2015年12月17日木曜日

二重国籍と排日感情、「国籍留保制度」の歴史

日本国籍の両親のもとに、アメリカで生まれた子どもは、法的には何人になるのだろうか。

日本では、日本国籍の母親または父親のもとに生まれた子どもは日本国籍になる。日本国籍を持つ親の血が流れていることが理由になるため、こうした国籍の決め方を血統主義という。一方、アメリカでは、アメリカ国内で生まれた子どもはアメリカ国籍になる(国籍は一般的に市民権citizenshipと呼ばれる)。生まれた場所が理由になるため、こうした国籍の決め方を出生地主義という。

というわけで、日本国籍の両親の子どもとして、アメリカで生まれた子どもは、法的には日本人であると同時にアメリカ人、つまり二重国籍者になる。

とはいえ国籍は人間が作り出した制度だから、その取得には手続きが必要だ。アメリカ国籍については、妻が出産した病院で手続きした。

陣痛分娩室で無事に出産を終えた後、妻と赤ちゃんは産後ケア室へ。そこで出生証明登録に必要な出生情報ワークシートを手渡された。赤ちゃんの氏名、性別、生まれた時刻、両親の氏名などを書き込む。出生証明書には記載されないものの、アメリカ政府保健福祉省の統計のために両親の人種・エスニシティに加え、最終学歴も記入する。裏面では母親の妊娠経過や喫煙の有無などについて答える。

出産したその日に、記入済みのワークシートを看護師さんに渡した。翌日、出生証明担当の職員が部屋に来て、ワークシートの内容に間違いがないか確認した後、「3ヶ月後に出生証明書が手に入ります」と教えてくれた。そのとき、子どもの出生を確認したことを示す病院独自の文書もくれた。これで子どものアメリカ国籍の手続きを終えた。

次は日本国籍。アメリカ国籍は病院でほぼ自動的に手続きが進むけど、こちらは自発的に手続きしないと子どもは日本国籍を失う。国籍法第12条は外国で生まれた子どもについて以下のように定めている。
出生により外国の国籍を取得した日本国民で国外で生まれたものは、戸籍法の定めるところにより日本の国籍を留保する意思を表示しなければ、その出生の時にさかのぼって日本の国籍を失う。
ロサンゼルス総領事館サイトによると、出生から3ヵ月以内に「日本国籍を留保する」欄に署名・押印した出生届を他の関係書類と一緒にロサンゼルス総領事館に提出せよとのこと。というわけで妻の退院した翌週、領事館に足を運んで書類を提出。領事館のスタッフが「一ヶ月ほどすれば戸籍にお子さんの名前が入りますので、その写しとアメリカの出生届を持って、お子さんのパスポートの申請に来てください」と教えてくれた。


僕らが手続きした、日本国籍の喪失を防ぐこの制度を「国籍留保制度」という。これを日本国籍を取得するために作られた制度と思う人は多いだろうけれど、実はこの制度は日本国籍の喪失を可能にする1924年の国籍法改正に伴って作られた。

1924年、白人至上主義とそれに伴う排日感情の高まりから、アメリカ政府は移民法を改正し、日本人移民を全面的に禁じた。そのため、1924年の移民法は「排日移民法」と呼ばれることもある。

このように排日感情の強い時代に、アメリカで生まれた日本人の子どもが、アメリカ国籍と同時に日本国籍を保持していれば誤解や差別の対象になった。そこで日本政府はこの年、日本人のもとに生まれた子どもが、日本国籍を留保する意思を示さない限り、自然と日本国籍を「失える」ように国籍法を改正した。国籍離脱自体は1916年から可能であったけれど、1924年以前に生まれた日本人の子どもについても希望次第で国籍を離脱できるとした。

1924年の7月、朝日新聞は国籍法改正案について「二重國籍問題の解決」という見出しで報じている。改正の理由として「時勢の進退」に合わせるためとしているが、この「時勢」とは日本人移民を全面的に禁じるアメリカの排日移民法を指していると考えて間違いない。

当時、アメリカで暮らす日本人移民の親たちの中には、アメリカ生まれの子どもが日本国籍を理由に誤解や差別にあわないように、あえて出生届を出さず「国籍を留保する」手続きを行わなかった人はたくさんいた。

1924年以前に生まれた日系人の子どもたちの国籍離脱も相次いだようだ。大阪毎日新聞もこの年の7月、「國籍離脱者の激増、排日法に驚かされた、アメリカ在住の同胞」という見出しで報じている。
排日移民法がやかましくなってから在米邦人の國籍を離脱するものが驚くべき増加を呈してきた。(中略)一番多いのは排日の本場カリフォルニア州の千七十二人でワシントン州の二百八十九人、ハワイの二百三十人なども飛切り多く(中略)アメリカ生れの日本人は日本の法律とアメリカの法律に囚はれて二重の國籍を有し男子は徴兵の上にいろいろの不便を感じアメリカ人から誤解をうけることが多かった。
それから約90年後の2015年に僕らはカリフォルニア州で子どもを授かった。日本の国籍法では22歳までに日本国籍かアメリカ国籍を選ぶことになっている。いずれにせよ、僕らが総領事館に出生届を出したとき、二重国籍状態を理由に子どもが差別を受けるかもしれないと心配する必要はなかった。しかし、僕たちが利用した「国籍留保制度」の背景には、戦前のカリフォルニア州における日本人に対する激しい人種差別があり、二重国籍は日系人に対する差別の理由であったことは忘れないようにしたい。


今日でも国籍のあり方によって人権が侵害されることがある。日本でも国籍や戸籍を理由にした差別が存在する。

テロ事件の被害にあったフランスでは憲法を改正して、テロ行為に関わった二重国籍者からフランス国籍を剥奪できるよう憲法改正の議論が進んでいる。こうした憲法改正が戦前の日系人に対する差別のように、二重国籍者への偏見を強化する可能性もある。

その一方で、国籍がないことを理由に人権を侵害されている人も多く存在する。国連難民高等弁務官事務所は、世界に約1,200万人の無国籍者がいると推計している。二重国籍であれ、無国籍であれ、それが理不尽な差別の原因にならないように、国家が個人の国籍をどのように扱っているか、また、過去に扱ってきたか、ということに対して常に警戒しないといけない。

※日本の国籍法における国籍離脱制度は1916年の法改正で明記されている。

・日本政府に対する出生届については、こちら
・大阪毎日新聞の記事は、こちら
・国連難民高等弁務官事務所のサイトは、こちら
・アメリカ政府保健福祉省の出生届調査については、こちら

2015年12月12日土曜日

大学トイレの落書き、人種・階級・セクシャリティと差別

大学キャンパスでしばしば使うトイレの壁に、ロサンゼルスならどこでもありそうな学生の落書きがある。この落書きは、非白人の学生が白人の学生を蔑む内容だった。

「フラタニティに入っているやつは、だいたい、アホで、白人で、ろくでもないやつ、金持ちだけど」

フラタニティ(fraternity)とは男子学部生の学生団体。一つの大学に複数のフラタニティがあり、パーティを開くなどして友情を深める。アフリカ系やアジア系など非白人のフラタニティもあるけれど、フラタニティといえば白人男子学部生が羽目を外して遊んでいるというイメージが強い。また、大学キャンパスでは少数派である非白人の学生が周辺化されていることに対する不満も少なくない。この落書きの背景には、人種と階級を巡る学生間の緊張関係がある。

この落書きの左隣には、「フラタニティのファッグ(同性愛者に対する差別語)←本当のファッグ」と明らかに差別的な言葉を使って、フラタニティの学生を攻撃している。ここでは人種的マジョリティの白人学生に対する不満と、性的マイノリティの同性愛者に対する差別が絡む。

そこに別の学生が「なんでまだファッグなんて言葉を使ってんの?」と黒のペンで書き、さらに別の学生が「なんでかというと、こいつらがアホだから」と青のペンで書き加えている。さらに青のペンの学生は「フラタニティのファッグ←本当のファッグ」という元の落書きに対して「ファック・ユー」と矢印付きで付け加えていた。

複数の学生による落書きはここらへんで止まると思いきや、それら全体のやり取りに対して、またまた別の学生が「自分のおかんとやってまえ、ボケナス」とスペイン語で大きく書き加えていた。

人種、階級、セクシャリティが絡む攻撃的または差別的なやり取りに、言語を通したエスニシティ的な要素も加わり、この一連の落書きだけで、アメリカ人学部生の生活における差別構造や緊張関係がなんとなく浮き上がってくる。

けれど、なぜ差別語を含むこの落書きが半年以上ずっと消されずに残っているのだろうか。その理由の一つとしては、軽蔑の対象が多数派の白人であるという点が挙げられる。もしも、この落書きが少数派の非白人学生に対するものであれば、すぐに誰かが大学に報告し、人種差別事件として問題になるだろう。

おそらくフラタニティに所属する白人学生がこの落書きを見ても、それ自体がキャンパス内の白人学生の立場に脅威を与えないため、「はいはい」と笑って済ますことができるだろう。ある意味では、この落書きが放置されていること自体がキャンパス内で白人学生の力が強く、構造的に被差別の対象ではないという状況を裏付けている。

このように、どちらかといえばリベラルな環境であるはずの大学キャンパスでも、人種・エスニシティ、階級、セクシャリティを巡る差別構造や緊張関係を観察することはそれほど難しいことではない。

2015年12月6日日曜日

移民と銃と保守主義、サンバーナディノ市の乱射事件

12月4日、ロサンゼルス総領事館から緊急の注意喚起メールが届いた。
在留邦人、渡航者の皆様へ
12月2日、サンバーナディノ市において銃撃事件が発生しました。(中略)FBI当局等はこれをテロ事件として扱い、捜査をしている過程において過激派とのつながりなどが判明している状況です。(中略)事件に巻き込まれないように十分に気をつけるよう願い申し上げます。
ロサンゼルス総領事館に在留届を出していると、こうした注意喚起が届くことがある。このメールで事件に巻き込まれる可能性が低くなるわけではないけれど、インターネット時代における日本政府と在留邦人のつながり方を具体的に示す事例として興味深い。

この事件では、若い夫婦が仕事先で銃を乱射し、14人が死亡、21人が負傷した。夫婦がイスラム過激派の影響を受けた可能性もあるとして、当局がテロとして捜査を進めている。オバマ大統領も6日、事件をテロと認定し、その対策に力を注ぐと語った。

アメリカ国内では、パリの同時多発テロ事件以降、シリア難民を受け入れるべきではないという意見が共和党支持者を中心に広がっていた。今回の銃撃事件は、そんな難民・移民の受入反対論をさらに刺激している。容疑者の夫はパキスタン系アメリカ人で妻はパキスタン人移民で、サウジアラビアで知り合ったという。

移民反対団体「Federation for American Immigration Reform」代表のダン・ステインは、容疑者の妻がパキスタン人移民であったことを取り上げ、「ビザであれ、難民であれ、我々の国に入ってくる人々の身元について、常に十分な調査ができるわけではない」として、移民の入国を制限する必要があると訴えている。

