2013年1月2日水曜日

124年目の伝統、元旦恒例、ローズパレード

ロサンゼルス生活で最初の年明け。
こちらの住民なら誰でも知っている元旦恒例のパレード「ローズパレード(Rose Parade)」を見に行った。

ローズ・パレードは、毎年1月1日、ロサンゼルス郡パサデナ市で開催されている。
目抜き通り「コロラド通り」の約6キロメートルを、色とりどりの花で飾られたフロート(山車)やマーチングバンドなどが約3時間かけて移動するイベントで、沿道は多くの住民や観光客でいっぱいになる。前夜から場所取りをする人さえいる人気だ。地元テレビ局によると、今年は約70万人が観覧したという。

歴史は1890年にさかのぼる。
当時、この地域に住み始めた住民らが、真冬でも花が咲き乱れ、野外スポーツ観戦も楽しめる、カリフォルニアの魅力を伝えようと、この季節に、寒さが厳しい東海岸の仲間らをパサデナに招いたことがきっかけという。その後、マーチングバンドやフロートによる大規模なパレードに発展し、現在に至る。今年は第124回パレードだ。

パレードは午前8時に始まるので、僕らは午前6時半に自宅アパートを出発。7時半前にパサデナ市に到着し、コロラド通りから1キロほど離れた場所に路上駐車。「15ドル」などの看板をたてた即席有料駐車場もあるが、少し早めにいけば、駐車できる場所も見つかる。コロラド通りまで歩き、パレードがある程度、見えそうな場所を見つけた。

というわけで、写真を使って、様子を紹介する。移民の国ならではフロートや楽団もたくさん登場した。

沿道は早朝から場所取りに来た人たちでいっぱいに。
屋根の上にも観客が。
今年はフロート約40台、マーチングバンドなど楽団約20団体、乗馬の隊列約20団体が参加した。

大手テレビ局も生中継するローズパレード。提供しているのは、日本の自動車会社ホンダだ。ホンダの車やスクーターも通りを何度も行き来した。年末に行ったディズニーランドの特別花火イベントもホンダが提供。西海岸での宣伝にかなり力を入れているようだ。

ローズパレードは前日審査によって、いくつかのフロートが賞を受ける。これはテーマ賞を受賞したフロート。アメリカで長い間、愛され続けている子供向け絵本をモチーフにしている。

朝鮮半島の伝統舞踊と音楽も。この団体はロサンゼルスに拠点を置いているので、韓国系の若者たちによる演奏だろう。

日本からはグリーンバンドという楽団が登場。パレード公式サイトによると、島根県出雲市から来ているという。 

パレード途中で、上空に不思議な飛行物体が。初めて見るステルス機はSF映画の乗り物のようで迫力があった。

インドネシア観光省による観光PRフロート。僕と妻の後ろにいたインドネシア人の若者3人は、ここぞとばかりに「インドネシアーーー!!!」と声援を送っていた。

お次の国は、中央アメリカ・エルサルバドルの楽団。エルサルバドル移民の子どもたちも国旗を一生懸命振っていた。

エルサルバドルの楽団の女性らは、カーニバル衣装で登場。

パレードには全米各地から団体が参加する。ジャズ発祥の地ルイジアナ州ニューオリンズからは、音楽の伝統を継承するために活動している団体「The Roots of Music」が参加した。

メキシコからは50年以上の伝統を持つ楽団が参加して、ユニークなダンスを交えた演奏で観客を楽しませた。

午前11時前にパレードは無事終了。観客が帰り始めたころ、もう一つの団体がやってきた。彼らは住宅ローン負債をめぐって大手銀行に抗議する市民団体。華やかで楽しいパレードの後に、現実に根差した抗議パレードが始まるところがアメリカの魅力でもある。

約3時間のパレードはあっという間に終わった。それぞれのフロートもかなり手の込んだものだったので見ごたえがあった。花の飾り付けの作業は、ボランティア住民らが担っているという。
今回、僕らが車を駐車した場所は、コロラド通りから約1キロメートル南側のLos Robles Avenue沿い。少し歩かないといけないが、早朝に体を温める意味でもちょうどよかった。

2012年12月30日日曜日

買い物を通して見る人種・エスニシティ

ロサンゼルスは世界各地の食材がほとんど手に入る。
旅行者ではなく、アメリカに長期間暮らす移民にとって、慣れ親しんだ出身地の食事を続けることは大切なこと。というわけで、買い物を通して、移民社会の様子も伝わってくる。

