2016年3月22日火曜日

ブログ最終回、「歩き調べる」ことで理解深める

このブログの更新も142回目の今回が最後。これからしばらくは博士論文のための調査や執筆に専念したい。

ブログを始めた2012年4月からこれまでに約3万7千回の閲覧があった。今年2月までの1年間では計10,741回、1日平均では29回の閲覧があった。最後なので閲覧数の多い記事をいくつか紹介したい(記事タイトルをクリックして記事ページへ)。


◇ 全米最大ベトナム系コミュニティ、リトル・サイゴンを歩く(2013年6月6日)

もっとも閲覧数の多い記事だった。この記事で紹介したベトナム料理店にはロサンゼルスの自宅から1時間ドライブして何度も足を運んだ。最近は日本から訪ねてきた両親を連れて行き、南国フルーツ好きの母親はベトナム系スーパーでドリアンやジャックフルーツを買って喜んでいた。

◇ アジア人移民の歴史、サンフランシスコ・エンジェル島を歩く(2013年7月13日)

エンジェル島はサンフランシスコ観光の際に訪ねてほしいところ。戦前のアジア人は排斥の対象であり、エンジェル島の収容施設で厳しい入国審査を受けた。エンジェル島については別の記事『曇り空のエンジェル島、移民と捕虜が見た景色』(2016年1月19日)でもふれた。

◇ 『移民支援の英語教室①、出身も動機もいろいろ』(2012年9月12日)

妻が一年間、通っていた英語教室の紹介。3カ月間、週4日、一日3時間の授業料がわずか20ドルだった。妻は教室でできた友達とは今も仲良くつきあっている。教室については別の記事『移民支援の英語教室②、誰でも受講できる』(2012年9月15日)でも紹介した。

◇ 『社会人のアメリカ留学、貯金と奨学金』(2012年10月14日)

アメリカで大学院留学する場合のお金の話。修士課程ではめちゃくちゃ高額で、博士課程では大学で働けば安心して生活できる。留学にはTOEFL受験なども必要だから、一年半以上前から準備を始めたほうがいい。

◇ 『日系アメリカ人の過去と現在、ガーデナ市で日系イベント』(2013年7月1日)

ロサンゼルスは戦前も戦後も日本人移民の集住地。特にガーデナ市は戦前に日本人移民のコミュニティが発展し、今日でも彼らの子孫が暮らしている。日系人の経験を学ぶことで、日米関係だけでなく、国家と個人の関係についても歴史的な理解を深めることができた。


◇ 『アメリカの出産費用と保険制度、多様な国民生み出す背景』(2015年11月14日)

昨年、我が家で一番の出来事は子どもの誕生。アメリカで子どもを産む日本出身者の役に立つように具体的な情報を書き込んだ。加えて、不法滞在者(非合法移民)の出産を支える仕組みについても、日米両国の状況を説明した。


ブログ記事は内容を裏付けしながら書いていくため、やや時間がかかる。けれど、この作業を通して、実際に足を運び、見聞きしたものに対する自分自身の理解が深まった。このように「歩き調べる」ことの積み重ねでブログを楽しみながら続けることができた。いつも文章をチェックしてくれた妻に感謝。今後もいろいろなところを訪ねたい。

飛行機の窓から撮影したロサンゼルス中心部

2016年2月22日月曜日

日本からペルーへ、ペルーから日本へ、日秘移民百年の歴史

汗ばむような陽気の午前中、80歳以上の男女7人が公園でゲートボールを楽しんでいる。

「Allá. Por acá! No se puede!(そこよ。ここから!。それじゃだめよ)」
「Sí, puede, puede!(いや、大丈夫、大丈夫!)」
「Muy bien, 5番!」
「3番上がり!」

ゲートボールを楽しむ日系ペルー人二世の皆さん

ここはペルーの首都リマ市にある日秘文化会館(Centro Cultural Peruano Japonés)内の公園。スペイン語と日本語を混ぜて話すおばあさん、おじいさんは日系ペルー人二世で、毎週一回、午前中にゲートボールを楽しんでいる。

ある女性は「あなたは日本から来たんですか。私の子どもたちと孫は神奈川県に住んでるの。私の親は山口県から来たの」と教えてくれた。そして、別の女性が「建物の中に行った。たくさんおじいちゃん、おばあちゃんがいるわよ」とゲートボールを終えた後、連れて行ってくれた。

会館は、高齢の日系人のためのデイケアサービスを提供している。大きな部屋で100人近い高齢者が「幸せなら手をたたこう♪幸せなら手をたたこう♪」と手拍子を取りながら歌っている。最後は「幸せなら声出そう♪てんぷらー!」と声を合わせてから、みんなで食堂へ歩いて移動した。

