2013年7月1日月曜日

日系アメリカ人の過去と現在、ガーデナ市で日系イベント

ロサンゼルス郡ガーデナ(Gardena)市。一世紀以上前から、日本人移民と、その子孫の日系アメリカ人が暮らしてきた。
この地域の日系アメリカ人に対してコミュニティ活動を行っている日系団体ジャパニーズ・カルチュラル・インスティテュート(Japanese Cultural Institute)が主催する、年に一度のお祭りイベントに、日本の大学院の後輩と妻と3人で足を運んだ。

会場前に置かれたイベントの横断幕

正午過ぎに、団体敷地内のイベント会場に到着。さっそく太鼓の音が聞こえてきた。
すでに日系人を中心に、子どもから高齢者まで、幅広い世代の人々でにぎわっている。
会場入り口付近から、屋台が続く。
かつてカリフォルニア州に渡ってきた日本人移民の多くが沖縄県出身者であったり、ハワイを経由してアメリカ本土に来たりしたことから、沖縄やハワイの料理もいろいろ販売されていた。

サーターアンダギー店には、行列ができていた。

ラウラウ(Lau Lau)という食べものを出している屋台を見つけた。
何か分からないので、屋台のおじさんに聞くと、タロイモの葉で包んだ豚肉を蒸したハワイ料理らしい。
食べたことがないので、挑戦してみた。

食事コーナーのテーブルに座って、ラウラウの入った弁当箱を開くと、タロイモの葉で包んだちまきのようなもの、ごはん、キャベツなどの浅漬けに加え、刻んだトマトとサーモンを混ぜたサラダも入っていた。
豚肉はとてもジューシーで申し分ない。妻は浅漬けが気に入ったらしい。

ハワイ料理のラウラウ。豚肉の上には、白身魚の切り身も入っていた。

ほとんど豚肉を食べ終わったところで、同じテーブルに座った50歳代くらいのコリア系のおじさんから、「そのタロイモの葉も肉と一緒に食べるんだよ」と教えてくれた。
たしかに、蒸された葉は豚肉の肉汁が染み込んで、おいしそうだったので、どうしようかと思っていた。
すると、同じテーブルに座っていた別の日系人のおじいさんも「それ(タロイモの葉)は値段が高いよ」と付け加えた。
どうやら、僕らはメインの葉を食べ残していたみたいだ。その後、3人でおいしく葉の部分もいただいた。初めて食べる料理は、こういうことが面白い。

そこから、おじいさんの奥さんも含めて、いろいろと話が盛り上がった。会話は英語だ。
おじいさんから「日本のどこから来たの」「英語はどこで覚えたの」などと質問され、いろいろ答えているうちに、おじいさん自身の話にもなり、「僕はキベイだよ(I'm Kibei)」と教えてくれた。
キベイとは、アメリカ生まれの日系人2世だが、若いころに日本で教育を受けるため、日本で暮らした後、再びアメリカに帰った人たちだ。そのため、キベイ(帰米)という。

すると、おじいさんの奥さんが「この人の人生っておもしろい(interesting)のよ」と笑顔で話す。
どういうことだろうかと、おじいさんに目を向けると、「僕はね、日本軍とアメリカ軍のどっちにも入ったんだよ。日本にいたときに、日本軍に徴兵されてね。けど、入隊した途端に戦争が終わったんだ。その後、アメリカに帰るでしょ。そしたら、今度はアメリカ軍に徴兵されたんだよ」と教えてくれた。「帰ってすぐにアメリカ軍に入ったんですか」と聞くと、「朝鮮戦争ね」と答えてくれた。

軍隊に入ることは前提として命がけだけど、両親の生まれた国と自分の生まれた国の両方によって、そういう命がけの状況に置かれた人がいた、という事実はとても重たい。
だけど、おじいさんは過去を俯瞰したように、楽しそうに語りかけてくる。
二つの国家のはざまで翻弄されながらも、笑顔で語るおじいさんに、国家ではコントロールしきれない個人のちからを感じた。

