2012年12月18日火曜日

二つの国家の間で、マンザナール収容所、日系人の歴史

第二次世界大戦中、アメリカ西海岸に住む日本人移民、そして、その子どもらで日本に祖先を持つ日系アメリカ人ら約12万人(以下、日系人)は、「敵性外国人(enemy alien)」として、アメリカ本土内陸部の計10ヶ所の収容所に送られた。
アメリカ政府当局は当時、「転住所(Relocation Center)」と呼んだが、収容された人々は「収容所」「強制収容所」などと呼んでいる。

その一つで、約1万人が過ごしたマンザナール収容所跡を訪ねた。

ロサンゼルス中心部を午前9時に出発。高速道路を北東に2時間ほど走ると、あたりは何もない荒野に。
ちょうどモハベ砂漠の西端にあたるのだろうか、乾いた大地に生えている植物の葉は、みずみずしい緑色ではなく、枯れているようなうすい黄色だった。サボテンも点々と。それ以外はほとんど何も見当たらない。

道中の高速道路14号は、レッド・ロック・キャニオン州立公園を通る。約1000万年前の湖底が隆起して風化した地形らしい。

道中には、真夏には避暑地として人が集まるのだろうか、馬や牛のいる牧場やキャンプ場などがある地域もあったが、基本的には何もない乾いたアメリカ大陸の素顔の上を僕らの車は走っていく。

出発から4時間ほど運転して、ようやくマンザナール収容所跡に到着した。

案内センター前の駐車場で、車から降りて、ぐるっとあたりを見回した。ちょうどここは大きな二つの山脈の間に位置する。東側のイニョー山脈は、茶色く土っぽい山肌。西側のシエラネバダ山脈は、ごつごつした灰色の岩肌に雪が積もっている。やはり、それ以外は何もない。荒涼としているが、とくにシエラネバダ山脈のウィリアムソン山(標高4386メートル)の荘厳な姿はしばし見とれてしまうほどだ。同じカリフォルニア州内だが、気温は10度以下まで下がる。

マンザナール収容所跡の東側に見えるイニョー山脈

ちょうど70年前、太平洋岸の温暖な地域から、ここに強制的に連れてこられた人たちは、初めてこの景色を見たとき、僕らのように景色を楽しむ余裕はないままに、名も知らぬ、遠い場所に連れてこられたのだ、と実感させられことだろう。

まずは、案内センター内に入って、マンザナール収容所について22分間の映画を見た。
日本人移民の開始、第二次世界大戦、強制収容、日系人青年の米軍での活躍、戦後補償などが、当時、ここに収容された人々の声を通して紹介されている。

収容された日系人は、部屋を区切る板がなくプライバシーが守れないバラック小屋に住まわされ、食事は大食堂で食べた。
収容所内には病院や学校、野球場、劇場なども建てられ、ある程度の文化的な生活も送ることができた。
しかし、それらも強制収容による自由の否定という前提になりたった生活だった。

再現されたバラック小屋
収容者の3分の2は、アメリカ生まれのアメリカ市民だった。
彼らは日本人の血を引いているという理由で、アメリカ市民としての自由を奪われたことになる。
映画の中で、ある男性は「(収容所内学校の)先生たちもこういう環境で、『民主主義』について教えるのはたいへんだっただろうね」とふり返っていた。

上映室を出ると、米軍に志願して功績をあげた日系人の写真と紹介文をのせたパネル20枚ほどが載っていた。
いちばん真ん中の写真は、ハワイ出身のダニエル・イノウエ氏。日系アメリカ人として最初の下院、および上院議員となった人物で、日米関係の強化にも尽力した。

彼自身はハワイ出身で、強制収容の対象ではなかったため、マンザナールと直接関係はないものの、日系人の歴史においては、もっとも重要な人物の一人だ。
なんの因果だろうか、ちょうど僕らがマンザナールを訪ねた翌日の17日、88歳で息を引き取ったという。


案内センターを出た後は、自分の車にのって、収容所跡内を移動し、ところどころで車を降りて見学するという形になっている。
この収容所には、2平方キロメールという広い土地に、バラック小屋504棟が並んでいたらしい。
再現されたバラック小屋や監視塔などもあるが、とくに印象に残ったのは、「日本庭園」跡だった。

収容された日系人らが作った日本庭園跡
収容されていた造園師と草花農家の男性らが、日米の衝突によって強制収容されたという状況にあっても、なにかしら静かで平和な時間が持てますように、という思いを込めて、池と橋、花畑などをそろえた庭を造った。
戦後、日系人が解放されると、庭は強い風によって運ばれた砂や石で埋没してしまったが、造園師の子孫らが2008年に、埋もれた庭を掘り起こしたという。
もちろん、いまは水は流れていないけど、この荒涼とした場所に、緑豊かな庭園をつくりあげた人たちがいたということは感慨深かった。

庭園跡地から、また車にのってしばらくすると、収容者らが1943年に建てた慰霊塔がある。
収容所内では150人がなくなったらしい。慰霊塔の周辺には、少し地面が盛り上がった墓がいまでもいくつか残されている。
慰霊塔の背後では、ウィリアムソン山に太陽が沈もうとしていた。一気に冷えてきた。
マンザナールの歴史は知っていたけど、ここにこないと分からない、乾いたようで神々しい空気の質感があった。それは大きな二つの山脈に挟まれることで、より強く感じられる。

ウィリアムソン山を含むシエラネバダ山脈。山々を背景に、白い慰霊塔が建てられている=2012年12月16日撮影

案内センターには、収容者全員の名前が刻まれたスクリーンが展示されていたが、その背景にも、ウィリアムソン山がシルエットで描かれていた。
くわえて、その山頂部分には、大きくアメリカの国旗の絵も描かれている。

マンザナール収容所跡は、現在、アメリカの自由の在り方を問いかける記念碑となっている。
ただ、これはアメリカ、また日本に限らず、二つの国民国家による衝突が、いやおうなく、その間に置かれた移民に大きな影響を与えるということ、また、そのような状況にあっても、それぞれの移民は生き抜くために行動するということの両面を学ぶうえで、重要な史跡だといえるだろう。

背後のスクリーンには、マンザナールに収容された日系人らの名前が書かれている。真珠湾攻撃と9・11テロ攻撃を重ね合わせた手前のパネルでは、こうした攻撃が、アメリカ市民の自由の侵害につながってはいけないという願いが込められている。

乾いた大地でも、こうした動物が生きているようだ。
・TBSドラマ『99年の愛~Japanese Americans~』は、日本人移民とその子孫らの経験をわかりやすくまとめている。関連サイトは、こちら

0 件のコメント:

コメントを投稿