2013年1月30日水曜日

アメリカ人の「忠誠心」、血筋や出生地だけでなく

「血筋や生まれ(出生地)だけでなく、建国の理念に対する忠誠心だ」
(What makes someone American is not just blood or birth, but allegiance to our founding principles)

オバマ大統領は29日、移民制度改革に関するスピーチにおいて、ある人がアメリカ人(市民)である条件として、「忠誠心(allegiance)」の重要性をあげた。

今日の世界では、資本、サービス、情報、そして人間が国境を激しく行きかい、かつてのように血筋や出生地で国家のメンバーを決めることの意味が徐々に薄れてきている。そうした世界の変化を、大統領の言葉は象徴しているともいえる。

移民制度改革についてスピーチするオバマ大統領


この地球に新しく生まれた子どもが、アメリカ人であるためには、①アメリカ人の子どもであること、または②アメリカで生まれたこと、が基本的な条件だ(細かい追加条件もある)。
①は血統主義、②は出生地主義といわれている。とくに、アメリカでは歴史的に出生地主義が多くの移民を受け入れる原動力となってきた。
ちなみに日本は血統主義のみ。外国人が日本で子どもを産んでも、その子どもは外国人のままだ。

今日でも、アメリカ国籍(市民権)があれば、将来子どもがアメリカの大学にいくときに有利だろう、などの理由から、出産時にアメリカに滞在する外国人も少なくない。また、かりに親が非合法移民であっても、子どもがアメリカで生まれたら、その子どもはアメリカ市民だ。
この出生地主義は、アメリカ国内に暮らす人々の平等な権利を確保する基盤として重要視されている。

実は、このアメリカの出生地主義。もともとは「忠誠心」と深い関わりがある。


イギリスの植民地だったアメリカが1776年に独立した後、そもそも誰が「アメリカ人」なんだ、という話になった。イギリスと戦った人々は、独立のために命をかけて戦ったんだから、そのままアメリカ人に。しかし、独立後にアメリカに来た外国人はどうしたらアメリカ人になれるのだろうか。

当時のアメリカ国内には、外国人は信用できないから、受け入れは慎重にするべきだという声も強かった。しかし、できたての農業国アメリカが発展するには、マンパワーがないと始まらない。移民受入は新国家の生命線というわけで、外国人がアメリカ市民になるための条件を定めた帰化法が1790年できた。

その条件は第一に「自由な白人」。自由というのは、奴隷などではないということ。そして、「アメリカ国内に2年以上暮らしている」という条件も。さらに1795年の改正で、必要なアメリカ滞在期間は5年に引き伸ばされた。

アメリカ独立宣言は「すべての人は平等」と建国の理念を高らかに宣言しつつも、アメリカ経済を支えていた黒人奴隷にくわえ、白人以外の外国人も「アメリカ人」になることは許されなかった。「自由な白人」という条件が解消されるのは、なんと1952年。アメリカ人になる帰化条件は、162年もの間、かなり人種主義的なものだった。


くわえて、アメリカ人であれ、外国人であれ、アメリカで子どもを産んだ場合、その子どもは何人になるのか、という問題もあった。

ここで出生地主義が関係してくる。つまり、アメリカで生まれたら、誰の子どもでもアメリカ市民。そして、その理由が「アメリカで生まれ育ったなら、アメリカに対して自然と忠誠心があるにちがいない」というものだったわけだ。

そういう意味では、単純にアメリカで生まれたからアメリカ人というのではなく、そういう子どもはアメリカに自然と「忠誠心」があるからアメリカ人というのが、出生地主義の始まりだったわけだ。
ちなみに、この「自然と忠誠心があるにちがいない」という仮定は、イギリス植民地時代の考え方も影響しているらしい。イギリス植民地に生まれたのであれば、生まれながらにして「イギリス臣民」である、と。
その後、出生地主義は、南北戦争(1861~1865年)後に定められた憲法修正第14条に明記されることとなる。

オバマ大統領がアメリカ人の条件を、血筋や出生地だけでなく「忠誠心」も重要だと宣言し、やや新しい時代を感じさせた。しかし、歴史的にはアメリカ人になるためには常に「忠誠心」が問われ続けてきたのだ。

