けるのかという問題はあるとしても、ラティーノが政治的にも文化的にもエスニック・マイノリティではなくなり、ラティーノ大統領が誕生する日が21世紀の前半には来るのかもしれない。

2012年10月6日土曜日

エスニックなロサンゼルスの日本

ロサンゼルスは、グローバルシティともいわれるだけあって、ありとあらゆる国の人々に出会える。
そうした人たちの胃袋を支えるのがエスニック・スーパーマーケットだ。

大多数の移民を送り出している中南米の国々の食材は、もうエスニックマーケットに行かずとも一般のマーケットでほとんど手にはいる状況だが、多くの移民を送り出す中国や韓国などの良質の食材を集めたいなら、やはりエスニックマーケットに行くのがベストだ。

一般のスーパーでは中南米の食材が簡単に手に入る。アボカド(手前)は日本でも一般的だが、ヒカマ(左)やチャヨーテ(右)は日本ではまず食べないだろう。ヒカマはスライスにしてサラダに、チャヨーテはスープの具材にぴったり

ありがたいことにロサンゼルスには、戦前から日本人移民の集住地であったこともあって、今日でも日系スーパーが10数件ほどある。かつお節であれ、うまい棒であれ、日本の野菜(こちらでは一般的ではない、日本のキュウリなど)であれ、だいたいのものは手に入る。もちろん、ものによっては値段が高いけど、これがないとあの和食が作れないといった材料であれば、買う価値があるだろう。もちろん商品説明などの案内もすべて日本語だ。

先日、そのうちの一つに買い物へ。サンマ2尾が1.5ドル(120円相当)で売っていた。魚の中ではサンマが一番好きなのと、こちらに来てから肉食が中心だったので、気分も高まる。ついでに納豆も買って、その日の夜に食べた。サンマも鮮度は落ちておらず、肝の味まで日本で買った場合と変わらなかった。

サンマ、納豆、味噌汁、ごはんと日本と変わらぬ食材が手に入るロサンゼルス。質素・・・

さらに、スーパーと併設したフードコードでは、日本でも有名なラーメン店や天丼屋などの食事が食べられる。サンマもおいしかったし、ここは間違いないということで、後日、アメリカ人の友人と妻の3人でラーメン屋に食べにいった。

ロサンゼルスでは近年、日本のラーメンの人気が高まっており、そのアメリカ人の友人もかなりのラーメン好きだ。喜ぶだろうと思って彼を誘ったものの、実際に食べてみると、日本の店舗で食べる商品とまったく違っていた。
スープはそこそこ同じだけど、麺は明らかに別物。太いあげ麺をふやかしたような麺でコシもなく味もわるい。
「残すのは申し訳ないけど」と言って半分以上残したアメリカ人の彼は、最後に「本当においしいラーメン店があるから、こんど連れて行ってあげる」と言ってくれた、というか、言われてしまった。アメリカのラーメンはアメリカ人に聞いたほうがよいかもしれない。

ところで、こうした日系スーパーは、ロサンゼルスで暮らす日本人の情報交換の場ともなっている。
とくにスーパー入口に山積みされた「羅府テレフォンガイド」は必携らしい。ロサンゼルス内の飲食店、病院、弁護士事務所、料理教室などの電話番号が日本語で書いてある。また、自動車を購入したり、病院に通ったりする場合などの生活アドバイスも充実しており、ロサンゼルスで生活を始めたばかりの日本人にとって大きな助けになるだろう。

羅府テレフォンガイド
ロサンゼルスは日本人が7万629人住んでおり、世界で最も日本人が多く住む海外都市だ。外務省の海外邦人数調査統計(2011年10月1日現在)によると、そのあとは上海(5万6481人)、ニューヨーク(5万4885人)、大ロンドン市(3万6717人)、バンコク(3万5935人)と続く。
ロサンゼルスの日系の都市としての基礎は、戦前の日本人移民が築き上げた。そうした歴史的な都市に、戦後も日本から人々が移り住み、これらの日系スーパーに象徴されるような、日本人のエスニックコミュニティをつくりあげている。

2012年10月1日月曜日

アメリカで学ぶ中国人留学生

先日、アメリカで東アジアに関係することを勉強している留学生らの交流会に参加した。

さまざまな分野で勉強する学生30人ほどが集まった。ほとんどの学生は日本、中国、台湾、韓国出身。今年、僕の在学している大学の大学院には、約1700人の留学生が入学したが、その8割以上が中国人だった。というわけで、ここに集まる学生も比較的、中国出身の若者が多い。