おじいさんは、現在87歳という。奥さんも80歳代で、二人とも元気そのものだ。奥さんは今も車の運転を続けていて、時速130キロ近くの速度で高速道路を走ることもあるという。
奥さんは「ラスベガスまで運転するのよ」とニコリ。すると、コリア系のおじさんが「彼(おじいさん)の運転だと遅くて、ラスベガスにたどり着かないよ」と冗談を挟む。
おじいさんは、そんな二人に挟まれて、ニコニコしていた。

しゃんとしてきれいな奥さんに、若さの秘訣は何か聞いたら、「ノンキでいることね」と、「ノンキ」だけ日本語のまま答えてくれた。

ハワイ音楽やフラダンスなども披露された。


おじいさんたちと別れた後、イベントの出し物をいろいろ見て回った。
ステージでは、ハワイ音楽やフラダンスが披露されて、多くの人々が焼きそばやかき氷などを食べながら聞き入っていた。アメリカでは、焼きそばもかき氷も、エスニック料理といえる。

子どもが遊べるコーナーもあった。バスケットボールのリングが置かれ、日系人の子どもたちがシュートの練習をしていた。バスケットボールは、日系人コミュニティーの絆を深めるスポーツとして重要な役割を果たしてきた。現在も日系人選手を中心としたリーグが存在し、人気のスポーツだ。

バスケコーナーの隣には、「PACHINKO」というコーナーがあった。かなり古い機種のパチンコ台が並べられ、子どもたちが遊んでいた。

古い機種のパチンコ台で遊ぶ子どもたち

この団体の2階建ビルでは、第二次世界大戦中の日系人強制収容所に関する展示に加え、団体が主催している日本語教室の生徒が作った日本語のポスター展示などもあった。

日本語教室の生徒の作品も展示されていた。

その後は、イベント会場を出て、周辺の住宅地を歩いて回った。
車で通りすぎると、他の地域と同じように見えるが、ゆっくり歩くと、マツを植えたり、砂利をしきつめたり、庭先が日本庭園スタイルになっている住宅が多いことに気付く。
団体スタッフに聞くと「そうですよ。今でも、この周辺にたくさん日系人が住んでいます」と教えてくれた。
車の交通量が多い大通りには、ハングル文字が目立つ。近年、ガーデナ市に移り住む韓国人移民が増えてきているという。

イベント会場周辺の住宅地。庭先にマツを植えるなどして日本庭園の要素を入れていた。

住宅地を40分ほど歩いて、イベント会場に戻ると、この日、会う予定だった日本の大学院の先輩が到着していた。先輩が、この団体に関する過去の記録の歴史調査を行っていた関係で、今回のイベントを教えてもらった。調査などを終えて、もうすぐ帰国するところだったので、団体スタッフを僕に紹介してくれた。先輩には、日本にいたころから、お世話になっていたが、アメリカでもいろいろと気づかってくれる。感謝の一言だ。

団体のリーダーの女性に挨拶した。団体は地域の高齢者を中心に、さまざまなサービスを行っているが、今後は日系人と日本人が交流できるような機会も増やしていきたいという。

たしかに、ロサンゼルス都市圏には、約7万人の日本人が暮らしているものの、何世代も前にアメリカに移住した日本人の子孫である日系人と関わりを持つ人は多くない。言葉の壁も影響しているかもしれない。

ありがたいことに、僕は日系人とも日本人ともふれあう機会が多い。そうしたコネクションを活かして、何かしら団体のイベント広報など、お手伝いできることがあれば喜んでしたい、とリーダーに伝えておいた。


4時間ほど滞在して、イベント会場をあとにした。
こうしたたくさんの日系人が集まるイベントに参加したのは初めてだった。
日系人の過去と現在について、いろいろな話を聞く貴重な機会となった。

後輩も「あのおじいさんの話は本にしたほうがいいんじゃないすかね」と言い、妻も「大昔にアメリカに移民した日本人の子孫の人々と思うと、感慨深かった」と話していた。

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