大学キャンパスでしばしば使うトイレの壁に、ロサンゼルスならどこでもありそうな学生の落書きがある。この落書きは、非白人の学生が白人の学生を蔑む内容だった。
「フラタニティに入っているやつは、だいたい、アホで、白人で、ろくでもないやつ、金持ちだけど」
フラタニティ(fraternity)とは男子学部生の学生団体。一つの大学に複数のフラタニティがあり、パーティを開くなどして友情を深める。アフリカ系やアジア系など非白人のフラタニティもあるけれど、フラタニティといえば白人男子学部生が羽目を外して遊んでいるというイメージが強い。また、大学キャンパスでは少数派である非白人の学生が周辺化されていることに対する不満も少なくない。この落書きの背景には、人種と階級を巡る学生間の緊張関係がある。
この落書きの左隣には、「フラタニティのファッグ(同性愛者に対する差別語)←本当のファッグ」と明らかに差別的な言葉を使って、フラタニティの学生を攻撃している。ここでは人種的マジョリティの白人学生に対する不満と、性的マイノリティの同性愛者に対する差別が絡む。
そこに別の学生が「なんでまだファッグなんて言葉を使ってんの?」と黒のペンで書き、さらに別の学生が「なんでかというと、こいつらがアホだから」と青のペンで書き加えている。さらに青のペンの学生は「フラタニティのファッグ←本当のファッグ」という元の落書きに対して「ファック・ユー」と矢印付きで付け加えていた。
複数の学生による落書きはここらへんで止まると思いきや、それら全体のやり取りに対して、またまた別の学生が「自分のおかんとやってまえ、ボケナス」とスペイン語で大きく書き加えていた。
人種、階級、セクシャリティが絡む攻撃的または差別的なやり取りに、言語を通したエスニシティ的な要素も加わり、この一連の落書きだけで、アメリカ人学部生の生活における差別構造や緊張関係がなんとなく浮き上がってくる。
けれど、なぜ差別語を含むこの落書きが半年以上ずっと消されずに残っているのだろうか。その理由の一つとしては、軽蔑の対象が多数派の白人であるという点が挙げられる。もしも、この落書きが少数派の非白人学生に対するものであれば、すぐに誰かが大学に報告し、人種差別事件として問題になるだろう。
おそらくフラタニティに所属する白人学生がこの落書きを見ても、それ自体がキャンパス内の白人学生の立場に脅威を与えないため、「はいはい」と笑って済ますことができるだろう。ある意味では、この落書きが放置されていること自体がキャンパス内で白人学生の力が強く、構造的に被差別の対象ではないという状況を裏付けている。
このように、どちらかといえばリベラルな環境であるはずの大学キャンパスでも、人種・エスニシティ、階級、セクシャリティを巡る差別構造や緊張関係を観察することはそれほど難しいことではない。
2015年12月12日土曜日
2015年12月6日日曜日
移民と銃と保守主義、サンバーナディノ市の乱射事件
12月4日、ロサンゼルス総領事館から緊急の注意喚起メールが届いた。
この事件では、若い夫婦が仕事先で銃を乱射し、14人が死亡、21人が負傷した。夫婦がイスラム過激派の影響を受けた可能性もあるとして、当局がテロとして捜査を進めている。オバマ大統領も6日、事件をテロと認定し、その対策に力を注ぐと語った。
アメリカ国内では、パリの同時多発テロ事件以降、シリア難民を受け入れるべきではないという意見が共和党支持者を中心に広がっていた。今回の銃撃事件は、そんな難民・移民の受入反対論をさらに刺激している。容疑者の夫はパキスタン系アメリカ人で妻はパキスタン人移民で、サウジアラビアで知り合ったという。
移民反対団体「Federation for American Immigration Reform」代表のダン・ステインは、容疑者の妻がパキスタン人移民であったことを取り上げ、「ビザであれ、難民であれ、我々の国に入ってくる人々の身元について、常に十分な調査ができるわけではない」として、移民の入国を制限する必要があると訴えている。
そうした意見に対して、国務省の広報官は2001年のアメリカ同時多発テロ以降、アメリカ政府は厳しい難民・移民の入国審査を続けてきていると説明している。移民支援団体の多くは、今回のサンバーナディノ市の事件が移民排斥の理由に使われてはならないと主張している。
アメリカ史を振り返ると、疑似科学的な人種主義や反共主義、不景気などの影響で、東・南ヨーロッパ人、アジア人、メキシコ人らに対する移民排斥の運動が各時代に存在してきた。特に1970年代以降、多くの非合法移民を含むメキシコ人や中央アメリカ出身者は移民排斥論者の主な批判対象になっているが、アメリカ同時多発テロ以降、イスラモフォービア(イスラム恐怖症)の影響で中東出身者を警戒する声が保守層の間で強まってきた。
各時代で程度は違うものの、移民制限論者の根底には、白人のキリスト教徒を中心としたアメリカ社会を守ろうという人種的・宗教的な保守主義がある。そうした保守層の不安や不満に訴えて人気を集めているのが、共和党大統領候補の中で現在支持率が最も高い不動産王ドナルド・トランプだ。
トランプはパリの事件後、シリア難民の入国について記者から質問された際、すべてのイスラム教徒の移民を管理する全国的なデータベースが必要だと主張。さらにサンバーナディノ市の事件直後は「ところで、もしもパリの人々やカリフォルニアの人々が、もしも(犯人以外に)誰か銃を持った人がいたら、そしてその使い方を知っていたら、それでその(事件現場の)部屋にいたら、(彼らが犯人を先に撃ち殺すから)きっと死人は出ないでしょう」と語り、テロを防ぐ手段として銃所持の重要性を改めて訴えた。
アメリカ国内では銃による殺人事件が繰り返されている。2015年だけでも、サンバーナディノ市の事件以前に、354件の乱射事件(死傷者4人以上)が発生している。こうした異常な状況にオバマ大統領を含め多くの人々が銃規制を求める声を上げている。
一方で、アメリカの保守層では銃規制反対の声が根強い。トランプは、パリやカリフォルニアで痛ましい事件が起こるたびに、移民制限と銃所持という保守層が好む意見に言及し、支持を拡大しようとしている。7日にはテロ対策が整うまでイスラム教徒の入国を禁止すべきと明言した。こうした発言はテロとは関係のないイスラム教徒全体への偏見を強める。
第二次世界大戦中、日系人強制収容を経験した俳優のジョージ・タケイは「真珠湾攻撃の日(7日)にトランプがこの計画(イスラム教徒の入国禁止)を発表したのは皮肉なこと...この計画は阻止してあらゆる憎悪を否定しないといけない。そうじゃないと(日系人が経験したような)過去と同じ過ちを繰り返すでしょう」とフェイスブックでトランプを批判した。
移民と銃というアメリカ社会を歴史的に特徴づけてきた二つの要素が今回の乱射事件で絡まり合い、2016年大統領選を前に、保守層の中で反イスラム・ポピュリズムの拡大につながっている。とはいえ、アメリカ経済が回復基調ということもあり、感情的で極端な主張を繰り返すトランプが保守層の一部を超えて支持を集めるような状況には至らないだろう。
・事件に関連した移民支援・反対の両議論については、こちら。
・事件を受けたトランプのコメントは、こちら。
・シリア難民を巡るトランプのコメントは、こちら。
在留邦人、渡航者の皆様へロサンゼルス総領事館に在留届を出していると、こうした注意喚起が届くことがある。このメールで事件に巻き込まれる可能性が低くなるわけではないけれど、インターネット時代における日本政府と在留邦人のつながり方を具体的に示す事例として興味深い。
12月2日、サンバーナディノ市において銃撃事件が発生しました。(中略)FBI当局等はこれをテロ事件として扱い、捜査をしている過程において過激派とのつながりなどが判明している状況です。(中略)事件に巻き込まれないように十分に気をつけるよう願い申し上げます。