留学生はアメリカの法律上は、出身国に帰る予定の人という意味で「非移民」ということになっている。けれど、現象としては、ある国から、ある国へ移動している移民だ。
くわえて、アメリカに留学した外国人が「非移民」の想定に反して、出身国に戻らないケースも少なくない。戻らない理由は、経済的、政治的、社会的、文化的といろいろある。
専門的な知識や技術を持った人たちがアメリカに渡って、そのまま住み続けた場合、彼らの送金が出身国の経済を一部支えることもあれば、「頭脳流出(brain drain)」して人材を失うこともありうる。

というようなことを考えながら、その日出会った中国人学生らが、アメリカで学位をとったあと、どこで働くつもりなのか、聞いてみた。

ある学生は行政学を勉強中。「できたら、アメリカにとどまりたい。こっちの生活が好きだから」。将来の仕事は、政府関係やNPOなどで働きたいとのこと。「政府ってアメリカ政府ですか。アメリカの市民権がないと難しいんじゃない」と聞くと、「市民権はとろうと思えばとれますよ」とあっさり答え、アメリカ国籍への帰化も視野に入っているという。

別の学生は「とても難しい問題。私は社会運動を勉強しているから、自分の国ではなかなか仕事するのが難しいかもしれない。自分の国でもちゃんと安心して働ける場所があるなら、ぜひ帰りたいけど」。

この交流会ではない、別の機会で出会った学生は建築学を勉強中。その学生は「中国のほうがいろいろと建設事業を展開する土地がいっぱい残っているから、中国に戻って働くつもり」とのことだった。

ただ、全体としてはアメリカにとどまりたいと思っている学生がやや多いのではないかという印象を受けた。

この8月まで勉強していた日本の大学院でも、留学生のほとんどは中国出身の若者だった。おかげでいい友達もたくさんできた。日本学生支援機構によると、2011年5月1日現在、日本で学ぶ中国人留学生は8万7千人という。一方、アメリカ政府の国際教育研究所によると、アメリカで学ぶ中国人留学生は15万8千人で日本よりはるかに多く、留学生の出身国別ランキングも世界1位という。

アメリカまた日本は、それぞれ中国と経済摩擦や領土問題などで対立する一方で、実際には、かなり数の中国人留学生を積極的に受け入れている。もちろん、アメリカや日本から中国に留学する学生も多い。国家間の対立が目立てば目立つほど、こうした国境を越えた若者の移動と、それに伴う個人的な交流が多ければ多いほうがよいと思う。

※ちなみに、アメリカで学ぶ日本人留学生は、1997~1998年は約4万7千人で世界1位だったが、2010~2011年は約2万1千人で7位となっている。関連記事は、こちら

2012年9月15日土曜日

移民支援の英語教室②、誰でも受講できる

カリフォルニア州の一部の地域では、格安の授業料で英語教室を受講することができる。
100年以上前から移民を受け入れてきた国の伝統ともいえるだろうか。
どこで英語教室を受けることができるか、ネットを使えば簡単に見つけることができる。

妻が通い始めた成人向けコミュニティスクールは「3ヶ月、週4回、一回3時間」で、わずか20ドル(1600円相当)と前回の記事で報告したところだが、もっと内容が充実していたらしい。
週4回の授業は月~木曜日にあるけど、なんと希望すれば金曜日も会話練習(3時間)を受講できるらしい。
ということで、妻はそれにも通い始めた。

最初の会話練習の参加者は、メキシコ、イラン、ブラジル、エルサルバドル、インドネシア、フィリピン、ブルガリア、キューバ、エチオピア、日本、韓国、中国など出身の35人くらいが参加。会話練習の定員は40人で、2回以上欠席すると除籍になるらしい。
というのも、10人以上がウェイトリストで受講できるのを待っているからだ。

授業が始まると、まずは自己紹介。その後、それぞれの国の名前の付け方などを紹介しあった。
「わたしの国では、政府が名前リストを持っていてそこから選びます」
「おじいちゃんが最初の孫の名前を付けます」
「生まれた日の暦にちなんだ名前を付ける人が多いです」
「占星術で決めます」というわけで、決め方はそれぞれの国でいろいろ。
妻としては「親の名前にちなんでつけたり、名前の本を買ったり・・・親が自由につけたり」と説明した。まあ、日本の場合、なんでもいいというわけだ。

その後、25分ほどの英語学習用ドラマを見て、内容に対する感想をそれぞれ英語で表現した。
妻いわく「けっこう難しいよ。そもそも英語を聞き取れないと意見いえないし、わかっても4割くらい。直接の会話だとある程度わかるのに、テレビになるとなんで難しいんだろう」とのこと。

