2015年7月10日金曜日

市場革命の中心地、シカゴへ走る寝台列車

ナイアガラの滝を見た後、近くのバッファロー駅からアムトラックの寝台列車でシカゴに向かった。

午後11時59分発の列車を待つ。ナイアガラの滝からバッファロー駅までは路線バスを乗り継ぎ待ち時間も合わせると約2時間。ニューヨーク州西端の都市でマンハッタンのあるニューヨーク市から約470キロメートルも離れている。

バッファロー市を経由してニューヨーク市とシカゴ市を結ぶ沿線は19世紀前半、アメリカ経済を一気に発展させた市場革命の中心舞台。田舎の雰囲気が漂うバッファロー駅も歴史深く、かつては時代の最先端だった。待合室の壁には1893年にこの駅を通過する蒸気機関車が当時の世界最速である時速112.5マイル(180キロメートル)を記録したことを説明するプレートが飾ってあった。

バッファロー駅の待合室
予定より1時間遅れて到着したシカゴ行の列車

僕らの列車は遅延を伝える構内放送もないまま、当たり前のように1時間遅れて出発した。

部屋まで案内してくれた黒人の車掌さんが、そのまま座席をベッドに切り替えてくれた。「朝ごはんはついてますよね」、「ええ、6時半に起こしましょうか。それとも7時にしましょうか」、「じゃあ、7時で。おやすみなさい」と話して部屋のドアを閉めた。妻は下のベッド。僕は上のベッドに。真っ暗な夜景が流れていく。ほとんど何も見えないけど、もったいないからカーテンは閉めなかった。踏切を通るたびに「フォー」とという汽笛が遠くで優しく響き、僕らはすぐに眠りについた。

ベッドに切り替えられる座席横には洗面台とトイレが付いている。


翌朝は妻がちょこんとベッド脇から顔を出して起こしてくれた。食堂車に向かう。高齢の白人男性と一緒にテーブルに座った。僕はオムレツ、妻はフレンチトーストを注文。男性はオートミールとヨーグルトを食べていた。

アムトラックの食堂車

しばらくすると男性の方から「アムトラックの旅は初めてですか」と話しかけてくれた。名前はエドワードさん。6回以上、アムトラックの寝台列車で旅をしているという。今回はニューヨークからシカゴまで一人旅。シカゴで野球の試合を見てから、ニューヨークに戻るらしい。

「ニューヨークで生まれ育ったんですか」と尋ねると「ええ、ネイティブのニューヨーカーですよ」と穏やかに話すエドワードさん。ニューヨークに5泊したけど地元の人と話す機会はなかった。せっかくだから、いろいろ聞いてみよう。

「ニューヨーカーとしては、ニューヨークのどこが一番好きですか」
「さまざまな舞台が見られることかな。先週も二つ見たよ。スポーツも魅力の一つだね」
「ヤンキースですか」
「いや、近頃はヤンキースはお金が絡みすぎて、それほど好きじゃないね。僕の家は球場から四駅のところ。前の球場は良かったよ。その球場とともに育ったからね」

この日、エドワードさんが野球を見るシカゴの球場は100年の歴史があり、その球場を見るのも今回の一人旅の楽しみという。

「これまで暮らしてきた間にニューヨークも様変わりしましたか」
「そうだね。1970年代は一番厳しい時代だったよ。あちこちでストライキがあった。新聞社もストライキ。人種問題も激しかった。ブロンクスの辺りは戦争みたいな感じだったよ。そのあと、本当に悪い市長がニューヨークを一時はつぶしかけたけど、その後はいい市長も続いて、いつものように活気を取り戻した。それと9・11(同時多発テロ)があったでしょ。今でも警察の一部のグループに対する取り締まり方など問題はあるけど、だいぶ昔に比べるとよくなっているよ。ああ、それと1977年の大停電はひどかった。メインからフロリダの一部まで停電したよ」

その他にもニューヨークの冬の厳しさやエドワードさんが信仰しているユダヤ教の過ぎ越し祭などについて話をしてくれた。寝台列車以外の乗客に席を譲るため、食堂車の大きな黒人スタッフが料理皿を下げに来た。エドワードさんは「美味しかったよ」とスタッフに声をかけて席を立つ。僕らもエドワードさんに「お話できてよかったです。よい旅を」と言って部屋に戻った。

午前9時45分、緑豊かな農業地帯を駆け抜けて列車はシカゴに到着した。

アムトラックの寝台車。朝食を食べている間に車掌がベッドをたたんで座席に戻しておいてくれた。

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