今後、移民制度改革については、アメリカ議会で具体的な議論が始まる。

(スピーチの詳しい内容は、おそらく次回に)
世界中から移民が集まるロサンゼルス=旅客機の窓から、2013年1月10日撮影

2013年1月28日月曜日

ロサンゼルスで、トライリンガルに

ロサンゼルスにある大学院に僕が通っている傍ら、妻は近所にある移民支援の英語教室に通っている。地域のカルチャースクール(こちらでは adult school と呼ばれている)が提供している。

今月から2学期目がスタートした。彼女は前学期(9~12月)に受講していた英語中級(月~木曜・1日3時間)と英会話(金曜・3時間)に引き続き、参加している。

授業料は今学期から少し値上がりした。英語中級と英会話をどちらも受けた場合、授業料は今学期から20ドル値上がりして40ドルになった。といっても、安いのには変わらない。カリフォルニア州の財政が悪化する前は無料だったとのこと。


さらに妻は今学期からは、毎週火曜日、英語教室後に同じカルチャースクールのスペイン語教室(初級)にも参加し始めた。
「ロサンゼルスはスペイン語を話す人が多いから、こっちで仕事を始めたときに使えるかな」と思って挑戦したらしい。

授業料は3月までの授業10回(1回2時間)で125ドルだ。
英語教室に比べると割高だけど、それでも日本国内のスペイン語教室に比べれば、かなり安い。
ちなみに日本国内大手の外国語教室では、スペイン語の授業を計20時間受講した場合、4万円強になる。

スペイン語教室の先生はチリ人男性。生徒は15人くらい。年齢は20~70歳代と幅広く、男女ほぼ半々だ。妻以外の生徒は、英語の流暢さから、アメリカで生まれ育った人が多そうだ。
授業は英語で進められる。

スペイン語の教科書は13ドル。たまたま自習用に事前に買ったテキストが教室の教材と同じだった。

最初の授業で、生徒らはスペイン語の勉強を始めた理由をそれぞれ話した。
「ビジネスで使うので」「スペイン語圏に旅行に行くから」という理由が大半。ある女性は「大学時代はフランス語を勉強していたけど、今はスペイン語が必要だから、スペイン語をやっておくべきだったわ」と話していたらしい。

妻が自己紹介で「日本人です。英語教室にも行ってます」と言うと、先生は「日本語はスペイン語と発音が似ているから覚えやすいかも」と言ってくれた。
たしかに、スペイン語は「一つの子音+一つの母音」のセットで一つの音節をつくることが多く、発音は日本語に近い。
ただ、英語の感覚でアルファベットを読むとひっかかることも。たとえば、「ge」は「ヘ」は「ja」は「ハ」と発音する。
また、「yo」は「ジョ」「ヨ」に聞こえたり、「lla」は「ジャ」「リャ」と聞こえたり。
それでも「基本的には英語より発音は覚えやすい」と妻は話す。

スペイン語は英語のbe動詞にあたる動詞が、「ser」「estar」と二つある。

妻にとっては、スペイン語の授業が英語で進められるので、英語も同時に勉強しているようなもの。次の学期は、スペイン語中級の授業をとれるように、がんばりたいと話している。


このカルチャースクールは、スペイン語の他に、フランス語と、意外にも日本語の教室もある。
スペイン語の授業で、ある生徒が「なんで日本語なんですか」と質問すると、先生は「たぶん日本の経済力が強いからじゃない。でも今なら中国語だよね」と答えた。

日本人の間でも、おそらくスペイン語や中国語を学ぶ人の数は増える傾向にあるだろう。
ロサンゼルスにはスペイン語や中国語を話す移民の人口がものすごく多い。
その意味では、ロサンゼルスは英語とともに、第二外国語を学び、トライリンガル(三ヶ国語を話す人)になるには、とてもいい環境といえるだろう。

2013年1月21日月曜日

番外編・コスタリカの移民労働者、都市部でも増加

コスタリカは中央アメリカに位置する国だ。
人口は約460万人、面積は日本の7分の1、言語はスペイン語、主要な宗教はカトリックだ。
豊かな自然環境や高品質なコーヒー栽培にくわえ、軍隊を持たない国としても知られている。

僕は2000年2月~2001年1月、高校3年生の時期に、この国のオロティナという町で留学生として生活した。
それから13年たった今月上旬、妻と一緒に再訪した。
2004年に一度訪ねて以来、8年ぶり3回目だ。