月~木曜日の英語教室の先生は、外国人に英語を教えて17年と経験豊富。金曜日の会話練習の先生も教えなれてて感じがいい。

この英語教室の受講するには、書類審査も面接審査もない。なので、日本から観光ビザで渡米しても申し込んでも大丈夫らしい。
教室の要綱には「人種、肌の色、エスニック集団、国籍、祖先、宗教、年齢、結婚・未婚、妊娠、身体・精神的障害、健康状態、退役軍人、ジェンダー(社会的性差)、遺伝情報、性別、性的志向、そして、このような様々な特徴の感じ方、にかかわらず、だれでも受講できます」と書かれてある。この内容は1964年の市民権法と通じるので、どのように関係しているのか知りたいところだ。

とくに興味を引いたのは「このような様々な特徴の感じ方」という部分。つまり、人種にしても、宗教にしても、それを何ととらえるかは個人差があるので、そうしたそれぞれの「とらえ方」の違いもすべて受け入れるということ。「法的な立場」という項目は見当たらなかったけど、クラス分けの面接で「なんで英語を学びたいの」以外はほぼ一切何も聞かれないということからすると、非合法移民でも受講することができそうだ。

というわけで少し話を戻すが、すでに日本で仕事をしているなど、ある程度、経済的に安定した状態で、しばらく休職して実践的な英語力を高めたい人には、とてもいい選択肢になるだろう。

そして、なによりも『周りに日本語を話す人がいない・少ない』という、この教室の環境は、実践的な英語力を伸ばすうえで決定的な要素といえるだろう。

2012年9月12日水曜日

移民支援の英語教室①、出身も動機もいろいろ

妻「メキシコの人は5人家族なんだって。子どもが3人いて、いちばん下の子は生後4週間なんだって」
僕「仕事は何してんの」
妻「いまは仕事がないみたい」
僕「どこに住んでんの」
妻「近所のアパート。同郷のメキシコ人が多いって。スペイン語が話せる人が多くていいですね、って言ったら、『もっと英語が話せる環境のほうがいいよ』って」

妻が近所の成人向けカルチャースクールで、外国人を対象にした英語教室に通いだした。
そこで出会ったメキシコ人の35歳くらいの男性の話をしてくれた。

妻が受けている中級コースは、12月中旬までの3ヶ月間、週4日、一日3時間で授業料はわずか20ドルだ。移民の国アメリカでは、地域に根付いた移民支援サービスが整っていると聞いてはいたが、たしかにその通りだった。
このコースでは、30人くらいの外国人が参加しているらしい。
メキシコ、ホンジュラス、エチオピア、ドイツ、中国、インドネシアなど、いろいろな国の人々と出会う機会を得て、妻も楽しんでいるようだ。

英語教室のテキストは36ドル
彼らが英語を学んでいる理由もいろいろ。インドネシアの中年の女性は、娘さんが働いているアメリカに6ヶ月間だけ滞在しているついでに英語の勉強。けっこう英語が上手なメキシコ人の女性は「もっと英語を上達させたいの」。妻は「英語がうまく話せるようになりたいのと、知り合いとかつくるため」というわけで通いだした。

さきほどのメキシコ人の男性に話を戻すと、彼が英語教室に通う理由は「need(必要だから)」と一言で答えたという。趣味の延長か、生活の延長か。「いろんな人生があるんだなあ」と妻も感慨深げに話していた。

ところで、9月16日はメキシコの独立記念日。英語教室の会話練習でも、それぞれの国の祝祭日について話したらしい。
ちょうど、この日は僕が大学に向かう電車の中、新聞が座席に置いてけぼりだったので、手に取って読んだ。スペイン語圏の住民を対象にしたコミュニティ紙のようなものだった。
9月15日はエルサルバドール、グアテマラ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラスの独立記念日であり、メキシコでも独立記念日前夜ということで重要な日だ。
この新聞も、独立記念日に絡めて、これらの国から来た移民の連帯をテーマにした企画紙面を盛り込んでいた。

「この企画紙面は、われわれのルーツを失わないように、その歴史、文化、観光地、郷土料理、祝賀イベントなどを取り上げます。故郷はいつもそこにあり、けして忘れることはありません」(少しだけ意訳)

