2013年7月31日水曜日

未払い賃金支払いで合意、高級すし店の元従業員へ

おしゃれな洋服店が集まるメルローズ通りに出かけた。
アメリカで最も有名なホットドック店の一つ「Pink's」がある。名前は何度も聞いていたけど、食べたことはなかったので、一つ買ってみることにした。


注文しているお客さんが、チリドッグが楽しみで、やや興奮しているように見えた。

平日の午後4時だったけど、店の前には30人ほどの行列ができていた。
注文は妻にお願いして、店の周りをぶらぶらしていると、店の前に置かれた新聞販売ボックスに目が止まった。


ロサンゼルスでは、路上に新聞販売ボックスが置いてある。これに25セント硬貨を何枚か入れて、新聞を取り出す。右側のボックスが、スペイン語新聞ラ・オピニオン。

ラティーノ対象のスペイン語新聞ラ・オピニオン(La Opinion)の販売ボックス。透明なプラスチック越しに一面記事が見える。
写真付きで一面に紹介されていたメキシコ人男性は、前回のブログ記事(こちら)で取り上げた高級すし店の元従業員だった。

新聞記事の見出しは「Sabrosa victoria(味わい深い勝利)」だった。



この高級すし店は日本人がビバリーヒルズで経営している。今年3月、この店がメキシコ人元従業員に適正な賃金を支払っていなかったことが明らかになった。

メキシコ人元従業員の訴えを受けて、状況を調査したカリフォルニア州労働基準監督署が、高級すし店に対して、労働法違反の罰金約6万6千 ドル(約660万円)を支払うように命じた。そのうち約3万8600ドル(約386万円)が、そのメキシコ人元従業員を含む
元従業員3人に対する未払い賃金だった。

問題が明るみに出てから4ヶ月間、労基署の罰金命令にも新聞社の取材にも、店側は応えてこなかった。同紙によると、ようやく罰金を支払うことに店側が同意したようだ。

実際、労基署が罰金を命じても、店側が応じないケースが大半という。
メキシコ人元従業員は同紙の取材に、こう答えている。

「これは僕一人の勝利じゃなくて、同じ経験をしているすべての労働者の勝利です。やればできるんだ、法律には従わないといけないんだ、こんなに有名なレストランでも法律に逆らうことはできないんだ、という一つの例です」


妻がホットドッグを注文している。
少し長い9インチのソーセージが入ったチリドッグを一つ買って、二人で食べた。

ソーセージはピリ辛。チリソースも味わい深く、いい豆を食べている、という感じ。
また食べに来たい。新聞記事じゃないけど、「sabroso」という言葉が、ぴったりの味だった。
1939年開店の歴史ある店が、今も大人気なわけが分かったような気がした。

ソーセージのパリッとした食感、チリソースのドロっとした食感、また、パンのしっとりとした食感。三つの食感が絶妙に合わさっておいしい名物チリドッグ。

・ラ・オピニオンのオンライン記事は、こちら

2013年7月21日日曜日

移民都市ロサンゼルス、労働問題と労働者支援

ロサンゼルスでは、多くの移民が低賃金労働者として働いている。
ロサンゼルス郡人口の35%は外国生まれなので、労働者だけでなく、雇用主も移民ということが珍しくない。
そのため、移民労働者と移民雇用主の間で、問題が起こることもある。

今年3月、高級住宅街ビバリーヒルズにある日本人経営の高級すし店が、メキシコ人元従業員に適正な賃金を支払っていなかったことが明らかになった。

メキシコ人元従業員の訴えを受けて、状況を調査したカリフォルニア州労働基準監督署が、高級すし店に対して、労働法違反の罰金約6万6千 ドル(約660万円)を支払うように命じた。そのうち約3万8600ドル(約386万円)が、そのメキシコ人従業員を含む従業員3人に対する未払い賃金という。

この高級すし店で客が支払う平均的な金額は、来客1組につき約1,100ドル(約11万円)。全国的にも有名な高級すし店ということもあって、ロサンゼルス・タイムズが今年3月、ニューヨーク・タイムズが今月、それぞれ報じた。7月20日現在、高級すし店側は、罰金命令を不服として、未払い賃金の支払いに応じていないという。


