2015年11月1日日曜日

ロサンゼルスで出産、移民看護師が支える医療現場

最近、ロサンゼルスの病院で妻が出産した。移民を含む多様な人々によって支えられているアメリカの医療現場について理解を深める機会にもなった。

出産予定日を4日過ぎても陣痛が来ないため、妻が産婦人科クリニックを訪ねると、インド出身の医師から「羊水の量が減っているから、すぐにでも(出産予定の)病院に行ったほうがいい」と指示された。

大学の授業中に妻からメールを受け取った僕は、授業後の午後3時半からのオフィスアワーをキャンセルして、すぐに電車に飛び乗った。駅で待っていた妻とお義母さんと一緒に車で病院に向かった。アメリカでは、出産前に妊婦が通院する産婦人科クリニックと実際に出産する病院が異なる場合が少なくない。

病院はカリフォルニア州でも屈指の大病院「Ceders-Sinai Medical Center」。ビバリーヒルズ近くの病院で有名人も出産の際に利用するという。その病院は僕たちが指定したわけではなく、たまたま妻の産婦人科クリニックが提携している病院がそこだった。駅から20分ほど走ると、ユダヤ教のシンボル「ダビデの星」を掲げた大きな病院に到着した。

この病院は、1859年にロサンゼルスに移り住んだプロイセン王国出身のユダヤ人企業家カスペアー・コーンが1902年に設立した。1970年代には、美容業界の発展に貢献したユダヤ人マックス・ファクターの財団の寄付で、現在のメイン病棟が建設されたという。この病院はアメリカにおけるユダヤ系移民の成功を象徴する施設でもある。


病院に着くなり、妻は早速、超音波で羊水の量を改めて確認してもらう。白人女性の助産師さんは「羊水が少ないわね。この少ない状況で自宅で陣痛を待つのはよくないわ。陣痛促進剤を打って、今日生みましょう。ちょっと驚いたかもしれないけど、この方法しかないわ」とのこと。妻も僕も予定日を過ぎてまだかまだかと思っていたので、驚くというより、ありがたいという感じだった。

それから陣痛分娩室(labor and delivery room)へ。アメリカでは陣痛室と分娩室の区別はない。陣痛分娩室はアットホームな雰囲気の個室だ。必要な医療器材一式に加え、トイレやシャワー、テレビも付いている。まずは若い黒人女性の看護師さんが部屋を準備し、午後6時くらいに30歳代の白人女性の看護師さんが交代でやってきた。彼女がオキシトシンという子宮を収縮させるホルモンの入った点滴を妻の左手に打ち始めた。

「ロサンゼルスでは何をしているんですか」と彼女に聞かれたので、博士課程で歴史学を勉強していることを伝えると、「私も学部は歴史学専攻だったんですよ。弁護士になろうと思っていたけど、弁護士の仕事は向いてないと思って看護師になったの。こうやって赤ちゃんを世の中に出すお手伝いをする素晴らしい仕事だと思っているわ」と気さくに話してくれた。

午後9時くらいに彼女が「他の妊婦さんの出産が始まったから、別の看護師に引き継ぐわ」と言って、別の20歳代の白人女性に交代した。その後、陣痛がいよいよ強まり、妻が歯を食いしばる時間が増えたので、アメリカでは一般的な無痛分娩のための麻酔エピデュラル(epidural)を受けることになった。

エピデュラルを担当したのはインド系の麻酔科医。麻酔の作業をしつつ、「一日だけ私も京都に行ったことがあるわ。自転車に乗っている年配の女性が多いですね」と日本旅行の思い出を話してくれた。麻酔を始めてから15分ほどで妻の腰から下の感覚がほとんどなくなった。そのまま順調に子宮口も開いていった。

赤ちゃんの頭が見えてくるまで、医師は部屋にいない。それまでは看護師さんと僕が二人で、麻痺している妻のひざを持ち上げて、「One, Two, Three...Ten」と数えて妻がいきみやすいように手伝う。僕はそれを午前4時から1時間以上続けたので「立ち会い」というより分娩チームの一員という感じだった。無痛分娩で痛みはほとんどないものの、いきまないことには出てこない。いよいよというところで、病院勤務の産科医の女性が駆けつけて、赤ちゃんを取り出すと、最初は何か喉に詰まっていたけど、すぐに「ウンギャー」という産声が響いた。