スペイン語新聞には「ロムニー氏が勝利したら、移民政策改革はないでしょう」とオバマ氏の再選を支持するカリフォルニア州議会議員(民主党)のインタビュー記事も

※この日はアメリカ同時多発テロ「9・11」から、ちょうど11年。大学キャンパスでは、テロ被害者を追悼するため、小さな国旗300本ほどが歩道わきの芝生に立ててあった。

・英語教室の話の続きは、こちら

2012年9月6日木曜日

アメリカ大統領選に見る人種エスニシティ

8月下旬から留学先のロサンゼルスの大学院で授業が始まった。
9月5日、移民研究の授業の冒頭、先生が「昨日の民主党の全国大会を見た人?」と質問した。
「見ました。先日の共和党の全国大会と比べると、まるで別の国のことみたいですね」と答えると、先生は「本当に別の国みたいね」とうなづいた。

全国大会とは、民主・共和の両党が4年に一度の大統領選の候補者をそれぞれ決定する大会のことだ。
2012年は、民主党からは現職バラク・オバマ氏、共和党からは前マサチューセッツ州知事のミット・ロムニー氏が候補者となる。

しかし、同じアメリカ国内で行われていることなのに、なぜ「別の国」なのか。
それは、民主党と共和党、それぞれの全国大会に出席している聴衆がまるで違うからだ。
8月27~30日にあった共和党全国大会では、会場を埋めた聴衆の100%近くが白人だった。
一方、9月4~5日(会期は6日まで)にあった民主党全国大会では、アフリカ系、ラティーノ、アジア系、白人・・・と多様な人種エスニシティを背景とした人々だった。

オバマ氏の再選に向けて応援演説するビル・クリントン元大統領。会場を埋めた聴衆はアメリカ国内のさまざまな人種エスニシティ集団を反映していた=現地テレビ映像より、2012年9月5日撮影

民主党と共和党の違いは、大きな政府/小さな政府の選択、同性婚や中絶の是非など、いろいろあるが、移民の受け入れ方にも違いがある。
正規の入国・滞在資格がないまま、アメリカで生活している非合法移民に対する姿勢もだいぶ異なる。
オバマ大統領は2010年、子どものころに親に連れられて入国した非合法移民の若者に対して、一定の条件で合法化の道を開く通称「ドリーム法案」の成立を目指したが、共和党の反対で法案は成立しなかった。ただし、大人を含めた非合法移民の強制送還の数は、オバマ政権になって増加しており、非合法移民自体を認めているわけではない。

非合法移民の若者をめぐる問題は、大統領選でも、民主党が有権者に支持を訴える一つのポイントとなっている。
9月5日の民主党全国大会で応援演説に立ったクリントン元大統領もこう訴えた。

「子どものころにアメリカに連れてこられたすべての若者に対して、アメリカにおける機会の平等を保証することによって、彼らが軍隊や大学で活躍できる道を開くという、オバマ大統領の判断を正しいと思うなら、あなたたちはバラク・オバマに投票しないといけない」と、ドリーム法案の内容にふれた。

前日9月4日の応援演説には、テキサス州サンアントニオ市の若手市長フリアン・カストロ氏(37)が大抜擢された。「オバマ大統領はドリーマー(ドリーム法案対象者)の若者たちのために行動を起こした」とオバマ氏の政策を支持。非合法移民の若者にはメキシコ出身者が多いが、メキシコ移民三世のカストロ氏をこうした大舞台に呼んだことも、中南米出身の移民(ラティーノ)に対する民主党の姿勢をはっきりと示している。
もちろん、共和党員のラティーノもいるし、こうした姿勢が民主党の得票率の上昇にそのままつながるわけはないが、民主党の戦略としてはわかりやすい。

応援演説に大抜擢されたメキシコ移民三世のフリアン・カストロ市長=現地テレビ映像より、2012年9月4日撮影

社会学者ダグラス・マシーらの調査によると、特に2000年以降、アメリカでは伝統的な移民受入州であったカリフォルニア、ニューヨーク、テキサス、フロリダ、イリノイの各州だけでなく、それまで移民受入州ではなかったジョージア州やノースカロライナ州などでもラティーノが増加傾向にあるという。

アメリカは2008年、アフリカ系としては初めてのオバマ氏を大統領に選んだ。当時、新聞記者だった僕は赴任していた県で、県内在住のアメリカ人にオバマ氏当選の感想を聞いてまわった。ある女性は「アメリカがやっとアメリカになった」と涙していた。
アメリカでは、ラティーノを中心に人種エスニシティの多様性が広がっていく。それは、将来の大統領選に何かしらの変化を与えることになるだろう。