このブログの番外編として、コスタリカにおける移民労働者について、簡単に書いておきたい。


1月4日午後2時、コスタリカのフアン・サンタ・マリーア国際空港に到着した。
ホストファミリーの両親と18歳の弟が空港まで迎えに来てくれた。

コスタリカのあいさつのキスは、どっちのほっぺだったけな、と忘れかけていたが、お母さんと再会すると、自然と自分の右ほっぺをお母さんの右ほっぺにつけてあいさつできた。
男性同士は握手だけど、女性と男性、女性と女性の場合は、ほっぺをつけて軽く「チュッ」と音を出してあいさつする。

空港近くの首都サンホセの街中を少し散策した。
コスタリカの大手パン店といった懐かしい店にくわえ、2000年当時はなかったジーンズブランド「Levi's」の店舗などもあった。マクドナルドの店舗数もかなり増えているらしい。

サンホセの街中では新しい店も増えてにぎやかだ。かつてはタクシーが列をなして排気ガスだらけの地域もあったが、いまは中心部は歩行者天国になっているという=サンホセ、2013年1月4日撮影


しばらく街中を歩いていると、お父さんがある方向を指さした。
民族衣装のような服を着た先住民系の女性3人が路上に立っていた。
「彼女たちはパナマのインディオで、最近増えているんだよ。農業労働者として来た人もいるんだけど、多くの人は街中でお金を乞うて生活している」

パナマはコスタリカの東どなりの国だ。
僕が留学生だった13年前、パナマの先住民をサンホセの街中で見かけたことは一度もなかった。
今日の世界では、多くの人々は自分の生まれ育った場所で昔ながらの生活がしたくても、外部から安い商品が入って伝統的な産業が廃れて働き口がなくなるなどした結果、賃金労働者として遠い場所へ移動していく。

中央アメリカの土地と最も深い関係にあっただろう彼女たちも、自分たちの祖先が暮らしてきた場所では十分な生活ができなくなり、それでも何かしら生きていこうと、こうしてサンホセの路上に立っているのだろう。

国立劇場前の広場。よくここで日本人留学生と待ち合わせをした=サンホセ、2013年1月1月4日撮影

路上に敷いた布の上に違法コピーしたDVDなどを並べて商売をしている人々もいる。
もちろん路上で無断で商売をするのは違法だから、彼らは警察官が近づいてくると、布ごと商品をくるんで逃げていく。
こうして商売をする人々のほとんどが、コスタリカの北どなりの国から来たニカラグア人だ。
ニカラグア人労働者は1980年代以降、コスタリカ特産のコーヒーやバナナ栽培を支えてきたが、近年は都市部の建設現場などで働くニカラグア人も増えてきているという。
サンホセの街中の公園は、いまでは多くのニカラグア人移民の休憩場所となっている。

サンホセ中心部の公園はニカラグア人移民労働者の休憩場所となっている=サンホセ、2013年1月4日撮影

コスタリカにおけるニカラグア人移民の増加は1980年代の中央アメリカの地域事情もかなり影響していると考えられる。
ニカラグアでは1979年に左翼政権が成立したが、アメリカが軍事介入。さらに混乱がひろがり、それまで中央アメリカでも安定していたニカラグア経済は著しく疲弊した。

一般的に、移民労働者は異なる国の間の経済力の差によって生じる。
アメリカCIAのThe World Factbookによると、2011年の一人当たりのGDPはコスタリカが1万1900ドル(世界100位)に対して、ニカラグアは3200ドル(世界171位)と、両国の差は歴然としている。
中央アメリカ人口センター(Centro Centroamericano de Poblacion)によると、コスタリカで暮らす外国出身者の人数は1984年の約9万人から2000年の約30万人に急増し、そのうち約22万人がニカラグア出身という。

ニカラグア人はコスタリカにおける低賃金労働者として社会的に低く見られる傾向にあり、ニカラグア人のアクセントを真似して冗談にするなど、彼らに対する差別もコスタリカでは根強い。
お父さんに「今でも差別はあるんですか」と聞くと、それは残っているとしたうえで、「彼らは本当に一生懸命に働くよ(son muy trabajadores)」と話していた。

ニカラグア人を中心とした非合法移民を取り締まる移民法が2006年に成立した。
農村でも都市でも外国人の安い労働力に頼りながら、彼らを排除する政治的圧力が強まっている。アメリカで働くメキシコ人を中心としたラテンアメリカ出身移民の状況と重なる。


