2015年7月9日木曜日

ナイアガラの滝とインド人観光客、「シブキハ雨ノ如ク」

ニューヨークからシカゴへアムトラック(Amtrack)の列車で向かう。
その途中、一泊してナイアガラの滝を見に行った。たまたま独立記念日の夜に立ち寄ったため、滝で打ち上げられた花火を見ることができた。

アメリカ独立記念日に合わせてナイアガラの滝で開催された花火

ナイアガラの滝はアメリカとカナダの国境と重なり、両国の領土から楽しむことができる。アメリカからカナダに橋を渡って入国し、数時間滞在する観光客も多い。アメリカを出国するゲートを通ると、すぐ右手にアメリカに入国するゲートがあり、入国ゲートには人が並んでいるので、ぼけっとしていると出国した直後に入国のための列に並んでしまいかねない。

ぼけっとしていた僕と妻はその列に並んでしまった。移民局職員から「どっから来たの。カナダで観光してきたんでしょ」と言われたものの、これからカナダで観光するところだったので、意味が分からず、そわそわしていたら「大目に見ます」と通過を許された。施設を出ると、もと来たアメリカ側。他の観光客に間違いを指摘してもらい、ああそうか、ということで、改めてアメリカを出国した。

カナダ側から見たナイアガラの滝(カナダ滝)の様子
アメリカ側から見たナイアガラの滝(アメリカ滝)の様子

ナイアガラの滝は国内外から集まった多くの観光客でにぎわっていた。不思議なくらい南アジア系の家族連れ観光客が多かった。ここはインドかと思うくらい多い。カナダ側の都市トロントには南アジア系移民のコミュニティがあり、そこから来た人もいるんだろうけど、アメリカ側からも多くの南アジア系の人々が足を運んでいる。なんでなんだろうか。

南アジア系の人々に声をかけて聞けばよかったものの、その努力を怠ったので、まったく根拠なくいろいろ考えてみた。インドの人々の間でナイアガラの滝はアメリカ観光の代名詞である可能性はあるけど、それ以上にナイアガラの滝の景色が彼らを引きつける魅力があるんじゃないだろうか。

滝となって落ちていくナイアガラ川の水は感動的に清んでいる。その流れを感じながら、多くのインド人家族が滝周辺の芝生のうえでくつろいでいる。インドの人々が抱く宗教的イメージにナイアガラの滝の姿が重なるんじゃないか。

ネットで「ナイアガラの滝、インド人」と英語で検索すると、僕と同じ疑問を持った人々による質疑応答ページがたくさん出てきた。一時は観光客が減ったナイアガラの滝はインド人が多く来ることで活気を取り戻しているという。2011年にナイアガラの滝を訪ねたインド人のコメントを紹介したサイトがあった。

ナイアガラでインド料理店を営む男性は「(ナイアガラに来ると)ほとんどインドにいるように感じる。これだけインド人が多いので」。観光客の男性は「インド人がアメリカについて話すとき、出てくるのはフロリダ州のオーランドかナイアガラだけですよ」。最後に登場した女性は「川の流れがいいですね。水の音もゆったりで素晴らしいです。その水に触れたくなります。人間はこんなものを作ることはできません」(一部省略)と話していた。

カナダ側から滝の景色を楽しんだ後、アメリカ側に再入国した。カナダを出る際に出国通行料として一人50セント支払う。説明の看板は、英語の他に、フランス語、ドイツ語、そして日本語で書かれていた。今回はほとんど日本人観光客は見なかったけど、きっとかつてはより多くの日本人がナイアガラの滝に足を運んだんだろう。なかばインドに行ったような気分になって、ナイアガラの滝を後にした。

カナダを出国する際には一人50セントの出国通行料を支払う。


ところで、ナイアガラの滝に行く一週間ほど前、1920年代と1930年代にカリフォルニア州内の日本語学校で使われていた日本語の教科書を見つけた。その中にナイアガラの滝について説明する文章があった。
僕らが見た景色がイラストとして描かれ、「梯子ヲ降リレバ瀧ノ音ハ耳ニ聾シ、シブキハ雨ノ如クニ降ル」と説明が添えられている。現在は「エレベーターで降りれば」だけど、およそ100年前の人々と同じ経験を楽しむことができた。