この事件では、若い夫婦が仕事先で銃を乱射し、14人が死亡、21人が負傷した。夫婦がイスラム過激派の影響を受けた可能性もあるとして、当局がテロとして捜査を進めている。オバマ大統領も6日、事件をテロと認定し、その対策に力を注ぐと語った。
アメリカ国内では、パリの同時多発テロ事件以降、シリア難民を受け入れるべきではないという意見が共和党支持者を中心に広がっていた。今回の銃撃事件は、そんな難民・移民の受入反対論をさらに刺激している。容疑者の夫はパキスタン系アメリカ人で妻はパキスタン人移民で、サウジアラビアで知り合ったという。
移民反対団体「Federation for American Immigration Reform」代表のダン・ステインは、容疑者の妻がパキスタン人移民であったことを取り上げ、「ビザであれ、難民であれ、我々の国に入ってくる人々の身元について、常に十分な調査ができるわけではない」として、移民の入国を制限する必要があると訴えている。
そうした意見に対して、国務省の広報官は2001年のアメリカ同時多発テロ以降、アメリカ政府は厳しい難民・移民の入国審査を続けてきていると説明している。移民支援団体の多くは、今回のサンバーナディノ市の事件が移民排斥の理由に使われてはならないと主張している。
アメリカ史を振り返ると、疑似科学的な人種主義や反共主義、不景気などの影響で、東・南ヨーロッパ人、アジア人、メキシコ人らに対する移民排斥の運動が各時代に存在してきた。特に1970年代以降、多くの非合法移民を含むメキシコ人や中央アメリカ出身者は移民排斥論者の主な批判対象になっているが、アメリカ同時多発テロ以降、イスラモフォービア(イスラム恐怖症)の影響で中東出身者を警戒する声が保守層の間で強まってきた。
各時代で程度は違うものの、移民制限論者の根底には、白人のキリスト教徒を中心としたアメリカ社会を守ろうという人種的・宗教的な保守主義がある。そうした保守層の不安や不満に訴えて人気を集めているのが、共和党大統領候補の中で現在支持率が最も高い不動産王ドナルド・トランプだ。
トランプはパリの事件後、シリア難民の入国について記者から質問された際、すべてのイスラム教徒の移民を管理する全国的なデータベースが必要だと主張。さらにサンバーナディノ市の事件直後は「ところで、もしもパリの人々やカリフォルニアの人々が、もしも(犯人以外に)誰か銃を持った人がいたら、そしてその使い方を知っていたら、それでその(事件現場の)部屋にいたら、(彼らが犯人を先に撃ち殺すから)きっと死人は出ないでしょう」と語り、テロを防ぐ手段として銃所持の重要性を改めて訴えた。
アメリカ国内では銃による殺人事件が繰り返されている。2015年だけでも、サンバーナディノ市の事件以前に、354件の乱射事件(死傷者4人以上)が発生している。こうした異常な状況にオバマ大統領を含め多くの人々が銃規制を求める声を上げている。
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| アメリカで2015年に4人以上の死傷者を出した乱射事件の現場。PBSのニュースサイト(http://www.pbs.org/newshour/rundown/heres-a-map-of-all-the-mass-shootings-in-2015/)から。 |
一方で、アメリカの保守層では銃規制反対の声が根強い。トランプは、パリやカリフォルニアで痛ましい事件が起こるたびに、移民制限と銃所持という保守層が好む意見に言及し、支持を拡大しようとしている。7日にはテロ対策が整うまでイスラム教徒の入国を禁止すべきと明言した。こうした発言はテロとは関係のないイスラム教徒全体への偏見を強める。
第二次世界大戦中、日系人強制収容を経験した俳優のジョージ・タケイは「真珠湾攻撃の日(7日)にトランプがこの計画(イスラム教徒の入国禁止)を発表したのは皮肉なこと...この計画は阻止してあらゆる憎悪を否定しないといけない。そうじゃないと(日系人が経験したような)過去と同じ過ちを繰り返すでしょう」とフェイスブックでトランプを批判した。
移民と銃というアメリカ社会を歴史的に特徴づけてきた二つの要素が今回の乱射事件で絡まり合い、2016年大統領選を前に、保守層の中で反イスラム・ポピュリズムの拡大につながっている。とはいえ、アメリカ経済が回復基調ということもあり、感情的で極端な主張を繰り返すトランプが保守層の一部を超えて支持を集めるような状況には至らないだろう。
・事件に関連した移民支援・反対の両議論については、こちら。
・事件を受けたトランプのコメントは、こちら。
・シリア難民を巡るトランプのコメントは、こちら。
2015年11月27日金曜日
感謝祭とショッピング・モール、「アメリカ人」生み出す場所
11月の第四木曜日は感謝祭(Thanksgiving Day)。アメリカの国民的な祝日で多くの人が家族で集まる。
留学してから4回目の感謝祭。これまでは妻と二人だったけれど、今年は先日、生まれた子どもと一緒に迎えた。おっぱい飲んで、うんこして、ねんねしての生活。こちらに視線を向けたり、泣き声を出したりして、妻と僕に何かしら感情を伝えてくるのでおもしろい。
感謝祭は、17世紀初頭に現在のマサチューセッツ州に移住したイギリス人と先住民が神に感謝して一緒にご馳走を食べたことにちなんでいる。けれど、イギリス人の移住が先住民社会に壊滅的な打撃を与えたという歴史的事実を覆い隠しているとして批判の対象にもなっている。また、感謝祭はアブラハム・リンカーン大統領が19世紀の南北戦争中、北部を中心として国民を統合するために設けた祝日でもある。
このようにイギリス人移住者の美化とナショナリズムを伴って生まれた祝日だけれど、その後、家族で集まる祝日として定着した。七面鳥などアメリカ原産の食材を使った料理が多くの家庭の食卓にのぼるので、食材という観点では本当にアメリカ的な祝日といえるだろう。
七面鳥も豪華で楽しいけれど、我が家は普段どおりサンマ、納豆、味噌汁、豆腐などを美味しくいただいた。デザートには、友だちからもらった柿のジュクジュクしたやつを楽しんだ。この日であれどの日であれ、家族と一緒に食事ができることはありがたい。
感謝祭は年の瀬のショッピング・セールが始まる日でもある。この日の午後6時ごろから、Macy'sなどの大手量販店が開店。大安売りを目当てに店頭にテントを張って数日前から開店を待つ人もいる。この日は一般的に「ブラック・フライデー」と呼ばれており、一説では感謝祭翌日の金曜日から店の売り上げが黒字化するから、そう呼ばれるようになったという。
どんなものか見てみようと午後9時ごろ、近くの大きなショッピングモールに一人で足を運んだ。駐車場は車でほとんど埋まっていたけど、どうにかスペースを見つけた。店内に入ると、商品が詰まった買い物袋を両手に下げて歩く人たちやレジに長い列を作る人たちで賑わっていた。英語だけでなく、スペイン語やヒンディー語、中国語、日本語などいろんな言語が客の会話から聞こえてくる。多くの移民もここで買い物を楽しむ。
アメリカの移民社会について学んでいるわけだけれど、身体的・文化的に多様なアメリカの人々を一つにするものは何かと聞かれたら、その一つはこうしたショッピング・モールだと思っている。
アメリカでは消費することは資本主義を刺激するいいことであり、消費できることはステータスでもある。節約が美徳である一方、浪費は成功の証でもある。大量生産された商品で溢れるショッピング・モールはアメリカの富を象徴している。アメリカ社会は人種と階級の境界線を伴う不平等な社会だけれど、外見も文化も異なる人々がショッピング・モールで同じように消費を楽しむ様子を見ていると、アメリカの富という渦の中で彼らが一つになっていくような感じがする。少なくともここに来た(来れる)人たちに関しては、そう思う。