出産分娩室の窓ガラス越しに見えるショッピングモールの背後から、赤ちゃんにとって初めての日光が差し込んできた。


分娩を終えると、産後ケアの個室(postpartum room)に移動した。妻を担当してくれた看護師さんは韓国出身の50歳代の女性。赤ちゃんの世話の仕方についてきめ細かく教えてくれた。いつも笑顔いっぱいで、妻も安心したらしい。授乳の仕方については「フットボールでやりましょう」と、フットボール選手のように妻の脇に赤ちゃんを挟んでお乳を飲ませる方法などを優しく教えてくれた。僕には赤ちゃんを布でミノムシのようにくるむ方法を教えてくれた。ちょうどカリフォルニアのメキシコ料理ブリトーみたいで、出産直後に別の看護師さんも「ちっちゃいブリトー(little burrito)ね」と言っていた。フットボールとブリトーが登場するアメリカらしい産後指導だ。

韓国出身の看護師さんは、僕たちが日本人だったので「私の母親は大阪で生まれたの。ちょうど最近亡くなったんです。父親が一年前に亡くなって母親は寂しくてしていたんでしょう」。僕らの赤ちゃんを見て「日本人の赤ちゃんは小さいことが多いけど、この子は大きいねえ」とニコニコ話してくれた。

彼女が午後7時ごろに勤務を終えると、代わりにフィリピン出身の30歳代の看護師さんがやってきた。赤ちゃんの体重を測るため、僕は妻を部屋に残し、ナーセリーという赤ちゃんの経過を確認する部屋に看護師さんと向かう。赤ちゃんを見失ったり、取り違えたりしないため、母親と父親の腕と赤ちゃんの脚には、同じ情報が記載されたタグをつける。看護師さんは僕と赤ちゃんのタグをそれぞれ確認したうえで部屋を出た。ナーセリーには赤ちゃんが二人ほどいたけど、出産後に新生児室に赤ちゃんを集めることが一般的な日本と違って、アメリカでは出産から退院まで基本的に母親と赤ちゃんは引き離されない。僕も簡易ベッドを出してもらい部屋に泊まれたので、一時的に大学に行ったものの、妻と赤ちゃんと一緒にいることができた。

産後ケア室では一泊目だけ夫の僕にも夕食を提供してくれた。

そのフィリピン人の看護師さんが翌朝まで世話してくれた。その後、出産2日後の朝まで、別のフィリピン出身の看護師さんが二人続いた。2008年のデータでは、ロサンゼルス郡で働く看護師のうち、フィリピン系は27%を占め、白人の35%に次いで多い。1960年代以降、フィリピン国内の雇用不足とアメリカ国内の看護師不足が合わさって、アメリカで働くフィリピン人看護師が増えた。1989年には一部のフィリピン人看護師に対して永住権を取得しやすくする法律も整備された。一方、1990年代の研究によると、アメリカ人看護師より所得が高いフィリピン人看護師の数は少なくないものの、それは夜勤や救急救命といった厳しいシフトに回されている結果であり、必ずしもフィリピン人看護師が平等に扱われているわけではない、という指摘もある。実際に僕らが産後ケア室にいた二泊三日は、どちらの夜も夜勤はフィリピン人看護師だった。夜勤して支えないといけない家族がアメリカにもフィリピンにもいるのだろう。


退院の朝、三人目のフィリピン人看護師から、40歳代後半くらいの細身のロシア人看護師に交代した。

妻は退院後に家の近所の小児科クリニックに通うことになっているけれど、なかなか医師と連絡がつかない。仕方ないので、妻はクリニックの留守電に伝言を残しておいたものの、予約が取れるか微妙なところだった。そんな状況に、ロシア人看護師は「きっと医院から折り返しの電話はないでしょう。アメリカは日本と違うの。私は日本人の労働倫理が好きよ。決めたらちゃんとやるでしょ。ロシア人もそうよ。決めたら実行よ」とロシア語なまりの英語で痛快に語る。それだけならいいけれど、僕と廊下を歩いているときに出会った他の看護師や医師にも「彼は日本人よ。私のイメージ通り。私は日本人の労働倫理が好きなの」と言って回るので、なんだか小恥ずかしくなった僕は「そんなことないです」と小さな声を挟むことしかできなかった。

結局、出産から退院まで代わる代わる10人の女性看護師のお世話になった。白人が4人、フィリピン人が3人、韓国人が1人、ロシア人が1人、黒人が1人。言いかえると、アメリカ出身者が5人で、海外出身の移民が5人だ。妻の出産を通して、多様な背景の人材が集まってアメリカの医療が支えられているという現実を垣間見ることができた。

見ている限りでは、看護師と医師との関係は主従関係というよりは、いい協力関係という感じで、移民であろうがなかろうが、看護師の立場に敬意が払われているような印象を受けた。人種・エスニシティの違いで役割分担が異なるアメリカの社会構造を根本的に変えるわけではないものの、アメリカの医療現場は移民が社会に包摂されていく現場となっている。