僕ら夫婦は、ふだんは近所の一般的なスーパー「VONS」などを利用しているが、だいたい月に2回は韓国系スーパー、1回は日系スーパーに行く。
韓国系スーパーは、和食に使う食材も低価格でたくさん置いてある。

先日、ロサンゼルスに来て初めてのお鍋を食べよう、ということで、韓国系スーパーに買い出しに行った。
白菜、エノキ、大根を買い物かごに入れ、次は長ネギを探していると、ハングルで「파(大葱)」という野菜の商品説明に日本語でも「東京ねぎ」と書かれていた。
見慣れている長ネギ・白ネギよりは、青い部分が長いが、それを購入した。
大根などはキムチに使われるため、ものすごく安い。この日、買った小ぶりの大根は一つで12円くらいだった。

お鍋の味付けは、中国系スーパーで買った鶏ガラスープの素に、しょうゆ、酒、塩を加えて、味を調えたもの。それに骨付きの鶏肉を放り込んだので、多少そこからダシもとれたと思う。
ところで、土鍋はどうしたのか、というと、日系スーパーで20ドルほどで購入。ついでに、ガスボンベも1.5ドルほどで購入し、日本から持ってきたカセットコンロにはめ込んだ。

味は大満足。ロサンゼルスの冬は、夜になると、けっこう寒いので、味だけでなく温かさも楽しめた。


ロサンゼルスで手に入れた道具と食材で作った鳥鍋



韓国系スーパーでは韓国語、中国系スーパーでは中国諸語、日系スーパーでは日本語が聞こえる。それぞれの地域出身の客が集まる。
お店の客層は、その店がどこの国関係の店であるかだけでなく、その店がロサンゼルス市内のどこの地域にあるかでも、だいぶ変わってくる。

たとえば、ロサンゼルス市の西部にあるショッピングモールは、比較的、白人層の多い地域に立地している。僕のアパートの近くにあるので、ときどき足を運ぶが、客層はいろいろなエスニック集団の人々がほぼ偏りなく来ているようだ。ただ、モール内の映画館は、白人が多い印象を受けた。

一方、ロサンゼルス市中心部に近い地域にあるショッピングモールは、アフリカ系やラティーノが多い地域にあり、客層はほぼアフリカ系とラティーノだ。店内には、アフリカ系の人々の趣向に合わせた美容院なども入っている。
先日、そのモールに妻と買い物に行った。クリスマス直後だったので、商品の値段もぐっと下がっていて、いい買い物ができた。

このモールについては、低所得者が多い地域にあることから、人気クチコミサイトで、アフリカ系の地域住民らが賛否両論のコメントを投稿している。一部の人は、この地域を「ゲットー(低所得の人種エスニック集団が集住する地域)」とも呼んでいるらしい。

ある女性は「私はモールの近所で育って、いつもこのモールを『ゲットー・モール』だと思ってきました。理由は、モールが『ゲットー』にあるからじゃなく、テナント、商品、常連客らがすべてかなり『ゲットー』っぽかったから」と一段落目は手厳しい。しかし、モールは近年、新装開店したらしく、彼女も「ウォルマートがモールの質を下げてはいるけど、リモデルはいい感じ」、「今はけっこう好きです」と印象が変わったらしい。とくに、店内のベトナム人女性らによる、ネイルスパがお気に入りらしい。

アジア系移民の商店でいえば、ほかにもインド人店主のおもちゃ屋さん、中国人のマッサージ店などが出店している。アフリカ系の多く暮らす地域で、アジア系移民が商売をするケースが少なくない。

クチコミサイトで、別の女性は「私は自分の町にある、このモールが好きですよ。(モールや地域についての)ステレオタイプはみんな必要ないんじゃないかしら。だって、嫌いなら来なけりゃいいだけでしょ」。このモール付近では盗難が多いという偏見に対しては、「ビバリーヒルズやオレンジカウンティとか、安全と思われている地域でも、盗まれるときは盗まれます。だから、このモールに悪いイメージを持つ必要なんてないわ」と投稿している。

治安面に関しては、ロサンゼルス市警派出所がモールの中に設けられており、付近の安全を守っている。僕らがモールの駐車場に入ると、パトカーが5台ほど目に入ったので一瞬ギョッとした。安心感がある一方で、モール内に派出所があること自体が地域の治安事情を示している
いずれにせよ、このモールがあることは、この地域と他地域の物質面の格差を和らげる効果もあるのだろう。