1920年代、1930年代にカリフォルニア州内で使用された日本語の教科書。ナイアガラの滝が紹介されている。

カナダ(左側)とアメリカ(右側)をレインボーブリッジが結ぶ。右手奥の青い建物の中のエレベーターで川辺まで降りると、観光船に乗って間近で滝を見ることができる。

・ナイアガラの滝に来たインド人のコメントについては、こちら

胃腸から考える移民社会、ニューヨークを歩きながら

ニューヨークには世界中から異なる人々が集まり、世界中とつながりながら生きている。他に類を見ない多様性と流動性は、この都市をアメリカの一部というより、それ自体が独立した世界として発展させているように感じる。

そんな雰囲気を楽しもうと意気込んで臨んだ四度目のニューヨーク訪問は、ひどい喉風邪に苦しめられてスタートした。喉の奥が切れたように痛み、熱が出て、6日間滞在の最初の3日間はほとんど機能不全。だけど食べないことには体調も回復しない。そんなとき東アジア料理があって助かった。

初日の夜はホテル近くのコリアタウンへ。ロサンゼルスの巨大なコリアタウンに比べると規模は小さいけどハングルの看板がちらほら。韓国料理店に入って参鶏湯を食べた。17ドルとやたら高かったけど、風邪をひいいた身体にはありがたい。食後は近くの韓国スーパーでショウガ湯の粉を買って帰った。

ニューヨークのコリアタウンにある韓国系スーパー

翌日もふらふら。妻に見つけてもらった中国料理店でワンタン麺を食べた。体調が悪くても喉を通り、胃袋に落ち着く。若干ながら体調が回復してきたその翌日はチャイナタウンに足を運び、広東風カニ炒めを食べて気合を入れた。病気になって東アジアの料理に助けを求めるという経験を通して、自分が東アジア出身であることを強く自覚する。

料理番組ホストのアンソニー・ボーディンも足を運ぶ中国料理店「Hop Kee」で食べた広東風カニ炒め。この量で17ドルとお得。


風邪をひいたため、ニューヨークの魅力であるはずの多様な群衆はストレスのもとで、その中で歩くのは苦痛でしかなかった。その群衆の多くは自分と同じ観光客。観光客の中で観光客のように行動していると、五番街を歩いても、自由の女神を仰いでも、ぐねぐねと何か大きな儀式に参加しているだけで、わざわざこの都市に来る必要性がないんじゃないかという気持ちになる。

ヨーロッパの方角を向いて移民を出迎えた自由の女神。奴隷解放と米仏友好を記念して1886年に完成した女神像は20世紀、ヨーロッパ人移民にとっての自由のシンボルとして愛されていく。

ニューヨークで観光から離れたいと発想が無茶であると理解しつつも、このままぐねぐね過ごしたくないという思いで、プエルトリコ系の人々が多く暮らし、「エル・バーリオ(El Barrio)」とも呼ばれるイーストハーレムに向かった。

地下鉄6号線で北上し、116番街通りを東に歩く。さっそくスペイン語の看板の店が並び、ラテンアメリカでおなじみのタマルを売る屋台も。プエルトリコの国旗を掲げているアパートや車もある。聞こえてくるスペイン語もカリブ海地域のアクセントがあり、ロサンゼルスで聞く中南米系の発音と違って楽しい。

イーストハーレムで出店していたタマルの屋台

しばらく歩くと、寄付された生活雑貨などを安価で売る施設を見つけた。立ち寄った地域住民が高齢の修道女にお金を渡して気に入った商品を持ち帰る。小さな赤いカバンを買った女性に「値段はついているんですか」とスペイン語で聞くと「あるわよ。といっても1ドルとか2ドルとか安いわよ」。