妻も看護師さんたちのおかげで安心して退院できたようだ。子どもが大きくなったら、お世話になった看護師さんたちの話をしてあげたい。

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2015年10月12日月曜日

マクドナルドで垣間見る戦争の傷跡、メキシコ系退役軍人の「忍耐」

勉強するときにはよく近くの喫茶店を利用する。スターバックスなどのチェーン店に行くこともあれば、ローカルな喫茶店に行くこともある。コーヒーの消費量が世界一多いアメリカだからか、どの喫茶店もだいたい混んでいる。空席が見つからないときや人が多くて落ち着かないときに便利なのはマクドナルドだ。

3年前にロサンゼルスに来たころは、健康志向のアメリカ人の友だちがマクドナルドを毛嫌いしていたので、あまり人気がないのかと思っていたけど、実際にマクドナルドの中にいると人種・エスニシティや世代に関わらず人気だということが分かり、なんとなくほっとする。近所のマクドナルドは席数が多く長居できるので気に入っている。

先日、そのマクドナルドでアイスコーヒーを飲みつつ作業していると、近くのメキシコ系の男性二人の会話が耳に入ってきた。一人は60歳代で、もう一人は40歳代くらい。

英語の会話に時折スペイン語が入る。どこかの病院の話をしているらしい。「あそこにいる人たちはプーロ・ラサ(puro raza)だよ」。スペイン語の「raza」は英語の「race」で「人種」という意味だけれど、アメリカではメキシコ系の同胞という意味合いもある。

しばらくすると、60歳代の男性が僕に「ペンを貸してくれるかな」と話しかけてきたので、すぐに手元のペンを手渡した。40歳代の男性に病院の住所を書いて教えてあげたいらしい。ペンを返してくれたとき、40歳代の男性が「学生みたいだけど、何を勉強しているの」と聞いてきたので「移民の歴史を勉強しています。日本人とメキシコ人の」と答えた。僕が日本人であるとわかったので、その男性は自分の姪が日本に交換留学したいと言っていると教えてくれた。

「交換」という言葉が出てきたので、60歳代の男性がカリフォルニア大学ロサンゼルス校と南カリフォルニア大学では戦争で障害を負った退役軍人に対する交換教育プログラムがあると話し始めた。本人も退役軍人らしい。
「ベトナム戦争に行ったよ。認識障害はないけど、記憶障害がまだ残っている。戦争から帰った後はシェル石油の技師をしていたけど、もう引退した」「どうにか生きていくには、paciencia(パシエンシア=忍耐)が必要だ。Sin paciencia, no hay nada(忍耐なしには何もできない)」と教えてくれた。

すると40歳代の男性も「退役軍人の中にはストレスで自殺する人も多い。マクドナルドの中の雑音だって銃撃の音に聞こえるんだよ」「あなたはpacienciaがあるね。多くの人はこうやって話しかけても何も聞いてくれないことがある。君はこうして私たちの話が聞いているからグッドパーソンだ」と言ってくれた。

どうやら、この40歳代の男性も退役軍人らしく健康面で問題を抱えているようだ。60歳代の男性は病院の住所を伝え、「Te cuidas, Amigo(お大事に)」と声をかけて帰っていった。
アメリカは海外で軍事活動を続けている。ベトナム戦争やイラク戦争などでは多くの現地の人々がアメリカ軍に殺された。アメリカ軍の兵士も殺され、生きて帰っても心身ともに障害を抱える人が少なくない。そういう終わらない戦争の現実をマクドナルドで垣間見た気がした。アメリカであれどこであれ、政府の号令で一般の人々が「paciencia」を強いられている。

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2015年10月3日土曜日

フィリピン人移民の歴史刻む街、日本語使える料理店

アメリカの主要な移民集団は、ロサンゼルスのどこかにエスニック・コミュニティを持っている。これまで日本人、メキシコ人、中央アメリカ出身者、中国人、韓国人、カンボジア人、ベトナム人、エチオピア人など様々な移民集団のエスニック・コミュニティを訪ねてきたけれど、フィリピン人のコミュニティには行ったことがなかった。フィリピノタウンがあると聞き、妻と訪ねてみた。

2010年の国勢調査によると、フィリピン系住民は全米に約340万人おり、アジア系住民の中では中国系(約401万人)に次いで人口が多い。ロサンゼルス市内には様々な地域でフィリピン系住民が暮らしている。その中でも歴史深いエコパーク地区のフィリピン系集住地が2002年、市から「ヒストリック・フィリピノタウン(Historic Filipinotown)」として認定された。

フィリピノタウンの東端に掲げてある標識

アメリカのフィリピン人移民の歴史は、アメリカのアジア進出の歴史でもある。

19世紀中ごろまでに北米大陸内で先住民を迫害しながら領土を拡大したアメリカは、19世紀の終わりにその領土を海外にまで広げていく。その契機となったのが1898年の米西戦争。この戦争に勝ったアメリカは、スペイン領だったフィリピンを獲得してアメリカ領土に組み込む。アメリカは同じ年にハワイも併合しており、それ以降、フィリピンからハワイに向かう移民労働者が増えていく。
こうしてアメリカの帝国化がフィリピン人移民の増加につながっていった。