ここでボランティア活動をしているおばあさんとたまたま立ち寄った僕で、足腰の弱った白髪のおばあさんに腕をかす。ボランティアのおばあさんに「ここはほとんど二世の方ですか」と聞くと「私は二世だけど、この人は一世よ」という。それを聞きながら、白髪のおばあさんは「一世でも二世でも関係ないの。健康であればいいのよ」と言った。

ここの介護スタッフによると、サービスを受ける高齢者は75歳以上でほとんどは二世。7割以上は沖縄系の日系人という。1980年代以降に日本に出稼ぎに行き、ペルーに帰国した三世も少しいるという。「ここで使う言葉はほとんど日本語です」といい、ペルー人介護スタッフも少し日本語が使えるという。


ペルーは第二次世界大戦前に多くに日本人がより良い生活を求めて移民した国の一つだ。1930年代には2万人以上の日本人移民がペルー国内に住んでいた。今でも多くの日系ペルー人が首都リマを中心に暮らしている。

リマ市にある日秘文化会館
デイケアサービスを少し見学した後は会館内にあるペルー日本人移住資料館を訪ねた。パネル33枚の裏表で、日本人移民や日秘関係の歴史をスペイン語と日本語で説明している。戦前は農業労働を中心に厳しい生活を生き抜いた日系ペルー人は、戦後は行政、経済、医療などの分野で活躍している。

「El fenómeno Dekasegi(出稼ぎ現象)」というパネルは、1980年代半ばに始まったペルーから日本への日系ペルー人労働者移動について以下のように説明している。
ドル払いで高賃金の雇用が約束され、残業代も合わせると実に魅力的な金額になったが、多くの日本人がやりたがらない、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の仕事であった。 
今から100年前、日本は厳しい経済・雇用情勢に直面していた当時、契約移民としてペルーにやってきた1万8千人の日本人移住者が海岸地方の農場やジャングルのつらい条件で働いていたが、その子孫が今日の出稼ぎ労働者である。
現在、日本ではこの出稼ぎ現象の中で、日本に渡って定住している日系ペルー人約4万8千人が暮らしている。明治維新が生み出した経済格差が原因となってペルーに移り住んだ人々の子孫が、労働力を求める日本経済に吸収されている。日本に働きに来た親と一緒に来日した子どもたちは日本での教育や就職などの面で課題を抱えている。

このパネルが説明しているように、日本で働き、また、育つ日系ペルー人の状況を100年以上の日本史の枠組みの中で捉え、外国の問題ではなく、日本の課題として認識し、政府や自治体などが支援していくことは必要だ。これは明治維新以降の日本史を理解し、それを実践できるかどうかという問題でもある。

興味深いことに、資料館には第二次世界大戦中の日系ペルー人についての説明がほとんどなかった。日本語では「多くの苦しみ」とだけ書かれており、アメリカ合衆国への日本人引渡、またそれに伴う強制収容などについては何もふれていない。資料館の担当者に尋ねると、苦しい経験が多かったため資料館ではあまりふれないようにしていると教えてくれた。こうした展示の在り方を通して、ペルーの日系社会が戦争をどのように記憶しているのかについて少し理解することもできた。


今年はアメリカ大統領選の年だけれど、ペルーでも今年4月に大統領選挙がある。

アメリカにも多くの日系人が暮らしている。日系アメリカ人がアメリカ大統領になる可能性はゼロではないものの、なかなか厳しいのが現状だ。一方、ペルーでは1990年に日系二世のアルベルト・フジモリ(スペイン語では、フヒモリ)氏が大統領に就任している。

なぜマイノリティの日系人がペルーで大統領になることができたのだろうか。ある観光タクシーの運転手は「当時は激しいインフレと汚職で国民がうんざりしていたから、チーノ(フジモリ氏の愛称。チーノは「中国人」という意味だけれど、東洋人全体に使われる言葉)なら何か変えてくれると思った」と教えてくれた。

現在、フジモリ元大統領は軍による民間人殺害事件で有罪判決を受けて収監されている。ただ、彼が危機的状況のペルー経済を立て直したという評価は定着している。

そのフジモリ元大統領の長女ケイコ・フジモリ氏が今年の大統領選挙に立候補している。2011年の大統領選挙では2位で落選した。現在の世論調査では人気を集めているという。リマ市内にもケイコ氏の選挙ポスターが目立った。