ベニスビーチ近くの、アボットキニー(Abott Kinney)通りは、個性的な洋服店や小物店が集まっていて、おしゃれな大人が集う場所になっている。
ウィンドウショッピングをしていると、素敵な和風小物店を発見。モダンなデザインの日本の民藝品を豊富に取り揃えている。柳宗理デザインの食器も多く、こだわっているな、と思っていたら、日本人が経営する店だった。
ちょうど妻の故郷・大分県の小鹿田焼(おんたやき)もあり、妻がなつかしがっていた。
僕の好きな鳥取県の中井窯もあるだろうかと探したが、ぱっとは見当たらなかった。

だけど、ちゃんと中井窯の食器はいくつか日本から持ってきた。
買い物を通して、故郷の食材も大事だけど、食器も大事だと感じた。

日本からロサンゼルスに持ってきた鳥取県の民藝品・中井窯の急須と湯呑み

2012年12月18日火曜日

二つの国家の間で、マンザナール収容所、日系人の歴史

第二次世界大戦中、アメリカ西海岸に住む日本人移民、そして、その子どもらで日本に祖先を持つ日系アメリカ人ら約12万人(以下、日系人)は、「敵性外国人(enemy alien)」として、アメリカ本土内陸部の計10ヶ所の収容所に送られた。
アメリカ政府当局は当時、「転住所(Relocation Center)」と呼んだが、収容された人々は「収容所」「強制収容所」などと呼んでいる。

その一つで、約1万人が過ごしたマンザナール収容所跡を訪ねた。

ロサンゼルス中心部を午前9時に出発。高速道路を北東に2時間ほど走ると、あたりは何もない荒野に。
ちょうどモハベ砂漠の西端にあたるのだろうか、乾いた大地に生えている植物の葉は、みずみずしい緑色ではなく、枯れているようなうすい黄色だった。サボテンも点々と。それ以外はほとんど何も見当たらない。

道中の高速道路14号は、レッド・ロック・キャニオン州立公園を通る。約1000万年前の湖底が隆起して風化した地形らしい。

道中には、真夏には避暑地として人が集まるのだろうか、馬や牛のいる牧場やキャンプ場などがある地域もあったが、基本的には何もない乾いたアメリカ大陸の素顔の上を僕らの車は走っていく。

出発から4時間ほど運転して、ようやくマンザナール収容所跡に到着した。

案内センター前の駐車場で、車から降りて、ぐるっとあたりを見回した。ちょうどここは大きな二つの山脈の間に位置する。東側のイニョー山脈は、茶色く土っぽい山肌。西側のシエラネバダ山脈は、ごつごつした灰色の岩肌に雪が積もっている。やはり、それ以外は何もない。荒涼としているが、とくにシエラネバダ山脈のウィリアムソン山(標高4386メートル)の荘厳な姿はしばし見とれてしまうほどだ。同じカリフォルニア州内だが、気温は10度以下まで下がる。

マンザナール収容所跡の東側に見えるイニョー山脈

ちょうど70年前、太平洋岸の温暖な地域から、ここに強制的に連れてこられた人たちは、初めてこの景色を見たとき、僕らのように景色を楽しむ余裕はないままに、名も知らぬ、遠い場所に連れてこられたのだ、と実感させられことだろう。

まずは、案内センター内に入って、マンザナール収容所について22分間の映画を見た。
日本人移民の開始、第二次世界大戦、強制収容、日系人青年の米軍での活躍、戦後補償などが、当時、ここに収容された人々の声を通して紹介されている。

収容された日系人は、部屋を区切る板がなくプライバシーが守れないバラック小屋に住まわされ、食事は大食堂で食べた。
収容所内には病院や学校、野球場、劇場なども建てられ、ある程度の文化的な生活も送ることができた。
しかし、それらも強制収容による自由の否定という前提になりたった生活だった。

再現されたバラック小屋
収容者の3分の2は、アメリカ生まれのアメリカ市民だった。
彼らは日本人の血を引いているという理由で、アメリカ市民としての自由を奪われたことになる。
映画の中で、ある男性は「(収容所内学校の)先生たちもこういう環境で、『民主主義』について教えるのはたいへんだっただろうね」とふり返っていた。

上映室を出ると、米軍に志願して功績をあげた日系人の写真と紹介文をのせたパネル20枚ほどが載っていた。
いちばん真ん中の写真は、ハワイ出身のダニエル・イノウエ氏。日系アメリカ人として最初の下院、および上院議員となった人物で、日米関係の強化にも尽力した。