安価な生活雑貨を販売する施設。入り口付近に座り込んでいる高齢の修道女が店を切り盛りしている。

一番街通りを北へ歩くと中学校があり、アフリカ系やラティーノの子どもたちが集まっていた。そこから120番街通りを西に曲がって歩き進めると、1910年代に活躍した黒人指導者マーカス・ガーベイの名前が付いた公園にたどり着いた。多くの子どもたちがバスケットボールやブランコなどを楽しんでいる。マンハッタン中心部と違って、地元住民の時間がゆっくり流れていた。そのまま西へ進み、ハーレム界隈を歩いた。体調もだいぶ良くなってきたように思う。

マーカス・ガーベイ公園では多くの子どもたちがバスケットボールを楽しんでいた。


その晩はニューヨークに住む友人宅を訪ねた。久しぶりの再会を楽しむことができた。

彼は市内の大学で腸内細菌の研究をしている。生まれ育った場所によって、それぞれの人間が持つ腸内細菌が異なるらしい。日本人が海外旅行に行くと食事が変化するので、うんこの質が変わることがあるが、それも腸内細菌と食事の関係によるという。

僕はだいたい海外の食事は何でも食べられる。とはいえ、今回のように風邪をひくと東アジアの料理が食べたくなる。やはり日本から持ってきた腸内細菌の影響だろうか。移民が外国に移り住むとき、その人の身体や願望、知識、技術だけでなく、出身国で培った腸内細菌も国境を超えていく。

胃袋に優しいワンタン麺。アメリカに来てから特に好きになった料理の一つだ。

ただ「移民と細菌」をまとめて語ることは差別の方程式の一つだから注意が必要だ。19世紀終わりのアメリカでは「中国人・日本人がばい菌を持ち込む」という偏見を背景に排外主義的なページ法が成立した。

こうした人種主義的言説の危険性を十分に理解したうえで、科学的に証明しうる腸内細菌と移民社会の関係について考えることは有意義なことのように思われる。移民社会でエスニック料理が発展する背景には、移民集団が共有する腸内細菌の影響もあるのかもしれない。風邪をひいてワンタン麺を食べたり、腸内細菌の専門家である友人と話したりして、今回のニューヨーク訪問は胃腸から移民社会を考える機会にもなった。

ニューヨーク在住の友人が教えてくれたイーストリバーフェリー(East River Ferry)。34番街通りの東端からブルックリンまでニューヨークの景色を楽しみながら移動できる。

2015年6月28日日曜日

ナバホ族居留地で楽しむ絶景、砂漠地帯の観光とファーストフード

ラスベガスとグランドキャニオン周遊3泊4日の旅。ラスベガスで一泊した後はコロラド川が馬蹄形の谷底に流れる絶景ホースシューベント(Horseshoe Bent)に向かった。

アリゾナ州のページという町から車で5分ほどの場所。駐車場から炎天下の砂道を15分ほど歩くと断崖絶壁のホースシューベントを見下ろすことができる。小さな案内板があるだけで、入場料も転落防止柵もない。中国やフランスから多くの観光客が足を運んでおり、それぞれがカメラ撮影に夢中で300メートル下に転落してしまわないか、やや冷や冷やするものの、それだけ臨場感があり、見とれてしまう絶景だ。

馬蹄形の渓谷ホースシューベントを緑に光るコロラド川がゆっくり流れる。

この日はページで一泊。翌日は激しい洪水によって不可思議に浸食された谷であるアンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)に向かった。北米先住民・ナバホ族の居留地内にあり、ナバホ族の若者たちがツアーを組んで案内してくれる。アンテロープ・キャニオンは美しい写真が撮れる場所としても有名で、カメラ撮影ツアーに参加する人も多い。予約確認の際、ナバホ族の男性が「Arigato」と言ってきたので「ナバホの言葉では『ありがとう』はなんて言うんですか」と聞くと、「Ahéhee'」と教えてくれた。

二つある谷の一つ、アッパー・アンテロープ・キャニオンで僕たちが参加したツアーを担当したのは20代の女性シニーさん。谷を歩き進む途中、ところどころで撮影ポイントを親切に教えてくれた。日光の量で谷の側面の色合いが変化し、オレンジや黄色、青色、紫色など色鮮やかな写真を撮影することができる。