リマ市内各地に掲示されたケイコ・フジモリ氏の選挙ポスター。他候補のポスターも至る所で掲示されていた。
大統領選挙について、あるタクシーの運転手は「フジモリ大統領を好きな人もいるけど、嫌いな人もたくさんいる」。別の運転手は「ペルー人の投票先は一日で変わるから、世論調査は当てにならない」と話していた。あるペルー人の友人は「ペルーでは民主主義はまだ定着していない」と言った。日本ではどうだろうか。そんなことも考えさせられるペルー滞在だった。

ペルーに行ったら必ず食べたいセビーチェ。日秘文化会館近くのショッピングモールで食べて大満足。

2016年2月15日月曜日

メキシコシティの都市生活、壁画が伝える歴史

博士論文のための史料調査でメキシコの首都メキシコシティに来た。かつてアステカ文明の都テノチティトランであったこの都市には現在、約2千万人が暮らし、ラテンアメリカ経済の中心の一つとなっている。

セントロと呼ばれるメキシコシティ中心部のホテルに宿泊。メトロブスというバスが運行されていて、ベニート・フアレス国際空港からホテルへは40ペソ(300円程度)で簡単に行くことができた。

到着した翌朝、メキシコ政府の史料館に歩いて向かう。タコスの屋台に立ち寄り、大釜で煮込んだ豚の皮やら何やらが盛られたタコスを食べた。ピコ・デ・ガジョ(細かく刻んだタマネギ、トマト、唐辛子を混ぜたもの)やサルサ、レモンを好みでかけた。脂肪分と汁気が多く食が進む。

「スルティード」という土手焼きのような感じのタコスは30ペソ(250円程度)。
史料館で夕方まで作業。帰り道に喫茶店に入った。コーヒーを一口飲んだところで、店主の50歳代くらいの女性が「メキシコ人ですか」と話しかけてきた。アジア系メキシコ人の可能性もあるから、そう尋ねてきたんだろう。

「日本人です」
「そうですか。メキシコはどうですか」
「素敵ですね」
「日本も素敵でしょ」
「そうですね。それぞれ文化も違いますね」

なんて話していると、なぜか途中から政治の話に変わった。

「私は小学校の先生をしていたんですけど、早期退職して喫茶店を開いたんです。教師に対する風当たりが厳しくて。教職員労働組合のリーダーの女性が汚職で逮捕されたでしょ。メキシコは世界の汚職ランキング3位ですよ。前は1位だったけど、ちょっと悪い枝を切り落としただけでしょう」と笑う。女性は勢いよく話し、その唾しぶきが僕のコーヒーに何度も入りそうになったから冷や冷やした。

「日本は汚職はないでしょ」と聞くので「ありますけど、他の国より少ないと思います」と答えたついでに、「メキシコではなんで選挙の仕組みがあっても大統領は人気がないんですか」と質問した。特に現在のペニャ・ニエト大統領については、いい評判をあまり聞かない。

女性は「選びたい候補者がいないのよ。それに投票率が低いから、本当は支持されていない人が大統領になるの」と残念そうに話した。この点は日本もそんなに変わらないか。けれど、僕は投票する。この女性も政治の話をふってくるくらいだから、投票しているんだろうか。


メキシコシティのセントロでは、朝からテントを張った食事や食料品、小物の露店が至る所に現れる。交通量も多く、特に朝夕は自動車、バス、タクシーがひしめき合いながら進む。地下鉄も乗客であふれており、大都市の景色がそこにある。

幼稚園の前では保護者を相手に野菜を売る露店もあった。
セントロでは同時に貧困も目立つ。僕のホテル周辺はホームレスが多かった。だいたいは中高年の男性だったけれど若い男女もいた。あるホームレスの若い女性が地べたに寝転んで仰向けになっている。親しそうな男性が大事そうに毛布にくるんで何か抱えている。うまれて間もない赤ちゃんだった。地下鉄に乗ると、幼い子どもを抱えて物乞いする母親の姿もあった。

そんな状況を目の当たりにして、あるメキシコ人の知人が言った言葉を思い出した。「メキシコは貧しい国ではないのよ。貧しい人たちの国なの」。メキシコはラテンアメリカの経済大国で高層ビルでもコンビニでもなんでもある。セントロを少し離れると、日本の都市部と変わらないような景色もある。けれど、そうしたメキシコシティの都市生活は圧倒的な貧困と隣り合わせでもある。

日本はどうだろうか。もちろん日本とメキシコの経済状況はだいぶ違うけれど、経済成長しても格差是正を念頭に税収を再分配していかなければ、どこの国であれ「貧しい人たちの国」の方向に進んでいく。


