2015年1月11日日曜日

カリフォルニアの農業、オアハカ州出身の先住民労働者たち

この間、夕食を食べに近所のオアハカ料理店に行った。
オアハカ料理とは、メキシコ南部太平洋岸にあるオアハカ州の料理のことだ。

インターネットで事前に調べていた料理2品とオルチャータ(horchata)という米で作った甘い飲み物を注文した。
一品目はポソレ(pozole)という鶏肉などを煮込んだシチューで、刻んだキャベツやシラントロなどを加えながら食べる。

ピリッと辛みの効いたポソレ。約11ドルだった。アチョーテ(achiote)という赤いスパイスを使っているんだろう

二品目はトラユーダ(tlayuda)というピザのような食べ物。パリッと焼いたトウモロコシ粉の薄い生地にペースト状の豆、オアハカンチーズ、キャベツ、アボカド、肉などをのせたもの。

直径30センチほどの大きなトラユーダ。約13ドルだった。

ポソレは3年前にメキシコ旅行に行ったときにメキシコ・シティーで食べたけど、この料理店の方が辛さが効いていて美味しかった。
トラユーダは豚肉と牛肉、チョリソー(ソーセージ)の三種盛り。モッツァレラチーズのような弾力のあるオアハカンチーズも気に入った。

僕と妻が席に着いた午後6時ごろはまだ空いていた店内も一時間もすると満席に。値段も手ごろで美味しいから人気なんだろう。

だいぶ量が多かったので、それぞれ半分くらいを持ち帰った。

◇

このオアハカ料理店は繁盛していたけど、カリフォルニア州で働くオアハカ州出身移民の状況はかなり厳しい。

カリフォルニア農業地域研究所が2007年にまとめた報告によると、カリフォルニア州には最低10~15万人のオアハカ州出身者がおり、農業労働者に占める割合が増えているという。特に20世紀初頭から多くの移民を送り出してきたメキシコ北西部の州と異なり、オアハカ州には先住民文化が色濃く残り、今でも多くの住民がミステク語などを話す。多くの先住民が、人口増加や市場経済の影響で現地で生活できなくなり、カリフォルニア州に仕事を求めて移り住んだものの、貧しく厳しい生活を送っている。

南カリフォルニア大学アネンバーグ・スクール(コミュニケーション/ジャーナリズム学)が彼らの状況を10分ほどのビデオ報告にまとめている。ある先住民の男性は「毎日、8時間から9時間、働きます。給料は週に350ドルほどです」とスペイン語で話す。彼らは年間収入は5千~1万2千ドルでカリフォルニア州の貧困ラインを大きく下回る。

都市部から離れた農業地域で働くカリフォルニア州の移民労働者たち

州政府は労働者が休めるように農場に日よけテントを設けたり、トイレや水を準備したりするように規定しているものの、農家が守らないケースもあるという。ある女性はミステク語で「日陰がぜんぜんないときもある」と話す。

この女性がミステク語でインタビューに答えているように、先住民は英語がまったく話せないだけでなく、スペイン語を十分に話せない人も多いという。そのため、労働契約書が読めなかったり、病院に行っても医師や看護師の説明が分からなかったりと多くの困難にぶつかる。ビデオ取材を受けた支援団体は健康診断に加え、スペイン語の無料授業も行っている。

メキシコ経済が支えきれなかったメキシコの先住民がアメリカで生き抜くためにスペイン語を学ぶ。このことは、メキシコの先住民がメキシコとアメリカの両国で格差の底辺に追いやられていることを示している。

さらにアメリカがメキシコとカナダと締結した北米自由貿易協定(1994年発効)によって安いトウモロコシがアメリカから流入し、オアハカ州の小規模農家の生活が成り立たなくなったという指摘もあり、先住民がアメリカに向かう構造的な原因はアメリカを中心とする新自由主義経済の拡大にも見出せる。