実は、この問題については報道される前から知っていた。
昨年11月、ロサンゼルス・コリアタウンに本拠地を置く移民労働者支援団体で、メキシコ人元従業員を応援する集会が開かれた。

僕は大学院の授業や友人の紹介を通して、この支援団体を知っており、たまたま応援集会を見学する機会を得た。

団体事務所の集会部屋には、移民労働者を含む団体メンバーに加え、労働組合や他の市民団体の代表者ら計約30人が集まった。
ラティーノ、アジア系(韓国、中国、日本、タイ系など)、白人など集まった人たちの人種・エスニシティも様々だ。

元従業員は緊張した面持ちながら、集まった人たちを前に、自分の経験をスペイン語で話し始めた。この支援団体のメンバーが、英語と韓国語に通訳した。

彼は2006年から高級すし店で働き始め、皿洗いから調理まで担当してきた。
仕事は、ときに午後1時から翌日午前1時まで約12時間続いたが、休憩は許されず、残業代もなかった。
さらに、2012年春、風邪をこじらせ、日本人経営者に早退したいと仕事中に願い出たところ、それを理由に解雇された。
そこで、この支援団体を訪ね、助けを求めたという。

元従業員は集会前、緊張して何度も話す内容を練習していたが、多くの支援者に囲まれて、無事に話し終えるとほっとした表情を見せた。


この支援団体は、これまでは主にコリアタウン内の韓国系やメキシコ系の飲食店などにおける労働問題に対して抗議活動を続けてきた。今回のように、高級住宅街の高級料理店に対する抗議活動は珍しいという。

彼らは、カリフォルニア州の労働基準監督署(The Division of Labor Standards Enforcement)に問題を訴えるだけでなく、問題のあった飲食店に対して抗議デモを行うなどして、移民労働者をサポートする。

今回の問題を報じたロサンゼルス・タイムズの記事によると、ロサンゼルスはアメリカで賃金未払い率が最も高い都市で、年間に推定14億ドル(約1,400億円)が労働者に支払われていないらしい。
滞在資格や言語の問題から、移民労働者が未払い賃金の被害にあうことも少なくない。

新聞社の取材に高級すし店側が答えていないため、両者の意見を比較することができないが、少なくとも支援団体が存在しているということは、問題が起きた場合に移民労働者がどこかに助けを求められるという点で重要だ。

公的機関の罰金命令にも、新聞社の取材にも応じないという高級すし店側の姿勢は、なかなか理解しがたいが、今後も問題の推移を注視していきたい。

・ロサンゼルス・タイムズの記事は、こちら
・ニューヨーク・タイムズの記事は、こちら
・この高級すし店の料理について詳しく書いた個人ブログの記事は、こちら

※追記
その後、店側が罰金の支払いに合意した。詳しくは、こちら

2013年7月20日土曜日

アメリカのクレジットカード、1年間かけて取得

アメリカ国内の銀行が発行したクレジットカードを手に入れた。
これでロサンゼルスでの留学生活が、より快適になりそうだ。
アメリカ国内では、ガソリンスタンドのセルフ給油機などで、日本のクレジットカードが使えないケースがあるからだ。

しかし、日本人がアメリカに渡って銀行口座を開設しても、すぐにクレジットカードは手に入らない。
アメリカ国内の会社が発行したクレジットカードの適切な利用実績がないと、ちゃんと返済できる人だと信用してもらえず、カード作成申請を受理してもらえない。
日本国内の銀行などが発行したクレジットカードの利用実績は、アメリカでクレジットカードを申請する際には役に立たない。

昨年、渡米直後に銀行口座を開設した時、銀行員さんがセキュアード・クレジットカード(secured credit card)という練習用クレジットカードについて教えてくれた。

これは、あらかじめセキュアード・クレジットカード用の口座に、一定の金額をデポジットとして預けたうえで、そのデポジット額を上限にクレジット機能が使えるカードだ。
デポジットが300ドルなら、利用額が300ドルを上回らない程度にカードを使い、請求書が送られて来たら、小切手などで支払う。
もしも、カード利用者が返済できない場合は、デポジットから返済されるため、銀行はリスクを背負わなくてもいいという仕組みだ。
それを1年近く繰り返すと、この人はちゃんとクレジットカードが使える人ですね、と認識されて、デポジットが返金される。その後、正規のクレジットカードを申請できるようになるわけだ。