そうした意見に対して、国務省の広報官は2001年のアメリカ同時多発テロ以降、アメリカ政府は厳しい難民・移民の入国審査を続けてきていると説明している。移民支援団体の多くは、今回のサンバーナディノ市の事件が移民排斥の理由に使われてはならないと主張している。

アメリカ史を振り返ると、疑似科学的な人種主義や反共主義、不景気などの影響で、東・南ヨーロッパ人、アジア人、メキシコ人らに対する移民排斥の運動が各時代に存在してきた。特に1970年代以降、多くの非合法移民を含むメキシコ人や中央アメリカ出身者は移民排斥論者の主な批判対象になっているが、アメリカ同時多発テロ以降、イスラモフォービア(イスラム恐怖症)の影響で中東出身者を警戒する声が保守層の間で強まってきた。

各時代で程度は違うものの、移民制限論者の根底には、白人のキリスト教徒を中心としたアメリカ社会を守ろうという人種的・宗教的な保守主義がある。そうした保守層の不安や不満に訴えて人気を集めているのが、共和党大統領候補の中で現在支持率が最も高い不動産王ドナルド・トランプだ。

トランプはパリの事件後、シリア難民の入国について記者から質問された際、すべてのイスラム教徒の移民を管理する全国的なデータベースが必要だと主張。さらにサンバーナディノ市の事件直後は「ところで、もしもパリの人々やカリフォルニアの人々が、もしも(犯人以外に)誰か銃を持った人がいたら、そしてその使い方を知っていたら、それでその(事件現場の)部屋にいたら、(彼らが犯人を先に撃ち殺すから)きっと死人は出ないでしょう」と語り、テロを防ぐ手段として銃所持の重要性を改めて訴えた。

アメリカ国内では銃による殺人事件が繰り返されている。2015年だけでも、サンバーナディノ市の事件以前に、354件の乱射事件(死傷者4人以上)が発生している。こうした異常な状況にオバマ大統領を含め多くの人々が銃規制を求める声を上げている。

アメリカで2015年に4人以上の死傷者を出した乱射事件の現場。PBSのニュースサイト(http://www.pbs.org/newshour/rundown/heres-a-map-of-all-the-mass-shootings-in-2015/)から。

一方で、アメリカの保守層では銃規制反対の声が根強い。トランプは、パリやカリフォルニアで痛ましい事件が起こるたびに、移民制限と銃所持という保守層が好む意見に言及し、支持を拡大しようとしている。7日にはテロ対策が整うまでイスラム教徒の入国を禁止すべきと明言した。こうした発言はテロとは関係のないイスラム教徒全体への偏見を強める。

第二次世界大戦中、日系人強制収容を経験した俳優のジョージ・タケイは「真珠湾攻撃の日(7日)にトランプがこの計画(イスラム教徒の入国禁止)を発表したのは皮肉なこと...この計画は阻止してあらゆる憎悪を否定しないといけない。そうじゃないと(日系人が経験したような)過去と同じ過ちを繰り返すでしょう」とフェイスブックでトランプを批判した。

移民と銃というアメリカ社会を歴史的に特徴づけてきた二つの要素が今回の乱射事件で絡まり合い、2016年大統領選を前に、保守層の中で反イスラム・ポピュリズムの拡大につながっている。とはいえ、アメリカ経済が回復基調ということもあり、感情的で極端な主張を繰り返すトランプが保守層の一部を超えて支持を集めるような状況には至らないだろう。

・事件に関連した移民支援・反対の両議論については、こちら
・事件を受けたトランプのコメントは、こちら
・シリア難民を巡るトランプのコメントは、こちら

2015年11月27日金曜日

感謝祭とショッピング・モール、「アメリカ人」生み出す場所

11月の第四木曜日は感謝祭(Thanksgiving Day)。アメリカの国民的な祝日で多くの人が家族で集まる。

留学してから4回目の感謝祭。これまでは妻と二人だったけれど、今年は先日、生まれた子どもと一緒に迎えた。おっぱい飲んで、うんこして、ねんねしての生活。こちらに視線を向けたり、泣き声を出したりして、妻と僕に何かしら感情を伝えてくるのでおもしろい。

感謝祭は、17世紀初頭に現在のマサチューセッツ州に移住したイギリス人と先住民が神に感謝して一緒にご馳走を食べたことにちなんでいる。けれど、イギリス人の移住が先住民社会に壊滅的な打撃を与えたという歴史的事実を覆い隠しているとして批判の対象にもなっている。また、感謝祭はアブラハム・リンカーン大統領が19世紀の南北戦争中、北部を中心として国民を統合するために設けた祝日でもある。

このようにイギリス人移住者の美化とナショナリズムを伴って生まれた祝日だけれど、その後、家族で集まる祝日として定着した。七面鳥などアメリカ原産の食材を使った料理が多くの家庭の食卓にのぼるので、食材という観点では本当にアメリカ的な祝日といえるだろう。

七面鳥も豪華で楽しいけれど、我が家は普段どおりサンマ、納豆、味噌汁、豆腐などを美味しくいただいた。デザートには、友だちからもらった柿のジュクジュクしたやつを楽しんだ。この日であれどの日であれ、家族と一緒に食事ができることはありがたい。

友だちの住むアパートの庭で育った柿。熟してから食べた。砂糖が少ない時代の人にとって頬っぺたが落ちるほど甘くて美味しかっただろう。


感謝祭は年の瀬のショッピング・セールが始まる日でもある。この日の午後6時ごろから、Macy'sなどの大手量販店が開店。大安売りを目当てに店頭にテントを張って数日前から開店を待つ人もいる。この日は一般的に「ブラック・フライデー」と呼ばれており、一説では感謝祭翌日の金曜日から店の売り上げが黒字化するから、そう呼ばれるようになったという。

どんなものか見てみようと午後9時ごろ、近くの大きなショッピングモールに一人で足を運んだ。駐車場は車でほとんど埋まっていたけど、どうにかスペースを見つけた。店内に入ると、商品が詰まった買い物袋を両手に下げて歩く人たちやレジに長い列を作る人たちで賑わっていた。英語だけでなく、スペイン語やヒンディー語、中国語、日本語などいろんな言語が客の会話から聞こえてくる。多くの移民もここで買い物を楽しむ。

多くの買い物客でにぎわうショッピング・モール

アメリカの移民社会について学んでいるわけだけれど、身体的・文化的に多様なアメリカの人々を一つにするものは何かと聞かれたら、その一つはこうしたショッピング・モールだと思っている。

アメリカでは消費することは資本主義を刺激するいいことであり、消費できることはステータスでもある。節約が美徳である一方、浪費は成功の証でもある。大量生産された商品で溢れるショッピング・モールはアメリカの富を象徴している。アメリカ社会は人種と階級の境界線を伴う不平等な社会だけれど、外見も文化も異なる人々がショッピング・モールで同じように消費を楽しむ様子を見ていると、アメリカの富という渦の中で彼らが一つになっていくような感じがする。少なくともここに来た(来れる)人たちに関しては、そう思う。

その渦は、それを観察している僕も巻き込んでいく。あまり買い物をしない僕でさえ、そこにいると周りの人と同じように、なんとなく楽しい気持ちになる、というか、楽しい気持ち以外はその場に想定されていない。ショッピング・モールの圧倒的な量の商品と賑やかな店内の装飾がアメリカの富の明るい部分だけ極端に照らし出し、そこで10ドルでも使えば、たちまちその富の一部になったような錯覚を生む。

現実社会の不平等を消費の力で一瞬でも忘れさせるショッピング・モールは、「アメリカ人」を生み出す原動力の一つを体感できる場所として、いつ足を運んでも興味深い。

そんなことを考えながら、自然と足が向かったのは、赤ちゃん服のコーナー。生まれたばかりの子どもに何か買おうか。人気ブランド「Carter's」の乳幼児用の服が4割引きだった。買う前に妻に電話したところ、「Carter'sは自社サイトでよく半額セールしてるから買わなくていいわ」とのこと。結局、いつも通り何も買わず家に帰った。家に到着すると、子どもがおっぱいをくわえながら眠っていた。

緑色が好きなので買おうかと思って買わなかった子供服

2015年11月14日土曜日

アメリカの出産費用と保険制度、多様な国民生み出す背景

妻が出産したロサンゼルスの病院から出産費用の請求書が来た。

費用合計 2万1657ドル(264万円)

とんでもない額にケタを数えて確認した。

その下に保険会社支払予定額として同じ金額が記載されていたから、自己負担予定額はゼロだった。今回の出産費用が保険でカバーされることは知っていたけれど、日本円で264万円もの費用が出産にかかること自体に改めて驚いた。

アメリカでは出産費用自体が驚くほど高い一方で、低所得者世帯の出産費用に対する公的な支援が整っており、これは多くの低所得者を含む移民の包摂に大きな役割を果てしている。

貧困レベルの所得の家庭は「Medicaid」という公的医療保険制度を利用すれば、自己負担なしで、連邦政府と州政府から出産費用を給付してもらえる。この制度は市民権運動を含むリベラルな社会運動が盛んであったリンドン・ジョンソン政権下で成立した。

連邦政府が定める貧困レベルの所得は、2人世帯では1万5930ドル(194万円)。カリフォルニア州の場合、この貧困レベル所得の約4割増し以下の所得の人は「Medicaid」を利用できる。つまり、夫婦二人の家庭であれば、世帯所得が2万1708ドル(265万円)以下であれば、まったく自己負担なく出産することができる。

この制度が使えれば、出産費用の心配なしに出産できるけれど、僕と妻の所得合計は年間265万円を超えている。貧困レベルではないものの、出産をカバーするような高額の民間保険には加入していないし、自費で200万円を超えるような出産費を払うこともなかなか厳しい。どうしようか。

そういう家庭に対して、カリフォルニア州では「Medi-Cal Access Program (MCAP)」という制度を設けている。制度名は2014年7月に旧「Access for Infants and Mothers Program(AIM)」から「MCAP」に変わった。

MCAPの規定では、これから生まれてくる子供を含めて3人世帯の世帯所得が月3567~5392ドルの場合、642~971ドルの制度利用費を一度支払えば、妊娠・出産費用を給付してもらえる。手続き上、指定された民間の保険会社に加入するけれど、保険会社に対しては何も支払わなくてもいい(ロサンゼルス郡の場合、保険会社は「Anthem Blue Cross」)。

我が家の場合、申請した月の僕のティーチングアシスタントとしての給料と妻のバイト料を足すと、3567ドルを少し超える程度になったので、この制度を利用することができた。というわけで、出産にかかった費用は、MCAPの制度利用費の約650ドルだけだった。