カリフォルニア州では1924年の移民法で日本人移民が禁止されると、それに代わる労働力としてフィリピン人移民労働者が増えていく。1924年の移民法はアジア人移民全体を禁止するものだったけれど、当時、アメリカ領内だったフィリピンからの移民は許されていた。その後、カリフォルニア州内のフィリピン人はメキシコ人とともに安価な労働力として経済的に搾取され、人種差別の標的になっていく。

この時期に、エコパーク地区のフィリピノタウンでは、フィリピン人移民の団体や教会が活動を開始している。搾取や差別に苦しむフィリピン人の若者を支えようと1928年に創設されたフィリピノ・ディサイプルズ教会(Filipino Disciples Church)は今でも地域を見守っている。

フィリピノ・ディサイプルズ教会

教会を見た後は近くのウニダー公園(Unidad Park)に向かった。この公園には、フィリピン人とフィリピン系アメリカ人の歴史を描いた巨大な壁画がある。フィリピン人の国民意識が発展していく過程とフィリピン系アメリカ人の貢献をテーマに、芸術家エリセオ・アート・シルバ(Eliseo Art Silva)が1995年に制作した。

アメリカでアジア系アメリカ人の歴史を学ぶ際には必ずと言っていいほど登場する作家のカルロス・ブロサン(Carlos Bulosan)らフィリピン系の重要人物が描かれている。壁画中央には1960年代に農業労働者運動を推し進めた活動家ラリー・イトリオン(Larry Itliong)も描かれている。

カルロス・ブロサン(左端)やラリー・イトリオン(中央下の右手を上げている男性)、さらにセサル・チャーベス(右下の茶色のジャケットの男性)らが描かれた壁画の一部

1960年代の農業労働者運動はメキシコ系アメリカ人の運動として捉えられがちだけれど、実はフィリピン人労働者が起こしたストライキにメキシコ系が参加するという形で発展した。フィリピン系の功績も公平に評価しようと、ニューヨーク・タイムズが2012年に「労働闘争の忘れられた英雄」と題して記事でイトリオンを取り上げている。

とはいえ、ともに労働者運動を展開したメキシコ系に対する敬意を込めて、公園の壁画にはメキシコ系指導者のセサル・チャーベス(Cesar Chavez)も描かれていた。


教会と公園を歩いたけれど、フィリピン系らしい人はほとんど見ない。この地域には1万人近いフィリピン系住民が暮らしているらしいけれど、住民の多くはメキシコ人ら中南米出身のラティーノだという。公園内でもラティーノの子どもたちがブランコや滑り台で遊んでいた。

フィリピン系の活躍を記念するウニダー公園で遊ぶ子どもたち

フィリピン系の人々が集う場所はないだろうかと思い、近くのフィリピン料理店「Bahay Kubo Restaurant」に向かった。やや薄暗い店内の奥にフィリピン料理が並ぶカウンターがあり、フィリピン系の客が次々とやって来ては好みの料理を注文していた。

見たことのない料理で、もちろん名前も分からない。店員のおじさんが「コンボ(セット)なら、ここから料理を二種類選んで」と教えてくれた。僕は煮魚料理と豚肉と野菜の土手煮のようなものを選んだ。妻はなんだか分からないシチューみたいなものを二種類選んだ。

フィリピン系の客が次々とやって来て料理を注文する。

注文しているとき、店員のおじさんが「Are you Chinese?」と聞いてきたので「Japanese」と答えると、次は日本語で「日本語うまいよ。日本には15年住みました。札幌も名古屋も横浜もいろんなところに住みました」と話しかけてきた。こちらも日本語に切り替えてフィリピン風の豚肉の串焼きを追加で注文した。

席に着いて早速いただく。初めて食べるフィリピン料理は予想以上に美味しかった。土手煮のような料理には、豚(おそらく)の肝臓、腸、肉がピリ辛風に煮込んであり、かなり美味しい。妻が選んだシチューみたいなやつは、味がしっかりついた牛肉料理とクリーミーな鶏肉料理でどちらも食が進む。串焼きも甘いバーベキューソースが効いていて大満足だった。

牛肉料理(写真左)と鶏肉料理(写真手前)はどちらも食が進む。

ただ、魚料理は少しハードルが高かった。ミルクフィッシュ(サバヒー)という淡水でも生きる海水魚のスープで、真っ白な身の内側にトロッとした脂が付いている。やや生臭いので、日本人の中には苦手な人もいるだろう。