彼自身はハワイ出身で、強制収容の対象ではなかったため、マンザナールと直接関係はないものの、日系人の歴史においては、もっとも重要な人物の一人だ。
なんの因果だろうか、ちょうど僕らがマンザナールを訪ねた翌日の17日、88歳で息を引き取ったという。


案内センターを出た後は、自分の車にのって、収容所跡内を移動し、ところどころで車を降りて見学するという形になっている。
この収容所には、2平方キロメールという広い土地に、バラック小屋504棟が並んでいたらしい。
再現されたバラック小屋や監視塔などもあるが、とくに印象に残ったのは、「日本庭園」跡だった。

収容された日系人らが作った日本庭園跡
収容されていた造園師と草花農家の男性らが、日米の衝突によって強制収容されたという状況にあっても、なにかしら静かで平和な時間が持てますように、という思いを込めて、池と橋、花畑などをそろえた庭を造った。
戦後、日系人が解放されると、庭は強い風によって運ばれた砂や石で埋没してしまったが、造園師の子孫らが2008年に、埋もれた庭を掘り起こしたという。
もちろん、いまは水は流れていないけど、この荒涼とした場所に、緑豊かな庭園をつくりあげた人たちがいたということは感慨深かった。

庭園跡地から、また車にのってしばらくすると、収容者らが1943年に建てた慰霊塔がある。
収容所内では150人がなくなったらしい。慰霊塔の周辺には、少し地面が盛り上がった墓がいまでもいくつか残されている。
慰霊塔の背後では、ウィリアムソン山に太陽が沈もうとしていた。一気に冷えてきた。
マンザナールの歴史は知っていたけど、ここにこないと分からない、乾いたようで神々しい空気の質感があった。それは大きな二つの山脈に挟まれることで、より強く感じられる。

ウィリアムソン山を含むシエラネバダ山脈。山々を背景に、白い慰霊塔が建てられている=2012年12月16日撮影

案内センターには、収容者全員の名前が刻まれたスクリーンが展示されていたが、その背景にも、ウィリアムソン山がシルエットで描かれていた。
くわえて、その山頂部分には、大きくアメリカの国旗の絵も描かれている。

マンザナール収容所跡は、現在、アメリカの自由の在り方を問いかける記念碑となっている。
ただ、これはアメリカ、また日本に限らず、二つの国民国家による衝突が、いやおうなく、その間に置かれた移民に大きな影響を与えるということ、また、そのような状況にあっても、それぞれの移民は生き抜くために行動するということの両面を学ぶうえで、重要な史跡だといえるだろう。

背後のスクリーンには、マンザナールに収容された日系人らの名前が書かれている。真珠湾攻撃と9・11テロ攻撃を重ね合わせた手前のパネルでは、こうした攻撃が、アメリカ市民の自由の侵害につながってはいけないという願いが込められている。

乾いた大地でも、こうした動物が生きているようだ。
・TBSドラマ『99年の愛~Japanese Americans~』は、日本人移民とその子孫らの経験をわかりやすくまとめている。関連サイトは、こちら

2012年12月15日土曜日

留学生活の息抜き、つながる日本の人・情報

アメリカ大学院留学、最初の学期を無事に終えた。
博士課程の勉強の進め方だけでなく、ロサンゼルスでの暮らし方も一から学んだ4ヶ月半だった。

大学図書館で働く日本人女性の司書さんのご厚意で、図書館関係者の打ち上げパーティーに招待していただいたので、妻とおじゃました。
午後5時半。大学の一角にある素敵な催し会場に入ると、おしゃれに着こなした人たちがたくさん集まっていた。
料理は、アメリカ生活ではおなじみのブッフェ形式だけど、料理の質が高かった。
ぷりっぷりのエビのバター炒めやラビオリは目の前で料理してから、自分の皿に置いてくれる。
サラダには、蒸した芽キャベツやルッコラなど、ふだん家で食べない野菜が並ぶ。
ちょっとリッチな気分で、同じ丸テーブルの席に着いた人たちを話をした。

ブッフェ形式の料理。カボチャとリンゴのスープもおいしかった。

僕らを招待してくれた司書さんを中心に、そのテーブルには自然と日本に関係のある人たちが集まった。
司書さんのだんなさんはアメリカ人の日本研究者で、日本語も堪能。
司書さんの友だちで、この大学の日本人卒業生の女性は、アメリカ人の婚約者と参加。
くわえて、なんと、別の日本人女性の司書さんも、アメリカ人のだんなさんと同席していた。
アメリカの一つの大学に、日本人司書さんが二人もいるというのは、うれしい驚き。日本語の史料も使いながら勉強する身としては、とても心強い。