アメリカでは医療費と保険料がそもそも高すぎることが貧富の差の再生産につながっている。ただ、少なくとも出産に関しては低所得者に手厚い支援があることも実感できた。

MCAPのサイトから

ちなみに、我が家の場合、MCAP申請(当時はAIM)から出産までは以下のような形で進んだ。

1.ネットで見つけた医療機関(Asian-Pacific Health Care Venture)で妊娠証明書を手に入れる。スタッフと一緒にAIMの申請書に記入する。
2.スタッフと一緒に準備したAIM申請書類、妊娠証明書、所得を証明する小切手のコピーをAIMに郵送する。
3.AIMから申請内容確認の電話を受ける。
4.AIMから申請受理の通知が郵送される。
5.指定された保険会社から、保険カードが郵送される。
6.保険会社が指定した医師から診察を受け、産婦人科医を紹介してもらう。
7.出産までの間、その産婦人科医から定期的に診察を受ける。
8.産婦人科医と提携している病院で出産する。


ところで、非合法移民がアメリカで出産する場合はどうだろうか。

彼らは一般的な「Medicaid」に加入できない。けれど、救急救命扱いで出産した場合、その費用は公費でカバーされ、実際に多くの非合法移民がこの方法で出産している。これについては、移民反対派は「出産目的の不法入国を助長する」と批判し、移民擁護派は「彼らの移民目的は労働であって出産ではない。出産前の診察などのケアを受けられないから不十分」と反論している。

非合法移民のほとんどはアメリカ経済を影で支える低賃金労働者だ。もはや彼らなしのアメリカ社会は考えられない。「低賃金で働いてほしいけれど、子どもは生んではいけない」という考え方は明らかに不平等であり、彼らの人権を侵害する。そういう意味では「救急外来」扱いの良し悪しは議論の余地が残るものの、彼らの出産費用が公費でカバーされることは重要なことだ。

アメリカには21世紀に入っても、移民が流入し続けている。アメリカで生まれた子どもは、アメリカ国籍を持つ。移民の流入とそれに伴う出産は、多様なアメリカ国民を生み出してきた。妻の出産を通して、アメリカ政府が外国人の出産をどのように支援しているのか具体的に知り、考えるきっかけになった。


日本の場合、外国人でも国民健康保険か勤め先の健康保険に入っていれば出産育児一時金を給付され、出産費用として使うことができる。

多くの外国人が住む愛知県では、県内の医療機関、大学、自治体が共同で「あいち医療通訳システム」を運営。ホームページでは不法滞在者(非合法移民)に対する医療機関の対応についても詳しく説明している。

同システムによると、不法滞在者は国民健康保険には入れないが、勤め先の健康保険には入れる。ただ、無保険の不法滞在者の場合、自費診療となる。その際、医療者は「確実なコミュニケーション確保のために医療通訳者を入れること、治療費のおおよその総額を最初に伝えること、安価な方法でどこまで治療するかを患者とよく相談する」が必要があるとしている。不法滞在者への対応は「病気やけがに苦しむ一人の人間であるとすることから出発するとよいでしょう」としている。

日本では移民受け入れの議論が活発化しているけれど、外国人を労働力としてしか捉えていない議論も目立つ。また、移民が増えれば、様々な理由で滞在が超過する人も増えるけれど、不法滞在者に対する理解は乏しい。愛知県の同システムのように、合法であれ不法であれ、外国人を「一人の人間」として理解しようとする認識と仕組みが政府主導で全国的に広がること、そして、すでに国内に定住した移民とその子孫について歴史的な理解を深めることなしには、どんな移民政策も失敗するだろう。

・MCAPのサイトは、こちら
・MCAP対象者の所得基準は、こちら
・非合法移民の出産費用については、こちら
・「あいち医療通訳システム」による不法滞在者への対応は、こちら

2015年11月1日日曜日

ロサンゼルスで出産、移民看護師が支える医療現場

最近、ロサンゼルスの病院で妻が出産した。移民を含む多様な人々によって支えられているアメリカの医療現場について理解を深める機会にもなった。

出産予定日を4日過ぎても陣痛が来ないため、妻が産婦人科クリニックを訪ねると、インド出身の医師から「羊水の量が減っているから、すぐにでも(出産予定の)病院に行ったほうがいい」と指示された。

大学の授業中に妻からメールを受け取った僕は、授業後の午後3時半からのオフィスアワーをキャンセルして、すぐに電車に飛び乗った。駅で待っていた妻とお義母さんと一緒に車で病院に向かった。アメリカでは、出産前に妊婦が通院する産婦人科クリニックと実際に出産する病院が異なる場合が少なくない。

病院はカリフォルニア州でも屈指の大病院「Ceders-Sinai Medical Center」。ビバリーヒルズ近くの病院で有名人も出産の際に利用するという。その病院は僕たちが指定したわけではなく、たまたま妻の産婦人科クリニックが提携している病院がそこだった。駅から20分ほど走ると、ユダヤ教のシンボル「ダビデの星」を掲げた大きな病院に到着した。

この病院は、1859年にロサンゼルスに移り住んだプロイセン王国出身のユダヤ人企業家カスペアー・コーンが1902年に設立した。1970年代には、美容業界の発展に貢献したユダヤ人マックス・ファクターの財団の寄付で、現在のメイン病棟が建設されたという。この病院はアメリカにおけるユダヤ系移民の成功を象徴する施設でもある。


病院に着くなり、妻は早速、超音波で羊水の量を改めて確認してもらう。白人女性の助産師さんは「羊水が少ないわね。この少ない状況で自宅で陣痛を待つのはよくないわ。陣痛促進剤を打って、今日生みましょう。ちょっと驚いたかもしれないけど、この方法しかないわ」とのこと。妻も僕も予定日を過ぎてまだかまだかと思っていたので、驚くというより、ありがたいという感じだった。

それから陣痛分娩室(labor and delivery room)へ。アメリカでは陣痛室と分娩室の区別はない。陣痛分娩室はアットホームな雰囲気の個室だ。必要な医療器材一式に加え、トイレやシャワー、テレビも付いている。まずは若い黒人女性の看護師さんが部屋を準備し、午後6時くらいに30歳代の白人女性の看護師さんが交代でやってきた。彼女がオキシトシンという子宮を収縮させるホルモンの入った点滴を妻の左手に打ち始めた。

「ロサンゼルスでは何をしているんですか」と彼女に聞かれたので、博士課程で歴史学を勉強していることを伝えると、「私も学部は歴史学専攻だったんですよ。弁護士になろうと思っていたけど、弁護士の仕事は向いてないと思って看護師になったの。こうやって赤ちゃんを世の中に出すお手伝いをする素晴らしい仕事だと思っているわ」と気さくに話してくれた。

午後9時くらいに彼女が「他の妊婦さんの出産が始まったから、別の看護師に引き継ぐわ」と言って、別の20歳代の白人女性に交代した。その後、陣痛がいよいよ強まり、妻が歯を食いしばる時間が増えたので、アメリカでは一般的な無痛分娩のための麻酔エピデュラル(epidural)を受けることになった。

エピデュラルを担当したのはインド系の麻酔科医。麻酔の作業をしつつ、「一日だけ私も京都に行ったことがあるわ。自転車に乗っている年配の女性が多いですね」と日本旅行の思い出を話してくれた。麻酔を始めてから15分ほどで妻の腰から下の感覚がほとんどなくなった。そのまま順調に子宮口も開いていった。

赤ちゃんの頭が見えてくるまで、医師は部屋にいない。それまでは看護師さんと僕が二人で、麻痺している妻のひざを持ち上げて、「One, Two, Three...Ten」と数えて妻がいきみやすいように手伝う。僕はそれを午前4時から1時間以上続けたので「立ち会い」というより分娩チームの一員という感じだった。無痛分娩で痛みはほとんどないものの、いきまないことには出てこない。いよいよというところで、病院勤務の産科医の女性が駆けつけて、赤ちゃんを取り出すと、最初は何か喉に詰まっていたけど、すぐに「ウンギャー」という産声が響いた。

出産分娩室の窓ガラス越しに見えるショッピングモールの背後から、赤ちゃんにとって初めての日光が差し込んできた。


分娩を終えると、産後ケアの個室(postpartum room)に移動した。妻を担当してくれた看護師さんは韓国出身の50歳代の女性。赤ちゃんの世話の仕方についてきめ細かく教えてくれた。いつも笑顔いっぱいで、妻も安心したらしい。授乳の仕方については「フットボールでやりましょう」と、フットボール選手のように妻の脇に赤ちゃんを挟んでお乳を飲ませる方法などを優しく教えてくれた。僕には赤ちゃんを布でミノムシのようにくるむ方法を教えてくれた。ちょうどカリフォルニアのメキシコ料理ブリトーみたいで、出産直後に別の看護師さんも「ちっちゃいブリトー(little burrito)ね」と言っていた。フットボールとブリトーが登場するアメリカらしい産後指導だ。

韓国出身の看護師さんは、僕たちが日本人だったので「私の母親は大阪で生まれたの。ちょうど最近亡くなったんです。父親が一年前に亡くなって母親は寂しくてしていたんでしょう」。僕らの赤ちゃんを見て「日本人の赤ちゃんは小さいことが多いけど、この子は大きいねえ」とニコニコ話してくれた。

彼女が午後7時ごろに勤務を終えると、代わりにフィリピン出身の30歳代の看護師さんがやってきた。赤ちゃんの体重を測るため、僕は妻を部屋に残し、ナーセリーという赤ちゃんの経過を確認する部屋に看護師さんと向かう。赤ちゃんを見失ったり、取り違えたりしないため、母親と父親の腕と赤ちゃんの脚には、同じ情報が記載されたタグをつける。看護師さんは僕と赤ちゃんのタグをそれぞれ確認したうえで部屋を出た。ナーセリーには赤ちゃんが二人ほどいたけど、出産後に新生児室に赤ちゃんを集めることが一般的な日本と違って、アメリカでは出産から退院まで基本的に母親と赤ちゃんは引き離されない。僕も簡易ベッドを出してもらい部屋に泊まれたので、一時的に大学に行ったものの、妻と赤ちゃんと一緒にいることができた。

産後ケア室では一泊目だけ夫の僕にも夕食を提供してくれた。

そのフィリピン人の看護師さんが翌朝まで世話してくれた。その後、出産2日後の朝まで、別のフィリピン出身の看護師さんが二人続いた。2008年のデータでは、ロサンゼルス郡で働く看護師のうち、フィリピン系は27%を占め、白人の35%に次いで多い。1960年代以降、フィリピン国内の雇用不足とアメリカ国内の看護師不足が合わさって、アメリカで働くフィリピン人看護師が増えた。1989年には一部のフィリピン人看護師に対して永住権を取得しやすくする法律も整備された。一方、1990年代の研究によると、アメリカ人看護師より所得が高いフィリピン人看護師の数は少なくないものの、それは夜勤や救急救命といった厳しいシフトに回されている結果であり、必ずしもフィリピン人看護師が平等に扱われているわけではない、という指摘もある。実際に僕らが産後ケア室にいた二泊三日は、どちらの夜も夜勤はフィリピン人看護師だった。夜勤して支えないといけない家族がアメリカにもフィリピンにもいるのだろう。