自宅アパートや大学の近くにはオアハカ料理店がいくつかあり、どの店も外観が小ぎれいで素敵な感じ。さまざまなエスニック料理店があることは、カリフォルニア移民社会の魅力だ。こうした表向きの魅力の裏側に、少なくとも140年以上前から日本出身者も含めて移民農業労働者が支えてきたカリフォルニア移民社会の搾取の歴史がある。

(ちなみに、かつて僕が訪ねた農家は州の労働基準をしっかり守っており、労働者との関係も良好でした。)

農業地域研究所の報告は、こちら。
ビデオ報告は、こちら。
北米自由貿易協定とオアハカ先住民の移民については、こちら。

2014年12月27日土曜日

ユダヤ教徒と中国料理、「ジューイッシュ・クリスマス」の過ごし方

クリスマスは日本ではお出かけする日だけど、アメリカでは家族で集まる日だ。
キリスト教徒が多いアメリカでは宗教的な重要性もある。日本ではクリスマスがキリストの誕生日とされていることを知らない人も多いんじゃないだろうか。
アメリカではクリスマスはお休みする商店や飲食店も多い。妻の勤める喫茶店も25日はお休みだった。

2年前、日本のクリスマス感覚で大型家具店のイケアに行くと、イケアだけでなく付近の店もすべて閉まっていた。やたら道路も駐車場も空いているなと思いつつ店まで着いたけど、それはそれでいい勉強になった。

ただ、クリスマスでも確実に盛り上がっている界隈がいくつかあるらしい。その一つがチャイナタウン。ということで、今年はモントレーパーク市のチャイナタウンに妻と昼食を食べに行き、ついでに様子を見てきた。(モントレーパーク市については、こちらの過去記事で)

高速道路はすかすかだったけど、モントレーパーク市内の道路は混んでいた。

高速道路10号線を降りてすぐのショッピングモールは多くの客で賑わっていた。お気に入りの飲茶店の駐車場も混んでいる。それらを通り越し、ある小籠包店に向かうと、店の外まで客が列を作っていた。待ち時間が1時間ほどかかりそうなので、その店の向かいの中国料理店「蝦林記(Har Lam Kee Restaurant)」に入った。

この店はお粥や麺類が人気らしい。店内はほぼ満席で、5分ほど待つと席に案内してくれた。店員さんは基本的に中国語で話しかけてくるから、ほとんど分からないけど笑顔で対応する。
エビワンタン麺とポークリブを頼んだ。繁盛していて料理が来るまで30分ほどかかったけど、エビワンタン麺は海鮮類のエキスが入ったスープで満足。ポークリブもニンニクが効いていて美味しかった。

一杯5.95ドルのエビワンタン麺。期待通りの味だった。

食後は近くの店をいくつか見学。乾物店に入ると、アワビやナマコの乾物などがずらっと並んでいた。中国の乾物を見ると、その食文化の奥深さが伝わってくる。「日本宗谷江瑤柱」という商品も。朝鮮人参(ginseng)もあった。19世紀初頭、中国人に相手にされていなかった新興国アメリカの商人は、アメリカ先住民から朝鮮人参の一種を手に入れて、中国市場に参入していった。ぱっと見は味気ないこの根っこがアメリカ人、中国人、先住民を初期のグローバル市場で結び付けたんだなあ、と思いつつ、店を出た。

日本の宗谷産の干貝柱。100グラム約14ドルの高級品。

その後は車で近くの中国系スーパー「Ranch 99」に立ち寄って中国産の梨「鴨梨(yali)」やココナッツミルクなどを買った。賑やかなチャイナタウンでクリスマスを過ごし、2年前の失敗を挽回できた。

中国系の食材を豊富にそろえるスーパー「Ranch 99」

◇

クリスマス翌日、妻が喫茶店の仕事を終えて帰ってきた。

仕事中に店長にクリスマスはどうやって過ごしたのって聞かれたらしい。
妻が「中国料理を食べに行った」と答えると、店長は「それは『ジューイッシュ・クリスマス(Jewish Christmas)』って言うんだよ」と教えてくれたという。「ユダヤ人のクリスマス」という意味だ。