魚料理(写真手前)はやや生臭いけれど、レモンの効いたスープが美味しかった。肝臓や腸が入った豚肉料理(写真左上)はピリ辛で美味しい。

料理だけでなく、ときどき日本語で話しかけてくる店員のおじさんとの会話も楽しかった。

「(ロサンゼルスには)遊びで来ているの」
「勉強で来ています」
「この店ははじめてでしょ」
「はい、はじめてです」

おじさんが隣の席のフィリピン人客のおばさんに僕の答えを通訳して伝えると、おばさんが僕らにニコッと微笑みかけてくれた。

フィリピン系の客で賑わう店内。右手にスプーン、左手にフォークを持って、肉などを切り分けながら食べている人が多かった。

おじさんに「日本にはいついたんですか」と聞くと、「2000年から2015年。3年前にこっち(ロサンゼルス)に来た」と言うので、2015年に来たのか、2012年に来たのか、よく分からないなあと思いつつ、とにかく最近まで10年以上いたんだろうと理解した。続けて「東京ではお弁当を工場で作ってたよ。一日、4万個。(午前)2時からずーっと」と懐かしそうに教えてくれた。

日本であれ、アメリカであれ、僕たちの知らないところで、移民労働者が社会を支えてくれている。このおじさんは10年以上暮らした日本を離れてロサンゼルスに来たわけだけれど、どのような理由で来たのだろうか。アメリカに比べると日本は安全だけれど、移民とその子どもを社会全体で支える仕組みが十分に整っていない。そういった受け入れ環境の違いも影響しているのかもしれない。

食事を終えて席を立ち、おじさんに「ごちそうさまでした」と伝えると、「また友だち連れて来てね」と笑顔で言ってくれた。エスニック・コミュニティの魅力は、地域の人が愛する料理を食べ、地域の人と会話をすることで、しっかり記憶に残っていく。

・国勢調査のアジア系について報告は、こちら
・フィリピノタウンについては、こちら
・教会の歴史については、こちら
・ニューヨーク・タイムズの記事については、こちら

2015年9月18日金曜日

スキ焼きで祝う感謝祭、戦前の日本人留学生

水曜日の午後6時から、日本料理店「一富士」でスキ焼きパーティがあるらしい。行こうかな。

そう思わせる戦前の新聞記事を、1903年に創刊したロサンゼルスの日系新聞「羅府新報」を調査中に見つけた。その記事は1929年11月に発行されたもので、見出しは「スキ焼會、ツロジャン倶楽部が開催、水曜日夜一富士で」。記事は以下のように続く。
南加大学日本人學生はツロジャンクラブ主催で水曜夜六時から一富士でスキ焼き會を開き学生らしい感謝祭を祝うと日本人學生の参會を希望すと申し込みはワイ會館へ
ロサンゼルスの南加大学に通う日本人留学生が感謝祭(Thanksgiving)に合わせて開くスキ焼きパーティーの参加者を募っている。

南加大学とは南カリフォルニア大学(University of Southern California)のこと。戦前の日本人移民は「南カリフォルニア」を略して「南加」と呼び、この言葉は今でも一部で使われている。英語では南カリフォルニアは「So Cal (ソーカル)」と略すのが一般的だ。

ちなみに、この「ツロジャン」とは南カリフォルニア大学のマスコット「トロージャン(Trojan)」のことで、この大学に通う学生の代名詞にもなっている。

日本人移民は1924年から全面的に禁止され、それが日本国内の反米感情を強める一因にもなった。それでも留学生のアメリカ入国は許されており、こうしてロサンゼルスでスキ焼きを楽しむ日本人もいた。アメリカ人であれば家族で団らんする日だけれど、家族と遠く離れて暮らす日本人ツロジャンたちは仲間同士で集まって束の間の故郷の雰囲気を楽しんだのだろう。

スキ焼きパーティーの記事を読みながら、今も昔も日本人留学生は同じようなことをしているなと思いつつ、この時代の留学生はスキ焼をつつきながら日米関係や日本(帝国)の将来についてどのように考えていたんだろうかと考えさせられた。

田中角栄内閣で官房長官を務めた二階堂進は、このスキ焼きパーティーの3年後、1932年に南カリフォルニア大学に留学し、1941年に国際関係学で修士号を取得している。

ウィキペディアによると、同年8月に帰国。日米開戦後の1942年の衆議院選挙に大政翼賛会の支援を受けずに立候補し、日米関係の改善を訴えるも落選。戦後の1946年の選挙で当選し、1972年の日中国交正常化に尽力した。

きっと二階堂さんも留学中、悪化していく日米関係に危機感を感じ、だからこそ帰国後、対米戦争を推し進める大政翼賛会の推薦を受けずに国政に挑戦したんじゃないだろうか。日本に帰ったら彼の伝記を読んでみたい。