明日はオバマ大統領の指名受諾演説が予定されている。
(非合法移民の若者たちについての言及はコメントに収録)

2012年9月1日土曜日

非合法移民の運転免許、働く若者たちへ

カリフォルニア州では、仕事に行くにも買い物に行くにも、車がないと生活しにくい。
というわけで、車を買って、自動車保険に加入した。
運転免許については、現在は仮免だが、スムーズにいけば9月中には本免がとれるはずだ。

ちょうど8月、カリフォルニア州議会が非合法移民でも運転免許をとることができる法案を承認した。
アメリカに滞在する資格がないのに、運転する資格はあるというのはどういうことなのか。


ロサンゼルスのダウンタウンを貫く高速道路=2012年7月撮影

アメリカ国内に約1150万人暮らしている非合法移民は強制送還の対象だが、その多くがアメリカ経済を底辺で支える低賃金労働者だ。
とくに非合法移民が多いカリフォルニア州。アメリカ市民や合法移民(広い意味で留学生の僕も含む)と同じように、この地で働く非合法移民にとっても車は欠かせない。

気鋭のネット新聞The Huffington Postなどによると、このカリフォルニア州の法案の背景には二つの要素があるという。

一つは、オバマ大統領の非合法移民関連政策だ。
オバマ大統領は、16歳以下のときにアメリカに入国し、現在30歳以下の非合法移民の若者に限って、正式に労働を許可し、強制送還も控えるという政策を行っている。カリフォルニア州の法案の対象者は、このオバマ政策の対象者ということになっている。

もう一つの理由は、交通安全対策だ。
非合法移民が免許を取得する過程で、交通ルールを知り、自動車保険に加入するようになれば、重大な交通事故を未然に防ぐことができる。このように、ロサンゼルス市長を含めた法案支持者は説明している。アメリカでは、死亡事故の5件に1件は、無免許ドライバーによるものらしい。

後者の理由は、入国管理の問題と交通安全の問題を切り分けることで、政治家が反「不法移民」の有権者の批判を避ける狙いもあるだろう。
重要なのは前者の理由。幼いころ、親とともにアメリカに「不法」に入国した若者たちが、アメリカの市民権はないものの、実質的にはアメリカ人として成長して、アメリカで働いているという現実が、こうした法案を後押ししている。

労働者であるということ、子どもである(であった)ということの二つが重なったとき、そうした人々の現実はいつも力強い。

・The Huffington Postの関連記事は、こちら
・NBC Latinoの関連記事は、こちら

2012年8月22日水曜日

「アメリカンチーズ」とは何か

サンドイッチなどに挟んで食べようと、スライス状の「アメリカンチーズ」を買った。
8センチ四方24枚入り。マクドナルドのチーズバーガーのそれのように黄色い。。
数あるチーズの中でこのチーズを選んだ理由は「アメリカに住むんだから、アメリカンチーズで」、また「そもそもアメリカンチーズってどんなチーズや」と思ったからだ。

日本ではプロセスチーズとして知られている「アメリカンチーズ」

調べてみると、日本でいうプロセスチーズのことだった。
広辞苑には「数種のナチュラル‐チーズを原料にし、それを混合・加熱・溶解して作る加工チーズ」とある。
それがアメリカではかなり普及したため、それを「アメリカンチーズ」と呼ぶようになったという。

それはそうとして、「数種のナチュラルチーズを原料に、それを混合・加熱・溶解して・・・」というのは、ある意味では、この国の文化を象徴したような表現だ。
アメリカンチーズならぬ、アメリカンカルチャーも、地域によってかなり異なるものの、なにか一つの民族集団のそれではなく、移民が持ち込んだ数多くの文化を原料に、それが混ぜ合わさっていたり、必ずしも混ぜ合わさってなくても、混在したりしてできている。

しかし、だからといって、アメリカの文化は「ナチュラルではない」というわけではない。
そもそも、ナチュラルな文化なんてないんじゃないだろうか。
僕らが「ナチュラル」もしくは「トラディッショナル(伝統的)」と思い込んでる文化も、さまざまな要素が長い年月をかけて影響しあって生まれている。
それはチーズもしかり。ナチュラルチーズ自体、いろいろな栄養素に分解できるし、そもそも人間の手が加わっており、ナチュラルというより、アーティフィッシャル(人工的)なものといえるだろう。逆に、プロセスチーズであろうが、化学調味料まみれであろうが、宇宙から見下ろした地球上で起きていることと考えれば、すべてナチュラルだ。