ロサンゼルスに帰る前に、現地の友人が最高級コーヒー「Café Britt Heritage Blend」をプレゼントしてくれた。
コスタリカに留学して以来、コーヒーは自分の生活には欠かせない飲み物になっているだけに、とてもうれしかった。

ロサンゼルスのアパートに戻って、さっそく飲んでみた。
甘いアロマがふわっと広がり、コーヒー独特の苦みもなぜかフルーティにさえ感じる。
コスタリカ産コーヒーが世界で高く評価されているのも納得できる。
同時に、こうしたコスタリカを代表する商品を支えている移民労働者の姿も頭に浮かんだ。

コスタリカの最高級コーヒー「Café Britt Heritage Blend」。まちがいなし。

2013年1月2日水曜日

124年目の伝統、元旦恒例、ローズパレード

ロサンゼルス生活で最初の年明け。
こちらの住民なら誰でも知っている元旦恒例のパレード「ローズパレード(Rose Parade)」を見に行った。

ローズ・パレードは、毎年1月1日、ロサンゼルス郡パサデナ市で開催されている。
目抜き通り「コロラド通り」の約6キロメートルを、色とりどりの花で飾られたフロート(山車)やマーチングバンドなどが約3時間かけて移動するイベントで、沿道は多くの住民や観光客でいっぱいになる。前夜から場所取りをする人さえいる人気だ。地元テレビ局によると、今年は約70万人が観覧したという。

歴史は1890年にさかのぼる。
当時、この地域に住み始めた住民らが、真冬でも花が咲き乱れ、野外スポーツ観戦も楽しめる、カリフォルニアの魅力を伝えようと、この季節に、寒さが厳しい東海岸の仲間らをパサデナに招いたことがきっかけという。その後、マーチングバンドやフロートによる大規模なパレードに発展し、現在に至る。今年は第124回パレードだ。

パレードは午前8時に始まるので、僕らは午前6時半に自宅アパートを出発。7時半前にパサデナ市に到着し、コロラド通りから1キロほど離れた場所に路上駐車。「15ドル」などの看板をたてた即席有料駐車場もあるが、少し早めにいけば、駐車できる場所も見つかる。コロラド通りまで歩き、パレードがある程度、見えそうな場所を見つけた。

というわけで、写真を使って、様子を紹介する。移民の国ならではフロートや楽団もたくさん登場した。

沿道は早朝から場所取りに来た人たちでいっぱいに。
屋根の上にも観客が。
今年はフロート約40台、マーチングバンドなど楽団約20団体、乗馬の隊列約20団体が参加した。

大手テレビ局も生中継するローズパレード。提供しているのは、日本の自動車会社ホンダだ。ホンダの車やスクーターも通りを何度も行き来した。年末に行ったディズニーランドの特別花火イベントもホンダが提供。西海岸での宣伝にかなり力を入れているようだ。

ローズパレードは前日審査によって、いくつかのフロートが賞を受ける。これはテーマ賞を受賞したフロート。アメリカで長い間、愛され続けている子供向け絵本をモチーフにしている。

朝鮮半島の伝統舞踊と音楽も。この団体はロサンゼルスに拠点を置いているので、韓国系の若者たちによる演奏だろう。

日本からはグリーンバンドという楽団が登場。パレード公式サイトによると、島根県出雲市から来ているという。 

パレード途中で、上空に不思議な飛行物体が。初めて見るステルス機はSF映画の乗り物のようで迫力があった。

インドネシア観光省による観光PRフロート。僕と妻の後ろにいたインドネシア人の若者3人は、ここぞとばかりに「インドネシアーーー!!!」と声援を送っていた。

お次の国は、中央アメリカ・エルサルバドルの楽団。エルサルバドル移民の子どもたちも国旗を一生懸命振っていた。

エルサルバドルの楽団の女性らは、カーニバル衣装で登場。

パレードには全米各地から団体が参加する。ジャズ発祥の地ルイジアナ州ニューオリンズからは、音楽の伝統を継承するために活動している団体「The Roots of Music」が参加した。

メキシコからは50年以上の伝統を持つ楽団が参加して、ユニークなダンスを交えた演奏で観客を楽しませた。

午前11時前にパレードは無事終了。観客が帰り始めたころ、もう一つの団体がやってきた。彼らは住宅ローン負債をめぐって大手銀行に抗議する市民団体。華やかで楽しいパレードの後に、現実に根差した抗議パレードが始まるところがアメリカの魅力でもある。