退院の朝、三人目のフィリピン人看護師から、40歳代後半くらいの細身のロシア人看護師に交代した。

妻は退院後に家の近所の小児科クリニックに通うことになっているけれど、なかなか医師と連絡がつかない。仕方ないので、妻はクリニックの留守電に伝言を残しておいたものの、予約が取れるか微妙なところだった。そんな状況に、ロシア人看護師は「きっと医院から折り返しの電話はないでしょう。アメリカは日本と違うの。私は日本人の労働倫理が好きよ。決めたらちゃんとやるでしょ。ロシア人もそうよ。決めたら実行よ」とロシア語なまりの英語で痛快に語る。それだけならいいけれど、僕と廊下を歩いているときに出会った他の看護師や医師にも「彼は日本人よ。私のイメージ通り。私は日本人の労働倫理が好きなの」と言って回るので、なんだか小恥ずかしくなった僕は「そんなことないです」と小さな声を挟むことしかできなかった。

結局、出産から退院まで代わる代わる10人の女性看護師のお世話になった。白人が4人、フィリピン人が3人、韓国人が1人、ロシア人が1人、黒人が1人。言いかえると、アメリカ出身者が5人で、海外出身の移民が5人だ。妻の出産を通して、多様な背景の人材が集まってアメリカの医療が支えられているという現実を垣間見ることができた。

見ている限りでは、看護師と医師との関係は主従関係というよりは、いい協力関係という感じで、移民であろうがなかろうが、看護師の立場に敬意が払われているような印象を受けた。人種・エスニシティの違いで役割分担が異なるアメリカの社会構造を根本的に変えるわけではないものの、アメリカの医療現場は移民が社会に包摂されていく現場となっている。

妻も看護師さんたちのおかげで安心して退院できたようだ。子どもが大きくなったら、お世話になった看護師さんたちの話をしてあげたい。

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2015年10月12日月曜日

マクドナルドで垣間見る戦争の傷跡、メキシコ系退役軍人の「忍耐」

勉強するときにはよく近くの喫茶店を利用する。スターバックスなどのチェーン店に行くこともあれば、ローカルな喫茶店に行くこともある。コーヒーの消費量が世界一多いアメリカだからか、どの喫茶店もだいたい混んでいる。空席が見つからないときや人が多くて落ち着かないときに便利なのはマクドナルドだ。

3年前にロサンゼルスに来たころは、健康志向のアメリカ人の友だちがマクドナルドを毛嫌いしていたので、あまり人気がないのかと思っていたけど、実際にマクドナルドの中にいると人種・エスニシティや世代に関わらず人気だということが分かり、なんとなくほっとする。近所のマクドナルドは席数が多く長居できるので気に入っている。

先日、そのマクドナルドでアイスコーヒーを飲みつつ作業していると、近くのメキシコ系の男性二人の会話が耳に入ってきた。一人は60歳代で、もう一人は40歳代くらい。

英語の会話に時折スペイン語が入る。どこかの病院の話をしているらしい。「あそこにいる人たちはプーロ・ラサ(puro raza)だよ」。スペイン語の「raza」は英語の「race」で「人種」という意味だけれど、アメリカではメキシコ系の同胞という意味合いもある。

しばらくすると、60歳代の男性が僕に「ペンを貸してくれるかな」と話しかけてきたので、すぐに手元のペンを手渡した。40歳代の男性に病院の住所を書いて教えてあげたいらしい。ペンを返してくれたとき、40歳代の男性が「学生みたいだけど、何を勉強しているの」と聞いてきたので「移民の歴史を勉強しています。日本人とメキシコ人の」と答えた。僕が日本人であるとわかったので、その男性は自分の姪が日本に交換留学したいと言っていると教えてくれた。

「交換」という言葉が出てきたので、60歳代の男性がカリフォルニア大学ロサンゼルス校と南カリフォルニア大学では戦争で障害を負った退役軍人に対する交換教育プログラムがあると話し始めた。本人も退役軍人らしい。
「ベトナム戦争に行ったよ。認識障害はないけど、記憶障害がまだ残っている。戦争から帰った後はシェル石油の技師をしていたけど、もう引退した」「どうにか生きていくには、paciencia(パシエンシア=忍耐)が必要だ。Sin paciencia, no hay nada(忍耐なしには何もできない)」と教えてくれた。

すると40歳代の男性も「退役軍人の中にはストレスで自殺する人も多い。マクドナルドの中の雑音だって銃撃の音に聞こえるんだよ」「あなたはpacienciaがあるね。多くの人はこうやって話しかけても何も聞いてくれないことがある。君はこうして私たちの話が聞いているからグッドパーソンだ」と言ってくれた。

どうやら、この40歳代の男性も退役軍人らしく健康面で問題を抱えているようだ。60歳代の男性は病院の住所を伝え、「Te cuidas, Amigo(お大事に)」と声をかけて帰っていった。
アメリカは海外で軍事活動を続けている。ベトナム戦争やイラク戦争などでは多くの現地の人々がアメリカ軍に殺された。アメリカ軍の兵士も殺され、生きて帰っても心身ともに障害を抱える人が少なくない。そういう終わらない戦争の現実をマクドナルドで垣間見た気がした。アメリカであれどこであれ、政府の号令で一般の人々が「paciencia」を強いられている。

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2015年10月3日土曜日

フィリピン人移民の歴史刻む街、日本語使える料理店

アメリカの主要な移民集団は、ロサンゼルスのどこかにエスニック・コミュニティを持っている。これまで日本人、メキシコ人、中央アメリカ出身者、中国人、韓国人、カンボジア人、ベトナム人、エチオピア人など様々な移民集団のエスニック・コミュニティを訪ねてきたけれど、フィリピン人のコミュニティには行ったことがなかった。フィリピノタウンがあると聞き、妻と訪ねてみた。

2010年の国勢調査によると、フィリピン系住民は全米に約340万人おり、アジア系住民の中では中国系(約401万人)に次いで人口が多い。ロサンゼルス市内には様々な地域でフィリピン系住民が暮らしている。その中でも歴史深いエコパーク地区のフィリピン系集住地が2002年、市から「ヒストリック・フィリピノタウン(Historic Filipinotown)」として認定された。

フィリピノタウンの東端に掲げてある標識

アメリカのフィリピン人移民の歴史は、アメリカのアジア進出の歴史でもある。

19世紀中ごろまでに北米大陸内で先住民を迫害しながら領土を拡大したアメリカは、19世紀の終わりにその領土を海外にまで広げていく。その契機となったのが1898年の米西戦争。この戦争に勝ったアメリカは、スペイン領だったフィリピンを獲得してアメリカ領土に組み込む。アメリカは同じ年にハワイも併合しており、それ以降、フィリピンからハワイに向かう移民労働者が増えていく。
こうしてアメリカの帝国化がフィリピン人移民の増加につながっていった。

カリフォルニア州では1924年の移民法で日本人移民が禁止されると、それに代わる労働力としてフィリピン人移民労働者が増えていく。1924年の移民法はアジア人移民全体を禁止するものだったけれど、当時、アメリカ領内だったフィリピンからの移民は許されていた。その後、カリフォルニア州内のフィリピン人はメキシコ人とともに安価な労働力として経済的に搾取され、人種差別の標的になっていく。

この時期に、エコパーク地区のフィリピノタウンでは、フィリピン人移民の団体や教会が活動を開始している。搾取や差別に苦しむフィリピン人の若者を支えようと1928年に創設されたフィリピノ・ディサイプルズ教会(Filipino Disciples Church)は今でも地域を見守っている。

フィリピノ・ディサイプルズ教会

教会を見た後は近くのウニダー公園(Unidad Park)に向かった。この公園には、フィリピン人とフィリピン系アメリカ人の歴史を描いた巨大な壁画がある。フィリピン人の国民意識が発展していく過程とフィリピン系アメリカ人の貢献をテーマに、芸術家エリセオ・アート・シルバ(Eliseo Art Silva)が1995年に制作した。

アメリカでアジア系アメリカ人の歴史を学ぶ際には必ずと言っていいほど登場する作家のカルロス・ブロサン(Carlos Bulosan)らフィリピン系の重要人物が描かれている。壁画中央には1960年代に農業労働者運動を推し進めた活動家ラリー・イトリオン(Larry Itliong)も描かれている。

カルロス・ブロサン(左端)やラリー・イトリオン(中央下の右手を上げている男性)、さらにセサル・チャーベス(右下の茶色のジャケットの男性)らが描かれた壁画の一部

1960年代の農業労働者運動はメキシコ系アメリカ人の運動として捉えられがちだけれど、実はフィリピン人労働者が起こしたストライキにメキシコ系が参加するという形で発展した。フィリピン系の功績も公平に評価しようと、ニューヨーク・タイムズが2012年に「労働闘争の忘れられた英雄」と題して記事でイトリオンを取り上げている。

とはいえ、ともに労働者運動を展開したメキシコ系に対する敬意を込めて、公園の壁画にはメキシコ系指導者のセサル・チャーベス(Cesar Chavez)も描かれていた。


教会と公園を歩いたけれど、フィリピン系らしい人はほとんど見ない。この地域には1万人近いフィリピン系住民が暮らしているらしいけれど、住民の多くはメキシコ人ら中南米出身のラティーノだという。公園内でもラティーノの子どもたちがブランコや滑り台で遊んでいた。

フィリピン系の活躍を記念するウニダー公園で遊ぶ子どもたち

フィリピン系の人々が集う場所はないだろうかと思い、近くのフィリピン料理店「Bahay Kubo Restaurant」に向かった。やや薄暗い店内の奥にフィリピン料理が並ぶカウンターがあり、フィリピン系の客が次々とやって来ては好みの料理を注文していた。

見たことのない料理で、もちろん名前も分からない。店員のおじさんが「コンボ(セット)なら、ここから料理を二種類選んで」と教えてくれた。僕は煮魚料理と豚肉と野菜の土手煮のようなものを選んだ。妻はなんだか分からないシチューみたいなものを二種類選んだ。

フィリピン系の客が次々とやって来て料理を注文する。

注文しているとき、店員のおじさんが「Are you Chinese?」と聞いてきたので「Japanese」と答えると、次は日本語で「日本語うまいよ。日本には15年住みました。札幌も名古屋も横浜もいろんなところに住みました」と話しかけてきた。こちらも日本語に切り替えてフィリピン風の豚肉の串焼きを追加で注文した。

席に着いて早速いただく。初めて食べるフィリピン料理は予想以上に美味しかった。土手煮のような料理には、豚(おそらく)の肝臓、腸、肉がピリ辛風に煮込んであり、かなり美味しい。妻が選んだシチューみたいなやつは、味がしっかりついた牛肉料理とクリーミーな鶏肉料理でどちらも食が進む。串焼きも甘いバーベキューソースが効いていて大満足だった。

牛肉料理(写真左)と鶏肉料理(写真手前)はどちらも食が進む。

ただ、魚料理は少しハードルが高かった。ミルクフィッシュ(サバヒー)という淡水でも生きる海水魚のスープで、真っ白な身の内側にトロッとした脂が付いている。やや生臭いので、日本人の中には苦手な人もいるだろう。