と思いながら、周りを見回すと、アメリカ以外出身の司書さんは日本人だけに限らないようだ。
韓国出身の50歳代の女性司書さんにもあいさつ。韓国関係の図書を担当しているらしい。

今年3月に3週間、ソウルの大学で韓国語を勉強したので、ここぞとばかりに韓国語で簡単な会話をしていると、「韓国語のの名前は?」と聞かれ、なんのことかわからなかったが、「韓国では日本の名前を使いましたよ」と答えた。「じゃあ、私が韓国語の名前をつけてあげるわ」と言われ、さらにわからなくなったが、「キムとかパクみたいな感じですか」と聞くと、「そうよ」と笑顔で答えてくれた。
どういう名前になるのか分からないけど、とても感じのいいかたで、楽しい会話だった。

妻とぷりぷりエビをおかわり。こちらのエビは日本より安いけど、ふだんの生活ではあまり食べないので、食い意地がでた。


パーティで出会った日本や韓国出身の司書さんらは、東アジア資料室関連の仕事をしている。
この資料室は、図書館の一角にあって、日本、韓国・北朝鮮、中国の参考資料がずらっと並ぶ。
書庫に行くと、日本で出版された書籍が何千冊も収められており、ちょっと日本に帰ったような気持ちになる。同じ書庫には、中国や韓国の書籍も豊富にそろえてある。

資料室には、朝日新聞とジャパンタイムスなど、東アジアの新聞も置いてあり、僕もときより立ち寄る。
朝日新聞は「国際版」で、日本の新聞紙に比べて、やや幅が狭く、縦が長いアメリカの新聞紙に印刷されており、文字の幅がやや狭い感じだが、記事は日本で購読されているものとほぼ変わりない。

この日も、パーティ前に立ち寄った。
アメリカ時間で12月14日だったが、日本の13日までの国際版が置いてあった。

もっぱら16日投開票の衆議院選挙の情報が並ぶ。
日本の情報はネットでいくらでも入るんだけど、こうして紙面をばらばら開いて、ざっと記事を見渡して、ぱっと目に入った見出しから、記事を読んでいくようなリズムは気持ちがいい。

12月上旬の紙面をめくると、話題の人を紹介する「ひと」欄で、日系アメリカ人の経験についてドキュメンタリー映画を撮影した、すずきじゅんいちさんが紹介されていた。幼いころに小学校の体育館で見た映画『マリリンに逢いたい』の監督らしい。
すずきさんは最近までロサンゼルスに住んでいたらしく、その間に知った日系アメリカ人の歴史に心動かされたことがきっかけとなって、日系アメリカ人をテーマにした映画三部作を撮ったらしい。

この日のパーティでは、アニメーション制作経験のある日本人女性にも出会った。映像関係ということで、すずきさんの記事の話をしてみると、なんと彼女もその映画制作に関わっていたという。

いろんな情報にふれるように心がけていれば、いろんな人につながっていく。
最初の学期を終えて、パーティでちょっと息抜き。こういう機会に感謝して、来学期にのぞみたい。

2012年12月9日日曜日

アメリカ大統領選、多様化する人口・価値観

日本の衆院選が間近に迫っている。
12党と諸派と無所属の1504人が小選挙区・比例区に立候補。過去最高の立候補者数らしい。

個人的には投票率がどう変化するのか注目している。
2005年の郵政選挙の投票率は前回(2003年)比7.65ポイント増の67.51%。続く2009年の政権交代選挙は69.28%と、過去2回の衆院選は投票率が上昇傾向にある。今回はどれだけの人が実際に投票所に足を運ぶだろうか。

僕も「在外投票」しようと考えていたけど、手続きに数ヶ月かかるため、残念ながら、今回は間に合わなかった。
いつ解散総選挙があるかわからないので、在外投票する意志がある人は、海外生活を始めたら、できるだけ早い段階で、手続きを済ませておく必要があるようだ。

今回の衆院選は、多党乱立で、争点がはっきりしないという声もある。その点、アメリカの場合、民主党・共和党の間で争点はだいたいはっきりしている。
ちょうど一ヶ月ほど前に、オバマ大統領が再選を決めた。
しかし、今回の大統領選は、細かい争点よりも、むしろ将来のアメリカの姿に対する有権者の価値観の違い、また、その変化が見てとれたように思う。備忘録として記録しておく。