・二階堂進の学歴については、こちらこちら

2015年8月31日月曜日

羊肉串焼き店で聞く満州の歴史、日本語を話す朝鮮族

秋学期が始まった。今学期はアメリカ史の授業のティーチング・アシスタント(TA)をする。
アメリカの若者にとって歴史の授業は最も退屈な教科と言われているけど、それがなぜ退屈か社会学的に理解したうえで、彼らが高校までに学んだ歴史の内容が本当に正しいといえるのか歴史学的に再検討する。

授業のテキストを読むため、コリアタウンの韓国系喫茶店に行った。2時間ほど本を読んでから、そのすぐ近くの羊肉串焼き店に夕食を食べに行った。

羊肉の串焼きがメインだけど、メニューには朝鮮・韓国料理も多い。店員の女性が中国人の客には中国語で、韓国人の客には韓国語で対応している。中国語も韓国語もかなり流暢だ。おそらく中国の朝鮮族の人だろう。

その女性が羊肉の串を10本ほど持ってきて、各テーブルに設置された炭火で焼いてくれる。3本か4本の串をまとめてつかみ、くるくる小まめに串を回転させながら、万遍なく熱を加えていく。羊からしたたる油が炭火をさらに強くする。

この店では羊肉を中心に豚肉、牛肉、鶏肉の串焼きを食べることができる。ウシのペニス(写真左)という珍味も食べたけれど、味は特別なかった。
「脂が多いですからね」

女性はいきなり日本語で言った。どこで勉強したんだろうか。発音もいい。
「日本語うまいですね」と言うと、ニコッとしている。さらに話しかけてみた。

「ここの料理は中国料理ですか」
「そうですよ。内モンゴルの料理です」
「じゃあ、モンゴル語も話せるんですか」
「いえ、中国語と朝鮮語と。中国の朝鮮族なんです。北朝鮮の上にある吉林省で」
「けど、とても日本語うまいですね」
「吉林省の学校では、外国語の授業は英語じゃなくて日本語だったんです」

串を回しながら教えてくれた。

「僕も韓国に行って朝鮮語を少し勉強しました」「たくさん勉強したけど難しかった」とぎりぎり保っている初級朝鮮語で伝えると、女性は朝鮮語で一気に話してきた。全部は聞き取れなかったけど、「朝鮮語は日本語に発音や文法が似ているから、朝鮮族の私は日本語を覚えることも比較的簡単で、それが理由で、日本人から『日本語の発音がうまい』と言われることがよくあります」という内容だということは分かった。

女性が他の客の対応をしている間に羊肉を楽しむ。何か分からないけど、赤いスパイスをつけて食べる。しばらくして、女性が残りの串を回しに来てくれたので、さらに話を聞いてみた。

「吉林省では、日本語の授業はいつごろまでやっていたんですか」
「20年前くらいですかね。私のおばあちゃんは日本語ぺらぺらでしたよ。私が日本語の授業で分からないことがあると、おばあちゃんが教えてくれました。おばあちゃんのころは日本語だったので。日本が昔ね、あの、あれしたときにね」

吉林省を含む満州を日本が侵略したということだけど、僕に気を遣ってか言葉を選んでくれている。

「おばあちゃんのころは、日本語を話さないとね、あの・・・」と言うから、「いじめれたり、おこられたり、ですか」と加えると、うなづいてきた。

女性は40歳代くらいだけど、この世代の吉林省出身者がみんなこれだけ日本語が流暢なわけもないだろうと思い、「高校の後も日本語を勉強したんですか」と尋ねると、「ええ、自分で勉強して。日本語が勉強したくて日本に留学しましたよ。東京に何年か」と教えてくれた。

女性は中国語、朝鮮語、さらに日本語を流暢に話す。語学好きの僕としては、すごいなあ、いいなあ、と思う。
それと同時に、複数の言語を話す人々がいるということは、歴史的にどういうことなんだろうか、ということも考えざるを得ない。

日本では日本語しか話せない人がほとんどだけど、世界を見ると複数の言語が話せる人は多い。そういう人たちは、自分の民族が受け継いできた言語に加え、かつてその民族を支配していた国の言語を話すことが少なくない。

この朝鮮族の女性が、朝鮮語に加えて、中国語と日本語を話すということは、彼女の努力に加えて、中国と日本の影響を受けてきた満州の歴史も伝えている。複数の言語を話す人に感心するだけでなく、その背景にある歴史も理解するように努めていきたい。

2015年8月18日火曜日

大統領予備選、ドナルド・トランプ候補、排外主義的発言で支持拡大

2016年アメリカ大統領選に向けたキャンペーンが本格的に始まっている。
大統領選本番を前に、民主党と共和党でそれぞれ大統領候補者を一本化して公認候補を選ばないといけない。これを大統領予備選挙という。