ユダヤ教徒にとってキリストの誕生日は特別重要な祭日ではないから、クリスマスでもばりばり営業している中国料理店で食事を楽しむ習慣があるらしい。
キリスト教徒の祭日にユダヤ系と中国系コミュニティが食文化を通して結びつくアメリカらしい現象だ。

これは興味深いということで、ちょっと調べてみると、ワシントンポスト(オンライン版)の「ジューイッシュ・クリスマス戦争はもう止めにしよう(The War on Jewish Christmas must be stopped)」という記事を見つけた。筆者は国際政治学の教授だ。

筆者は、ここ15年くらいの間にユダヤ教徒だけでなく、多くのキリスト教徒も「ジューイッシュ・クリスマス」を楽しむようになっている、と指摘。グーグルの検索記録を見ると、毎年クリスマスには中国料理関連の検索数が急上昇し、クリスマスでも営業しているおすすめ中国料理店を紹介するサイトも登場しているらしい。

おそらく敬虔なキリスト教徒と思われる筆者は「親愛なるキリスト教徒の読者へ。救世主の誕生を祝う日は教会に行ってください。もしくは家でゆっくり過ごしてください。少なくとも26日までは映画を見に行ったり、クンパオチキン(中国料理の一つ)を食べたりしないでください」と結んでいる。

たしかに、僕らが行った中国料理店にもアジア系でもユダヤ系でもないようなアメリカ人がちらほらいた。筆者には申し訳ないけど、彼らもジューイッシュ・クリスマスに改宗した人たちかもしれない。

クリスマスも賑わう中国料理店。アジア系ではない客もちらほらいた。

・ワシントンポストの記事は、こちら。

2014年12月18日木曜日

祝祭日から学ぶ多民族社会アメリカの歴史

冬のホリデーシーズンに入った。

近所にはクリスマスに合わせて電飾を飾った家もちらほら。ショッピングモールもクリスマス関連の商品を多くそろえている。

「メリー・クリスマス(Merry Christmas)!」と同じように「ハッピー・ハヌカー(Happy Hanukkah)!」という言葉もよく聞く。
「ハヌカー」とはユダヤ教の祭日。ユダヤ教の暦に合わせて12月中に8日間続く。今年は16日に始まった。

大型量販店「ターゲット」に行くと、ハヌカー用商品のコーナーがあった。
ハヌカーの時期に使うドレイドルというコマ型の玩具や、9個のロウソクを飾るメノラーというロウソク台などが売っている。

大型量販店のハヌカー用商品販売コーナー

多くのユダヤ系の家庭では親族で集まって祭日を祝う。僕も10年ほど前にカリフォルニアの大学に交換留学した際、ユダヤ系のルームメイトの家に招いてもらい、ハヌカーの集いを楽しんだ。食事の前は参加者がお経みたいなものを順番に読んでいく。英語だったので僕も読むことができた。

アメリカでも20世紀初頭までマイノリティのユダヤ人に対する差別は根強かった。今日のユダヤ系アメリカ人は主流社会に溶け込んでいる一方、ハヌカーなどの祭日を通してユダヤ系の結束を強め、若い世代にユダヤ系としてのアイデンティティを伝えている。その意味では、ハヌカーにはユダヤ系アメリカの伝統という側面もある。

ハヌカーが始まった16日の朝は、いつものように地元テレビ局のニュースを見ていた。芸能ニュースのコーナーでは、毎日、芸能人が出演しインタビューに答える。今日は歌手のスティービー・ワンダーだった。中学生のころから、彼の音楽は大好きなので朝から興奮した。彼は準備されたキーボードを使いながら、クリスマスソングを歌った。気ままな朝の情報番組で、リラックスした大物歌手の様子が見られるのはうれしい。

ロサンゼルス地元テレビ局KTLAに出演中のスティービー・ワンダー(写真右)