というわけで、このセキュアード・クレジットカードを作って、最近まで使い続けてきた。デポジット300ドルが返金されたので、そろそろと思い、銀行でクレジットカードを申請すると、問題なく受理してくれた。
セキュアード・クレジットカードは年会費39ドルがかかるため、キャンセル。今後は年会費無料の正規のクレジットカードだけを利用する予定だ。

海外で暮らすと、日本で当たり前だったことが、当たり前でないこともある。
クレジットカードもそういったものの一つだったけど、1年間かけて手に入れるとなんとなく達成感があった。

2013年7月13日土曜日

アジア人移民の歴史、サンフランシスコ・エンジェル島を歩く

サンフランシスコ滞在2日目は、アジア人移民と関わりが深いエンジェル島(Angel Island)に向かった。

エンジェル島は、サンフランシスコ湾内にある小さな島で、サンフランシスコの埠頭から、片道8.5ドルのフェリーで行くことができる。
フェリーはBlue & Gold Fleet社が運営している便を使い、第41番埠頭(Pier 41)を、午前9時40分に出発。約30分ほどでエンジェル島に到着する。その間、海から見たサンフランシスコの街並みが見えるので、ただの交通手段以上に乗船を楽しむことができた。

フェリーからみたサンフランシスコ市街地の景色

エンジェル島は、カリフォルニアをメキシコから獲得したアメリカが軍事施設また検疫所として利用してきたが、1910~1940年には移民管理施設が置かれた。アジアから来る多くの中国人や日本人らの入国審査を受けた場所であり、特にアジア系アメリカ人史においては重要な場所として記憶されている。

現在、島は州立公園に指定されており、その歴史に関心がある人だけでなく、周囲が海に囲まれた島でハイキングを楽しむ人も訪れている。


日本人移民の場合、1907~1908年の日米紳士協定によって、日本人労働者のアメリカ入国は禁止されたが、アメリカ国内にいる日本人の配偶者の入国は許されていた。そのため、紳士協定から1920年まで、かなり多くの日本人女性がアメリカに入国した。

アメリカで暮らす日本人既婚女性は1900年、わずか410人だったが、1920年には2万2千人までに増えた。日本人移民が家族を持ってアメリカに定住していく過程で、女性の移民は重要な役割を担った。
こうした女性たちが入国審査を受けた場所が、このエンジェル島だったわけだ。

彼女たちの多くは、いわゆる「写真花嫁」と呼ばれる人々だった。
写真花嫁とは、太平洋を挟んで行われた、写真による見合いで結婚し、渡米した女性たちのことだ。
結婚願望のある日本人男性が、自分の写真を日本に送り、日本で暮らす男性の家族が、仲介者を通して花嫁を探し、男性不在のまま、見つけた女性との入籍手続を済ます。これで、会ったことない一組の男女は戸籍上、結婚したことになる。

男女が一度も会ったことがないという点が特徴的で、アメリカ社会からは不道徳な行為と批判されたが、当時の日本社会で慣例的に行われていた見合い結婚と似た方法だった。

そして、女性は単身渡米して、サンフランシスコで男性と初めて会う。
しかし、多くの男性が、日本に送る写真を修正したり、まるで他人の写真を使ったりしていたため、本物と写真がまるで違うと感じる女性も少なくなかった。

エンジェル島の資料室に、当時、到着したばかりの写真花嫁たちの写真が展示されていた。
しっかりとした着物を着て、きれいに髪も結っている。その後、新しい生活でさまざまな困難に直面し、男性と別れる女性もいたが、多くの女性は写真で結ばれた男性と添い遂げたという。

エンジェル島に1910年代に到着した「写真花嫁」たちの写真が資料室で展示されていた。


中国人労働者と配偶者のアメリカ入国は1882年の中国人排斥法によって禁止されたが、その後もエンジェル島から入国する中国人はたくさんいた。なぜだろうか。

興味深いことに、それには1906年のサンフランシスコ大地震が関係している。
地震による火災で、サンフランシスコ市内の移民関連記録がほとんど消失してしまった。それをチャンスに、中国人移民の多くが偽の証明書を作るなどして、自分たちはアメリカ市民だと訴えた。
さらに、アメリカ市民の子どもは自動的にアメリカ市民と認められたため、多くの中国人が偽の出生証明書などを手に、エンジェル島からアメリカに入国することになる。