接戦になるという事前の世論調査とは逆に、選挙人票332対206という圧倒的な差をつけて、オバマ大統領が勝利した。
失業率8%台という厳しい経済状況において、経済に詳しいとされていた対抗馬に現職が大差で勝ったことは何を意味しているんだろうか。

CNNの出口調査によると、女性の55%、18~29歳の若者の60%、アフリカ系の93%、ラティーノの71%、アジア系73%がオバマ支持。一方、白人の59%がロムニー支持という結果だった。

この結果を受けて、アメリカが「白人」と「その他」に分断された、という印象を受けた人もいただろう。ただ、「白人」と「その他」の境界線(カラーライン)自体は、歴史的にはアメリカが独立したときから根強く、むしろ、奴隷制があった過去の方がより厳しかった。今回の選挙で、新たに深まった分断ではない。
くわえて、白人の39%がオバマ支持であったことからも、「白人」と「その他」というように、人種集団でスパっと分かれる分断ではないことははっきりしている。

むしろ、投票の分かれ目は、「(従来の)白人男性中心主義のアメリカ」と「(白人も含む)多様性のアメリカ」という将来像の違いにあったんじゃないだろうか。

この違いは、民主党・共和党の支持者拡大に向けた戦略にも見てとれた。
選挙前には、両党がそれぞれ全国大会を開いて、正式に立候補者を決定する。
共和党の大会会場を埋め尽くしたのは、ほぼ100%白人だった。一方、民主党の大会会場は白人、アフリカ系、ラティーノ、アジア系・・・と、人種エスニシティの多様性を象徴するようなかたちで支持者が集まっていた。「別の国か」と思うほど、まったく異なる印象を受けた。

おそらく、共和党は、勢いを増す「ティーパーティー」など白人保守層の価値観をもとに、「白人」と「その他」の違いをハッキリさせる作戦で支持拡大を狙ったものの、実際は、共和党が期待をかけた白人有権者の間でさえ、そうした価値観の共有が十分には広がらなかったのだろう。

追い風の中で「Yes We Can」のオバマ氏が圧勝した2008年大統領選では、白人有権者の43%がオバマ支持、55%がマケイン支持だった。
対照的に今回の選挙は、依然として移民人口が増え、経済状況も悪く、白人保守層の反発も強いなか実施された。しかし、それでも白人有権者の39%がオバマ氏に投票し、ロムニー支持は59%にとどまった。
つまり、今回の選挙をとおして、「白人」と「その他」という人種的な分断が深まったというより、アフリカ系初の大統領が誕生した2008年選挙時と同様に、今もそうした分断が基本的には弱まる傾向にあることが、改めて示されたといえるんじゃないだろうか。

オバマ陣営の選挙戦略スタッフは、選挙後のテレビインタビューで「中産階級を増やす」という訴えが響いたと話していた。白人に比べて、経済力の弱い人種・エスニシティ少数派の期待とも重なる。

国勢調査局の予測では、アメリカの人口は、今後ますますマイノリティの人口比率が高まっていき、2042年には過半数を超えるという。実際、2010年6月~2011年6月に、アメリカで生まれた赤ちゃんの50.4%はラティーノやアフリカ系といったマイノリティで、初めて過半数を上回った。

このような人口動態の変化に伴って、アメリカの将来像に対する有権者の考え方の境界線も変わっていくだろう。とくに共和党は新たな対応が求められている。次回の大統領選では、どのような支持者らが共和党全国大会の会場を埋めるのか注目したい。

僕の移民研究のクラスの先生は、熱烈な民主党支持者だが、その人でさえ、オバマ大統領の圧倒的な勝利には驚いたという。「次は、ヒラリーで8年、その次はフリアン・カストロ(メキシコ系アメリカ人3世)で8年」と期待を込めていた。

・アメリカの新生児人口に関する国勢調査局のサイトは、こちら

2012年11月22日木曜日

エスノバービア、中国系移民の郊外、飲茶に舌鼓

ロサンゼルスのチャイナタウンといえば、ダウンタウンと思う人が多いだろう。
中華料理店や輸入食料品店が並び、観光にはうってつけだ。
だが、実際にここに住んでいる中国系移民はそれほど多くはない。

1970年以降、多くの中国系移民(ここでは広い意味で台湾も含む)は郊外に集住し、サバービア(suburbia=郊外)ならぬ、エスノバービア(ethnoburbia=マイノリティによる郊外)を形成している。実際に中国系移民が多く暮らしているという意味では、こうしたエスノバービアが今日のチャイナタウンといってもおかしくない。