とはいえ、メキシコでは社会保障や教育支援制度がいろいろ整っている。日本学生支援機構によると、国立大学の授業料は年間2,600ペソ(2万円程度)以下という。メキシコの大学はどんな感じだろうと思い、メキシコ在住の日本人の友人夫妻と一緒にメキシコ国立自治大学を訪ねた。

メキシコの難関校である同大学の歴史は、スペイン帝国がアステカ帝国を征服して間もない1551年にさかのぼる。現在のメインキャンパスは1949~1952年、60人以上の建築家や技術者、芸術家が関わって建設され、その優れたモダニズム建築を理由にユネスコが世界遺産に登録している。

僕の目当てはキャンパス公園内の建物に描かれた巨大壁画。中央図書館の四方の壁は「先史時代」、「植民地時代」、「現代」、「大学と今日のメキシコ」をテーマにした壁画で覆われている。図書館が公園の緑と空の青に挟まれて、その空間全体が一つの巨大な芸術品のようだった。公園では学生や市民がくつろいでいた。僕も友人夫妻とグアナバナというフルーツのかき氷を食べてゆっくりした。

壁画で覆われたメキシコ国立自治大学の中央図書館。フアン・オゴルマンが制作した。

メキシコでは観光地だけでなく、地下鉄構内などでも迫力ある壁画に出会う。セントロにある国立宮殿内に芸術家ディエゴ・リベラがメキシコ史を題材に描いた壁画も圧巻だった。メキシコの紙幣500ペソには、リベラとその妻で芸術家のフリーダ・カーロの肖像が描かれていることからも、この国が芸術を誇りとしていることが分かる。アメリカ大陸とヨーロッパの要素が時間をかけて混ざり合い、社会的な問題を抱えながらも、新しいものに生まれ変わるようなメキシコの歴史の一部を理解するには、こうした壁画の前に立つことも欠かせない。

学長塔はダビー・アルファロ・シケイロスが制作した壁画「人民のための大学、大学のための人民」で覆われている。

2016年1月19日火曜日

曇り空のエンジェル島、移民と捕虜が見た景色

サンフランシスコ近くのバークレー市に史料調査で来た。図書館が閉まっている週末、サンフランシスコ湾内のエンジェル島(Angel Island)に向かった。

エンジェル島は1910~1940年に移民収容所が置かれ、中国人や日本人らが入国審査を受けた場所だ。この島には約2年半前に初めて訪れたけれど、道を間違えてお目当てだった移民収容所だった建物を見ないまま島を後にした。そのとき「また来ないと行けないな」と思っていたので、今回再び訪れることにした。

サンフランシスコから出るフェリーで島に向かった前回と違い、今回はティブロン(Tiburon)という町から出るフェリーを利用。小雨が降る午前11時にフェリーに乗り込んだ。こんな天候なので、乗客は僕と妻、子どもの他に夫婦一組だけだった。

10分ほどで到着し、さっそく移民収容所へ。移民収容所の建物は現在、当時の様子を伝える物品や写真を展示した移民博物館となっている。同館スタッフの若い男性が館内をガイドしてくれた。

中国や日本から来た多くの移民が滞在したエンジェル島の移民収容所

入り口から二階に上がる階段を上りながら、「移民たちもこの同じ階段を上り下りしてたんですね」とスタッフに声をかけると、「いや、移民はほとんどの時間を建物内で過ごしていたので、ほとんど使うことはなかったと思います」と教えてくれた。

ここではロシア系ユダヤ人などヨーロッパ人移民も収容されたけれど、多くは中国人や日本人移民だった。収容所の壁にはあちこちに移民が刻んだ文字が残っている。中国人の入国は、アメリカ市民の子どもでない限り厳しく禁止されていたため、彼らの収容期間は特別長かった。まともな食事も与えられずに過ごす苦労を漢詩にして刻む中国人も少なくなかった。

何度も塗り重ねたペンキの下に刻まれた漢字がうっすら見える。

スタッフに「文字を刻む道具を持つことは許されていたんですか」と聞くと、「ええ。木彫りの技術のある人が仲間の詩を刻んでいたようです」、そして「こうした文字が残っていたことで、その歴史的な価値が見いだされ、保存運動につながりました」。

とくに中国人が多かったため、彼ら専用の大部屋があった。ここには約200人が収容されていたという。この同じ部屋が、第二次世界大戦が勃発すると、日本人とドイツ人の捕虜を収容するために使われていた。日本語の落書きもあった。よく意味は分からないけれど、「重田氏...第二回横浜行先発隊...」などと鉛筆で書いてある。