インタビューの途中、彼はキャスターに「ところで、さっき(番組内で)ハヌカーとクリスマスに触れたよね。けど、クアンザ(Kwanzaa)を忘れちゃいけないよ」と付け加えた。クワンザとは12月26日~1月1日に祝うアフリカ系アメリカ人の祭日だ。市民権運動が盛り上がった1960年代、アフリカ系の文化や歴史を記念する祭日として始まった。スティービー・ワンダーもアフリカ系だ。

このようにアメリカでは12月はクリスマスだけでなく、ハヌカーやクアンザも祝う。だから、まとめて「ハッピー・ホリデーズ(Happy Holidays)!」という表現もある。ハヌカーもクアンザも「ハッピー・ホリデーズ」という表現も、多民族国家アメリカで独自の発展を遂げてきた。祝祭日を通して多民族国家アメリカで暮らすマイノリティの歴史について学ぶことができる。

・番組のビデオ・クリップは、こちら。

2014年12月5日金曜日

移民と選挙権、ロサンゼルスで在外投票

午前中は大学で用事を一つ済ませて、昼は妻とコリアタウンに麺料理カルグクスを食べに行った。
妻の韓国人の友だちもおすすめの店「ハンガリ・パジラク・カルグクス(Hangari Bajirak Kalgooksoo)」。お客さんはほとんど韓国人で店内に掲示されたメニューもハングルだけ。渡米前、韓国に3週間、語学研修に行ったことが役に立つ。ハングルが読めれば注文くらいはできる。

僕はアサリ・カルグクス、妻は鶏カルグクスを注文。スープも手作り麺も美味しかったけど、アサリの量に驚いた。25枚ほど入っていた。鶏カルグクスは韓国で食べたタッカンマリ(鶏を丸ごと煮込んだもの)と似たような味。メニューにはタッカンマリもあったので3、4人で行けばシェアして楽しめそう。ついでに韓国風餃子のマンドゥも一皿頼み、残ったやつは持って帰った。

アサリ・カルグクス(写真)にはキムチや麦飯などがついてくる。これで8.99ドル。

お腹いっぱいになった後は衆議院選挙の在外投票のため、リトル・トーキョーに向かった。
リトル・トーキョーは久しぶりに来た。最近はどんどん再開発が進んで、アパートビルなどの建設が進んでいる。「こんなところで国旗をつけるんやねえ」と妻が言うので見上げると、建設現場のクレーンの先に付けられたアメリカ国旗が風になびいていた(写真下)。

再開発が進むリトル・トーキョー

投票会場の日米文化会館に到着。昨年の参議院選挙前に申請して手に入れた在外選挙人証とパスポートを持って行った。在外選挙人証を手に入れるには2、3カ月かかるので海外で投票したい人は事前に申請しておかないといけない。

日米文化会館(写真)は、日系アメリカ人や日本人による芸術活動の振興や日米文化交流の促進の拠点。在外投票の会場は右の建物の地下一階にあった。

在外投票は日本国内の投票よりやや作業が多いけど、かいつまんで言うと、候補者名を書いた投票用紙を小さな封筒①に入れ、それを大きな封筒②に。そして、立会人の領事館職員らが投票者の氏名や在外選挙人証交付番号などをチェックし、封筒②を地元の選挙管理委員会行きの封筒③に入れて無事終了だ。

今回の選挙にどういう意味があるのかという議論は別として、こうして海外からでも投票できること自体は重要なことだ。2000年から比例代表の在外投票が始まり、2007年から小選挙区の在外投票も始まった。

日本で男子普通選挙法が制定された1925年、選挙権が認められたのは日本列島内(内地)で暮らす25歳以上の男性だけだった。朝鮮半島など植民地出身者も選挙権を持っていた。