中国風の外観のショッピングセンター=モンテレーパーク市、2012年11月16日撮影
その一つがロサンゼルス郡モンテレーパーク市だ。
1970年代から、香港や台湾、また中国本土から来た移民が住み始めたという。
同市に住む中国系移民は1970年の2,200人から1999年の約2万5千人に増え、人口の4割を占めるまでになったという。

ちょうど今月、僕が誕生日を迎えたということで、日本人の友人と妻と3人で、モンテレーパーク市に飲茶を食べに行った。
ちなみに友人は日本で通っていた大学の先輩で、来春まで一年間、ロサンゼルスで資料収集などをしている。昨年の今ごろは、先輩と僕らがロサンゼルスに住んでいるなど想定していなかっただけに、うれしい巡り合わせだ。

多くの昼食客でにぎわう飲茶店=モンテレーパーク市、2012年11月16日撮影
向かった飲茶店は、オーシャン・スター・レストラン(Ocean Star Restaurant)。
店に入ると、大広間にテーブル50卓以上が並び、昼食に訪れた客でにぎわっている。
さっそく店員の中国人男性が何語かわからないけど、席に案内してくれる。
「ジャスミンティーでいいですね」という英語はわかったので、それを注文して席につくと、大広間の奥の方から、点心が載ったワゴンを押す女性店員らが、他のテーブルをよけながら、どんどんとやってくる。
そして、僕らのテーブルに到着するなり、矢継ぎ早に料理を薦めてくれるが、広東語なのでさっぱりわからない。ただ、直接、点心を見て選べるので、言葉はそれほど問題にはならないのが飲茶店のいいところだ。

ちょうどコイが池のエサに群がるような感じでワゴンが僕らに群がるので、やや圧倒されたが、ワゴンの上の点心は、どれもこれも食欲をそそるものばかり。しかも、すべてうまい。
あれやこれや10皿ほど頼み、入店から30分ほどでおなか一杯になった。
支払いはチップ込みで32ドル(約2600円)。安かった。
妻の母親が中国語や太極拳を学ぶほど中国が好きなので、ぜひ連れてきてあげたい。

次から次へと注文し、あっという間にテーブルは料理でいっぱいになった=モンテレーパーク市の飲茶店「オーシャン・スター・レストラン」、2012年11月16日撮影
食後は飲茶店の周辺を散歩。道行く人はほとんどアジア系の人たちだった。
たまたま見つけた中国系スーパーマーケット「99 Ranch Market」へ。エスニック・スーパーはそれぞれお国柄が出るが、妻はパック入り肉団子の種類の豊富さに驚いていた。また、中国だけでなく、日本や韓国の食料品も豊富にそろっている。アジア系に限らず、ラティーノも買い物を楽しんでいた。

中国系スーパーの棚にはずらっとパック入り肉団子が並ぶ=モンテレーパーク市、2012年11月16日撮影
スーパーを出てから、ちょっとした喫茶店でタピオカ入りドリンクを購入。先輩はタピオカ入りのパッションフルーツ・スムージーを注文。少し味見させてもらったが、さっぱりとした甘味で、食後にぴったりだ。

しばらく歩いた後、車に乗って周辺の街並みを見てまわった。落ち着いた雰囲気の住宅地にはきれいな家、商業地には漢字の看板を付けた店が並ぶ。
1970年代、中国系移民を呼び寄せるため、移民募集企業は、香港や台湾の新聞に「チャイニーズ・ビバリーヒルズ」というふれ込みで広告を掲載したという。
それから約40年、ビバリーヒルズとまでいかないにせよ、ここが彼らの中産階級としての豊かさをよく示す町になったことは間違いないだろう。

・参考にした研究論文の閲覧先サイトは、こちら

2012年11月17日土曜日

リトル・エチオピアで昼食、スパイス効いた移民の味

「アムハラ語って知っている?」と妻が言う。
もちろん、知らない。

「午前6時が、午前0時なんだって。だから、お昼が午前6時なんだって」
もちろん、意味がわからない。

妻によると、アムハラ語はエチオピアの公用語で、独自の文字も持っているらしい。
また、エチオピアでは午前6時を午前0時としているらしい。

こうした話をなぜ妻が教えてくれるかというと、彼女が通う英語教室の仲良しがエチオピア出身の女性だからだ。
英語教室では出身国や年齢が異なるさまざまな外国人が一緒に勉強している。
妻は特にエチオピア、インドネシア、中国、メキシコから来た女性らと仲良しで、英語教室の後は自主的に集まって、ヨガを楽しんだり、スペイン語を勉強したりしているらしい。