魚料理(写真手前)はやや生臭いけれど、レモンの効いたスープが美味しかった。肝臓や腸が入った豚肉料理(写真左上)はピリ辛で美味しい。

料理だけでなく、ときどき日本語で話しかけてくる店員のおじさんとの会話も楽しかった。

「(ロサンゼルスには)遊びで来ているの」
「勉強で来ています」
「この店ははじめてでしょ」
「はい、はじめてです」

おじさんが隣の席のフィリピン人客のおばさんに僕の答えを通訳して伝えると、おばさんが僕らにニコッと微笑みかけてくれた。

フィリピン系の客で賑わう店内。右手にスプーン、左手にフォークを持って、肉などを切り分けながら食べている人が多かった。

おじさんに「日本にはいついたんですか」と聞くと、「2000年から2015年。3年前にこっち(ロサンゼルス)に来た」と言うので、2015年に来たのか、2012年に来たのか、よく分からないなあと思いつつ、とにかく最近まで10年以上いたんだろうと理解した。続けて「東京ではお弁当を工場で作ってたよ。一日、4万個。(午前)2時からずーっと」と懐かしそうに教えてくれた。

日本であれ、アメリカであれ、僕たちの知らないところで、移民労働者が社会を支えてくれている。このおじさんは10年以上暮らした日本を離れてロサンゼルスに来たわけだけれど、どのような理由で来たのだろうか。アメリカに比べると日本は安全だけれど、移民とその子どもを社会全体で支える仕組みが十分に整っていない。そういった受け入れ環境の違いも影響しているのかもしれない。

食事を終えて席を立ち、おじさんに「ごちそうさまでした」と伝えると、「また友だち連れて来てね」と笑顔で言ってくれた。エスニック・コミュニティの魅力は、地域の人が愛する料理を食べ、地域の人と会話をすることで、しっかり記憶に残っていく。

・国勢調査のアジア系について報告は、こちら
・フィリピノタウンについては、こちら
・教会の歴史については、こちら
・ニューヨーク・タイムズの記事については、こちら

2015年9月18日金曜日

スキ焼きで祝う感謝祭、戦前の日本人留学生

水曜日の午後6時から、日本料理店「一富士」でスキ焼きパーティがあるらしい。行こうかな。

そう思わせる戦前の新聞記事を、1903年に創刊したロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」を調査中に見つけた。その記事は1929年11月に発行されたもので、見出しは「スキ焼會、ツロジャン倶楽部が開催、水曜日夜一富士で」。記事は以下のように続く。
南加大学日本人學生はツロジャンクラブ主催で水曜夜六時から一富士でスキ焼き會を開き学生らしい感謝祭を祝うと日本人學生の参會を希望すと申し込みはワイ會館へ
ロサンゼルスの南加大学に通う日本人留学生が感謝祭(Thanksgiving)に合わせて開くスキ焼きパーティーの参加者を募っている。

南加大学とは南カリフォルニア大学(University of Southern California)のこと。戦前の日本人移民は「南カリフォルニア」を略して「南加」と呼び、この言葉は今でも一部で使われている。英語では南カリフォルニアは「So Cal (ソーカル)」と略すのが一般的だ。

ちなみに、この「ツロジャン」とは南カリフォルニア大学のマスコット「トロージャン(Trojan)」のことで、この大学に通う学生の代名詞にもなっている。

日本人移民は1924年から全面的に禁止され、それが日本国内の反米感情を強める一因にもなった。それでも留学生のアメリカ入国は許されており、こうしてロサンゼルスでスキ焼きを楽しむ日本人もいた。アメリカ人であれば家族で団らんする日だけれど、家族と遠く離れて暮らす日本人ツロジャンたちは仲間同士で集まって束の間の故郷の雰囲気を楽しんだのだろう。

スキ焼きパーティーの記事を読みながら、今も昔も日本人留学生は同じようなことをしているなと思いつつ、この時代の留学生はスキ焼をつつきながら日米関係や日本(帝国)の将来についてどのように考えていたんだろうかと考えさせられた。

田中角栄内閣で官房長官を務めた二階堂進は、このスキ焼きパーティーの3年後、1932年に南カリフォルニア大学に留学し、1941年に国際関係学で修士号を取得している。

ウィキペディアによると、同年8月に帰国。日米開戦後の1942年の衆議院選挙に大政翼賛会の支援を受けずに立候補し、日米関係の改善を訴えるも落選。戦後の1946年の選挙で当選し、1972年の日中国交正常化に尽力した。

きっと二階堂さんも留学中、悪化していく日米関係に危機感を感じ、だからこそ帰国後、対米戦争を推し進める大政翼賛会の推薦を受けずに国政に挑戦したんじゃないだろうか。日本に帰ったら彼の伝記を読んでみたい。

・二階堂進の学歴については、こちらこちら

2015年8月31日月曜日

羊肉串焼き店で聞く満州の歴史、日本語を話す朝鮮族

秋学期が始まった。今学期はアメリカ史の授業のティーチング・アシスタント(TA)をする。
アメリカの若者にとって歴史の授業は最も退屈な教科と言われているけど、それがなぜ退屈か社会学的に理解したうえで、彼らが高校までに学んだ歴史の内容が本当に正しいといえるのか歴史学的に再検討する。

授業のテキストを読むため、コリアタウンの韓国系喫茶店に行った。2時間ほど本を読んでから、そのすぐ近くの羊肉串焼き店に夕食を食べに行った。

羊肉の串焼きがメインだけど、メニューには朝鮮・韓国料理も多い。店員の女性が中国人の客には中国語で、韓国人の客には韓国語で対応している。中国語も韓国語もかなり流暢だ。おそらく中国の朝鮮族の人だろう。

その女性が羊肉の串を10本ほど持ってきて、各テーブルに設置された炭火で焼いてくれる。3本か4本の串をまとめてつかみ、くるくる小まめに串を回転させながら、万遍なく熱を加えていく。羊からしたたる油が炭火をさらに強くする。

この店では羊肉を中心に豚肉、牛肉、鶏肉の串焼きを食べることができる。ウシのペニス(写真左)という珍味も食べたけれど、味は特別なかった。
「脂が多いですからね」

女性はいきなり日本語で言った。どこで勉強したんだろうか。発音もいい。
「日本語うまいですね」と言うと、ニコッとしている。さらに話しかけてみた。

「ここの料理は中国料理ですか」
「そうですよ。内モンゴルの料理です」
「じゃあ、モンゴル語も話せるんですか」
「いえ、中国語と朝鮮語と。中国の朝鮮族なんです。北朝鮮の上にある吉林省で」
「けど、とても日本語うまいですね」
「吉林省の学校では、外国語の授業は英語じゃなくて日本語だったんです」

串を回しながら教えてくれた。

「僕も韓国に行って朝鮮語を少し勉強しました」「たくさん勉強したけど難しかった」とぎりぎり保っている初級朝鮮語で伝えると、女性は朝鮮語で一気に話してきた。全部は聞き取れなかったけど、「朝鮮語は日本語に発音や文法が似ているから、朝鮮族の私は日本語を覚えることも比較的簡単で、それが理由で、日本人から『日本語の発音がうまい』と言われることがよくあります」という内容だということは分かった。

女性が他の客の対応をしている間に羊肉を楽しむ。何か分からないけど、赤いスパイスをつけて食べる。しばらくして、女性が残りの串を回しに来てくれたので、さらに話を聞いてみた。

「吉林省では、日本語の授業はいつごろまでやっていたんですか」
「20年前くらいですかね。私のおばあちゃんは日本語ぺらぺらでしたよ。私が日本語の授業で分からないことがあると、おばあちゃんが教えてくれました。おばあちゃんのころは日本語だったので。日本が昔ね、あの、あれしたときにね」

吉林省を含む満州を日本が侵略したということだけど、僕に気を遣ってか言葉を選んでくれている。

「おばあちゃんのころは、日本語を話さないとね、あの・・・」と言うから、「いじめれたり、おこられたり、ですか」と加えると、うなづいてきた。

女性は40歳代くらいだけど、この世代の吉林省出身者がみんなこれだけ日本語が流暢なわけもないだろうと思い、「高校の後も日本語を勉強したんですか」と尋ねると、「ええ、自分で勉強して。日本語が勉強したくて日本に留学しましたよ。東京に何年か」と教えてくれた。

女性は中国語、朝鮮語、さらに日本語を流暢に話す。語学好きの僕としては、すごいなあ、いいなあ、と思う。
それと同時に、複数の言語を話す人々がいるということは、歴史的にどういうことなんだろうか、ということも考えざるを得ない。

日本では日本語しか話せない人がほとんどだけど、世界を見ると複数の言語が話せる人は多い。そういう人たちは、自分の民族が受け継いできた言語に加え、かつてその民族を支配していた国の言語を話すことが少なくない。

この朝鮮族の女性が、朝鮮語に加えて、中国語と日本語を話すということは、彼女の努力に加えて、中国と日本の影響を受けてきた満州の歴史も伝えている。複数の言語を話す人に感心するだけでなく、その背景にある歴史も理解するように努めていきたい。

2015年8月18日火曜日

大統領予備選、ドナルド・トランプ候補、排外主義的発言で支持拡大

2016年アメリカ大統領選に向けたキャンペーンが本格的に始まっている。
大統領選本番を前に、民主党と共和党でそれぞれ大統領候補者を一本化して公認候補を選ばないといけない。これを大統領予備選挙という。

民主党候補者としては、初の女性大統領になる可能性があるヒラリー・クリントンや、自ら民主社会主義者だと公言するバーニー・サンダースらが話題に上がっている。けれども、2015年夏の選挙戦報道は共和党候補者のドナルド・トランプ(Donald Trump)に集中している。

トランプは、アメリカの人気リアリティ番組のホストもつとめる実業家。不動産ビジネスが主な収入源で、この前、シカゴを旅行したときも、一等地のドュサーブル橋付近に「TRUMP」とサインを掲げた高層ビルが建っていた。

シカゴの一等地にトランプが建てた高層ビル(写真右)には「TRUMP」と彼の名前が記されている。

2015年8月現在、共和党からは18人が大統領選に立候補する意思を示しているが、その中ではトランプが群を抜いて支持を得ている。この高い支持率の背景には、移民問題に対する彼の極端に強硬な姿勢が保守層の一部に受けていることが挙げられる。

ドナルド・トランプ(写真左から5人目)ら共和党予備選挙の候補者ら(KTLAホームページから)

今年6月、トランプは選挙戦開始のスピーチで「(メキシコからの移民は)薬物を持ってくる。犯罪を犯す。彼らは強姦犯だ。そして、おそらく一部はいい人々だろう」と発言。アメリカ経済を支えているメキシコ人移民全体を犯罪者扱いするような発言であり、ラティーノ・コミュニティやリベラル層からトランプを批判する厳しい声が上がった。

この発言を巡り、共和党予備選候補者の討論会で司会者に「証拠はなんですか」と問われると、トランプは「私が候補者じゃなかったら、あなたも不法移民について語らないでしょう」とごまかしたものの、それでも聴衆の拍手を得た。