しかし、エンジェル島で移民官から、彼らが本当にアメリカ市民の子孫であるか尋問を受ける。
そこで彼らは、アメリカの中国人移民の家族関係について事前に勉強し、移民官の質問に答えられるように準備していた。

審査中の中国人移民は、エンジェル島内のバラックに収容された。収容人数に対してバラックは狭いうえ、不潔だったため、彼らの一部はバラックの壁に不満や怒りを込めて詩を刻んだという。

移民管理施設跡


僕の旅行に話を戻すが、エンジェル島に到着した直後、痛恨のミスをした。
島の地図を読み間違えてしまい、目的地の移民収容所だった建物がある場所と逆の方向に歩いてしまった。
30分ほど歩いて間違いに気づいて折り返し、どうにか移民収容所の近くまでたどり着いたが、帰りのフェリーの出発時間も迫っていた。ゆっくり関連施設を見学することができないまま、島を去ることになった。

きっとサンフランシスコに行く機会はまたあるだろう。そのとき、もう一回訪ねたいと思う。

※以上の記事は、Brian Niiya, ed. Enclyclopedia of Japanese American History (2001) とRonald Takaki, Strangers from A Different Shore (1998)を参照した。


この翌日は、サンフランシスコから約3時間、東に車で走ったところにあるヨセミテ国立公園に向かい、絶景を楽しむことができた。

マーセド川から見上げたヨセミセ渓谷

・サンフランシスコ滞在1日目の記事は、こちら


2013年7月11日木曜日

多様性の街・サンフランシスコ、アジア人移民の第一歩

夏休みを利用して、サンフランシスコなどカリフォルニア北部に車で3泊4日の旅行に出かけた。

初日はスペイン・メキシコ統治時代、アルタ・カリフォルニアの首都だったモンテレー(Monterey)市を目指して、太平洋岸の道路を走った。

ロサンゼルス市を午前9時半ごろに出発し、午後1時半過ぎにゾウアザラシのコロニー(営巣地)がある海岸(Piedras Blancas付近)に到着した。
夏は出産期でないため、海岸一面ゾウアザラシという状況ではなかったけど、10匹ほど近くで見ることができたので満足した。

ゾウアザラシは陸にいる間は何も食べない。ときどき、ひれで体に砂をかけていたけど、砂をかける理由はよく分かっていないらしい。

次に太平洋岸の断崖に架けられたビクスビー・クリーク橋で車を止めた。多くの観光客が絶景を写真に収めていた。

1930年代に造られたビクスビー・クリーク橋と断崖の景色

午後6時ごろにモンテレーに到着。この町は、1950年代まで漁業が盛んで、海産物の缶詰工場の労働者らで活気に溢れていた。その缶詰工場跡地を観光商業地として活用しているキャネリー・ロウ(Cannery Row)を散歩した。その後、埠頭沿いで営業する小さなレストラン「LouLou's Griddle in the Middle」で、評判のいいクラムチャウダーとイカフライを食べた。店員さんもみんな感じがよくて、居心地が良かった。目の前で調理している様子が見えるのも楽しい。

キャネリー・ロウ周辺は、たくさんの観光客でにぎわっていた。

食後、サンフランシスコ中心部から少し離れたホテルに向かって、一泊した。


翌日はサンフランシスコ観光。僕は3回目のサンフランシスコだけど、この街は何度来ても魅力的だし、まだ行ったことがない場所もいろいろ。

今回はメキシコ系アメリカ人の市民権運動が盛んだった1970年代に、運動の一環として芸術活動が展開されたミッション地区に初めて足を運んだ。街中を歩いている人は、ほとんどラティーノだ。

地区内のいろいろな建物の壁に壁画が描かれている。
特にミッション通りと交差するクラリオン通り(Clarion Alley)という路地には、多くの壁画が集中している。1990年代、ミッション地区に暮らす芸術家らが、この路地の両側の建物の壁に絵を描き始めたという。路地自体はやや汚れているが、この無料路地裏美術展の雰囲気にいい感じでマッチしていた。

