2010年の国勢調査によると、フィリピン系住民は全米に約340万人おり、アジア系住民の中では中国系(約401万人)に次いで人口が多い。ロサンゼルス市内には様々な地域でフィリピン系住民が暮らしている。その中でも歴史深いエコパーク地区のフィリピン系集住地が2002年、市から「ヒストリック・フィリピノタウン(Historic Filipinotown)」として認定された。
フィリピノタウンの東端に掲げてある標識 |
アメリカのフィリピン人移民の歴史は、アメリカのアジア進出の歴史でもある。
19世紀中ごろまでに北米大陸内で先住民を迫害しながら領土を拡大したアメリカは、19世紀の終わりにその領土を海外にまで広げていく。その契機となったのが1898年の米西戦争。この戦争に勝ったアメリカは、スペイン領だったフィリピンを獲得してアメリカ領土に組み込む。アメリカは同じ年にハワイも併合しており、それ以降、フィリピンからハワイに向かう移民労働者が増えていく。
こうしてアメリカの帝国化がフィリピン人移民の増加につながっていった。
カリフォルニア州では1924年の移民法で日本人移民が禁止されると、それに代わる労働力としてフィリピン人移民労働者が増えていく。1924年の移民法はアジア人移民全体を禁止するものだったけれど、当時、アメリカ領内だったフィリピンからの移民は許されていた。その後、カリフォルニア州内のフィリピン人はメキシコ人とともに安価な労働力として経済的に搾取され、人種差別の標的になっていく。
この時期に、エコパーク地区のフィリピノタウンでは、フィリピン人移民の団体や教会が活動を開始している。搾取や差別に苦しむフィリピン人の若者を支えようと1928年に創設されたフィリピノ・ディサイプルズ教会(Filipino Disciples Church)は今でも地域を見守っている。
フィリピノ・ディサイプルズ教会 |
教会を見た後は近くのウニダー公園(Unidad Park)に向かった。この公園には、フィリピン人とフィリピン系アメリカ人の歴史を描いた巨大な壁画がある。フィリピン人の国民意識が発展していく過程とフィリピン系アメリカ人の貢献をテーマに、芸術家エリセオ・アート・シルバ(Eliseo Art Silva)が1995年に制作した。
アメリカでアジア系アメリカ人の歴史を学ぶ際には必ずと言っていいほど登場する作家のカルロス・ブロサン(Carlos Bulosan)らフィリピン系の重要人物が描かれている。壁画中央には1960年代に農業労働者運動を推し進めた活動家ラリー・イトリオン(Larry Itliong)も描かれている。
カルロス・ブロサン(左端)やラリー・イトリオン(中央下の右手を上げている男性)、さらにセサル・チャーベス(右下の茶色のジャケットの男性)らが描かれた壁画の一部 |
1960年代の農業労働者運動はメキシコ系アメリカ人の運動として捉えられがちだけれど、実はフィリピン人労働者が起こしたストライキにメキシコ系が参加するという形で発展した。フィリピン系の功績も公平に評価しようと、ニューヨーク・タイムズが2012年に「労働闘争の忘れられた英雄」と題して記事でイトリオンを取り上げている。
とはいえ、ともに労働者運動を展開したメキシコ系に対する敬意を込めて、公園の壁画にはメキシコ系指導者のセサル・チャーベス(Cesar Chavez)も描かれていた。
◇
教会と公園を歩いたけれど、フィリピン系らしい人はほとんど見ない。この地域には1万人近いフィリピン系住民が暮らしているらしいけれど、住民の多くはメキシコ人ら中南米出身のラティーノだという。公園内でもラティーノの子どもたちがブランコや滑り台で遊んでいた。
フィリピン系の活躍を記念するウニダー公園で遊ぶ子どもたち |
フィリピン系の人々が集う場所はないだろうかと思い、近くのフィリピン料理店「Bahay Kubo Restaurant」に向かった。やや薄暗い店内の奥にフィリピン料理が並ぶカウンターがあり、フィリピン系の客が次々とやって来ては好みの料理を注文していた。
見たことのない料理で、もちろん名前も分からない。店員のおじさんが「コンボ(セット)なら、ここから料理を二種類選んで」と教えてくれた。僕は煮魚料理と豚肉と野菜の土手煮のようなものを選んだ。妻はなんだか分からないシチューみたいなものを二種類選んだ。
フィリピン系の客が次々とやって来て料理を注文する。 |
注文しているとき、店員のおじさんが「Are you Chinese?」と聞いてきたので「Japanese」と答えると、次は日本語で「日本語うまいよ。日本には15年住みました。札幌も名古屋も横浜もいろんなところに住みました」と話しかけてきた。こちらも日本語に切り替えてフィリピン風の豚肉の串焼きを追加で注文した。
席に着いて早速いただく。初めて食べるフィリピン料理は予想以上に美味しかった。土手煮のような料理には、豚(おそらく)の肝臓、腸、肉がピリ辛風に煮込んであり、かなり美味しい。妻が選んだシチューみたいなやつは、味がしっかりついた牛肉料理とクリーミーな鶏肉料理でどちらも食が進む。串焼きも甘いバーベキューソースが効いていて大満足だった。
牛肉料理(写真左)と鶏肉料理(写真手前)はどちらも食が進む。 |
ただ、魚料理は少しハードルが高かった。ミルクフィッシュ(サバヒー)という淡水でも生きる海水魚のスープで、真っ白な身の内側にトロッとした脂が付いている。やや生臭いので、日本人の中には苦手な人もいるだろう。
魚料理(写真手前)はやや生臭いけれど、レモンの効いたスープが美味しかった。肝臓や腸が入った豚肉料理(写真左上)はピリ辛で美味しい。 |
料理だけでなく、ときどき日本語で話しかけてくる店員のおじさんとの会話も楽しかった。
「(ロサンゼルスには)遊びで来ているの」
「勉強で来ています」
「この店ははじめてでしょ」
「はい、はじめてです」
おじさんが隣の席のフィリピン人客のおばさんに僕の答えを通訳して伝えると、おばさんが僕らにニコッと微笑みかけてくれた。
フィリピン系の客で賑わう店内。右手にスプーン、左手にフォークを持って、肉などを切り分けながら食べている人が多かった。 |
おじさんに「日本にはいついたんですか」と聞くと、「2000年から2015年。3年前にこっち(ロサンゼルス)に来た」と言うので、2015年に来たのか、2012年に来たのか、よく分からないなあと思いつつ、とにかく最近まで10年以上いたんだろうと理解した。続けて「東京ではお弁当を工場で作ってたよ。一日、4万個。(午前)2時からずーっと」と懐かしそうに教えてくれた。
日本であれ、アメリカであれ、僕たちの知らないところで、移民労働者が社会を支えてくれている。このおじさんは10年以上暮らした日本を離れてロサンゼルスに来たわけだけれど、どのような理由で来たのだろうか。アメリカに比べると日本は安全だけれど、移民とその子どもを社会全体で支える仕組みが十分に整っていない。そういった受け入れ環境の違いも影響しているのかもしれない。
食事を終えて席を立ち、おじさんに「ごちそうさまでした」と伝えると、「また友だち連れて来てね」と笑顔で言ってくれた。エスニック・コミュニティの魅力は、地域の人が愛する料理を食べ、地域の人と会話をすることで、しっかり記憶に残っていく。
・国勢調査のアジア系について報告は、こちら。
・フィリピノタウンについては、こちら。
・教会の歴史については、こちら。
・ニューヨーク・タイムズの記事については、こちら。
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