その渦は、それを観察している僕も巻き込んでいく。あまり買い物をしない僕でさえ、そこにいると周りの人と同じように、なんとなく楽しい気持ちになる、というか、楽しい気持ち以外はその場に想定されていない。ショッピング・モールの圧倒的な量の商品と賑やかな店内の装飾がアメリカの富の明るい部分だけ極端に照らし出し、そこで10ドルでも使えば、たちまちその富の一部になったような錯覚を生む。
現実社会の不平等を消費の力で一瞬でも忘れさせるショッピング・モールは、「アメリカ人」を生み出す原動力の一つを体感できる場所として、いつ足を運んでも興味深い。
そんなことを考えながら、自然と足が向かったのは、赤ちゃん服のコーナー。生まれたばかりの子どもに何か買おうか。人気ブランド「Carter's」の乳幼児用の服が4割引きだった。買う前に妻に電話したところ、「Carter'sは自社サイトでよく半額セールしてるから買わなくていいわ」とのこと。結局、いつも通り何も買わず家に帰った。家に到着すると、子どもがおっぱいをくわえながら眠っていた。
留学してから4回目の感謝祭。これまでは妻と二人だったけれど、今年は先日、生まれた子どもと一緒に迎えた。おっぱい飲んで、うんこして、ねんねしての生活。こちらに視線を向けたり、泣き声を出したりして、妻と僕に何かしら感情を伝えてくるのでおもしろい。
感謝祭は、17世紀初頭に現在のマサチューセッツ州に移住したイギリス人と先住民が神に感謝して一緒にご馳走を食べたことにちなんでいる。けれど、イギリス人の移住が先住民社会に壊滅的な打撃を与えたという歴史的事実を覆い隠しているとして批判の対象にもなっている。また、感謝祭はアブラハム・リンカーン大統領が19世紀の南北戦争中、北部を中心として国民を統合するために設けた祝日でもある。
このようにイギリス人移住者の美化とナショナリズムを伴って生まれた祝日だけれど、その後、家族で集まる祝日として定着した。七面鳥などアメリカ原産の食材を使った料理が多くの家庭の食卓にのぼるので、食材という観点では本当にアメリカ的な祝日といえるだろう。
七面鳥も豪華で楽しいけれど、我が家は普段どおりサンマ、納豆、味噌汁、豆腐などを美味しくいただいた。デザートには、友だちからもらった柿のジュクジュクしたやつを楽しんだ。この日であれどの日であれ、家族と一緒に食事ができることはありがたい。
| 友だちの住むアパートの庭で育った柿。熟してから食べた。砂糖が少ない時代の人にとって頬っぺたが落ちるほど甘くて美味しかっただろう。 |
◇
感謝祭は年の瀬のショッピング・セールが始まる日でもある。この日の午後6時ごろから、Macy'sなどの大手量販店が開店。大安売りを目当てに店頭にテントを張って数日前から開店を待つ人もいる。この日は一般的に「ブラック・フライデー」と呼ばれており、一説では感謝祭翌日の金曜日から店の売り上げが黒字化するから、そう呼ばれるようになったという。
どんなものか見てみようと午後9時ごろ、近くの大きなショッピングモールに一人で足を運んだ。駐車場は車でほとんど埋まっていたけど、どうにかスペースを見つけた。店内に入ると、商品が詰まった買い物袋を両手に下げて歩く人たちやレジに長い列を作る人たちで賑わっていた。英語だけでなく、スペイン語やヒンディー語、中国語、日本語などいろんな言語が客の会話から聞こえてくる。多くの移民もここで買い物を楽しむ。
| 多くの買い物客でにぎわうショッピング・モール |
アメリカの移民社会について学んでいるわけだけれど、身体的・文化的に多様なアメリカの人々を一つにするものは何かと聞かれたら、その一つはこうしたショッピング・モールだと思っている。
アメリカでは消費することは資本主義を刺激するいいことであり、消費できることはステータスでもある。節約が美徳である一方、浪費は成功の証でもある。大量生産された商品で溢れるショッピング・モールはアメリカの富を象徴している。アメリカ社会は人種と階級の境界線を伴う不平等な社会だけれど、外見も文化も異なる人々がショッピング・モールで同じように消費を楽しむ様子を見ていると、アメリカの富という渦の中で彼らが一つになっていくような感じがする。少なくともここに来た(来れる)人たちに関しては、そう思う。
その渦は、それを観察している僕も巻き込んでいく。あまり買い物をしない僕でさえ、そこにいると周りの人と同じように、なんとなく楽しい気持ちになる、というか、楽しい気持ち以外はその場に想定されていない。ショッピング・モールの圧倒的な量の商品と賑やかな店内の装飾がアメリカの富の明るい部分だけ極端に照らし出し、そこで10ドルでも使えば、たちまちその富の一部になったような錯覚を生む。
現実社会の不平等を消費の力で一瞬でも忘れさせるショッピング・モールは、「アメリカ人」を生み出す原動力の一つを体感できる場所として、いつ足を運んでも興味深い。
そんなことを考えながら、自然と足が向かったのは、赤ちゃん服のコーナー。生まれたばかりの子どもに何か買おうか。人気ブランド「Carter's」の乳幼児用の服が4割引きだった。買う前に妻に電話したところ、「Carter'sは自社サイトでよく半額セールしてるから買わなくていいわ」とのこと。結局、いつも通り何も買わず家に帰った。家に到着すると、子どもがおっぱいをくわえながら眠っていた。
| 緑色が好きなので買おうかと思って買わなかった子供服 |
2015年11月14日土曜日
アメリカの出産費用と保険制度、多様な国民生み出す背景
妻が出産したロサンゼルスの病院から出産費用の請求書が来た。
費用合計 2万1657ドル(264万円)
とんでもない額にケタを数えて確認した。
その下に保険会社支払予定額として同じ金額が記載されていたから、自己負担予定額はゼロだった。今回の出産費用が保険でカバーされることは知っていたけれど、日本円で264万円もの費用が出産にかかること自体に改めて驚いた。
アメリカでは出産費用自体が驚くほど高い一方で、低所得者世帯の出産費用に対する公的な支援が整っており、これは多くの低所得者を含む移民の包摂に大きな役割を果てしている。
貧困レベルの所得の家庭は「Medicaid」という公的医療保険制度を利用すれば、自己負担なしで、連邦政府と州政府から出産費用を給付してもらえる。この制度は市民権運動を含むリベラルな社会運動が盛んであったリンドン・ジョンソン政権下で成立した。
連邦政府が定める貧困レベルの所得は、2人世帯では1万5930ドル(194万円)。カリフォルニア州の場合、この貧困レベル所得の約4割増し以下の所得の人は「Medicaid」を利用できる。つまり、夫婦二人の家庭であれば、世帯所得が2万1708ドル(265万円)以下であれば、まったく自己負担なく出産することができる。
この制度が使えれば、出産費用の心配なしに出産できるけれど、僕と妻の所得合計は年間265万円を超えている。貧困レベルではないものの、出産をカバーするような高額の民間保険には加入していないし、自費で200万円を超えるような出産費を払うこともなかなか厳しい。どうしようか。
そういう家庭に対して、カリフォルニア州では「Medi-Cal Access Program (MCAP)」という制度を設けている。制度名は2014年7月に旧「Access for Infants and Mothers Program(AIM)」から「MCAP」に変わった。
MCAPの規定では、これから生まれてくる子供を含めて3人世帯の世帯所得が月3567~5392ドルの場合、642~971ドルの制度利用費を一度支払えば、妊娠・出産費用を給付してもらえる。手続き上、指定された民間の保険会社に加入するけれど、保険会社に対しては何も支払わなくてもいい(ロサンゼルス郡の場合、保険会社は「Anthem Blue Cross」)。