スプレーで描かれた壁画もあった。見ごたえあり。

その後、ミッション地区から20分ほど西へ歩いて、アメリカを代表するゲイ・コミュニティのカストロ地区に向かった。

カストロ通り沿いには、素敵な飲食店や雑貨店が続いており、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのローマ字頭文字)の自尊心と社会運動を象徴する虹色の旗がいたるところに飾ってあった。ある洋服店のディスプレーには、男性のマネキン2体が抱き合うような形で置かれていた。このように、性別に関わらず、人を愛する権利を認め合うカストロ地区は、社会の多様性また人権という観点で、重要な役割を果たしていると感じた。

カストロ通り沿いの電灯の柱などには、虹色の旗が飾られている。

カリフォルニア州で同性婚を認める最高裁判決が下された6月下旬、この通りで盛大なパレードが開催されたらしい。

電線からぶら下がったハートを見つけた。性別に関わらない愛の街に似合う、しゃれたいたずらだ。


午後はチャイナタウンに向かった。19世紀後半に形成されたチャイナタウンで、サンフランシスコの中心的な観光地となっている。独立記念日の後の週末だったせいか、歩道が観光客でいっぱいになるほど、にぎわっていた。ところどころで、おじいさんが二胡を演奏していた。

チャイナタウン入口にある中国風の門。この門の前後約600メートルに中国料理店などの店が並ぶ。

カリフォルニア州で1848年に金が見つかる(ゴールド・ラッシュ)と、サンフランシスコの人口は一気に増加する。鉱山労働者としてサンフランシスコに到着した中国人は、その後、アメリカ大陸横断鉄道の建設にも大きく貢献する。サンフランシスコ市内に暮らす中国人は1870年には約1万2千人に達し、低賃金労働者として地域経済の発展を支えた。当時、中国人はアメリカ市民に帰化することが許されなかったうえ、中国人を主な対象にした差別的課税もあった。さらに1882年、中国人に対する反感が白人の間で強まった結果、中国人排斥法が連邦議会で可決され、中国人労働者のアメリカ入国は禁止された。

ゴールドラッシュから150年以上たった今日、サンフランシスコ市の市長は中国系アメリカ人のエドウィン・リーだ。リー市長の就任は、サンフランシスコ地域社会の多様性に対する考え方の歴史的な変化を象徴しているといえるだろう。

オバマ大統領も来店したという評判の飲茶店「Great Eastern Restaurant」で昼食。ふだんロサンゼルスの飲茶店で注文しない、黒胡椒ソースのスペアリブや魚肉ミートボールなど点心4品に加えて、揚げたエビのピリ辛甘酢ソースという一品料理も注文した。どれも大満足だった。

店員は30~40歳代の男性が中心だった。みんな広東語で会話をしている。
ちょうど僕らが食事を終えて店を出るとき、客用の丸テーブルに店員6人ほどが座って、まかないを食べていた。ぱっと見たところ、豚足を煮込んだようなものだ。
客室フロアーで店員がまかないを堂々と食べているところを見て、活気があっていいなと思った。

チャイナタウンの鶏肉店では、手羽先や足など部位ごとに分けて鶏肉を販売していた。


そのままチャイナタウンから、埠頭が続く湾岸などを歩いた後、ジャパンタウンに車で向かった。
ここは20世紀前半に日本人移民が集住した地域だ。

サンフランシスコも日本人移民の歴史と縁が深い。
明治維新翌年の1869年、カリフォルニアに渡った最初の日本人はサンフランシスコに到着した。
彼らは明治維新によって政治力を奪われ、行き場を失った会津若松の侍たちだった。政変が移民を生み出すのは、今も昔も変わらない。
その後、カリフォルニアの日本人労働者は、中国人移民が禁止された1882年以降、本格的に増えていくが、日本人移民に対する反感も高まって1924年に日本人移民も禁止されることになる。

現在、ジャパンタウンは、日本料理店や日本関連の雑貨店などが集まる観光地になっている。
サンフランシスコ旅行をした8年前、ジャパンタウン内の日系スーパーに立ち寄ったことはあるが、じっくり地域を歩くのは初めてだった。

ジャパンタウン中心部にあるジャパン・センターというショッピングモールに入ると、紀伊国屋書店や日本風クレープ店、「味覚のれん街」と名づけられた日本料理店コーナーなど、たくさんの店舗が入っていた。日系人や日本人以外の来客も多かった。アニメ関連の店もあり、猫の耳の飾りを頭に着けた非アジア系アメリカ人の若者たちもいた。