エチオピアはおもしろい、ということで、エチオピア料理店が集中しているロサンゼルス市内のリトル・エチオピアに妻と出かけた。

200メートルくらいの通りの両側に、エチオピア料理店やエチオピア輸入品店などが並ぶ。
輸入品店に入ると、エチオピアの音楽CDやアムハラ語の書籍だけでなく、さまざまな香辛料などの食材も並んでいる。なによりも、店内の人々の会話から聞こえるアムハラ語が、この町の雰囲気に欠かせない要素だ。

リトル・エチオピアがあるフェアファックス(Fairfax)通りは交通量も多い=ロサンゼルスのリトル・エチオピア、2012年11月11日撮影
料理店などの評価サイト「Yelp」で調べたエチオピア料理店「Rosalind's」へ。
とにかく、エチオピア料理について何もわからないので、メニューを渡されるなり、「おすすめはなんですか」と聞いた。すると、鶏肉の煮込みと牛肉の炒め物を薦めてくれた。楽しみだ。

しばらくすると、二人分の料理が載った大皿一枚と、インジェラというエチオピアの主食パンが10個くらい載った別の皿を店員が持ってきた。
しかし、店員はナイフやフォークは持ってこず、そのまま厨房のほうへ戻っていった。

メニューを見返すと「エチオピア料理の正しい食べ方」が事細かに説明されている。
「アメリカでは、料理を手で食べるのは原始的な人々だけだという意見もあるでしょうが、この考え方は非常に偏っています。というのも、エチオピアでは特定の料理を手を使って食べるからです」とのこと。
詳しく読むと、このインジェラというパンをちぎって、それをスプーンやフォークのように使って、具材をつかんで口に運ぶという。
さっそく実践しようと、インジェラに手を付けると、とても冷たい。メニュー説明によると、冷たい状態が普通らしい。

インジェラ(写真左)をちぎって、大皿に載った料理をつかんで食べる。赤い鶏肉料理が中心。上下に牛肉料理が置かれ、左右には野菜料理が添えてある=ロサンゼルスのリトル・エチオピア、2012年11月11日撮影

鶏肉の煮込みは、コショウ、ニンニク、ショウガ、ナツメグなどで味付けした赤いワット(Wot)ソースに鶏肉が入った料理。とても柔らかいインジェラが破れないように、そっとソースをつかんで食べた。スパイスが効いていて辛く、味わい深い。手羽元は、指を突っ込んで肉をほぐして食べた。もちろん指はワットソースまみれでまっかっか。牛肉も唐辛子と一緒に炒めてあり、ピリッと辛くていける。
インジェラ自体はやや酸味が効いていて、好き嫌いは分かれるだろうけど、料理と一緒に食べると、それほど酸味も気にならない。なにより、初めての食材を初めて手で食べる経験自体が刺激的だ。

おなか一杯で店を後にした。リトル・エチオピアの他の料理店でも、エチオピア人かどうかにかかわらず、多くの人が昼食を楽しんでいる。

エチオピア人移民の増加は、多分に漏れず、アメリカの外交政策と関係が深い。
1974年、アメリカが支援していたエチオピア皇帝がクーデーターによって失脚。政治の不安定化や貧困拡大などによって、多くのエチオピア人がアメリカに移民した。2000年の国勢調査によると、大半は東海岸で暮らしているが、ロサンゼルス郡内でも約5千人が暮らしているという。
リトル・エチオピア界隈には、1980年代後半から徐々にエチオピア人の商店が増え始め、現在は約15店舗に及ぶという。
そして、ロサンゼルス市議会は2001年、この特色ある地域を正式に「リトル・エチオピア」と呼ぶ提案を可決した。

ロサンゼルスには「リトル…」と呼ばれている地域がいろいろあるが、それぞれのリトルが出身国や移民の歴史を物語っている。

「Little Ethiopia」と書かれた交通標識もある
昼食後によった近所のショッピングモール(The Grove)で、ガラス入りのサボテン置物を購入した。気に入った。

ガラス入りサボテン置物。写真の商品は一つ19ドル。
置くタイプを18ドルで購入。自宅の窓から入る自然光で撮影するといい感じに。

・参考にしたロサンゼルス・タイムスのまちぶら記事は、こちら