第二次世界大戦前は中国人移民、戦時中は日本人捕虜が収容された部屋

スタッフが「アメリカ軍の最初の捕虜となった日本人はこの部屋に収容されたんです。その人は、そのあと、トヨタのブラジル現地法人の重役になったみたいですよ」と教えてくれた。その後、エンジェル島の公式サイトとウィキペディアを見ると、その男性は酒巻和男さんという男性で、真珠湾攻撃に参戦後、米軍に捕えられたという。エンジェル島は日米関係の変遷を伝える場所でもある。

帰りのフェリーは午後1時20分。スタッフの丁寧なガイドで今回、島に来た目的を十分に果たせた。天気が良ければ景色は最高だろうけれど、いろいろな国の移民や捕虜がこうした曇り空の中で不安な日々を過ごしていたんだろうと思うと、それはそれで感慨深いものがあった。

エンジェル島から見る曇り空のサンフランシスコ湾

エンジェル島を出た後はサウサリートという町まで行き、評価サイトYelpでそこそこ評価の良かったレストラン「Fish.」でクラムチャウダー(9ドル)とフィッシュアンドチップス(22ドル)を食べた。観光客相手の値段だけど、それぞれ美味しかった。

タラのフィッシュアンドチップス。酸味の効いたタルタルソースが美味しかった。
・エンジェル島の歴史について書いた当ブログの過去記事は、こちら

2016年1月9日土曜日

1930年代の「モダン用語」、日本人移民の日記帳

史料調査中、戦前のロサンゼルスに住んでいた日本人移民の日記を読んだ。真珠湾攻撃当日の様子などが書かれており参考になった。タイムマシーンはないけれど、こうした一次史料にふれて、少しだけ過去にタイムスリップしたような気持ちになる。歴史研究においては、もちろん日記の内容が大事だけれど、当時の人が使っていた日記帳自体もおもしろい。

この日本人移民が1930年代前半に購入した日記帳(博文館)には「モダン用語」帳が付いている。200字以上の「モダン用語」が五十音順に並び、簡単な説明文が書き加えられている。

現在、我々が当たり前のように使っている言葉やちょっと古臭く感じる言葉が、1930年代は都会風で新鮮な言葉として使われていたことが分かる。また、当時の女性観/男性観や社会状況なども伝わってくる。以下にいくつか紹介したい。
アインシュタイン:この物理学者の相対性原理は難解なので、分からぬことを「どうもアインシュタインだ」という。
おぺちょこガール:軽薄なおっちょこちょいな近代娘。
彼氏:彼と同意だがなんとなくモダンな感がある。
サイレン・ラブ:正午のサイレンを合間に事務所を飛出して相会う種類の甘い恋愛。
サボル:Sabotageの略で怠業という意味の無産語だが今では一般に怠けることにも用いる。
左翼小児病:一つの原因に執着して戦術の融通性を忘れた拙劣な階級闘争を意味する社会運動語。
スピード時代:現代のように変転の激烈な時代をいう。
だんち:段違いの略語、また断然違うの略語。
とっちゃんボーイ:いい年をしたモボ(モダンボーイ)型の男
ぽしゃる:おじゃんになる、駄目になる等の意。
もち:勿論の略。
もちコース:勿論とof courseを半分宛つけた云い方。 
マルクス・ボーイ:日本で作った英語で本当のマルクス学徒ではなくプロレタリア派のことを喋りながら実はプティ・ブル男のこと。
こうして見ると「サボル」や「ぽしゃる」などは2016年も現役で、「どうもアインシュタインだ」や「おぺちょこガール」などはほとんど聞かない。「とっちゃんボーイ」や「もち」はやや古い感じがするけど、聞かなくもない。「だんち」は個人的には現役という印象だ。

ここでは「左翼小児病」、「サボル」、「マルクス・ボーイ」しか紹介していないけれど、階級闘争を背景したモダン用語も多かった。一部の左翼的な人々を蔑む言葉は、今日も異なる文脈で形を変えながら存在している。

それぞれの言葉の寿命はそれなりに歴史的な要因があるだろう。個人的には「スピード時代」という言葉が印象的だった。当時の人も今の人もそれぞれが生きる時代をある種の「スピード時代」と捉えている。もうちょっとスローダウンする時代があってもいいと思う。

1930年代と2010年代はどちらも大きな経済危機を経験した直後の時代だ。資源を急いで消費せず、無駄遣いせず、スローな分野に利潤と幸福感を見出すような新しい資本主義の形、そして価値観のイノベーションが必要なんじゃないだろうか。