約3時間のパレードはあっという間に終わった。それぞれのフロートもかなり手の込んだものだったので見ごたえがあった。花の飾り付けの作業は、ボランティア住民らが担っているという。
今回、僕らが車を駐車した場所は、コロラド通りから約1キロメートル南側のLos Robles Avenue沿い。少し歩かないといけないが、早朝に体を温める意味でもちょうどよかった。

2012年12月30日日曜日

買い物を通して見る人種・エスニシティ

ロサンゼルスは世界各地の食材がほとんど手に入る。
旅行者ではなく、アメリカに長期間暮らす移民にとって、慣れ親しんだ出身地の食事を続けることは大切なこと。というわけで、買い物を通して、移民社会の様子も伝わってくる。

僕ら夫婦は、ふだんは近所の一般的なスーパー「VONS」などを利用しているが、だいたい月に2回は韓国系スーパー、1回は日系スーパーに行く。
韓国系スーパーは、和食に使う食材も低価格でたくさん置いてある。

先日、ロサンゼルスに来て初めてのお鍋を食べよう、ということで、韓国系スーパーに買い出しに行った。
白菜、エノキ、大根を買い物かごに入れ、次は長ネギを探していると、ハングルで「파(大葱)」という野菜の商品説明に日本語でも「東京ねぎ」と書かれていた。
見慣れている長ネギ・白ネギよりは、青い部分が長いが、それを購入した。
大根などはキムチに使われるため、ものすごく安い。この日、買った小ぶりの大根は一つで12円くらいだった。

お鍋の味付けは、中国系スーパーで買った鶏ガラスープの素に、しょうゆ、酒、塩を加えて、味を調えたもの。それに骨付きの鶏肉を放り込んだので、多少そこからダシもとれたと思う。
ところで、土鍋はどうしたのか、というと、日系スーパーで20ドルほどで購入。ついでに、ガスボンベも1.5ドルほどで購入し、日本から持ってきたカセットコンロにはめ込んだ。

味は大満足。ロサンゼルスの冬は、夜になると、けっこう寒いので、味だけでなく温かさも楽しめた。


ロサンゼルスで手に入れた道具と食材で作った鳥鍋



韓国系スーパーでは韓国語、中国系スーパーでは中国諸語、日系スーパーでは日本語が聞こえる。それぞれの地域出身の客が集まる。
お店の客層は、その店がどこの国関係の店であるかだけでなく、その店がロサンゼルス市内のどこの地域にあるかでも、だいぶ変わってくる。

たとえば、ロサンゼルス市の西部にあるショッピングモールは、比較的、白人層の多い地域に立地している。僕のアパートの近くにあるので、ときどき足を運ぶが、客層はいろいろなエスニック集団の人々がほぼ偏りなく来ているようだ。ただ、モール内の映画館は、白人が多い印象を受けた。

一方、ロサンゼルス市中心部に近い地域にあるショッピングモールは、アフリカ系やラティーノが多い地域にあり、客層はほぼアフリカ系とラティーノだ。店内には、アフリカ系の人々の趣向に合わせた美容院なども入っている。
先日、そのモールに妻と買い物に行った。クリスマス直後だったので、商品の値段もぐっと下がっていて、いい買い物ができた。

このモールについては、低所得者が多い地域にあることから、人気クチコミサイトで、アフリカ系の地域住民らが賛否両論のコメントを投稿している。一部の人は、この地域を「ゲットー(低所得の人種エスニック集団が集住する地域)」とも呼んでいるらしい。

ある女性は「私はモールの近所で育って、いつもこのモールを『ゲットー・モール』だと思ってきました。理由は、モールが『ゲットー』にあるからじゃなく、テナント、商品、常連客らがすべてかなり『ゲットー』っぽかったから」と一段落目は手厳しい。しかし、モールは近年、新装開店したらしく、彼女も「ウォルマートがモールの質を下げてはいるけど、リモデルはいい感じ」、「今はけっこう好きです」と印象が変わったらしい。とくに、店内のベトナム人女性らによる、ネイルスパがお気に入りらしい。

アジア系移民の商店でいえば、ほかにもインド人店主のおもちゃ屋さん、中国人のマッサージ店などが出店している。アフリカ系の多く暮らす地域で、アジア系移民が商売をするケースが少なくない。