さらに今月、彼が示した非合法移民対策が物議を醸している。

彼は、アメリカ・メキシコ国境全域に壁を建設することだけでなく、アメリカ生まれの子どもにアメリカ国籍を与える法律(憲法修正第14条)を無効にすることも訴えている。さらに、幼少期に非合法移民の親とともにアメリカに来た若者たち(通称ドリーマーズ)は一時滞在が許されているが、そうした許可も無効にすると発言している。

共和党支持者の中でも特に保守的傾向が強い層は、移民の流入で変わりゆくアメリカ社会に不満や不安を抱いており、排外主義的な主張を躊躇なく繰り返すトランプはそうした不満の受け皿になっている。

トランプは厳しい国境管理による非合法移民の排除という国民国家の原則論に訴えることで正当性を得ようとしているものの、移民によって築かれたアメリカ社会の現実を完全に無視している。

さらに、トランプが第14条を批判して話題になると、世論調査で後れを取る他の共和党候補者らも第14条について似たようなことを言いだした。19世紀の共和党が奴隷制を廃止して生み出した第14条を、21世紀の共和党が移民問題を理由に潰そうとしている。

社会学者のサスキア・サッセンやジャーナリストのフアン・ゴンサレスが指摘するように、多くの非合法移民を含むラティーノ移民は、ラテンアメリカに対するアメリカの軍事的・経済的介入の結果であり、そうした移民が今日もアメリカ経済を支えていることは否定できない。

ロサンゼルスの地元テレビ局KTLAの記事によると、こうしたトランプの発言に対して、移民支援団体の代表は「彼の極端な考え方には言葉を失いますし、危険な方向に向かっています」「トランプ氏の計画はアメリカに暮らす1,100万人の勤勉な移民たちを捕まえて強制送還することができる警察国家を生み出すことになるでしょう」としたうえで、「幸いにも、そうした考え方は一般的に受け入れられておらず、機能もしないので人気もありません。ですから、実際には実施されないでしょう」と述べている。

その言動が共和党内からも多くの批判を浴びているトランプ氏が大統領に当選する可能性は低いだろう。しかし、排外主義的な主張を繰り返すトランプは、ニュース番組だけでなく芸能番組にも連日取り上げられており、このまま共和党の予備選を勝ち抜く可能性はある。そうすれば、曲りなりにも箔が付く。

「私は本当に金持ちだ」と豪語する資産13億ドルのトランプにとっては、世間の話題の中心となり、何らかの形でアメリカ政治に自分の名前を残すだけでも、2016年の大統領選はいい投資なのかもしれない。しかし、彼の人気は排外主義に支えられている。メキシコ人を中心とするラティーノ移民にとってはたまったものではない。

・トランプに関する記事は、こちらこちら、またこちら
・KTLAの記事は、こちら


ベトナム難民の成功物語、人気調味料スリラッチャソース

一年ぶりにオレンジ郡のベトナム系コミュニティ、リトル・サイゴンに昼ご飯を食べに行った。

ベトナム料理店「バンズ・レストラン(Van's Restaurant)」で、パリパリに焼いた生地で炒め物を包んだ「バンセオ」、エビとポテトの揚げ物、それに豚肉の生春巻きを注文した。

山盛りのレタスや香草と食べるバンセオ(写真左)

エビの揚げ物もレタスと香草で包んでいただく。

しばらくすると店員がレタス、シラントロ、ミント、ドクダミがてんこ盛りになった皿を料理と一緒に運んできた。レタスと香草でバンセオなどを包み、甘めのソースに漬けてから食べる。揚げ物の香ばしさ、香草の爽やかさ、ソースの甘さが絡み、めちゃくちゃ美味しい。ロサンゼルスではタイ料理やインドネシア料理、カンボジア料理も食べたけど、今のところ、東南アジア料理の中ではベトナム料理がいちばん好きだ。

レストランの壁にはキリスト誕生を描いた絵が飾ってあった。

テーブルにはオイスターソースなどと並んで、ホイ・フォン(Huy Fong)社のスリラッチャソース(Sriracha)というチリソースが置いてある。カリフォルニア産の唐辛子、酢、ニンニク、砂糖、塩が材料のドロドロとした赤いソースだ。ソースの入った透明のプラスチックボトルには、ローマ字や漢字で会社名などが印刷され、中央にはニワトリの絵が描かれている。地味なデザインだけどエキゾチックな感じがして印象的だ。

ホイ・フォン社のスリラッチャソース。写真はミャンマー料理店で売っていたもの。


このスリラッチャを知らないアメリカ人はいない、と言っても言い過ぎではない、おなじみの調味料だ。

ロサンゼルスのスーパーマーケットではほぼ100%売っているし、飲食店もアジア系であれば、かなり高い確率で置いてある。以前、人気のラーメン店にアメリカ人の友だちと行ったときも置いてあり、それはないやろと思ったけど、友だちは豚骨ラーメンの白いスープがうっすら赤く染まるくらいドロドロとスリラッチャを注ぎ込んでいた。

このスリラッチャを発売したのは、アメリカに移り住んだベトナム難民のデイビッド・トラン。1979年にアメリカに亡命。翌年、ロサンゼルス中心部のチャイナタウンに建てた工場でチリソース生産を始め、今では当初の100倍以上の広さの工場に移転し生産を続けている。

その工場が完成した2年前、CBSの朝のニュース番組がトランに取材している。

「私の商品が気に入らない人に対しては、どうしたのって思いますよ。なにかがおかしい。新鮮なもの、いちばんいいもの、安いものを使ってますよ」というトランに、記者が「辛すぎるという人もいますが」と質問。トランは「使う量を減らせばいいでしょ」と余裕で切り返していた。

トランが意気込んで稼働した新工場だが、稼働直後から問題を抱えてしまった。
工場から出る唐辛子の匂いを巡り、地域住民から不満が出たため、地元の役人が工場立ち退きに向けて動き出した。しかし、これだけ大きく成長した地元の会社を追い出せば、カリフォルニアで商売する人が減ってしまうという懸念もあり、ロサンゼルス・タイムズも社説で「カリフォルニアのために」工場の稼働を許可し続けるべきだと主張していた。結局、昨年5月、匂い対策に取り組むと約束したトランと地元自治体の間で話し合いが成立し、工場は存続することになった。

いずれにせよ、スリラッチャソースはアメリカに渡った移民の成功物語の一つ。トランは自分の会社をホイ・フォン社と名付けているが、「ホイ・フォン」は彼が難民として乗船した台湾の貨物船の名前だ。多くの人が楽しむソースは、いつも戦争の記憶も暗に伝えている。


食後は近くの菓子店にベトナム・コーヒーを買いに行った。いつも行く店がいつもの場所に見当たらない。近づいてみると、店舗スペースを半分に縮小して営業していた。

コーヒーの支払いの際に「この店もっと大きくなかったですか」と尋ねると、店員のおばさんは「レント・ハイ・アップ、セー・マニー(賃料が上がって。節約するため)」とベトナム語なまりの英語で教えてくれた。

濃くて甘いベトナム・コーヒーを飲みながら、ベトナム風サンドイッチ「バンミー」の店「トップ・バゲット(Top Baquette)」に向かう。前回リトル・サイゴンに来た際に友人が教えてくれた店だ。レモングラス・ビーフ味(3.5ドル)とバーベキュー・ポーク味(3ドル)をそれぞれ一つ買って、久しぶりのリトル・サイゴンを後にした。

レモングラス・ビーフ味のバンミー

・スリラッチャ製造元のホイ・フォン社のサイトは、こちら
・ロサンゼルス・タイムズの記事は、こちらこちら
・リトル・サイゴンについての本ブログの他記事は、こちら

2015年8月15日土曜日

アメリカで虫歯治療、社会保障と移民社会の平等

歯が痛い。右上の歯の知覚過敏がひどく、右下の歯も鈍く痛む(ような気がする)。
いややなあと思いつつも、やや生活に支障がでてきたので歯医者に行くことにした。

とはいえ、アメリカの医療費はめちゃくちゃ高い。僕は大学指定の歯科保険に入っているけど、高額な治療費を請求する近所の歯医者にぷらっと足を運ぶわけにはいかない。

そこで多くの大学院生が利用するのがキャンパス内の歯学部。歯医者の卵として日夜がんばっている歯学部の院生に治療してもらう。彼らの実習を兼ねているので治療費が安い。なんとなくどんな感じか見てみたいし何より安いから、歯学部治療室に向かった。


すぐに治療してほしい場合は予約なしで朝早くから歯学部ビルの入り口前で待つ。
午前7時半、職員が「グッドモーニング」と入り口のドアを開けた。受付を終えて待合室で待っていると、午前8時半くらいに東アジア系の小柄な女性の歯科学生が迎えに来た。「こんにちは、よろしくお願いします」と握手して治療室へ。

「一週間前から知覚過敏がひどくて、それが鈍い痛みになって。下の歯の奥の辺りから。歯の表面の虫歯も目で見て確認できました」と説明した。レントゲン写真を撮ると、右上奥から4番目の歯は明らかに虫歯。悲しいことに写真には他の虫歯もいくつか写っていた。この3年間のコーラ飲みまくりがたたったのかもしれない。

歯科学生の彼女が、親不知を取るとかなんとか言いだして、なんかいやな感じになってきたと思っていたところ、治療室を監督するラティーノの男性教授が「痛みの原因は親不知じゃないと思う。上の歯を治療するのが優先」と指示。その日はその右上の歯の根管治療を受けて神経を取り、仮の詰め物を入れてもらった。痛みも消えたから良かった。

とはいえ、日本語でも分かりにくい虫歯の治療について比較的早口な英語で説明されて精神的に疲れた。例えば、日本では一般的に「神経を抜く」と言われる「根管治療」は英語では「root canal(根管)」。ただ、「root canal」と連発されても最初は意味が分からず、それだけで不安になった。

この日の治療費は学生歯科保健が適用されて50ドル。それに薬局で痛み止めと抗生物質を24ドルで買ったから計74ドル支払った。

ただ、問題はそこからの治療。神経を取り除いた後はそこに本格的な詰め物をして、元の歯の形になるようにプラスチックなどで形成しないといけない。今後、継続して治療を受けるには歯学部の患者として登録する必要があると言われ、やむを得ず登録した。後日、登録患者の精密検査ということで合計20枚ほど歯のレントゲン写真を撮られた。学生1割引きで90ドル支払った。


その後、担当の女性歯科学生の都合が合わず、右上の歯の治療が中途半端なまま、先に左下奥から3番目の歯の治療を彼女の友だちの男性歯科学生にやってもらうことになった。

男性歯科学生は30歳前後のベトナム系で、物腰が柔らかく安心できる。

「ここの学生ですか。何を勉強しているですか」と器具を整理しつつ聞いてきた。
「移民の歴史を勉強しています。戦争の時の状況など。ロサンゼルスはいろんなエスニック集団が集まってきているので」
「そうですか」
「ところで、歯学部の学生は文化的にも人種的にも多様で印象的ですね」
「ええ、違う文化に接することができていいですよ。かつてサウスカロライナに住んでいたんですが、そこではほとんどアジア人はいなかったです」
「ベトナム系の人はサウスカロライナにどのくらいいるんですか」
「数千人だと思います。ロサンゼルスは多いですね」