民主党候補者としては、初の女性大統領になる可能性があるヒラリー・クリントンや、自ら民主社会主義者だと公言するバーニー・サンダースらが話題に上がっている。けれども、2015年夏の選挙戦報道は共和党候補者のドナルド・トランプ(Donald Trump)に集中している。

トランプは、アメリカの人気リアリティ番組のホストもつとめる実業家。不動産ビジネスが主な収入源で、この前、シカゴを旅行したときも、一等地のドュサーブル橋付近に「TRUMP」とサインを掲げた高層ビルが建っていた。

シカゴの一等地にトランプが建てた高層ビル(写真右)には「TRUMP」と彼の名前が記されている。

2015年8月現在、共和党からは18人が大統領選に立候補する意思を示しているが、その中ではトランプが群を抜いて支持を得ている。この高い支持率の背景には、移民問題に対する彼の極端に強硬な姿勢が保守層の一部に受けていることが挙げられる。

ドナルド・トランプ(写真左から5人目)ら共和党予備選挙の候補者ら(KTLAホームページから)

今年6月、トランプは選挙戦開始のスピーチで「(メキシコからの移民は)薬物を持ってくる。犯罪を犯す。彼らは強姦犯だ。そして、おそらく一部はいい人々だろう」と発言。アメリカ経済を支えているメキシコ人移民全体を犯罪者扱いするような発言であり、ラティーノ・コミュニティやリベラル層からトランプを批判する厳しい声が上がった。

この発言を巡り、共和党予備選候補者の討論会で司会者に「証拠はなんですか」と問われると、トランプは「私が候補者じゃなかったら、あなたも不法移民について語らないでしょう」とごまかしたものの、それでも聴衆の拍手を得た。

さらに今月、彼が示した非合法移民対策が物議を醸している。

彼は、アメリカ・メキシコ国境全域に壁を建設することだけでなく、アメリカ生まれの子どもにアメリカ国籍を与える法律(憲法修正第14条)を無効にすることも訴えている。さらに、幼少期に非合法移民の親とともにアメリカに来た若者たち(通称ドリーマーズ)は一時滞在が許されているが、そうした許可も無効にすると発言している。

共和党支持者の中でも特に保守的傾向が強い層は、移民の流入で変わりゆくアメリカ社会に不満や不安を抱いており、排外主義的な主張を躊躇なく繰り返すトランプはそうした不満の受け皿になっている。

トランプは厳しい国境管理による非合法移民の排除という国民国家の原則論に訴えることで正当性を得ようとしているものの、移民によって築かれたアメリカ社会の現実を完全に無視している。

さらに、トランプが第14条を批判して話題になると、世論調査で後れを取る他の共和党候補者らも第14条について似たようなことを言いだした。19世紀の共和党が奴隷制を廃止して生み出した第14条を、21世紀の共和党が移民問題を理由に潰そうとしている。

社会学者のサスキア・サッセンやジャーナリストのフアン・ゴンサレスが指摘するように、多くの非合法移民を含むラティーノ移民は、ラテンアメリカに対するアメリカの軍事的・経済的介入の結果であり、そうした移民が今日もアメリカ経済を支えていることは否定できない。

ロサンゼルスの地元テレビ局KTLAの記事によると、こうしたトランプの発言に対して、移民支援団体の代表は「彼の極端な考え方には言葉を失いますし、危険な方向に向かっています」「トランプ氏の計画はアメリカに暮らす1,100万人の勤勉な移民たちを捕まえて強制送還することができる警察国家を生み出すことになるでしょう」としたうえで、「幸いにも、そうした考え方は一般的に受け入れられておらず、機能もしないので人気もありません。ですから、実際には実施されないでしょう」と述べている。

その言動が共和党内からも多くの批判を浴びているトランプ氏が大統領に当選する可能性は低いだろう。しかし、排外主義的な主張を繰り返すトランプは、ニュース番組だけでなく芸能番組にも連日取り上げられており、このまま共和党の予備選を勝ち抜く可能性はある。そうすれば、曲りなりにも箔が付く。

「私は本当に金持ちだ」と豪語する資産13億ドルのトランプにとっては、世間の話題の中心となり、何らかの形でアメリカ政治に自分の名前を残すだけでも、2016年の大統領選はいい投資なのかもしれない。しかし、彼の人気は排外主義に支えられている。メキシコ人を中心とするラティーノ移民にとってはたまったものではない。

・トランプに関する記事は、こちらこちら、またこちら
・KTLAの記事は、こちら


ベトナム難民の成功物語、人気調味料スリラッチャソース

一年ぶりにオレンジ郡のベトナム系コミュニティ、リトル・サイゴンに昼ご飯を食べに行った。

ベトナム料理店「バンズ・レストラン(Van's Restaurant)」で、パリパリに焼いた生地で炒め物を包んだ「バンセオ」、エビとポテトの揚げ物、それに豚肉の生春巻きを注文した。