そう考えると、アメリカの文化はナチュラルなプロセスカルチャーともいえる。同じように、アジアやヨーロッパの文化は、プロセス済みで現在も日々プロセスされているが、それを抱える人たちがナチュラルと思い込んでいるカルチャーともいえる。

だからこそ、アメリカンチーズはとても味わい深い。

2012年8月14日火曜日

ガロンの牛乳、異なる基準で飲む

ヤード、ポンド、ガロン・・・アメリカはヤード・ポンド法で、長さや重さをはかる。日本などメートル法を使っている国から来た人にはとてもわかりにくい。ただ、1ガロン(3.78リットル)単位のプラスチックボトルに入った牛乳を見ると、いよいよアメリカで暮らすんだ、というわくわくしたような気持ちになる。

牛乳は1ガロンで3.5ドル前後と日本より安い

ロサンゼルスのアパートにたどり着き、最初の朝食は、そんなボトルから注いだ牛乳とクリームチーズをぬったベーグルだった。クリームチーズは、12オンス(340グラム)入り。

しばらくすると、アパートの扉などの修理に、メキシコ人とホンジュラス系アメリカ人の男性二人がやってきた。冷蔵庫に12オンス(355ミリリットル)入り缶のコカコーラを冷やしていたので、修理を終えた二人に手渡した。今後も必要に応じて、部屋の修理をしてくれるようだ。

クリームチーズのケースには「12oz (340g)」、コーラの缶には「12oz (355ml)」とある。オンスは、質量も液量もはかれるらしい。

というようなことを考えながら、プリンター用の印刷用紙を買いに出かけた。すぐ近くのスーパーで、A4サイズらしき用紙500枚を買った。
帰宅して、さっそくA4用紙トレーに紙を入れようとしたが、おさまらない。アメリカの標準的な印刷用紙はレターサイズで、A4に比べて、幅が5.9ミリ長い215.9ミリ、高さが17.6ミリ短い279.4ミリらしい。一見、中途半端な長さだが、こちらの単位でいえば、幅8.5インチ、高さ11インチということで切りがいい。

外国で暮らすためには、外国語だけでなく、「外国単位」にも慣れないといけない。おそらく異なるものは、言語や単位に限らない。その社会のさまざまな基準が異なる。ある国から別の国に移動した人々は、そうした基準の違いに気づきやすい。基準の違いは、観光客にとってはしばしば楽しく、移住者にとってはときに苦しい。

僕の生活に話を戻す。毎回、こちらの単位を日本の単位に換算して理解するのはめんどうだ。きっと、ガロンの牛乳のように、そのボトルを見たとき、また、持ち上げたときの感覚を通して、その単位がどの程度のものなのかつかみたい。

2012年8月6日月曜日

アメリカ入国審査、「自由」の国の緊張感

映画「ゴッド・ファーザー Part II」では、主人公マイケル・コルレオーネの父ヴィトが20世紀初頭の少年時代、ニューヨークのエリス島で入国審査を受ける場面がある。身寄りのないイタリア人少年ヴィトは、どうにか入管職員に名前を伝え、健康診断を受けた後、無事に入国を果たす。彼の「ファミリー」の物語はここから始まる。

その映画を航空機内で見た僕は、2012年8月、サンフランシスコ国際空港で入国審査を受け、留学生活をスタートさせた。ヴィトの時代とちがって、アメリカには飛行機で簡単にいけるものの、パスポート、ビザ、その他関連書類、指紋読取、顔写真撮影…と審査の手続き(これらの書類を準備する手間を含め)はより複雑だ。

ただ、こうした書類は事前にアメリカ政府機関などのチェックを受けているため、実際の審査では「渡米の目的は」「どのくらいの期間」「どこの大学で勉強するのか」「現金はいくらあるか」と基本的なことしか質問されない。最後は「Good luck, sir」の一言でパスポートを返してもらい、無事に入国することができた。

それでも、アメリカの入国審査にはちょっとした緊張感がある。とくに19世紀末ごろから今日まで、多くの人々が、この「自由」の国に入国したいと強く願い、実際に入国してきた一方で、この国は何らかの基準で一定の人々の入国を厳格に拒み続けてきた。日本人も1965年まで原則的にアメリカに入国できなかった。

たしかに、アメリカに到着し、入国審査のために列をなす人々を眺めていると、外見も言葉も本当にさまざまだ。100年を超す、こうした景色の連続が、アメリカの入国審査になんらかの緊張感を与えているのかもしれない。