麻酔注射を2発打ち込んだ後、指で揉んでなじませる。左あごと唇が麻痺した。この感覚はけっこう好きだ。

ラバーダムというゴム製フィルターで治療する歯以外を覆い隠した後、ドリルで歯を削り、ファイルという待ち針みたいなもので神経組織をほじりだす。ちゃんと神経組織が除去できているか確認するため、何回もレントゲン写真を撮る。治療するのは実習中の学生なので時間はかかるけれど、治療方法や器具が新しいのはありがたい。

「ベトナム人の患者が来たら、ベトナム語が話せる歯科学生が担当するんですか」
「そんなことないですよ。患者があえて希望すればそうなると思います」
「へえ、そうなんですね」
「僕が治療するのはアフリカ系やラティーノが多く、実はあなたが初めてのアジア人ですよ」

歯学部治療室を観察していると、すべての人種・エスニシティの患者が治療を受けている。歯科学生の人種・エスニシティも、アフリカ系が少ないものの、全体としてはとても多様だ。アメリカ以外の国で歯科医の経験がある外国人学生もちらほら。ベトナム系の彼によると、年間に5千人が応募、500人が面接に進み、入学できるのは150人程度という。

2日かけて神経を抜いてもらい、後日、左下の歯に丈夫な詰め物(コンポジットレジン)を入れてもらった。その日の帰りに歯学部の名前が入ったサンスター「G・U・M」の歯ブラシと「Sensodyne」という歯磨き粉をくれた。


この左奥の歯の治療には、ここまでで126ドル支払った。歯科保険がないと295ドルになるという。アメリカの一般の歯科医で無保険で根管治療を受けると、500ドル以上するらしいから、それに比べるとかなり安い。

日本の一般歯科で根管治療を受けた場合、保険適用で1本3~4千円らしい(専門歯科では高額に)。そう考えると、アメリカの虫歯治療はやっぱり高い。オバマ大統領が実現した医療保険制度、通称「オバマ・ケアー」は原則的に歯科保険を含まない。本当にお金のない人はどうなってしまうのだろうか。

日本の国民皆保険に比べれば、既存の保険会社を介し、歯科保険を含まないオバマ・ケアーを不十分と批判することは簡単だろう。
けれども、もともとアメリカでは低所得者の一部と高齢者らを除き、医療費をカバーする社会保障制度が整っていなかった。そうした厳しい現実を考慮すると、医療保険だけでも一部カバーしてくれるオバマ・ケアーがあること自体が、アメリカ社会の平等を支えるうえでかなり重要な改革だということがよく分かる。

同時に、日本の健康保険制度は、日本社会の平等を考えるうえで、今後さらに税率を上げてでもある程度しっかり維持していく価値があると思った。これは経済成長を重視しないということではなく、経済成長と社会保障のバランスをどう考えるかという問題だ。つまり、国内総生産が増加すると同時に不平等も拡大するような経済成長は望まないということだ。

アメリカの歴史を振り返ると、人種・エスニック集団間格差と経済格差を切り離して考えることはできない。アフリカ系やラティーノが低所得者層に多く、構造的な人種差別の影響で、そうした格差はこれまで再生産されてきた。

日本の国民健康保険は住民登録した外国人も加入できるし、しないといけない。日本で雇用された外国人も健康保険に加入しないといけない。今後、日本の人口は大幅に減ると予想されている。そんな日本の経済を支えるために移民を受け入れていくとしたら、そうした移民とその子孫を単なる労働力と捉えず、同じ社会に生きる人々として平等に扱わないといけない。そのような成熟した移民社会を築くためにも、社会保障制度は今後ますます重要になると思う。

2015年度の一般会計予算。社会保障費は歳出全体の32.7%(財務省ホームページから。クリックで拡大)
日本の将来人口推計。2050年に日本の人口は1億人を切ると予測されている。(内閣府ホームページから。クリックで拡大)


・アメリカの根管治療の費用については、こちら
・日本の根管治療の費用については、こちらこちら
・カリフォルニア州におけるオバマ・ケアー申請資格については、こちら

2015年8月9日日曜日

移民、ナポレオン、人種分離、歴史刻むニューオリンズ

7月のニューオリンズ二泊三日旅行の続き――

二日目の朝は宿泊したホテル「Q & C Hotel」すぐ近くの食堂「Majoria's Commerce Restaurant」で、ケージャン風エッグベネディクトを食べた。期待通りスパイシーで美味しい。アメリカ南部発祥のトウモロコシ粉を茹でた朝食グリッツ(grits)も注文。これはかなり質素な味わい。

スパイシーなケイジャン風エッグベネディクト

接客してくれたアフリカ系のおばちゃん店員が話す南部の英語はリズムがあり、その愉快な響きが朝から心地よかった。

その後は1718年に創設された聖ルイス教会へ。アメリカで最も古いカトリック教会の一つだ。涼しい教会内でしばらく休憩した後、教会に隣接し、18世紀末にスペイン庁舎として建てられたカビルド(Cabildo)へ。現在はニューオリンズを中心としたルイジアナの歴史を学ぶ博物館となっている。

聖ルイス教会(写真中央)の前にある公園ジャクソン・スクエアには、20ドル札に印刷されているアンドリュー・ジャクソンの像が立つ。教会の左手の建物がカビルド。

ここではルイジアナで暮らしていた先住民、17世紀末から代わる代わるこの地を支配したフランス、スペイン、そしてアメリカの歴史を紹介。その歴史は移民の歴史でもある。ニューオリンズは南北戦争(1861~1865年)前、ニューヨークに次ぐアメリカ第二の港町で、アイルランド人やドイツ人、イタリア人らに加え、ルイジアナに根付いたフランス文化に惹かれ、カリブ海地域やフランスからフランス語を話す移民もたどり着いた。

1820年代には1万人、1830年代は5万人、1840年代は16万人、さらに1850~1855年は25万人がニューオリンズからアメリカに入国したが、南北戦争後、その数は激減する。

戦争中は移民の海上輸送が困難になった。戦後はニューヨークとシカゴ、カリフォルニアを結ぶ大陸横断鉄道が完成したため、ニューオリンズからミシシッピー川の蒸気船でシカゴへ向かう必要性も減った。さらに、大型化した蒸気船でミシシッピー川の砂州を越えるのが難しくなった。これらが移民数激減の要因となった。

それは戦争や鉄道網の発展によって、経済発展と移民流入の重心がニューオリンズからシカゴに移っていく過程でもあった(シカゴについては、こちら)。移民の行き先がどこであれ、19世紀のアメリカ白人は、太平洋岸まで続く西部の広大な土地に自分たちの文明を広めるとともに、その恵みを享受する運命があると信じていた。「Manifest Destiny(明白なる運命)」として知られるこの思想は、西部に生きる先住民に対する侵略を正当化するものに他ならなかった。

このカビルドという博物館で、もう一つ楽しみにしている目玉展示があった。それは一時はヨーロッパの大半を支配し、北アメリカ情勢にも大きな影響を与えたナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)のデスマスク。やや無造作に展示されているのが意外だったけど、ガラス越しにナポレオンの顔を10分ほど見入った。ものすごい鼻が高い。考えようでは、ただの銅の「塊」だけれども、本人の顔で象られたデスマスクには「魂」も少し含まれているような気がして静かな迫力があった。

ナポレオン・ボナパルトのデスマスク


博物館の中を歩いていると、なんだか陽気な音楽が聞こえる。館内放送かと思いきや、二階の窓から博物館前を見下ろすと、アフリカ系男性8人のジャズバンドが演奏している。

カビルド前の広場でジャズを演奏するバンド

街中でジャズを演奏しているのは、このバンド以外にもいくつかあった。特に印象的だったのは、中高生ぐらいの男子たちのバンドだ。フレンチ・マーケットという食事や買い物が楽しめる場所で、シャーベットを食べながら、彼らの演奏を聞いた。Tシャツ、ジーパン、スニーカーという普段の恰好で観光客をもてなす彼らを見ていると、この街にジャズが根付いていることがよく分かる。

若者たちのジャズバンド

その後は、1890年代にルイジアナ州の人種分離政策に異議を唱えたホーマー・プレッシー(1862~1925年)の墓に向かった。

白人といっても不思議ではない外見のプレッシーだったが、黒人の血が流れていることを理由に、白人専用列車の乗車を拒まれ逮捕される。この人種分離政策に対して最高裁判決は、白人専用車を用いて社会的に人種集団を分離すること自体は合憲という内容だった。この判決は「分離すれども平等」という論理で人種差別を容認したプレッシー判決(1896年)として今日では知られている。

人種分離は人種差別を再生産し、奴隷身分から解放された多くの黒人を再び抑圧した。南北戦争後に発展したこの人種差別思想が、最高裁によって否定されるのは1954年のブラウン判決まで待たなくてはいけない。

というわけで、墓地まで歩いたものの、墓地は許可を得た観光ガイド付きじゃないと入れないらしい。外からなんとなく墓地の雰囲気は掴めたので「まあいいか」と、その場を後にした。


ホテルで休憩した後、街の中心部フレンチ・クオーターに戻って夕食を取ることにした。
口コミサイトで評判のいい料理店「Acne Oyster House」へ。ガーリックバターのかかった炭火焼牡蠣、ソフトシェルクラブという殻ごと食べられるカニの揚物、オクラでとろみをつけた魚介シチュー「ガンボ(gumbo)」に加えて、地ビールのアビータ・アンバー(Abita Amber)を注文した。

柔らかい殻ごど食べられるソフトシェルクラブの揚げ物

前夜も牡蠣を食べたけれど、この店の方がニンニクが利いていて美味しい。カニは腹の部分が食べ応えあり。ガンボもエビとカニなどの出汁が出ていて食が進む。ビールは麦芽の風味がしっかりしているけどマイルドで飲みやすかった。

ルイジアナの地元料理ガンボ

お会計を終えて、妻がトイレから出るのを待っている間、店員のアフリカ系のおばちゃんに「ルイジアナの人はガンボを家庭でも食べるんですか」と聞いてみた。

「食べるわよ。例えば、うちなら、シュリンプ、ホットサーシャ、スモールサーシャ、それにチキンウィング」と教えてくれたけど、「サーシャ」ってなんなんだ。改めて尋ねると「ホットサーシャよ」と同じことを言うから、んん~っと思ったけど、すぐにそれが南部英語で発音した「ソーセージ」だと分かった。
「いいですね。この店でそのガンボを出したらいいんじゃないですか」と返すと、おばちゃんはワハハと大きく笑って、ちょうどトイレから出てきた妻と僕に「来てくれてありがとうね」と言って仕事に戻った。

夕食後、夜のミシシッピー川沿いの公園を散歩した。ニューオリンズに来た移民の功績を記念する石像がライトアップされている。イタリア系アメリカ人の団体が1995年に建てたものらしい。土台には「自由、機会、そしてよりよい生活を新しい国に求めて母国を離れた勇敢な男性また女性たちに捧ぐ」と刻まれていた。