ジャパン・センター内には、人気キャラクター「たれぱんだ」のぬいぐるみ帽子をかぶった人(左から2人目)もいた。

モールの広場には、大きな大阪城の模型が置かれていた。おそらく、サンフランシスコ市が大阪市の姉妹都市だからだろう。

大阪城の模型

その翌日は、中国や日本などから来たアジア人移民の歴史と関わりが深いエンジェル島にサンフランシスコの埠頭からフェリーで向かった。

・サンフランシスコ滞在2日目の記事は、こちら

2013年7月1日月曜日

日系アメリカ人の過去と現在、ガーデナ市で日系イベント

ロサンゼルス郡ガーデナ(Gardena)市。一世紀以上前から、日本人移民と、その子孫の日系アメリカ人が暮らしてきた。
この地域の日系アメリカ人に対してコミュニティ活動を行っている日系団体ジャパニーズ・カルチュラル・インスティテュート(Japanese Cultural Institute)が主催する、年に一度のお祭りイベントに、日本の大学院の後輩と妻と3人で足を運んだ。

会場前に置かれたイベントの横断幕

正午過ぎに、団体敷地内のイベント会場に到着。さっそく太鼓の音が聞こえてきた。
すでに日系人を中心に、子どもから高齢者まで、幅広い世代の人々でにぎわっている。
会場入り口付近から、屋台が続く。
かつてカリフォルニア州に渡ってきた日本人移民の多くが沖縄県出身者であったり、ハワイを経由してアメリカ本土に来たりしたことから、沖縄やハワイの料理もいろいろ販売されていた。

サーターアンダギー店には、行列ができていた。

ラウラウ(Lau Lau)という食べものを出している屋台を見つけた。
何か分からないので、屋台のおじさんに聞くと、タロイモの葉で包んだ豚肉を蒸したハワイ料理らしい。
食べたことがないので、挑戦してみた。

食事コーナーのテーブルに座って、ラウラウの入った弁当箱を開くと、タロイモの葉で包んだちまきのようなもの、ごはん、キャベツなどの浅漬けに加え、刻んだトマトとサーモンを混ぜたサラダも入っていた。
豚肉はとてもジューシーで申し分ない。妻は浅漬けが気に入ったらしい。

ハワイ料理のラウラウ。豚肉の上には、白身魚の切り身も入っていた。

ほとんど豚肉を食べ終わったところで、同じテーブルに座った50歳代くらいのコリア系のおじさんから、「そのタロイモの葉も肉と一緒に食べるんだよ」と教えてくれた。
たしかに、蒸された葉は豚肉の肉汁が染み込んで、おいしそうだったので、どうしようかと思っていた。
すると、同じテーブルに座っていた別の日系人のおじいさんも「それ(タロイモの葉)は値段が高いよ」と付け加えた。
どうやら、僕らはメインの葉を食べ残していたみたいだ。その後、3人でおいしく葉の部分もいただいた。初めて食べる料理は、こういうことが面白い。

そこから、おじいさんの奥さんも含めて、いろいろと話が盛り上がった。会話は英語だ。
おじいさんから「日本のどこから来たの」「英語はどこで覚えたの」などと質問され、いろいろ答えているうちに、おじいさん自身の話にもなり、「僕はキベイだよ(I'm Kibei)」と教えてくれた。
キベイとは、アメリカ生まれの日系人2世だが、若いころに日本で教育を受けるため、日本で暮らした後、再びアメリカに帰った人たちだ。そのため、キベイ(帰米)という。

すると、おじいさんの奥さんが「この人の人生っておもしろい(interesting)のよ」と笑顔で話す。
どういうことだろうかと、おじいさんに目を向けると、「僕はね、日本軍とアメリカ軍のどっちにも入ったんだよ。日本にいたときに、日本軍に徴兵されてね。けど、入隊した途端に戦争が終わったんだ。その後、アメリカに帰るでしょ。そしたら、今度はアメリカ軍に徴兵されたんだよ」と教えてくれた。「帰ってすぐにアメリカ軍に入ったんですか」と聞くと、「朝鮮戦争ね」と答えてくれた。