クチコミサイトで、別の女性は「私は自分の町にある、このモールが好きですよ。(モールや地域についての)ステレオタイプはみんな必要ないんじゃないかしら。だって、嫌いなら来なけりゃいいだけでしょ」。このモール付近では盗難が多いという偏見に対しては、「ビバリーヒルズやオレンジカウンティとか、安全と思われている地域でも、盗まれるときは盗まれます。だから、このモールに悪いイメージを持つ必要なんてないわ」と投稿している。

治安面に関しては、ロサンゼルス市警派出所がモールの中に設けられており、付近の安全を守っている。僕らがモールの駐車場に入ると、パトカーが5台ほど目に入ったので一瞬ギョッとした。安心感がある一方で、モール内に派出所があること自体が地域の治安事情を示している
いずれにせよ、このモールがあることは、この地域と他地域の物質面の格差を和らげる効果もあるのだろう。




ベニスビーチ近くの、アボットキニー(Abott Kinney)通りは、個性的な洋服店や小物店が集まっていて、おしゃれな大人が集う場所になっている。
ウィンドウショッピングをしていると、素敵な和風小物店を発見。モダンなデザインの日本の民藝品を豊富に取り揃えている。柳宗理デザインの食器も多く、こだわっているな、と思っていたら、日本人が経営する店だった。
ちょうど妻の故郷・大分県の小鹿田焼(おんたやき)もあり、妻がなつかしがっていた。
僕の好きな鳥取県の中井窯もあるだろうかと探したが、ぱっとは見当たらなかった。

だけど、ちゃんと中井窯の食器はいくつか日本から持ってきた。
買い物を通して、故郷の食材も大事だけど、食器も大事だと感じた。

日本からロサンゼルスに持ってきた鳥取県の民藝品・中井窯の急須と湯呑み

2012年12月18日火曜日

二つの国家の間で、マンザナール収容所、日系人の歴史

第二次世界大戦中、アメリカ西海岸に住む日本人移民、そして、その子どもらで日本に祖先を持つ日系アメリカ人ら約12万人(以下、日系人)は、「敵性外国人(enemy alien)」として、アメリカ本土内陸部の計10ヶ所の収容所に送られた。
アメリカ政府当局は当時、「転住所(Relocation Center)」と呼んだが、収容された人々は「収容所」「強制収容所」などと呼んでいる。

その一つで、約1万人が過ごしたマンザナール収容所跡を訪ねた。

ロサンゼルス中心部を午前9時に出発。高速道路を北東に2時間ほど走ると、あたりは何もない荒野に。
ちょうどモハベ砂漠の西端にあたるのだろうか、乾いた大地に生えている植物の葉は、みずみずしい緑色ではなく、枯れているようなうすい黄色だった。サボテンも点々と。それ以外はほとんど何も見当たらない。

道中の高速道路14号は、レッド・ロック・キャニオン州立公園を通る。約1000万年前の湖底が隆起して風化した地形らしい。

道中には、真夏には避暑地として人が集まるのだろうか、馬や牛のいる牧場やキャンプ場などがある地域もあったが、基本的には何もない乾いたアメリカ大陸の素顔の上を僕らの車は走っていく。

出発から4時間ほど運転して、ようやくマンザナール収容所跡に到着した。

案内センター前の駐車場で、車から降りて、ぐるっとあたりを見回した。ちょうどここは大きな二つの山脈の間に位置する。東側のイニョー山脈は、茶色く土っぽい山肌。西側のシエラネバダ山脈は、ごつごつした灰色の岩肌に雪が積もっている。やはり、それ以外は何もない。荒涼としているが、とくにシエラネバダ山脈のウィリアムソン山(標高4386メートル)の荘厳な姿はしばし見とれてしまうほどだ。同じカリフォルニア州内だが、気温は10度以下まで下がる。

マンザナール収容所跡の東側に見えるイニョー山脈

ちょうど70年前、太平洋岸の温暖な地域から、ここに強制的に連れてこられた人たちは、初めてこの景色を見たとき、僕らのように景色を楽しむ余裕はないままに、名も知らぬ、遠い場所に連れてこられたのだ、と実感させられことだろう。

まずは、案内センター内に入って、マンザナール収容所について22分間の映画を見た。
日本人移民の開始、第二次世界大戦、強制収容、日系人青年の米軍での活躍、戦後補償などが、当時、ここに収容された人々の声を通して紹介されている。