我が家の場合、申請した月の僕のティーチングアシスタントとしての給料と妻のバイト料を足すと、3567ドルを少し超える程度になったので、この制度を利用することができた。というわけで、出産にかかった費用は、MCAPの制度利用費の約650ドルだけだった。
アメリカでは医療費と保険料がそもそも高すぎることが貧富の差の再生産につながっている。ただ、少なくとも出産に関しては低所得者に手厚い支援があることも実感できた。
◇
ところで、非合法移民がアメリカで出産する場合はどうだろうか。
彼らは一般的な「Medicaid」に加入できない。けれど、救急救命扱いで出産した場合、その費用は公費でカバーされ、実際に多くの非合法移民がこの方法で出産している。これについては、移民反対派は「出産目的の不法入国を助長する」と批判し、移民擁護派は「彼らの移民目的は労働であって出産ではない。出産前の診察などのケアを受けられないから不十分」と反論している。
非合法移民のほとんどはアメリカ経済を影で支える低賃金労働者だ。もはや彼らなしのアメリカ社会は考えられない。「低賃金で働いてほしいけれど、子どもは生んではいけない」という考え方は明らかに不平等であり、彼らの人権を侵害する。そういう意味では「救急外来」扱いの良し悪しは議論の余地が残るものの、彼らの出産費用が公費でカバーされることは重要なことだ。
アメリカには21世紀に入っても、移民が流入し続けている。アメリカで生まれた子どもは、アメリカ国籍を持つ。移民の流入とそれに伴う出産は、多様なアメリカ国民を生み出してきた。妻の出産を通して、アメリカ政府が外国人の出産をどのように支援しているのか具体的に知り、考えるきっかけになった。
日本の場合、外国人でも国民健康保険か勤め先の健康保険に入っていれば出産育児一時金を給付され、出産費用として使うことができる。
多くの外国人が住む愛知県では、県内の医療機関、大学、自治体が共同で「あいち医療通訳システム」を運営。ホームページでは不法滞在者(非合法移民)に対する医療機関の対応についても詳しく説明している。
同システムによると、不法滞在者は国民健康保険には入れないが、勤め先の健康保険には入れる。ただ、無保険の不法滞在者の場合、自費診療となる。その際、医療者は「確実なコミュニケーション確保のために医療通訳者を入れること、治療費のおおよその総額を最初に伝えること、安価な方法でどこまで治療するかを患者とよく相談する」が必要があるとしている。不法滞在者への対応は「病気やけがに苦しむ一人の人間であるとすることから出発するとよいでしょう」としている。
日本では移民受け入れの議論が活発化しているけれど、外国人を労働力としてしか捉えていない議論も目立つ。また、移民が増えれば、様々な理由で滞在が超過する人も増えるけれど、不法滞在者に対する理解は乏しい。愛知県の同システムのように、合法であれ不法であれ、外国人を「一人の人間」として理解しようとする認識と仕組みが政府主導で全国的に広がること、そして、すでに国内に定住した移民とその子孫について歴史的な理解を深めることなしには、どんな移民政策も失敗するだろう。
・MCAPのサイトは、こちら。
・MCAP対象者の所得基準は、こちら。
・非合法移民の出産費用については、こちら。
・「あいち医療通訳システム」による不法滞在者への対応は、こちら。
費用合計 2万1657ドル(264万円)
とんでもない額にケタを数えて確認した。
その下に保険会社支払予定額として同じ金額が記載されていたから、自己負担予定額はゼロだった。今回の出産費用が保険でカバーされることは知っていたけれど、日本円で264万円もの費用が出産にかかること自体に改めて驚いた。
アメリカでは出産費用自体が驚くほど高い一方で、低所得者世帯の出産費用に対する公的な支援が整っており、これは多くの低所得者を含む移民の包摂に大きな役割を果てしている。
貧困レベルの所得の家庭は「Medicaid」という公的医療保険制度を利用すれば、自己負担なしで、連邦政府と州政府から出産費用を給付してもらえる。この制度は市民権運動を含むリベラルな社会運動が盛んであったリンドン・ジョンソン政権下で成立した。
連邦政府が定める貧困レベルの所得は、2人世帯では1万5930ドル(194万円)。カリフォルニア州の場合、この貧困レベル所得の約4割増し以下の所得の人は「Medicaid」を利用できる。つまり、夫婦二人の家庭であれば、世帯所得が2万1708ドル(265万円)以下であれば、まったく自己負担なく出産することができる。
この制度が使えれば、出産費用の心配なしに出産できるけれど、僕と妻の所得合計は年間265万円を超えている。貧困レベルではないものの、出産をカバーするような高額の民間保険には加入していないし、自費で200万円を超えるような出産費を払うこともなかなか厳しい。どうしようか。
そういう家庭に対して、カリフォルニア州では「Medi-Cal Access Program (MCAP)」という制度を設けている。制度名は2014年7月に旧「Access for Infants and Mothers Program(AIM)」から「MCAP」に変わった。
MCAPの規定では、これから生まれてくる子供を含めて3人世帯の世帯所得が月3567~5392ドルの場合、642~971ドルの制度利用費を一度支払えば、妊娠・出産費用を給付してもらえる。手続き上、指定された民間の保険会社に加入するけれど、保険会社に対しては何も支払わなくてもいい(ロサンゼルス郡の場合、保険会社は「Anthem Blue Cross」)。
我が家の場合、申請した月の僕のティーチングアシスタントとしての給料と妻のバイト料を足すと、3567ドルを少し超える程度になったので、この制度を利用することができた。というわけで、出産にかかった費用は、MCAPの制度利用費の約650ドルだけだった。
アメリカでは医療費と保険料がそもそも高すぎることが貧富の差の再生産につながっている。ただ、少なくとも出産に関しては低所得者に手厚い支援があることも実感できた。
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| MCAPのサイトから |
ちなみに、我が家の場合、MCAP申請(当時はAIM)から出産までは以下のような形で進んだ。
1.ネットで見つけた医療機関(Asian-Pacific Health Care Venture)で妊娠証明書を手に入れる。スタッフと一緒にAIMの申請書に記入する。
2.スタッフと一緒に準備したAIM申請書類、妊娠証明書、所得を証明する小切手のコピーをAIMに郵送する。
3.AIMから申請内容確認の電話を受ける。
4.AIMから申請受理の通知が郵送される。
5.指定された保険会社から、保険カードが郵送される。
6.保険会社が指定した医師から診察を受け、産婦人科医を紹介してもらう。
7.出産までの間、その産婦人科医から定期的に診察を受ける。
8.産婦人科医と提携している病院で出産する。
ところで、非合法移民がアメリカで出産する場合はどうだろうか。
彼らは一般的な「Medicaid」に加入できない。けれど、救急救命扱いで出産した場合、その費用は公費でカバーされ、実際に多くの非合法移民がこの方法で出産している。これについては、移民反対派は「出産目的の不法入国を助長する」と批判し、移民擁護派は「彼らの移民目的は労働であって出産ではない。出産前の診察などのケアを受けられないから不十分」と反論している。