山盛りのレタスや香草と食べるバンセオ(写真左)

エビの揚げ物もレタスと香草で包んでいただく。

しばらくすると店員がレタス、シラントロ、ミント、ドクダミがてんこ盛りになった皿を料理と一緒に運んできた。レタスと香草でバンセオなどを包み、甘めのソースに漬けてから食べる。揚げ物の香ばしさ、香草の爽やかさ、ソースの甘さが絡み、めちゃくちゃ美味しい。ロサンゼルスではタイ料理やインドネシア料理、カンボジア料理も食べたけど、今のところ、東南アジア料理の中ではベトナム料理がいちばん好きだ。

レストランの壁にはキリスト誕生を描いた絵が飾ってあった。

テーブルにはオイスターソースなどと並んで、ホイ・フォン(Huy Fong)社のスリラッチャソース(Sriracha)というチリソースが置いてある。カリフォルニア産の唐辛子、酢、ニンニク、砂糖、塩が材料のドロドロとした赤いソースだ。ソースの入った透明のプラスチックボトルには、ローマ字や漢字で会社名などが印刷され、中央にはニワトリの絵が描かれている。地味なデザインだけどエキゾチックな感じがして印象的だ。

ホイ・フォン社のスリラッチャソース。写真はミャンマー料理店で売っていたもの。


このスリラッチャを知らないアメリカ人はいない、と言っても言い過ぎではない、おなじみの調味料だ。

ロサンゼルスのスーパーマーケットではほぼ100%売っているし、飲食店もアジア系であれば、かなり高い確率で置いてある。以前、人気のラーメン店にアメリカ人の友だちと行ったときも置いてあり、それはないやろと思ったけど、友だちは豚骨ラーメンの白いスープがうっすら赤く染まるくらいドロドロとスリラッチャを注ぎ込んでいた。

このスリラッチャを発売したのは、アメリカに移り住んだベトナム難民のデイビッド・トラン。1979年にアメリカに亡命。翌年、ロサンゼルス中心部のチャイナタウンに建てた工場でチリソース生産を始め、今では当初の100倍以上の広さの工場に移転し生産を続けている。

その工場が完成した2年前、CBSの朝のニュース番組がトランに取材している。

「私の商品が気に入らない人に対しては、どうしたのって思いますよ。なにかがおかしい。新鮮なもの、いちばんいいもの、安いものを使ってますよ」というトランに、記者が「辛すぎるという人もいますが」と質問。トランは「使う量を減らせばいいでしょ」と余裕で切り返していた。

トランが意気込んで稼働した新工場だが、稼働直後から問題を抱えてしまった。
工場から出る唐辛子の匂いを巡り、地域住民から不満が出たため、地元の役人が工場立ち退きに向けて動き出した。しかし、これだけ大きく成長した地元の会社を追い出せば、カリフォルニアで商売する人が減ってしまうという懸念もあり、ロサンゼルス・タイムズも社説で「カリフォルニアのために」工場の稼働を許可し続けるべきだと主張していた。結局、昨年5月、匂い対策に取り組むと約束したトランと地元自治体の間で話し合いが成立し、工場は存続することになった。

いずれにせよ、スリラッチャソースはアメリカに渡った移民の成功物語の一つ。トランは自分の会社をホイ・フォン社と名付けているが、「ホイ・フォン」は彼が難民として乗船した台湾の貨物船の名前だ。多くの人が楽しむソースは、いつも戦争の記憶も暗に伝えている。


食後は近くの菓子店にベトナム・コーヒーを買いに行った。いつも行く店がいつもの場所に見当たらない。近づいてみると、店舗スペースを半分に縮小して営業していた。

コーヒーの支払いの際に「この店もっと大きくなかったですか」と尋ねると、店員のおばさんは「レント・ハイ・アップ、セー・マニー(賃料が上がって。節約するため)」とベトナム語なまりの英語で教えてくれた。

濃くて甘いベトナム・コーヒーを飲みながら、ベトナム風サンドイッチ「バンミー」の店「トップ・バゲット(Top Baquette)」に向かう。前回リトル・サイゴンに来た際に友人が教えてくれた店だ。レモングラス・ビーフ味(3.5ドル)とバーベキュー・ポーク味(3ドル)をそれぞれ一つ買って、久しぶりのリトル・サイゴンを後にした。

レモングラス・ビーフ味のバンミー

・スリラッチャ製造元のホイ・フォン社のサイトは、こちら
・ロサンゼルス・タイムズの記事は、こちらこちら
・リトル・サイゴンについての本ブログの他記事は、こちら