収容された日系人は、部屋を区切る板がなくプライバシーが守れないバラック小屋に住まわされ、食事は大食堂で食べた。
収容所内には病院や学校、野球場、劇場なども建てられ、ある程度の文化的な生活も送ることができた。
しかし、それらも強制収容による自由の否定という前提になりたった生活だった。

再現されたバラック小屋
収容者の3分の2は、アメリカ生まれのアメリカ市民だった。
彼らは日本人の血を引いているという理由で、アメリカ市民としての自由を奪われたことになる。
映画の中で、ある男性は「(収容所内学校の)先生たちもこういう環境で、『民主主義』について教えるのはたいへんだっただろうね」とふり返っていた。

上映室を出ると、米軍に志願して功績をあげた日系人の写真と紹介文をのせたパネル20枚ほどが載っていた。
いちばん真ん中の写真は、ハワイ出身のダニエル・イノウエ氏。日系アメリカ人として最初の下院、および上院議員となった人物で、日米関係の強化にも尽力した。

彼自身はハワイ出身で、強制収容の対象ではなかったため、マンザナールと直接関係はないものの、日系人の歴史においては、もっとも重要な人物の一人だ。
なんの因果だろうか、ちょうど僕らがマンザナールを訪ねた翌日の17日、88歳で息を引き取ったという。


案内センターを出た後は、自分の車にのって、収容所跡内を移動し、ところどころで車を降りて見学するという形になっている。
この収容所には、2平方キロメールという広い土地に、バラック小屋504棟が並んでいたらしい。
再現されたバラック小屋や監視塔などもあるが、とくに印象に残ったのは、「日本庭園」跡だった。

収容された日系人らが作った日本庭園跡
収容されていた造園師と草花農家の男性らが、日米の衝突によって強制収容されたという状況にあっても、なにかしら静かで平和な時間が持てますように、という思いを込めて、池と橋、花畑などをそろえた庭を造った。
戦後、日系人が解放されると、庭は強い風によって運ばれた砂や石で埋没してしまったが、造園師の子孫らが2008年に、埋もれた庭を掘り起こしたという。
もちろん、いまは水は流れていないけど、この荒涼とした場所に、緑豊かな庭園をつくりあげた人たちがいたということは感慨深かった。

庭園跡地から、また車にのってしばらくすると、収容者らが1943年に建てた慰霊塔がある。
収容所内では150人がなくなったらしい。慰霊塔の周辺には、少し地面が盛り上がった墓がいまでもいくつか残されている。
慰霊塔の背後では、ウィリアムソン山に太陽が沈もうとしていた。一気に冷えてきた。
マンザナールの歴史は知っていたけど、ここにこないと分からない、乾いたようで神々しい空気の質感があった。それは大きな二つの山脈に挟まれることで、より強く感じられる。

ウィリアムソン山を含むシエラネバダ山脈。山々を背景に、白い慰霊塔が建てられている=2012年12月16日撮影

案内センターには、収容者全員の名前が刻まれたスクリーンが展示されていたが、その背景にも、ウィリアムソン山がシルエットで描かれていた。
くわえて、その山頂部分には、大きくアメリカの国旗の絵も描かれている。

マンザナール収容所跡は、現在、アメリカの自由の在り方を問いかける記念碑となっている。
ただ、これはアメリカ、また日本に限らず、二つの国民国家による衝突が、いやおうなく、その間に置かれた移民に大きな影響を与えるということ、また、そのような状況にあっても、それぞれの移民は生き抜くために行動するということの両面を学ぶうえで、重要な史跡だといえるだろう。

背後のスクリーンには、マンザナールに収容された日系人らの名前が書かれている。真珠湾攻撃と9・11テロ攻撃を重ね合わせた手前のパネルでは、こうした攻撃が、アメリカ市民の自由の侵害につながってはいけないという願いが込められている。

乾いた大地でも、こうした動物が生きているようだ。
・TBSドラマ『99年の愛~Japanese Americans~』は、日本人移民とその子孫らの経験をわかりやすくまとめている。関連サイトは、こちら