非合法移民のほとんどはアメリカ経済を影で支える低賃金労働者だ。もはや彼らなしのアメリカ社会は考えられない。「低賃金で働いてほしいけれど、子どもは生んではいけない」という考え方は明らかに不平等であり、彼らの人権を侵害する。そういう意味では「救急外来」扱いの良し悪しは議論の余地が残るものの、彼らの出産費用が公費でカバーされることは重要なことだ。
アメリカには21世紀に入っても、移民が流入し続けている。アメリカで生まれた子どもは、アメリカ国籍を持つ。移民の流入とそれに伴う出産は、多様なアメリカ国民を生み出してきた。妻の出産を通して、アメリカ政府が外国人の出産をどのように支援しているのか具体的に知り、考えるきっかけになった。
◇
日本の場合、外国人でも国民健康保険か勤め先の健康保険に入っていれば出産育児一時金を給付され、出産費用として使うことができる。
多くの外国人が住む愛知県では、県内の医療機関、大学、自治体が共同で「あいち医療通訳システム」を運営。ホームページでは不法滞在者(非合法移民)に対する医療機関の対応についても詳しく説明している。
同システムによると、不法滞在者は国民健康保険には入れないが、勤め先の健康保険には入れる。ただ、無保険の不法滞在者の場合、自費診療となる。その際、医療者は「確実なコミュニケーション確保のために医療通訳者を入れること、治療費のおおよその総額を最初に伝えること、安価な方法でどこまで治療するかを患者とよく相談する」が必要があるとしている。不法滞在者への対応は「病気やけがに苦しむ一人の人間であるとすることから出発するとよいでしょう」としている。
日本では移民受け入れの議論が活発化しているけれど、外国人を労働力としてしか捉えていない議論も目立つ。また、移民が増えれば、様々な理由で滞在が超過する人も増えるけれど、不法滞在者に対する理解は乏しい。愛知県の同システムのように、合法であれ不法であれ、外国人を「一人の人間」として理解しようとする認識と仕組みが政府主導で全国的に広がること、そして、すでに国内に定住した移民とその子孫について歴史的な理解を深めることなしには、どんな移民政策も失敗するだろう。
・MCAPのサイトは、こちら。
・MCAP対象者の所得基準は、こちら。
・非合法移民の出産費用については、こちら。
・「あいち医療通訳システム」による不法滞在者への対応は、こちら。
2015年11月1日日曜日
ロサンゼルスで出産、移民看護師が支える医療現場
最近、ロサンゼルスの病院で妻が出産した。移民を含む多様な人々によって支えられているアメリカの医療現場について理解を深める機会にもなった。
◇
そのフィリピン人の看護師さんが翌朝まで世話してくれた。その後、出産2日後の朝まで、別のフィリピン出身の看護師さんが二人続いた。2008年のデータでは、ロサンゼルス郡で働く看護師のうち、フィリピン系は27%を占め、白人の35%に次いで多い。1960年代以降、フィリピン国内の雇用不足とアメリカ国内の看護師不足が合わさって、アメリカで働くフィリピン人看護師が増えた。1989年には一部のフィリピン人看護師に対して永住権を取得しやすくする法律も整備された。一方、1990年代の研究によると、アメリカ人看護師より所得が高いフィリピン人看護師の数は少なくないものの、それは夜勤や救急救命といった厳しいシフトに回されている結果であり、必ずしもフィリピン人看護師が平等に扱われているわけではない、という指摘もある。実際に僕らが産後ケア室にいた二泊三日は、どちらの夜も夜勤はフィリピン人看護師だった。夜勤して支えないといけない家族がアメリカにもフィリピンにもいるのだろう。
出産予定日を4日過ぎても陣痛が来ないため、妻が産婦人科クリニックを訪ねると、インド出身の医師から「羊水の量が減っているから、すぐにでも(出産予定の)病院に行ったほうがいい」と指示された。
大学の授業中に妻からメールを受け取った僕は、授業後の午後3時半からのオフィスアワーをキャンセルして、すぐに電車に飛び乗った。駅で待っていた妻とお義母さんと一緒に車で病院に向かった。アメリカでは、出産前に妊婦が通院する産婦人科クリニックと実際に出産する病院が異なる場合が少なくない。
病院はカリフォルニア州でも屈指の大病院「Ceders-Sinai Medical Center」。ビバリーヒルズ近くの病院で有名人も出産の際に利用するという。その病院は僕たちが指定したわけではなく、たまたま妻の産婦人科クリニックが提携している病院がそこだった。駅から20分ほど走ると、ユダヤ教のシンボル「ダビデの星」を掲げた大きな病院に到着した。
この病院は、1859年にロサンゼルスに移り住んだプロイセン王国出身のユダヤ人企業家カスペアー・コーンが1902年に設立した。1970年代には、美容業界の発展に貢献したユダヤ人マックス・ファクターの財団の寄付で、現在のメイン病棟が建設されたという。この病院はアメリカにおけるユダヤ系移民の成功を象徴する施設でもある。
◇
病院に着くなり、妻は早速、超音波で羊水の量を改めて確認してもらう。白人女性の助産師さんは「羊水が少ないわね。この少ない状況で自宅で陣痛を待つのはよくないわ。陣痛促進剤を打って、今日生みましょう。ちょっと驚いたかもしれないけど、この方法しかないわ」とのこと。妻も僕も予定日を過ぎてまだかまだかと思っていたので、驚くというより、ありがたいという感じだった。
それから陣痛分娩室(labor and delivery room)へ。アメリカでは陣痛室と分娩室の区別はない。陣痛分娩室はアットホームな雰囲気の個室だ。必要な医療器材一式に加え、トイレやシャワー、テレビも付いている。まずは若い黒人女性の看護師さんが部屋を準備し、午後6時くらいに30歳代の白人女性の看護師さんが交代でやってきた。彼女がオキシトシンという子宮を収縮させるホルモンの入った点滴を妻の左手に打ち始めた。
「ロサンゼルスでは何をしているんですか」と彼女に聞かれたので、博士課程で歴史学を勉強していることを伝えると、「私も学部は歴史学専攻だったんですよ。弁護士になろうと思っていたけど、弁護士の仕事は向いてないと思って看護師になったの。こうやって赤ちゃんを世の中に出すお手伝いをする素晴らしい仕事だと思っているわ」と気さくに話してくれた。
午後9時くらいに彼女が「他の妊婦さんの出産が始まったから、別の看護師に引き継ぐわ」と言って、別の20歳代の白人女性に交代した。その後、陣痛がいよいよ強まり、妻が歯を食いしばる時間が増えたので、アメリカでは一般的な無痛分娩のための麻酔エピデュラル(epidural)を受けることになった。
エピデュラルを担当したのはインド系の麻酔科医。麻酔の作業をしつつ、「一日だけ私も京都に行ったことがあるわ。自転車に乗っている年配の女性が多いですね」と日本旅行の思い出を話してくれた。麻酔を始めてから15分ほどで妻の腰から下の感覚がほとんどなくなった。そのまま順調に子宮口も開いていった。
赤ちゃんの頭が見えてくるまで、医師は部屋にいない。それまでは看護師さんと僕が二人で、麻痺している妻のひざを持ち上げて、「One, Two, Three...Ten」と数えて妻がいきみやすいように手伝う。僕はそれを午前4時から1時間以上続けたので「立ち会い」というより分娩チームの一員という感じだった。無痛分娩で痛みはほとんどないものの、いきまないことには出てこない。いよいよというところで、病院勤務の産科医の女性が駆けつけて、赤ちゃんを取り出すと、最初は何か喉に詰まっていたけど、すぐに「ウンギャー」という産声が響いた。
◇