軍隊に入ることは前提として命がけだけど、両親の生まれた国と自分の生まれた国の両方によって、そういう命がけの状況に置かれた人がいた、という事実はとても重たい。
だけど、おじいさんは過去を俯瞰したように、楽しそうに語りかけてくる。
二つの国家のはざまで翻弄されながらも、笑顔で語るおじいさんに、国家ではコントロールしきれない個人のちからを感じた。

おじいさんは、現在87歳という。奥さんも80歳代で、二人とも元気そのものだ。奥さんは今も車の運転を続けていて、時速130キロ近くの速度で高速道路を走ることもあるという。
奥さんは「ラスベガスまで運転するのよ」とニコリ。すると、コリア系のおじさんが「彼(おじいさん)の運転だと遅くて、ラスベガスにたどり着かないよ」と冗談を挟む。
おじいさんは、そんな二人に挟まれて、ニコニコしていた。

しゃんとしてきれいな奥さんに、若さの秘訣は何か聞いたら、「ノンキでいることね」と、「ノンキ」だけ日本語のまま答えてくれた。

ハワイ音楽やフラダンスなども披露された。


おじいさんたちと別れた後、イベントの出し物をいろいろ見て回った。
ステージでは、ハワイ音楽やフラダンスが披露されて、多くの人々が焼きそばやかき氷などを食べながら聞き入っていた。アメリカでは、焼きそばもかき氷も、エスニック料理といえる。

子どもが遊べるコーナーもあった。バスケットボールのリングが置かれ、日系人の子どもたちがシュートの練習をしていた。バスケットボールは、日系人コミュニティーの絆を深めるスポーツとして重要な役割を果たしてきた。現在も日系人選手を中心としたリーグが存在し、人気のスポーツだ。

バスケコーナーの隣には、「PACHINKO」というコーナーがあった。かなり古い機種のパチンコ台が並べられ、子どもたちが遊んでいた。

古い機種のパチンコ台で遊ぶ子どもたち

この団体の2階建ビルでは、第二次世界大戦中の日系人強制収容所に関する展示に加え、団体が主催している日本語教室の生徒が作った日本語のポスター展示などもあった。

日本語教室の生徒の作品も展示されていた。

その後は、イベント会場を出て、周辺の住宅地を歩いて回った。
車で通りすぎると、他の地域と同じように見えるが、ゆっくり歩くと、マツを植えたり、砂利をしきつめたり、庭先が日本庭園スタイルになっている住宅が多いことに気付く。
団体スタッフに聞くと「そうですよ。今でも、この周辺にたくさん日系人が住んでいます」と教えてくれた。
車の交通量が多い大通りには、ハングル文字が目立つ。近年、ガーデナ市に移り住む韓国人移民が増えてきているという。

イベント会場周辺の住宅地。庭先にマツを植えるなどして日本庭園の要素を入れていた。

住宅地を40分ほど歩いて、イベント会場に戻ると、この日、会う予定だった日本の大学院の先輩が到着していた。先輩が、この団体に関する過去の記録の歴史調査を行っていた関係で、今回のイベントを教えてもらった。調査などを終えて、もうすぐ帰国するところだったので、団体スタッフを僕に紹介してくれた。先輩には、日本にいたころから、お世話になっていたが、アメリカでもいろいろと気づかってくれる。感謝の一言だ。

団体のリーダーの女性に挨拶した。団体は地域の高齢者を中心に、さまざまなサービスを行っているが、今後は日系人と日本人が交流できるような機会も増やしていきたいという。

たしかに、ロサンゼルス都市圏には、約7万人の日本人が暮らしているものの、何世代も前にアメリカに移住した日本人の子孫である日系人と関わりを持つ人は多くない。言葉の壁も影響しているかもしれない。

ありがたいことに、僕は日系人とも日本人ともふれあう機会が多い。そうしたコネクションを活かして、何かしら団体のイベント広報など、お手伝いできることがあれば喜んでしたい、とリーダーに伝えておいた。


4時間ほど滞在して、イベント会場をあとにした。
こうしたたくさんの日系人が集まるイベントに参加したのは初めてだった。
日系人の過去と現在について、いろいろな話を聞く貴重な機会となった。

後輩も「あのおじいさんの話は本にしたほうがいいんじゃないすかね」と言い、妻も「大昔にアメリカに移民した日本人の子孫の人々と思うと、感慨深かった」と話していた。