2012年12月15日土曜日

留学生活の息抜き、つながる日本の人・情報

アメリカ大学院留学、最初の学期を無事に終えた。
博士課程の勉強の進め方だけでなく、ロサンゼルスでの暮らし方も一から学んだ4ヶ月半だった。

大学図書館で働く日本人女性の司書さんのご厚意で、図書館関係者の打ち上げパーティーに招待していただいたので、妻とおじゃました。
午後5時半。大学の一角にある素敵な催し会場に入ると、おしゃれに着こなした人たちがたくさん集まっていた。
料理は、アメリカ生活ではおなじみのブッフェ形式だけど、料理の質が高かった。
ぷりっぷりのエビのバター炒めやラビオリは目の前で料理してから、自分の皿に置いてくれる。
サラダには、蒸した芽キャベツやルッコラなど、ふだん家で食べない野菜が並ぶ。
ちょっとリッチな気分で、同じ丸テーブルの席に着いた人たちを話をした。

ブッフェ形式の料理。カボチャとリンゴのスープもおいしかった。

僕らを招待してくれた司書さんを中心に、そのテーブルには自然と日本に関係のある人たちが集まった。
司書さんのだんなさんはアメリカ人の日本研究者で、日本語も堪能。
司書さんの友だちで、この大学の日本人卒業生の女性は、アメリカ人の婚約者と参加。
くわえて、なんと、別の日本人女性の司書さんも、アメリカ人のだんなさんと同席していた。
アメリカの一つの大学に、日本人司書さんが二人もいるというのは、うれしい驚き。日本語の史料も使いながら勉強する身としては、とても心強い。

と思いながら、周りを見回すと、アメリカ以外出身の司書さんは日本人だけに限らないようだ。
韓国出身の50歳代の女性司書さんにもあいさつ。韓国関係の図書を担当しているらしい。

今年3月に3週間、ソウルの大学で韓国語を勉強したので、ここぞとばかりに韓国語で簡単な会話をしていると、「韓国語のの名前は?」と聞かれ、なんのことかわからなかったが、「韓国では日本の名前を使いましたよ」と答えた。「じゃあ、私が韓国語の名前をつけてあげるわ」と言われ、さらにわからなくなったが、「キムとかパクみたいな感じですか」と聞くと、「そうよ」と笑顔で答えてくれた。
どういう名前になるのか分からないけど、とても感じのいいかたで、楽しい会話だった。

妻とぷりぷりエビをおかわり。こちらのエビは日本より安いけど、ふだんの生活ではあまり食べないので、食い意地がでた。


パーティで出会った日本や韓国出身の司書さんらは、東アジア資料室関連の仕事をしている。
この資料室は、図書館の一角にあって、日本、韓国・北朝鮮、中国の参考資料がずらっと並ぶ。
書庫に行くと、日本で出版された書籍が何千冊も収められており、ちょっと日本に帰ったような気持ちになる。同じ書庫には、中国や韓国の書籍も豊富にそろえてある。

資料室には、朝日新聞とジャパンタイムスなど、東アジアの新聞も置いてあり、僕もときより立ち寄る。
朝日新聞は「国際版」で、日本の新聞紙に比べて、やや幅が狭く、縦が長いアメリカの新聞紙に印刷されており、文字の幅がやや狭い感じだが、記事は日本で購読されているものとほぼ変わりない。

この日も、パーティ前に立ち寄った。
アメリカ時間で12月14日だったが、日本の13日までの国際版が置いてあった。

もっぱら16日投開票の衆議院選挙の情報が並ぶ。
日本の情報はネットでいくらでも入るんだけど、こうして紙面をばらばら開いて、ざっと記事を見渡して、ぱっと目に入った見出しから、記事を読んでいくようなリズムは気持ちがいい。

12月上旬の紙面をめくると、話題の人を紹介する「ひと」欄で、日系アメリカ人の経験についてドキュメンタリー映画を撮影した、すずきじゅんいちさんが紹介されていた。幼いころに小学校の体育館で見た映画『マリリンに逢いたい』の監督らしい。
すずきさんは最近までロサンゼルスに住んでいたらしく、その間に知った日系アメリカ人の歴史に心動かされたことがきっかけとなって、日系アメリカ人をテーマにした映画三部作を撮ったらしい。

この日のパーティでは、アニメーション制作経験のある日本人女性にも出会った。映像関係ということで、すずきさんの記事の話をしてみると、なんと彼女もその映画制作に関わっていたという。

いろんな情報にふれるように心がけていれば、いろんな人につながっていく。
最初の学期を終えて、パーティでちょっと息抜き。こういう機会に感謝して、来学期にのぞみたい。