移民の国で移民の歴史を勉強する。ネットがあるから、アメリカにいても、日本にいても、一般的な情報はだいたい同じくらい手に入る。そんな時代に留学するのだから、ネットで手に入らない、アメリカ生活のなかで垣間見られたり、にじみ出てきたりする歴史にできるだけふれたい。そのために、できるだけ歩きたい。面白いことがあれば、またここで紹介したいと思う。

2012年7月8日日曜日

エスニック料理店と多言語サービス

ロサンゼルスのダウンタウン。Broadwayと4th Streetの交差点近くに「PANDA KING」という安い中華料理店がある。
タコスとハンバーガーだけでは、どうしても胃の落ち着きがわるいので、旅行先では中華料理がありがたい。味付けはアメリカ風だが、焼き飯、焼きそば、一品の3.28ドルセットで、おなかいっぱいになれる。

店を仕切るのは、上海出身の中国人夫妻。客席では、小学生の息子がおもちゃで遊んでいる。アフリカ系やラティーノ、アジア系の客がぼちぼち入ってくる。
夫妻は、子どもと中国語で話し、客に英語で対応する。ロサンゼルスでは珍しくないエスニック料理店の姿だ。

この店は中に入ると、南側の壁が一部取り払われており、隣のメキシコ料理店「TACO DON CARLOS(カルロスさんのタコス)」と内側でつながっていた。まあ、そういう設計もあるだろうし、どっちの料理も食べられるのでわるくはない。
すると、中華料理店のお父さんが隣の店に入っていった。メキシコ料理店の店員とちょっと話でもするのかな、と眺めていると、そのまま注文カウンターの内側に入って、ラティーノが中心の客に対してスペイン語で接客を始めた。
「Para aqui?(店内で食べますか)」と発音もなかなかいい。
つまり、ここは中華料理とメキシコ料理の別々の店ではなく、同じ中国人が経営する一つの店だったわけだ。お父さんによると、彼らはここで20年商売をしているらしい。メキシコ料理もスペイン語もここで生活するなかで覚えていったという。


中華料理店「PANDA KING」(左)とメキシコ料理店「TACO DON CARLOS」(右)は同じ中国人が経営している=ロサンゼルス・ダウンタウン、4日撮影
ここダウンタウンでは道行く人のほとんどがスペイン語を話している、とさえ感じる。低価格でボリュームある食事を求めて店内に入ってくるラティーノが顧客であれば、それにあわせて、スペイン語で接客することは、必要性と実益性を兼ね備えた行動といえる。そして、言語だけでなく、メキシコ料理まで扱ってしまう中国人移民はたくましい。

近くのグランド・セントラル市場のペルシャ料理店のおばさんも、店内ではペルシャ語を話しつつ、ラティーノの客に対してはスペイン語で接客していた。友人の話では、韓国系住民が多く暮らすコリアタウンでは、韓国系の客が多いため、韓国系食料品で働くラティーノがハングルを覚えてしまうという。

ここロサンゼルスでは、消費者の多くがスペイン語が母語としている。局地的にコリアタウンではハングルが母語の人も多い。そうして消費者が求める新たなサービスが生まれ、それがこの町の多言語化(スペイン語化、ハングル化)をさらに促進しているようだ。
その国や地域の人々がどのような言語を話すのか。上からの政策と下からの日常にもまれて、単一の言語が普及したり、多言語化が進んだりしていく。

2012年7月4日水曜日

独立記念日2日前、多様につながるロサンゼルス

2日午前11時、ロサンゼルス国際空港に到着した。今回の渡米目的は、8月から暮らすアパートの準備だ。さっそくタクシーでアパートに向かう。

運転手さんはアルメニア人男性。40歳のときに渡米し、20年がたつという。
「ジャパニーズやコリアンもそうだと思うけど、アルメニアンにとっても家族が何よりも大切。私も子どもらのためにずっと働いてきた」と運転手さん。子どもは大学も卒業したという。

アパートに到着。50代後半だろう管理会社の女性マネジャーは、「いつかドイツに住んでみたいの、半年くらい。ドイツには一度も行ったことがないんだけど、私の祖父母がドイツ出身だから」とさりげなく自身のルーツについて話す。

アパートを下見した後、その女性がホテルまで車で送ってくれた。ホテルの受付は、中国か台湾か韓国か東アジア系のお兄ちゃん。その他の従業員はほとんど、スペイン語が話せるラティーノだ。というわけで、このお兄ちゃんもスペイン語が話せる。