ナバホ族の女性シニーさん(右から2人目)の案内でアッパー・アンテロープ・キャニオンに入っていく。
アッパー・アンテロープ・キャニオン内を歩く観光客ら

ゆっくり谷を歩き、出口に出た。振り返ると、谷の出口の上部に白い鳥の糞のようなものがへばりついていた。シニーさんに聞くと「フクロウの巣です。ナバホの人はこの谷を『フクロウの家(Owl's Home)』と呼んでいます」。一日に2千人の観光客が訪れるというアッパー・アンテロープ・キャニオン。フクロウも落ち着かないだろけど、こんな乾いた場所も動物の棲家になっていることは印象的だった。

次はロウワー・アンテロープ・キャニオンに向かう。こちらは足場が悪いが、より幻想的な形状の谷を楽しむことができる。日光の加減を意識しつつ、写真撮影に力が入った。肉眼でも満足いく自然美だけど、カメラを通して肉眼では捉えきれない鮮やかな風景を切り取ることができた。

ロウワー・アンテロープ・キャニオンには階段を使って降りていく。1997年には鉄砲水によって洪水が起き、谷を散策していた観光客ら11人が死亡する事故が起きた。
幻想的なロウワー・アンテロープ・キャニオンを進む観光客ら

ロウワー・アンテロープ・キャニオンでは、カメラの撮影位置に注意すると、複数の色が鮮やかな谷間の側面を撮影することができる。

ロウワー・アンテロープ・キャニオンの谷間から這い出てくる観光客ら


こうした絶景巡りと同じくらい興味深かったのが、ページの町で垣間見たナバホ族の人々の生活だ。

ページの町は、ダム建設労働者の町として1957年、もともとナバホ族居留地内にあった土地に建設され、アメリカ国内でも比較的新しい自治体の一つ。ナバホ居留地に囲まれており、その人口7,291人(2010年)の34%がナバホ族を中心とした先住民だ。

気温が摂氏40度を超える砂漠地帯を車で切り抜けて、ポツンと現れたページの町にたどり着くと、おなじみのマクドナルドが待っている。その隣には大型食料品店のウォルマート。ウォールマートに入ると、ロサンゼルスと同じ商品がずらっと並んでおり、ナバホ族の店員が働き、ナバホ族の客が商品を買う。


ウォルマートに買い物に来たナバホ族の祖母(右)、母、娘

こうした遠隔地で食料を安価で提供するには、大量生産・大量輸送のネットワークが必要で、その意味ではマクドナルドやウォルマートのような大企業は地域の食糧インフラを支えていると考えることもできるだろう。

しかし、現実はそれほど単純ではない。今年5月のNPRの報道によると、こうした大企業が販売するファーストフードの影響で、ナバホ族の3人に1人が糖尿病に苦しんでおり、全米平均の3倍の発症率という。そこでナバホ族自治政府は、糖尿病につながるようなファーストフードや炭酸飲料に新たな税金を課す法律を可決した。ナバホ族の半数は無職であるため、より健康的で値段の高い食料を買う経済的な余裕がないという課題が残っているものの、ナバホ族自治政府はファーストフード税の税収で農園事業などを支援していく方針という。

たしかに、ページの町で見たナバホ族は肥満傾向の人たちが多かった。マクドナルド、タコベル、サブウェイ…。マクドナルド好きな僕を含めて、多くの人は安くて美味しいので食べてしまう。ただ、食生活の選択肢がそうしたファーストフード店に限定されていった場合、遠隔地で暮らすナバホ族のように深刻な健康問題が生じる。おそらくファーストフードを販売する大企業が撤退することはないだろう。ナバホ族のファーストフード税がどのように機能するのか注目していきたい。

ウォルマート内のサブウェイ。僕がいた時間は客の8割はナバホ族の人々だった。
ホースシューベントとアンテロープ・キャニオンの旅は、アメリカ留学して初めて北米先住民の生活のごく一部を垣間見る時間になった。強制移住や虐殺などの歴史的悲劇を経験してきた先住民が、アメリカ社会でどのように部族文化を守りつつ、現代的に暮らしているのか理解を少しだけ深めることができた。