当時、大日本帝国の植民地であった朝鮮半島で暮らす日本人や朝鮮人のエリート層の一部は、同じ帝国臣民であるなら、帝国議会選挙の選挙権を自分たちにも認めるように政府に働きかけたものの聞き入れられず、ようやく認められたのは1945年。しかし、日本が戦争に負けて、実際に彼らが選挙権を行使する機会はなかった。

戦前の日本の植民地で暮らす日本出身者と戦後の外国で暮らす日本出身者の状況は根本的に違う。ただ、いずれにしても日本列島の外で暮らす日本出身移民の政治的権利は少なくとも1925年以降は認められてこなかった。その意味で、僕がロサンゼルスで行使した在外投票は21世紀の歴史の実践といえる。

とはいえ、選挙権を巡る問題がすべて解決したわけではない。戦後は女性の選挙権が認められるという極めて大きな前進があった一方、国内に暮らす朝鮮半島出身移民とその子孫らの選挙権は奪われた。おそらく議論の中心は地方参政権だろうけど、そうした人々の権利のあり方について同じ日本社会で暮らす住民として無関心でいるわけにはいかない。それは日本国内の多様性に対する歴史認識の問題と切り離せない。ロサンゼルスで一票を投じつつ、移民と選挙権について、そんなことを思った。

2014年11月21日金曜日

非合法移民500万人に滞在許可、ラティーノ系テレビ局の報道

「今日は歴史的な日となりました」

11月21日午後6時、ラティーノ系大手テレビ局「Univision(ウニビシオン)」のニュース番組は男性キャスターのこの言葉で始まった。

その1時間前、オバマ大統領が非合法移民約500万人の強制送還を一時的に停止すると発表した。大統領は「(アメリカは)今もこれからも移民の国です。私たちもかつてどこからかアメリカにやってきた人々(の子孫)なんです」と訴えた。

移民制度改革案を発表するオバマ大統領

アメリカでは、多くの非合法移民が低賃金労働者としてアメリカ経済を支える一方、非合法移民の親の強制送還によって親子が離れ離れになる状況が続いてきた。

このような状況を改善しようと、アメリカ政府はアメリカ生まれの子どもの親で、5年以上前から滞在している人に対して労働許可証を発給するとともに3年間の滞在を許すことを決めた。その数は400万人ほどに達するという。

さらに、子どものころに親に連れられて入国した非合法移民の若者たちの強制送還を停止する既存の事業も延長する。今回の事業延長で新たに30万人の若者が安心して国内で暮らせるようになるという。

恒久的な移民改革法案を議会で成立させる目途が立たないため、今回の強制送還の停止は大統領の権限で実行される。

非合法移民の多くはメキシコや中央アメリカ出身のラティーノたち。彼らはオバマ大統領による移民制度改革に強い期待を寄せていただけに、一時的な措置とはいえ、今回の判断を歓迎している。

そのテレビ番組では、移民支援団体の代表者、議員、弁護士、アメリカ生まれの子どもと暮らす非合法移民の女性のインタビューなどを放送した。

ロサンゼルスの移民支援団体でインタビューするリポーター

テレビ局のウェブサイトでも非合法移民の反応を紹介。アメリカに来て15年になる女性は「とてもうれしいです。外を歩いていてもいつも捕まるんじゃないか、強制送還されるんじゃないかと怖かったですし、そうなったら子どもと離れ離れになるでしょ」と今回の発表にほっとする一方、こういう機会を得ずに強制送還されてしまった人たちのことが気の毒だと話していた。

また同局の看板ジャーナリスト、ホルヘ・ラモスも今回の発表を、非合法移民約300万人を合法化した1986年移民改革管理法以来の大規模な改革と評価。ただ、1986年移民法は合法化後に、新たな合法化を期待して非合法移民が増えたという批判もなされている。
それを意識してか、ラモスは「メキシコやベネズエラで番組を見ているみなさん、あなたたちは対象じゃありませんよ」と強調していたことが印象的だった。こういう語りかけはアメリカだけでなく中南米諸国で広く放送されているラティーノ系テレビ局ならではだ。
保守派の批判を抑えるための意識的な発言だったのかもしれない。