ホテルで一休みしてから、近くの携帯電話店でプリペイド携帯を入手。通話さえできれば機能や恰好にはこだわらないので、安い機種をいくつか眺めていると、アフリカ系の若い男性客が「こっちのほうがいいよ」と一言くれる。「たしかに、こっちのほうがかっこいいね」と返事して、30ドルの携帯電話を買った。同時に通話料金100ドルを前払いすれば、1年間はほどほどに使える。


この日の昼ごはんは一皿2.5ドルのチキンタコス。このタコス屋があるグランド・セントラル市場は、1917年からダウンタウンの人々の胃袋を支えている=ロサンゼルス、2日撮影

こちらで会う予定の日本の留学生にさっそく新しい携帯番号を知らせた。

国と地域でいえば、アルメニア→ドイツ→東アジア→ラテンアメリカ→アフリカ系→日本、につながる人々と、半日の間に、何かしらのコミュニケーションを持った。

さきほどの女性マネージャーは「勉強で忙しいでしょうけど、ディズニーランドに行ったほうがいいわよ」とすすめる。それもいい。
けど、僕にとっては、むしろディズニーランドの外側のほうが刺激的なようだ。
7月4日はアメリカ独立記念日。ロサンゼルスでも花火大会などいろいろな催しが予定されている。アメリカに暮らす人々の間でも、この「独立」をどう考えるのかさまざまだろう。
そうだとしても、さまざまな人々を「アメリカ」に結びつける、もしくは、結びつけようとする一年に一度の象徴的な日であるにはちがいない。

2012年6月27日水曜日

「アメリカ人とは」、1150万人の問いかけ

2012625日号のタイム誌の表紙には、暗がりの中、カメラ目線でたたずむ30人ほどの若者たちが写っている。
WE ARE AMERICANS*」というコピーの下、「*Just not legally」と添えられている。

彼らの多くは、幼いころにビザなどの合法的書類がないまま、家族とともにアメリカに入国し、そのまま「アメリカ人」として育った若者たちだ。ただ、彼らが「*Just not legally」というように、法律的には「アメリカ人」ではない。
そんな彼らはしばしば「illegal aliens(不法移民)」と呼ばれてきた。
しかし、この呼称は犯罪性を示唆するネガティブな響きが強いため、現在は「undocumented immigrants(便宜的訳語:非合法移民)」と呼ばれることも一般的になってきた。

アメリカでは現在、このような非合法移民が約1150万人いるという。
すでに社会の一部であり、彼らの労働力がないと成り立たない産業も少なくない。そして、もちろん、その中には多くの若者も含まれている。「不法移民」である限り、見ず知らずの「母国」へ強制送還される心配は尽きないし、教育や就職で不利益を被ることも多い。

「アメリカ国籍じゃないなら、アメリカ人じゃないでしょ」と思う人もいるだろう。けど、アメリカで育ち、アメリカの言葉を話し、アメリカにしか友達がいない人たちを外国人として扱うこともまた不自然だ。この記事は、非合法移民の若者たちが写真付で「カミングアウト」することで、「アメリカ人とは」と読者に問いかけている。

この特集記事が掲載された背景には、一人のジャーナリストの挑戦があった。
ホゼ・アントニオ・バルガス、31歳。ワシントンポストなどで活躍し、アメリカ・ジャーナリズムにおける最高の賞であるピューリッツァー賞も受賞した優秀な記者だ。
実は、そんな彼も非合法移民の一人。12歳のとき、フィリピンからカリフォルニア州に渡り、祖父母のもとで育つ。16歳で運転免許証を申請したとき、それまで本物と思っていた自分の永住権証明書(グリーンカード)が偽物だと、免許事務所の職員に指摘され、はじめて自分の置かれた状況が分かったという。

「アメリカ人」の意味について語るホゼ・アントニオ・バルガス(写真は、彼が立ち上げた団体「Define American」のサイトhttp://www.defineamerican.com/より)

同じ状況におかれた人々がカミングアウトしていくことで、「不法」というネガティブで偏ったイメージが壊れていく。その結果、社会は彼らの状況を理解しはじめ、むしろ彼らを同じ国に生きる仲間として守るようにさえなる。ホセの挑戦には、そのような信念が込められている。

この特集記事を読んで最も印象的だったのが、ホゼのジャーナリストとしての切り口の鋭さだ。「結局、アメリカという国は私たちをどうしたいんだ」という本質的な問題に、体当たり的でありながらもスマートな取材を通して迫っていくところは、ここで細かく書いては味気ないので、ぜひ一読していただきたい。

もちろん、「〇〇人とは」という問いかけは、日本を含め、あらゆる国や地域に住む人々への問いかけでもある。