ページの人口は、こちら
ナバホ族内のファーストフード問題については、こちら

ラスベガスの華やかさ、陰で支える非合法移民

ラスベガスとグランドキャニオン周辺を巡る3泊4日の旅に妻と出かけた。

カジノやショーなどの娯楽産業が代名詞のラスベガスにはロサンゼルスから飛行機で50分ほど。現地の空港内にはスロットマシーンがずらっと並んで観光客を出迎える。空港から専用バスに乗って巨大なレンタカー会社総合ビルに向かった。そこで予約していたセダンタイプの車はドッジ(Dodge)社の赤い車が出てきた。ドッジ兄弟が設立した同社は昨年で創業100周年。自分では絶対に選ばない車種と車両カラーだけど、初めて乗るアメリカ車だから楽しい。

ラスベガス・マッカラン空港内のスロットマシーン

アクセルを踏んで噴水ショーが有名なホテル・べラジオ(Bellagio)へ。一泊一室150ドル程度と高級ホテルとしてはお手頃。カジノ付きのホテルは、ギャンブルで収益を上げるため、ホテル宿泊料が安いと聞いたことがある。ギャンブルに興味のない僕らとしてはありがたい。

とはいえ、ちょっとはカジノを体験したい。ホテル内の大きなカジノで最初に目に入った25セント用のスロットマシーン前に座った。5ドル札紙幣を入れる。スロットを止めるタイミングは機械がコントロールするため、こちらとしては何もできない。どんどん金額が減っていく。やっぱりこんなもんかと思っていたとき、カジノ用のメンバーズカードかクレジットカードを売る女性が近づいてきた。

あきらめ半分でスロットのボタンを適当に押しながら、「けっこうです」とカードの勧誘を断っていると、突然スロットが騒がしくなった。セールスの女性が去ってスロットを確認すると、色違いの「7」が三つ並んでおり、一気に60ドル儲かった。
スロットに座ってものの5分で60ドル。よっしゃ、じゃあ、もう一発いったろか、というギャンブル精神には火はつかず、というか火をつけず、60ドル得したままカジノを後にした。

スロットマシーンに5ドル掛けて60ドル獲得した。

夕食はカジノ付きホテルの特徴である豪華バイキング(Buffet)へ。ラスベガスにとって60ドルは塵のような金額だろうけど、一応60ドル「勝った」ので一人35ドルの夕食も心なしか余裕あり。ステーキやズワイガニなどがずらっと並び見ているだけで楽しくなる。料理の質はそこそこという感じだった。夕食後はギラギラしたショッピングモールを眺めつつ、別ホテル内の劇場でシルクド・ソレイユのショー「KA」を観てから、自分たちのホテルに戻った。

アメリカ国内外から来た多くの観光客でにぎわう中心部。ところどころに売春を斡旋するカードを配る人もいた。


砂漠の真ん中に現れた娯楽の首都ラスベガスはネバダ州を代表する都市だが、その華やかさを陰で支えているのは多くの非合法移民労働者だ。

ピュー・リサーチ・センター(Pew Research Center)の2012年の調べでは、ネバダ州人口に対する非合法移民の比率は7.6%で全米で最も高い。さらに、その労働人口に対する割合は10.2%にも上る。ネバダ州で暮らす子どもの6人に1人は少なくとも一方の親が非合法移民だ。

非合法移民の多くはラティーノ。そうしたラティーノ票を支持基盤の一つとするバラク・オバマ大統領は、非合法移民の合法化を含む移民制度改革を主要課題の一つに掲げており、2014年11月には、その方針を発表する舞台としてラスベガスを選んでいる。

ラスベガスには、夢見心地に余暇を楽しむ世界中の観光客と、それを支える非合法移民が集中している。観光客の可視性と非合法移民の不可視性が、この街の幻想を生み出している。

ホテル・べラジオの噴水ショー

ピュー・ヒスパニック・センターのサイトは、こちら
ウォールストリートジャーナルの関連記事は、こちら

2015年6月26日金曜日

日米間の大学比較、両国の学生が議論

アメリカ人学部生11人を指導教官とともに引率した日本旅行プログラム(前ブログ記事参照)では、都内の私立大学に通う学部生ら約20人と交流する機会もあった。日米両国の学生らは山梨県・山中湖畔の保養施設で2泊3日の合宿に参加。その間、アメリカ人学生はそれぞれの研究テーマについて日本人学生に質問するだけでなく、パワーポイントを使って他の学生の前で調査結果を発表した。