◇

非合法移民のニュースが終わると、メキシコ国内のニュースに移った。
ゲレロ州で43人の大学生が行方不明になり、一部の学生の遺体が見つかっている事件に対する抗議運動のニュースだった。

メキシコ・シティーで行われたデモの様子
午後8時にそのニュース番組が終わると、ラテンアメリカ出身の歌手らが参加する音楽賞・第15回「ラテン・グラミー」の表彰式が始まった。ラティーノの増加に伴って多くの歌手はアメリカでも成功しており、2000年の第1回からロサンゼルスやマイアミなどアメリカ主要都市で開催している。華やかなドレスやスーツを身にまとった歌手たちが楽しそうにインタビューを受けたり、歌を披露したりした。

オバマ大統領の発表に涙するアメリカ国内のラティーノ、メキシコ国内で行方不明の学生、そして、華やかなラテンアメリカ出身の芸能人。テレビが切り取ってつなぎ合わせた事実は世界の一部でしかないけど、今日の放送の流れは、アメリカとラテンアメリカの間の不平等な関係をコマーシャルを挟みつつ、まざまざと見せつけるものだった。

・参照したロサンゼルス・タイムズの記事は、こちら。

2014年11月17日月曜日

エビマヨ誕生の背景、香港移民とウォルナット・シュリンプ

近所にはこれと言っておいしい中国料理店がないから、中国系住民の多い地域に食べに行く。
今日はトーランス市の中国料理店「Seafood Port Chinese Restaurant」に足を運んだ。
週末の昼間なのでかなり賑わっていた。客層は6割がアジア系で、それ以外はラティーノが多い。

ランチは8ドル前後。100種類ほどある一品料理から一つを選ぶと、それにご飯と酸辣湯、デザートが付いてくる。

今日はランチメニューに「クンパオチキン(Kung Pao chicken)」という名前の鶏肉とピーナッツ、唐辛子の炒め物を選び、ランチメニューではないけど、こちらで人気の「ハニー・ウォルナット・シュリンプ(Honey Walnut Shrimp)」を初めて注文した。

日本語訳すると「クルミとエビのハチミツ炒め」と言ったところなので、その料理名からは予想できないけど、これはいわゆるエビマヨのこと。マヨネーズとハチミツで作ったソースを揚げたエビに絡め、甘く炒めたクルミを加える。サクッとプリッと揚がったエビとクルミの食感が重なり、かなり美味しい。僕ら以外にも注文している客が何組もいた。

この店のウォルナット・シュリンプ(写真)は一皿約18ドルといい値段だけど、量が多いので半分は持って帰り、夕食で食べた。

しかし、マヨネーズ、ハチミツ、クルミとアジアの伝統的な料理のイメージとは異なる食材が使われている。このアメリカ版エビマヨはどうやって生まれたんだろうか。日本のエビマヨと関係があるんだろうか。

ネットで調べると「ウォルナット・シュリンプ」は「香港スタイル料理」、「香港から来たもの」、また「中国系アメリカ料理」と曖昧な情報が多い。

料理本を出版したこともある、あるアジア系料理ブロガーの記事では「香港で発明されて、1990年代前半にアメリカに持ってこられたという噂もあります。誕生の背景がなんであれ、ハニー・ウォルナット・シュリンプはアメリカの中国料理店であればどこでも食べられる定番メニューになりました」と紹介されている。というわけで、実際どうなのかははっきりしないようだ。

エビマヨと言えば、今年亡くなった炎の料理人・周富徳さんが日本で生み出したと言われている。朝日新聞の惜別記事も「エビマヨの生みの親」と見出しをつけ、「香港へ通い、研究を重ねた」結果、エビマヨが生まれたとしている。だけど、2012年に放送されたテレビ番組(TBS・『イカさまタコさま』)が調べたところ、ロサンゼルスで食べた料理をヒントに周さんが発案したものだ、というネット情報もいくつか見つかった。