分娩を終えると、産後ケアの個室(postpartum room)に移動した。妻を担当してくれた看護師さんは韓国出身の50歳代の女性。赤ちゃんの世話の仕方についてきめ細かく教えてくれた。いつも笑顔いっぱいで、妻も安心したらしい。授乳の仕方については「フットボールでやりましょう」と、フットボール選手のように妻の脇に赤ちゃんを挟んでお乳を飲ませる方法などを優しく教えてくれた。僕には赤ちゃんを布でミノムシのようにくるむ方法を教えてくれた。ちょうどカリフォルニアのメキシコ料理ブリトーみたいで、出産直後に別の看護師さんも「ちっちゃいブリトー(little burrito)ね」と言っていた。フットボールとブリトーが登場するアメリカらしい産後指導だ。
韓国出身の看護師さんは、僕たちが日本人だったので「私の母親は大阪で生まれたの。ちょうど最近亡くなったんです。父親が一年前に亡くなって母親は寂しくてしていたんでしょう」。僕らの赤ちゃんを見て「日本人の赤ちゃんは小さいことが多いけど、この子は大きいねえ」とニコニコ話してくれた。
彼女が午後7時ごろに勤務を終えると、代わりにフィリピン出身の30歳代の看護師さんがやってきた。赤ちゃんの体重を測るため、僕は妻を部屋に残し、ナーセリーという赤ちゃんの経過を確認する部屋に看護師さんと向かう。赤ちゃんを見失ったり、取り違えたりしないため、母親と父親の腕と赤ちゃんの脚には、同じ情報が記載されたタグをつける。看護師さんは僕と赤ちゃんのタグをそれぞれ確認したうえで部屋を出た。ナーセリーには赤ちゃんが二人ほどいたけど、出産後に新生児室に赤ちゃんを集めることが一般的な日本と違って、アメリカでは出産から退院まで基本的に母親と赤ちゃんは引き離されない。僕も簡易ベッドを出してもらい部屋に泊まれたので、一時的に大学に行ったものの、妻と赤ちゃんと一緒にいることができた。
そのフィリピン人の看護師さんが翌朝まで世話してくれた。その後、出産2日後の朝まで、別のフィリピン出身の看護師さんが二人続いた。2008年のデータでは、ロサンゼルス郡で働く看護師のうち、フィリピン系は27%を占め、白人の35%に次いで多い。1960年代以降、フィリピン国内の雇用不足とアメリカ国内の看護師不足が合わさって、アメリカで働くフィリピン人看護師が増えた。1989年には一部のフィリピン人看護師に対して永住権を取得しやすくする法律も整備された。一方、1990年代の研究によると、アメリカ人看護師より所得が高いフィリピン人看護師の数は少なくないものの、それは夜勤や救急救命といった厳しいシフトに回されている結果であり、必ずしもフィリピン人看護師が平等に扱われているわけではない、という指摘もある。実際に僕らが産後ケア室にいた二泊三日は、どちらの夜も夜勤はフィリピン人看護師だった。夜勤して支えないといけない家族がアメリカにもフィリピンにもいるのだろう。
◇
退院の朝、三人目のフィリピン人看護師から、40歳代後半くらいの細身のロシア人看護師に交代した。
妻は退院後に家の近所の小児科クリニックに通うことになっているけれど、なかなか医師と連絡がつかない。仕方ないので、妻はクリニックの留守電に伝言を残しておいたものの、予約が取れるか微妙なところだった。そんな状況に、ロシア人看護師は「きっと医院から折り返しの電話はないでしょう。アメリカは日本と違うの。私は日本人の労働倫理が好きよ。決めたらちゃんとやるでしょ。ロシア人もそうよ。決めたら実行よ」とロシア語なまりの英語で痛快に語る。それだけならいいけれど、僕と廊下を歩いているときに出会った他の看護師や医師にも「彼は日本人よ。私のイメージ通り。私は日本人の労働倫理が好きなの」と言って回るので、なんだか小恥ずかしくなった僕は「そんなことないです」と小さな声を挟むことしかできなかった。
結局、出産から退院まで代わる代わる10人の女性看護師のお世話になった。白人が4人、フィリピン人が3人、韓国人が1人、ロシア人が1人、黒人が1人。言いかえると、アメリカ出身者が5人で、海外出身の移民が5人だ。妻の出産を通して、多様な背景の人材が集まってアメリカの医療が支えられているという現実を垣間見ることができた。
見ている限りでは、看護師と医師との関係は主従関係というよりは、いい協力関係という感じで、移民であろうがなかろうが、看護師の立場に敬意が払われているような印象を受けた。人種・エスニシティの違いで役割分担が異なるアメリカの社会構造を根本的に変えるわけではないものの、アメリカの医療現場は移民が社会に包摂されていく現場となっている。
妻も看護師さんたちのおかげで安心して退院できたようだ。子どもが大きくなったら、お世話になった看護師さんたちの話をしてあげたい。
・病院創設者については、こちら。
・病院の歴史については、こちら。
・フィリピン系看護師の割合については、こちら。
2015年10月12日月曜日
マクドナルドで垣間見る戦争の傷跡、メキシコ系退役軍人の「忍耐」
勉強するときにはよく近くの喫茶店を利用する。スターバックスなどのチェーン店に行くこともあれば、ローカルな喫茶店に行くこともある。コーヒーの消費量が世界一多いアメリカだからか、どの喫茶店もだいたい混んでいる。空席が見つからないときや人が多くて落ち着かないときに便利なのはマクドナルドだ。
3年前にロサンゼルスに来たころは、健康志向のアメリカ人の友だちがマクドナルドを毛嫌いしていたので、あまり人気がないのかと思っていたけど、実際にマクドナルドの中にいると人種・エスニシティや世代に関わらず人気だということが分かり、なんとなくほっとする。近所のマクドナルドは席数が多く長居できるので気に入っている。
先日、そのマクドナルドでアイスコーヒーを飲みつつ作業していると、近くのメキシコ系の男性二人の会話が耳に入ってきた。一人は60歳代で、もう一人は40歳代くらい。
英語の会話に時折スペイン語が入る。どこかの病院の話をしているらしい。「あそこにいる人たちはプーロ・ラサ(puro raza)だよ」。スペイン語の「raza」は英語の「race」で「人種」という意味だけれど、アメリカではメキシコ系の同胞という意味合いもある。
しばらくすると、60歳代の男性が僕に「ペンを貸してくれるかな」と話しかけてきたので、すぐに手元のペンを手渡した。40歳代の男性に病院の住所を書いて教えてあげたいらしい。ペンを返してくれたとき、40歳代の男性が「学生みたいだけど、何を勉強しているの」と聞いてきたので「移民の歴史を勉強しています。日本人とメキシコ人の」と答えた。僕が日本人であるとわかったので、その男性は自分の姪が日本に交換留学したいと言っていると教えてくれた。
「交換」という言葉が出てきたので、60歳代の男性がカリフォルニア大学ロサンゼルス校と南カリフォルニア大学では戦争で障害を負った退役軍人に対する交換教育プログラムがあると話し始めた。本人も退役軍人らしい。
「交換」という言葉が出てきたので、60歳代の男性がカリフォルニア大学ロサンゼルス校と南カリフォルニア大学では戦争で障害を負った退役軍人に対する交換教育プログラムがあると話し始めた。本人も退役軍人らしい。
「ベトナム戦争に行ったよ。認識障害はないけど、記憶障害がまだ残っている。戦争から帰った後はシェル石油の技師をしていたけど、もう引退した」「どうにか生きていくには、paciencia(パシエンシア=忍耐)が必要だ。Sin paciencia, no hay nada(忍耐なしには何もできない)」と教えてくれた。
すると40歳代の男性も「退役軍人の中にはストレスで自殺する人も多い。マクドナルドの中の雑音だって銃撃の音に聞こえるんだよ」「あなたはpacienciaがあるね。多くの人はこうやって話しかけても何も聞いてくれないことがある。君はこうして私たちの話が聞いているからグッドパーソンだ」と言ってくれた。
すると40歳代の男性も「退役軍人の中にはストレスで自殺する人も多い。マクドナルドの中の雑音だって銃撃の音に聞こえるんだよ」「あなたはpacienciaがあるね。多くの人はこうやって話しかけても何も聞いてくれないことがある。君はこうして私たちの話が聞いているからグッドパーソンだ」と言ってくれた。