発表会では、日米両国の大学教育の違いについても学生同士で話し合った。
議論の内容を簡単にまとめると、以下のような感じだ。

・ 勉強の厳しさ
日本: 大学に入るための勉強が厳しい。基本的に大学生活は4年間の自由時間。大学の勉強は厳しくない。
アメリカ: 大学に入った後の勉強が厳しい。ただ、大学に入るための勉強も厳しくなりつつある。

・ 大学での専攻
日本: 大学入学時点で専攻がほぼ決まっている。二つ以上の専攻を持つことは珍しい。多くの学生が大学卒業後、専攻と関係のない職業につく。
アメリカ: 大学入学後に主専攻と副専攻を文系理系の縛りなく選べる。大学卒業後の職業に影響することが多い。

・ 学費
日本: アメリカに比べると高くない( 国立大学で年間50万円ほど。私立大学で100万円前後)。
アメリカ: 激烈に高い(年間500万円以上することは珍しくない)。多くの学生が多額のローンを組んで卒業後に返済する。

・ 学生の特徴
日本: 討論中に質問・意見することに慣れていない。
アメリカ: 討論中に質問・意見することに慣れている。討論の授業(Discussion Section)が大学教育に組み込まれている。

・ ギャップイヤー(大学卒業直後に就職せず、自分のやりたいことを自由にする時間)
日本: 一般的ではない。
アメリカ: 社会的に許容されている。

議論で取り上げられなかったものの、以下の項目も付け加えておきたい。

・ 就活
日本: 3年生の後半から説明会などに参加して就職活動(新卒一括採用)。
アメリカ: 3年生からインターンなどに参加して就職活動。大学時代の成績は重要。


アメリカの大学教育では、その学費の高さが明らかに問題である。貧富の差を再生産していく。
一方、入学後に文系理系を超えて複数の専攻を選べるうえ、学部教育が厳しいため、総合的な学問をしっかり身に着ける場所「University」として機能しているように思われる。
例えば、学生の一人は主専攻に生物学と東アジア研究、副専攻に映画学を選んでいる。他の学生は主専攻に数学、副専攻に政治学を選んでいる。

討論で積極的に意見できるかどうかについては、TAとして討論の授業を担当しているので、日米間の違いはよく分かる。アメリカ人学生の中には討論が苦手な学生も少なくないものの、授業が「シーン」となることは少ない。ただ、討論の得意・不得意は、教育制度の違いに加え、文化の違いも影響するので、良い悪いで簡単に判断できるものでもない。
また、日本人であれアメリカ人であれ、大きな教室では静かでも少人数のグループの中では積極的に意見できる学生もいる。ただ、国際舞台で活躍するためには、積極的に質問・意見することは重要であるということは言うまでもない。

では、日本の大学とアメリカの大学はどっちがいいんだろうか。
僕は、両国の学部と大学院にそれぞれ通ったけど、どっちが良いとも悪いともいえない。少なくとも個人的には、日本の大学で享受した比較的に自由な時間を勉強だけでなく、アルバイトや学部交換留学を含めて有意義に使えたように思う。

2015年6月20日土曜日

アメリカ人学生、朝鮮学校を訪問、日本の移民史を学ぶ

5月下旬から6月上旬までの16日間、アメリカ人学部生11人と指導教官とともに日本各地を旅行した。その間、学生らは日本国内のマイノリティやアニメなどについてそれぞれ調べた。
僕は旅程の調整、学生レポートの採点、通訳などを担うティーチング・アシスタント(TA)として参加した。

この日本旅行プログラムは、僕の通っている大学が2010年から始めた事業。東日本大震災が起きた2011年を除き、毎年夏に行われ、今年で5回目。今年は日米両国間でどのような偏見や誤解が生まれ互いの社会に影響を与えてきたのかというテーマをもとに、学生らはロサンゼルスで一週間ほど勉強した後、日本に向かった。