おそらくテレビ番組の検証内容がより正確なんだろう。というのも、ロサンゼルスではかなり多くの中国料理店で「ウォルナット・シュリンプ」が提供されている。人気口コミサイト「Yelp」で「Walnut Shrimp」「Los Angeles」と検索すると、2千件以上の店舗情報が出てくる。また、1997年に香港がイギリスから中国に返還される前に多くの香港人がロサンゼルスに移住しており、香港系の中国料理店も多い。

そう考えると、周さんがロサンゼルスの香港系中国料理店で「ウォルナット・シュリンプ」を食べ、それをヒントに日本でおなじみのエビマヨを発案したんじゃないだろうか。周さん自身も日本に移住した中国人移民の子ども。移民の子どもが日本で発案したエビマヨの背景に、ロサンゼルスに渡った香港人移民の歴史が隠れているかもしれない。

・朝日新聞の惜別記事は、こちら。
・料理ブログの関連記事は、こちら。

2014年11月8日土曜日

多文化主義の街ボイル・ハイツ、次世代に伝える地域史

今週はアメリカの学会に参加して、カリフォルニア州の移民をテーマに研究発表をした。
緊張したけど、お世話になっている先生方のおかげで、無事に終えることができた。

参加した学会はアメリカ学会(American Studies Association)で、移民研究、人種研究、LGBT(性的少数者)研究など、社会的・文化的に多様なアメリカ社会に関わる研究を行っている研究者が集う。

発表後、日本から参加した先生方のお誘いで夕食会に参加させていただいた。先生方は夕食会でアメリカ人の先生と会う予定を立てていた。意外なことに、そのアメリカ人の先生は僕が指導を受けている先生の一人だった。

その先生が研究対象としているロサンゼルス市の東側にあるボイル・ハイツ(Boyle Heights)地区で夕食。この地区の住民はほとんどがメキシコ系を中心としたラティーノだ。商店街にあるメキシコ料理店で、タコスやグアカモレ(アボカドで作ったペースト)などを楽しんだ。食事中、メキシコの伝統的な音楽をギターやアコーディオンで演奏するマリアッチが店内に入ってきて雰囲気を盛り上げていた。

先生からボイル・ハイツの歴史について話をしてもらった。まるでメキシコのようなボイル・ハイツの商店街も戦前はユダヤ系移民の商店街だった。ロサンゼルスで人気のユダヤ系レストラン「カンターズ(Canter's)」は現在、ロサンゼルスの西側で営業してるが、もともとこの商店街にあったらしい。商店街のすぐ近くには、1915年に建てられたユダヤ教の教会シナゴーグが残っている。

日中のボイル・ハイツは買い物客で賑わっている。

ユダヤ系コミュニティの中心だったシナゴーグ「Breed Street Shul」は現在、国指定史跡となっている。

1940年ごろまでボイル・ハイツの人口は極めて多様で、ユダヤ系、メキシコ系、日系などの住民が調和を保ちながら暮らしていた。労働者階級の連帯感に加え、多文化主義(multiculturalism)が根付いた地域だった。しかし、第二次世界大戦中に5千人ほどいた日系人は強制収容され、戦後は都市化の中でユダヤ系はロサンゼルスの西側の地域に移住していく。そこに、新たにメキシコから来た移民を中心にラティーノが集住する現在の状況に至っている。

先生は地域で暮らすラティーノの子どもたちにボイル・ハイツが培ってきた多文化主義の歴史を教えるプログラムにも携わっており、移民史を通して大学研究と地域教育を結び付けている。

ちなみに地名の由来は、「ボイル(Boyle)」は1850年代にこの地に移住したアイルランド人移民の名字で、「ハイツ(Heights)」は高い場所を意味する英語。午後10時前に食事を終えて、ダウンタウンに車で帰る途中、高台になったボイル・ハイツからロサンゼルス川越しに、ダウンタウンの高層ビル群が一望できた。