どうやら、この40歳代の男性も退役軍人らしく健康面で問題を抱えているようだ。60歳代の男性は病院の住所を伝え、「Te cuidas, Amigo(お大事に)」と声をかけて帰っていった。
アメリカは海外で軍事活動を続けている。ベトナム戦争やイラク戦争などでは多くの現地の人々がアメリカ軍に殺された。アメリカ軍の兵士も殺され、生きて帰っても心身ともに障害を抱える人が少なくない。そういう終わらない戦争の現実をマクドナルドで垣間見た気がした。アメリカであれどこであれ、政府の号令で一般の人々が「paciencia」を強いられている。
・コーヒー消費量については、こちら。
2015年10月3日土曜日
フィリピン人移民の歴史刻む街、日本語使える料理店
アメリカの主要な移民集団は、ロサンゼルスのどこかにエスニック・コミュニティを持っている。これまで日本人、メキシコ人、中央アメリカ出身者、中国人、韓国人、カンボジア人、ベトナム人、エチオピア人など様々な移民集団のエスニック・コミュニティを訪ねてきたけれど、フィリピン人のコミュニティには行ったことがなかった。フィリピノタウンがあると聞き、妻と訪ねてみた。
2010年の国勢調査によると、フィリピン系住民は全米に約340万人おり、アジア系住民の中では中国系(約401万人)に次いで人口が多い。ロサンゼルス市内には様々な地域でフィリピン系住民が暮らしている。その中でも歴史深いエコパーク地区のフィリピン系集住地が2002年、市から「ヒストリック・フィリピノタウン(Historic Filipinotown)」として認定された。
アメリカのフィリピン人移民の歴史は、アメリカのアジア進出の歴史でもある。
19世紀中ごろまでに北米大陸内で先住民を迫害しながら領土を拡大したアメリカは、19世紀の終わりにその領土を海外にまで広げていく。その契機となったのが1898年の米西戦争。この戦争に勝ったアメリカは、スペイン領だったフィリピンを獲得してアメリカ領土に組み込む。アメリカは同じ年にハワイも併合しており、それ以降、フィリピンからハワイに向かう移民労働者が増えていく。
こうしてアメリカの帝国化がフィリピン人移民の増加につながっていった。
カリフォルニア州では1924年の移民法で日本人移民が禁止されると、それに代わる労働力としてフィリピン人移民労働者が増えていく。1924年の移民法はアジア人移民全体を禁止するものだったけれど、当時、アメリカ領内だったフィリピンからの移民は許されていた。その後、カリフォルニア州内のフィリピン人はメキシコ人とともに安価な労働力として経済的に搾取され、人種差別の標的になっていく。
この時期に、エコパーク地区のフィリピノタウンでは、フィリピン人移民の団体や教会が活動を開始している。搾取や差別に苦しむフィリピン人の若者を支えようと1928年に創設されたフィリピノ・ディサイプルズ教会(Filipino Disciples Church)は今でも地域を見守っている。
教会を見た後は近くのウニダー公園(Unidad Park)に向かった。この公園には、フィリピン人とフィリピン系アメリカ人の歴史を描いた巨大な壁画がある。フィリピン人の国民意識が発展していく過程とフィリピン系アメリカ人の貢献をテーマに、芸術家エリセオ・アート・シルバ(Eliseo Art Silva)が1995年に制作した。
アメリカでアジア系アメリカ人の歴史を学ぶ際には必ずと言っていいほど登場する作家のカルロス・ブロサン(Carlos Bulosan)らフィリピン系の重要人物が描かれている。壁画中央には1960年代に農業労働者運動を推し進めた活動家ラリー・イトリオン(Larry Itliong)も描かれている。
1960年代の農業労働者運動はメキシコ系アメリカ人の運動として捉えられがちだけれど、実はフィリピン人労働者が起こしたストライキにメキシコ系が参加するという形で発展した。フィリピン系の功績も公平に評価しようと、ニューヨーク・タイムズが2012年に「労働闘争の忘れられた英雄」と題して記事でイトリオンを取り上げている。
とはいえ、ともに労働者運動を展開したメキシコ系に対する敬意を込めて、公園の壁画にはメキシコ系指導者のセサル・チャーベス(Cesar Chavez)も描かれていた。
教会と公園を歩いたけれど、フィリピン系らしい人はほとんど見ない。この地域には1万人近いフィリピン系住民が暮らしているらしいけれど、住民の多くはメキシコ人ら中南米出身のラティーノだという。公園内でもラティーノの子どもたちがブランコや滑り台で遊んでいた。
フィリピン系の人々が集う場所はないだろうかと思い、近くのフィリピン料理店「Bahay Kubo Restaurant」に向かった。やや薄暗い店内の奥にフィリピン料理が並ぶカウンターがあり、フィリピン系の客が次々とやって来ては好みの料理を注文していた。
見たことのない料理で、もちろん名前も分からない。店員のおじさんが「コンボ(セット)なら、ここから料理を二種類選んで」と教えてくれた。僕は煮魚料理と豚肉と野菜の土手煮のようなものを選んだ。妻はなんだか分からないシチューみたいなものを二種類選んだ。
注文しているとき、店員のおじさんが「Are you Chinese?」と聞いてきたので「Japanese」と答えると、次は日本語で「日本語うまいよ。日本には15年住みました。札幌も名古屋も横浜もいろんなところに住みました」と話しかけてきた。こちらも日本語に切り替えてフィリピン風の豚肉の串焼きを追加で注文した。
席に着いて早速いただく。初めて食べるフィリピン料理は予想以上に美味しかった。土手煮のような料理には、豚(おそらく)の肝臓、腸、肉がピリ辛風に煮込んであり、かなり美味しい。妻が選んだシチューみたいなやつは、味がしっかりついた牛肉料理とクリーミーな鶏肉料理でどちらも食が進む。串焼きも甘いバーベキューソースが効いていて大満足だった。
ただ、魚料理は少しハードルが高かった。ミルクフィッシュ(サバヒー)という淡水でも生きる海水魚のスープで、真っ白な身の内側にトロッとした脂が付いている。やや生臭いので、日本人の中には苦手な人もいるだろう。
料理だけでなく、ときどき日本語で話しかけてくる店員のおじさんとの会話も楽しかった。
「(ロサンゼルスには)遊びで来ているの」
「勉強で来ています」
「この店ははじめてでしょ」
「はい、はじめてです」
おじさんが隣の席のフィリピン人客のおばさんに僕の答えを通訳して伝えると、おばさんが僕らにニコッと微笑みかけてくれた。
おじさんに「日本にはいついたんですか」と聞くと、「2000年から2015年。3年前にこっち(ロサンゼルス)に来た」と言うので、2015年に来たのか、2012年に来たのか、よく分からないなあと思いつつ、とにかく最近まで10年以上いたんだろうと理解した。続けて「東京ではお弁当を工場で作ってたよ。一日、4万個。(午前)2時からずーっと」と懐かしそうに教えてくれた。
日本であれ、アメリカであれ、僕たちの知らないところで、移民労働者が社会を支えてくれている。このおじさんは10年以上暮らした日本を離れてロサンゼルスに来たわけだけれど、どのような理由で来たのだろうか。アメリカに比べると日本は安全だけれど、移民とその子どもを社会全体で支える仕組みが十分に整っていない。そういった受け入れ環境の違いも影響しているのかもしれない。
食事を終えて席を立ち、おじさんに「ごちそうさまでした」と伝えると、「また友だち連れて来てね」と笑顔で言ってくれた。エスニック・コミュニティの魅力は、地域の人が愛する料理を食べ、地域の人と会話をすることで、しっかり記憶に残っていく。
・国勢調査のアジア系について報告は、こちら。