TAの僕は基本的に教える立場で帰国したけど、学生たちや訪問先から学ぶことの方が多かった。


日本国内のマイノリティについて理解を深めるため、東京朝鮮中高級学校を訪問した。まずは授業見学。英語の勉強中の教室に入ると、生徒らが「ハロー、ハロー」と元気に声をかけてくれた。生徒らは、日本語と英語の授業を除き、すべて韓国・朝鮮語を使って学ぶ。アメリカ人学生の一人が「家では何語で話すんですか」と質問すると、案内してくださった副校長先生が「家では日本語です。学校でしっかり使うことで朝鮮語も話せるようになります」と教えてくださった。

その後、副校長先生から朝鮮学校設立の経緯、民族教育の重要性、日本社会における差別また支援などについて話をうかがった。その後、朝鮮学校の生徒4人と懇談。アメリカ人学生のなかにはコリア系女子学生も二人おり、彼女たちは生徒たちと韓国・朝鮮語で話し、他のメンバーには英語に訳して内容を伝えてくれた。

コリア系アメリカ人と在日朝鮮人では歴史的背景がだいぶ異なる。それでも朝鮮半島にルーツのある若者同士、同じ言語を通して一気に互いの距離を縮めていった。

アメリカ人学生らは、朝鮮学校の生徒らが民族文化を守ってきた朝鮮学校を誇りに思っていることや、日本社会や国際社会とつながりながら生活していきたいと考えていることなどについて理解を深めた。

僕にとっても貴重な学びの機会だった。ヘイトスピーチや高校無償化不適用などに見られるように、日本で生まれ育った若者達が差別の対象となっている。国家間の緊張関係が、国内で暮らす移民の子孫に対する差別につながるような昨今の状況では、いくら経済的に発展しても、日本社会はグローバル時代の成熟した社会とはいえないだろう。


この日の夜は日本のコリアタウンを見ようということで、新大久保の焼肉店へ。韓国人店長はコリア系学生と韓国・朝鮮語で話した後、辛ラーメン5パック入りをプレゼントしてくれた。

コリアタウンの焼肉店でサムギョプサルを堪能した。

焼肉店を後にすると、学生らは「ボバ(Boba)を飲みたい」とやたら言い出した。ボバとはいわゆるタピオカ入り飲み物で、ロサンゼルスではどこでも簡単に手に入る。日本ではなかなかすぐに見つからないので「ファミマにおいしいデザートがある」と日本流のやり方で納得してもらった。学生の一人はコンビニのプリンが気に入ったようで、一日に3個買う日もあった。たしかにケーキやパフェなど日本のスイーツの質は高い。僕は牛乳プリンを買って帰り、充実した一日を終えた。

2015年5月30日土曜日

アメリカ人学部生と日本旅行、水田やビルに興奮

この夏学期は指導教官のティーチングアシスタント(TA)として日米両国における外国人やマイノリティに対する偏った認識がどのように生じてきたのか学ぶ学部生向け授業のお手伝いをする。その一環で今日から二週間ほどアメリカ人学部生11人を連れて日本を旅行している。

ロサンゼルスから東京へ。空の長旅で疲れが隠せない様子だった学生たちも、成田エクスプレスの車窓から見える水田や高層ビルといった日本の景色に早速興奮していた。そのまま夕食に何かおいしいものが食べたいという彼らの要望に応えて、ホテル近くの回転寿司店に連れて行った。

ネットでたまたま見つけた全皿150円の店。客がどんどん入っては出ていく。ばらばらに別れて座った学生たちは、粉末緑茶を見て「わさび?」と聞いたり、熱湯の出る蛇口の写真を撮ったりして楽しんでいた。忙しいのに店主が優しく案内してくれたのがよかった。

これから計16日間、日本各地を巡り、日本の移民やマイノリティ、アニメ文化など、それぞれの研究テーマで発表やレポート提出を行う。

ほぼ全員が日本に来るのは初めて。TAとしては日本のことを教える側の立場だけど、日本育ちの僕がふだん感じないようなことを彼らが感じて逆にいろいろ教えてほしい。

彼らの活動は大学のブログで随時紹介される予定だ。

・学生ブログはこちら