夜のミシシッピー川

ミシシッピー川に対岸の照明が反射して揺れる。翌日はロサンゼルスに帰る。今度はいつここに来るだろうか。もう来ないかもしれない。わからないけど、来てよかったとしみじみ思った。


2015年7月26日日曜日

ミシシッピー川とニューオリンズ、アフリカとヨーロッパが織り成す多様な文化

ルイジアナ州ニューオリンズ、アメリカ内陸部と大西洋を結ぶミシシッピー川河口の都市だ。
17世紀にフランス人が進出していた五大湖地域とメキシコ湾、さらに大西洋を結ぶミシシッピー川。その河口でニューオリンズが発展した。

先住民の狩猟社会だった河口地域は、17世紀以降、フランス、スペイン、アメリカが港町ニューオリンズとして支配した。その間に多くのヨーロッパ系またアフリカ系の人々が自発的また強制的に移住し、極めて多様でユニークな文化を生み出した。19世紀前半には環大西洋貿易の要所として、アメリカ資本主義の発展に大きく影響を与えた。

ふだんはアジアと縁の深いアメリカ西海岸に焦点を当てて勉強しているけど、アメリカ移民史を学び深めていく中で、ニューオリンズはどうしても行ってみたい街だった。行けるときに行ってしまおうと思い立ち、急きょ二泊三日の予定で妻と一緒にロサンゼルス発午前7時半の飛行機に乗った。


テキサス州ダラスで別の便に乗り換えて、午後3時ごろにルイ・アームストロング国際空港に到着。ルイ・アームストロング(1901~1971)はニューオリンズで発展した音楽ジャズを盛り上げたアフリカ系アメリカ人の演奏家だ。ジャズも聞きに行きたい。

街の中心部にあるホテルに着いて少し休憩した後、ミシシッピー川を臨む公園に向かった。川幅600メートルの広い川を茶色に濁った水がゆっくり流れる。

約200年前後には、大量のモノとヒトを載せた蒸気船がこの川岸にひしめき合っていたんだろう。ニューオリンズは天然資源が少なかったものの、市場経済が急激に拡大するなか、交易を通して発展。アメリカ産の農作物を大量に詰め込んでヨーロッパに向かった蒸気船がアメリカに戻る際、その空いたスペースにヨーロッパ人移民を乗せて帰ってきた。資本主義の拡大と移民の流入は切り離せない。この川が北アメリカ大陸の歴史に与えた影響を想うと少し胸が熱くなった。

ニューオリンズのミシシッピー川河口を貨物船がゆっくり上流へ向かう。
1820~1840年代のニューオリンズ港の様子
触れたくなったのでミシシッピー川に手を突っ込む。近くではホームレスの若い男性が水浴していた。

公園すぐ近くには1862年創業の老舗喫茶店「Cafe du Monde」がある。屋根つきのテラスで名物のベニエ(四角いドーナツ)とカフェオレを楽しむ。過去150年間にどれだけの人たちが世界中からニューオリンズに集まり、ここで長旅の疲れを癒したのだろうか。そういう人の流れに少し自分も参加できたような気がした。

平日夕方の「Cafe du Monde」は空いていてゆっくりできた。
山盛りにかかった粉砂糖のほのかな甘みが揚げたてのベニエに合う。

日本にも「ミスタードーナツ」を経営しているダスキンが「Cafe du Monde」の支店を小規模で展開しているけど、ミシシッピー川沿いの本店でしか味わえない歴史がある。


夜はジャズの生演奏を楽しめる有名なコンサート会場「Preservation Hall」へ。フランスやスペイン統治時代の面影を残す地区フレンチ・クオーターの中心部に位置し、午後8時からのライブに観光客やジャズファンが長蛇の列を作る。会場はフレンチ・クオーターで最古の建物の一つで、1960年代から優れたジャズ演奏家がバンド演奏を行う。平日は一人15ドルとチケットも良心的だ。
僕らも7時過ぎから並び、亜熱帯の蒸し暑さの中、ペットボトルの水を飲みつつ待った。

フレンチクオーター中心部にあるPreservation Hall(写真左側)には、開演1時間前から観客が列を作って待つ。

いよいよ開場。小さな会場に観客がぎっちり詰まる。たまたま一番前から2番目の席が空いていた。司会の若者に「それではプリザーベーション・ホール・オールスターズです!」と紹介されて演奏者6人が会場に入ってきた。5人はアフリカ系で、残りの一人は日本人女性ピアニストの「マリ・ワタナベ」という方だった。ジャズは奴隷音楽を含むアフリカ系音楽と西洋音楽が混ざって19世紀末から20世紀初頭に誕生したとされており、現在では世界で愛されている。

日本人ピアニストが本場ニューオリンズで活躍している姿に感激し、また奴隷貿易という人類の悲劇を背景にしつつ、いろいろな文化が混ざって誕生したジャズという音楽の包容力を実感した。

もちろんバンドの生演奏は即興的な要素が加わり圧巻。有名な「What a Wonderful World」を聞いた妻は「じーんときたわ。ジャズに詳しくなくても聞き入ってしまう」と感動していた。


ジャズを楽しんだ後は地元料理を食べに行く。ニューオリンズでは音楽と同様に料理も様々な文化が混ざって発展した。フランスを中心としたヨーロッパの料理とアフリカや先住民の料理などが混ざり合ったクレオール料理と、18世紀に現在のカナダ東部からルイジアナ州に移り住んだフランス系住民が継承したケージャン料理が人気で観光の目玉でもある。

この日は人気店「Oceana Grill」で、炭火焼牡蠣、ワニの揚げ物、ザリガニのエトゥフェー(étouffée)というスープ料理を食べた。エトゥフェーは魚介のダシが効いていて、ザリガニもたくさん入っていて食べ応えがあった。初めてのアメリカ南部。目で、耳で、舌でニューオリンズを満喫した。

スパイスの効いたケージャン風のソースがかかった炭火焼牡蠣

地元産ワニの揚げ物。まずくもなくうまくもない。

ザリガニ入りエトゥフェーは魚介のコクがあり、かつスパイシーで美味しかった。

2015年7月20日月曜日

国際移民と国内移住の交差点、シカゴを歩く

人口規模でアメリカ第三の都市シカゴに到着した。
1925年に完成したユニオン・ステーション駅は神殿のような外観。毎日12万人が利用し、アメリカで3番目に利用者が多い駅という。

19世紀前半のアメリカでは鉄道や運河などの交通網が急速に整う。それに伴い、シカゴには1840年代以降、アイルランド人やドイツ人らが大規模に移住した。1840年に全米92番目の4,470人だったシカゴの人口は、1890年には全米2番目の約110万人に急増した。
1890年、シカゴ市人口の約8割が移民とその子どもという移民都市に成長する。20世紀初頭にはポーランドなど東ヨーロッパ出身の移民も加わった。20世紀初頭、シカゴ大学でシカゴ学派と呼ばれる都市社会学が発展した背景には、このようなシカゴ市の急激な発展があった。

正午ごろにホテルに到着。荷物を預けて目抜き通りのミシガン通りを歩く。シカゴ川に掛かるドュサーブル橋には、17世紀にヨーロッパ人がこの地域に進出したことを祝う説明板が彫られている。1920年代に彫られたものだ。
発見者たち
ジョリエ、マーケット神父、ラ・サールとトンティは、17世紀後半にミシシッピー川につながる五大湖とこの流域を越え、アメリカ中西部の人々の性質に深く根付く勇敢な冒険心を象徴する、恐れを知らない探検家としてアメリカ史にその名を残すだろう。

19世紀初頭に先住民と白人の間で起きた戦いを白人側の視点から表現した彫刻がドュサーブル橋に彫られている。

歴史家リチャード・ホワイトが論じたように、17世紀の五大湖地域では、先住民とフランス人がそれぞれ利益を得るため、ある程度互いに理解し、依存しあう「中間領域(Middle Ground)」が形成された。
そうした相互依存関係は18世紀に崩れていき、19世紀に先住民は新興国アメリカによる支配の対象になっていく。先住民の存在を完全に無視している上記の説明は、白人至上主義がピークを迎えていた1920年代当時のアメリカの歴史観を表しているといえるだろう。

17世紀まで先住民の社会だった自然豊かなミシガン湖岸には現在、近代建築を代表する高層ビルが立ち並ぶ。

そうした近代建築の一つ、シカゴ文化センター(Chicago Cultural Center)に散歩がてら立ち寄った。センターの建物は1897年にシカゴ市立図書館として建設され、1990年代以降、入場料無料の芸術文化施設として展覧会などを開催している。この日は、シカゴのアフリカ系アメリカ人に関する展覧会が二つ開かれていた。

シカゴ文化センター

展覧会の一つは、1920~1980年代、シカゴに住むアフリカ系住民の間で愛用された化粧品会社ヴァルマー社(Valmor Products Company)の商品や広告をデザインしたアフリカ系デザイナー、チャールズ・ドウソン(Charles Dawson)らの作品展。アフリカ系であることに強い誇りを感じていたドウソンは、彼の美的感覚と重なるアフリカ系の人々をデザインに描いた。人種的特徴を強調しない彼のデザインは、化粧品をアフリカ系以外のエスニック集団に販売するうえでも重要だったという。

戦前にアフリカ系住民の間で人気だったヴァルマー社の整髪料。広告デザイナーのドウソンは人種的特徴を強調せずに人物を描いた。

第一次世界大戦中(1914-1918)、ヨーロッパからの移民労働者の流入が滞ると、アメリカ南部から多くのアフリカ系労働者がシカゴに移り住んだ。歴史の教科書では「大移住」(Great Migration)として知られており、国際移民と国内移住が連動していることを示す事例といえる。

創業者がハンガリー系ユダヤ人だったヴァルマー社の歴史からは、国際移民と国内移住がシカゴで重なり、地域経済と広告美術の発展につながっていったことが分かる。

文化センターでゆっくりした後、シカゴ市観光の目玉であるミレニアム公園の銀色オブジェ「クラウド・ゲート」を見た。夜は底が深い鉄鍋で焼くのが特徴のシカゴ風ピザを食べてお腹いっぱいになった。

多くの観光客が訪れるミレニアムパークに置かれた「クラウド・ゲート」

人気店「Gino's East」のシカゴ風ピザ
夜のドュサーブル橋付近


翌日は高さ442メートルのウィリス・タワー(旧シアーズ・タワー)に上った。1973年に建てられ、当時は世界で最も高いビルだった。展望台から見下ろしたシカゴ市の街並みは一見の価値あり。透明の板を使った特別展望コーナーに行くと空中にいるような、もしくは、そのまま地上に落ちてしまいそうなスリルを味わえる。天気もよく多くの観光客で賑わっていた。一泊二日と短かったものの、シカゴの街を満喫して、ロサンゼルスに飛行機で帰った。

ウィリス・タワーの展望台から見下ろしたシカゴの街並み。右手(東側)にミシガン湖が広がる。
足元が透明の板になっている特別展望コーナー

・シカゴ文化センターの歴史は、こちら
・・シカゴの人口については、こちらまたはこちら