・フィリピノタウンについては、こちら。
・教会の歴史については、こちら。
・ニューヨーク・タイムズの記事については、こちら。
2010年の国勢調査によると、フィリピン系住民は全米に約340万人おり、アジア系住民の中では中国系(約401万人)に次いで人口が多い。ロサンゼルス市内には様々な地域でフィリピン系住民が暮らしている。その中でも歴史深いエコパーク地区のフィリピン系集住地が2002年、市から「ヒストリック・フィリピノタウン(Historic Filipinotown)」として認定された。
| フィリピノタウンの東端に掲げてある標識 |
アメリカのフィリピン人移民の歴史は、アメリカのアジア進出の歴史でもある。
19世紀中ごろまでに北米大陸内で先住民を迫害しながら領土を拡大したアメリカは、19世紀の終わりにその領土を海外にまで広げていく。その契機となったのが1898年の米西戦争。この戦争に勝ったアメリカは、スペイン領だったフィリピンを獲得してアメリカ領土に組み込む。アメリカは同じ年にハワイも併合しており、それ以降、フィリピンからハワイに向かう移民労働者が増えていく。
こうしてアメリカの帝国化がフィリピン人移民の増加につながっていった。
カリフォルニア州では1924年の移民法で日本人移民が禁止されると、それに代わる労働力としてフィリピン人移民労働者が増えていく。1924年の移民法はアジア人移民全体を禁止するものだったけれど、当時、アメリカ領内だったフィリピンからの移民は許されていた。その後、カリフォルニア州内のフィリピン人はメキシコ人とともに安価な労働力として経済的に搾取され、人種差別の標的になっていく。
この時期に、エコパーク地区のフィリピノタウンでは、フィリピン人移民の団体や教会が活動を開始している。搾取や差別に苦しむフィリピン人の若者を支えようと1928年に創設されたフィリピノ・ディサイプルズ教会(Filipino Disciples Church)は今でも地域を見守っている。
| フィリピノ・ディサイプルズ教会 |
教会を見た後は近くのウニダー公園(Unidad Park)に向かった。この公園には、フィリピン人とフィリピン系アメリカ人の歴史を描いた巨大な壁画がある。フィリピン人の国民意識が発展していく過程とフィリピン系アメリカ人の貢献をテーマに、芸術家エリセオ・アート・シルバ(Eliseo Art Silva)が1995年に制作した。
アメリカでアジア系アメリカ人の歴史を学ぶ際には必ずと言っていいほど登場する作家のカルロス・ブロサン(Carlos Bulosan)らフィリピン系の重要人物が描かれている。壁画中央には1960年代に農業労働者運動を推し進めた活動家ラリー・イトリオン(Larry Itliong)も描かれている。
| カルロス・ブロサン(左端)やラリー・イトリオン(中央下の右手を上げている男性)、さらにセサル・チャーベス(右下の茶色のジャケットの男性)らが描かれた壁画の一部 |
1960年代の農業労働者運動はメキシコ系アメリカ人の運動として捉えられがちだけれど、実はフィリピン人労働者が起こしたストライキにメキシコ系が参加するという形で発展した。フィリピン系の功績も公平に評価しようと、ニューヨーク・タイムズが2012年に「労働闘争の忘れられた英雄」と題して記事でイトリオンを取り上げている。
とはいえ、ともに労働者運動を展開したメキシコ系に対する敬意を込めて、公園の壁画にはメキシコ系指導者のセサル・チャーベス(Cesar Chavez)も描かれていた。
◇
教会と公園を歩いたけれど、フィリピン系らしい人はほとんど見ない。この地域には1万人近いフィリピン系住民が暮らしているらしいけれど、住民の多くはメキシコ人ら中南米出身のラティーノだという。公園内でもラティーノの子どもたちがブランコや滑り台で遊んでいた。
| フィリピン系の活躍を記念するウニダー公園で遊ぶ子どもたち |
フィリピン系の人々が集う場所はないだろうかと思い、近くのフィリピン料理店「Bahay Kubo Restaurant」に向かった。やや薄暗い店内の奥にフィリピン料理が並ぶカウンターがあり、フィリピン系の客が次々とやって来ては好みの料理を注文していた。
見たことのない料理で、もちろん名前も分からない。店員のおじさんが「コンボ(セット)なら、ここから料理を二種類選んで」と教えてくれた。僕は煮魚料理と豚肉と野菜の土手煮のようなものを選んだ。妻はなんだか分からないシチューみたいなものを二種類選んだ。
| フィリピン系の客が次々とやって来て料理を注文する。 |
注文しているとき、店員のおじさんが「Are you Chinese?」と聞いてきたので「Japanese」と答えると、次は日本語で「日本語うまいよ。日本には15年住みました。札幌も名古屋も横浜もいろんなところに住みました」と話しかけてきた。こちらも日本語に切り替えてフィリピン風の豚肉の串焼きを追加で注文した。
席に着いて早速いただく。初めて食べるフィリピン料理は予想以上に美味しかった。土手煮のような料理には、豚(おそらく)の肝臓、腸、肉がピリ辛風に煮込んであり、かなり美味しい。妻が選んだシチューみたいなやつは、味がしっかりついた牛肉料理とクリーミーな鶏肉料理でどちらも食が進む。串焼きも甘いバーベキューソースが効いていて大満足だった。
| 牛肉料理(写真左)と鶏肉料理(写真手前)はどちらも食が進む。 |
ただ、魚料理は少しハードルが高かった。ミルクフィッシュ(サバヒー)という淡水でも生きる海水魚のスープで、真っ白な身の内側にトロッとした脂が付いている。やや生臭いので、日本人の中には苦手な人もいるだろう。
| 魚料理(写真手前)はやや生臭いけれど、レモンの効いたスープが美味しかった。肝臓や腸が入った豚肉料理(写真左上)はピリ辛で美味しい。 |
料理だけでなく、ときどき日本語で話しかけてくる店員のおじさんとの会話も楽しかった。
「(ロサンゼルスには)遊びで来ているの」
「勉強で来ています」
「この店ははじめてでしょ」
「はい、はじめてです」
おじさんが隣の席のフィリピン人客のおばさんに僕の答えを通訳して伝えると、おばさんが僕らにニコッと微笑みかけてくれた。
| フィリピン系の客で賑わう店内。右手にスプーン、左手にフォークを持って、肉などを切り分けながら食べている人が多かった。 |
おじさんに「日本にはいついたんですか」と聞くと、「2000年から2015年。3年前にこっち(ロサンゼルス)に来た」と言うので、2015年に来たのか、2012年に来たのか、よく分からないなあと思いつつ、とにかく最近まで10年以上いたんだろうと理解した。続けて「東京ではお弁当を工場で作ってたよ。一日、4万個。(午前)2時からずーっと」と懐かしそうに教えてくれた。
日本であれ、アメリカであれ、僕たちの知らないところで、移民労働者が社会を支えてくれている。このおじさんは10年以上暮らした日本を離れてロサンゼルスに来たわけだけれど、どのような理由で来たのだろうか。アメリカに比べると日本は安全だけれど、移民とその子どもを社会全体で支える仕組みが十分に整っていない。そういった受け入れ環境の違いも影響しているのかもしれない。
食事を終えて席を立ち、おじさんに「ごちそうさまでした」と伝えると、「また友だち連れて来てね」と笑顔で言ってくれた。エスニック・コミュニティの魅力は、地域の人が愛する料理を食べ、地域の人と会話をすることで、しっかり記憶に残っていく。
・国勢調査のアジア系について報告は、こちら。
・フィリピノタウンについては、こちら。
・教会の歴史については、こちら。
・ニューヨーク・タイムズの記事については、こちら。
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