2015年7月26日日曜日

ミシシッピー川とニューオリンズ、アフリカとヨーロッパが織り成す多様な文化

ルイジアナ州ニューオリンズ、アメリカ内陸部と大西洋を結ぶミシシッピー川河口の都市だ。
17世紀にフランス人が進出していた五大湖地域とメキシコ湾、さらに大西洋を結ぶミシシッピー川。その河口でニューオリンズが発展した。

先住民の狩猟社会だった河口地域は、17世紀以降、フランス、スペイン、アメリカが港町ニューオリンズとして支配した。その間に多くのヨーロッパ系またアフリカ系の人々が自発的また強制的に移住し、極めて多様でユニークな文化を生み出した。19世紀前半には環大西洋貿易の要所として、アメリカ資本主義の発展に大きく影響を与えた。

ふだんはアジアと縁の深いアメリカ西海岸に焦点を当てて勉強しているけど、アメリカ移民史を学び深めていく中で、ニューオリンズはどうしても行ってみたい街だった。行けるときに行ってしまおうと思い立ち、急きょ二泊三日の予定で妻と一緒にロサンゼルス発午前7時半の飛行機に乗った。


テキサス州ダラスで別の便に乗り換えて、午後3時ごろにルイ・アームストロング国際空港に到着。ルイ・アームストロング(1901~1971)はニューオリンズで発展した音楽ジャズを盛り上げたアフリカ系アメリカ人の演奏家だ。ジャズも聞きに行きたい。

街の中心部にあるホテルに着いて少し休憩した後、ミシシッピー川を臨む公園に向かった。川幅600メートルの広い川を茶色に濁った水がゆっくり流れる。

約200年前後には、大量のモノとヒトを載せた蒸気船がこの川岸にひしめき合っていたんだろう。ニューオリンズは天然資源が少なかったものの、市場経済が急激に拡大するなか、交易を通して発展。アメリカ産の農作物を大量に詰め込んでヨーロッパに向かった蒸気船がアメリカに戻る際、その空いたスペースにヨーロッパ人移民を乗せて帰ってきた。資本主義の拡大と移民の流入は切り離せない。この川が北アメリカ大陸の歴史に与えた影響を想うと少し胸が熱くなった。

ニューオリンズのミシシッピー川河口を貨物船がゆっくり上流へ向かう。
1820~1840年代のニューオリンズ港の様子
触れたくなったのでミシシッピー川に手を突っ込む。近くではホームレスの若い男性が水浴していた。

公園すぐ近くには1862年創業の老舗喫茶店「Cafe du Monde」がある。屋根つきのテラスで名物のベニエ(四角いドーナツ)とカフェオレを楽しむ。過去150年間にどれだけの人たちが世界中からニューオリンズに集まり、ここで長旅の疲れを癒したのだろうか。そういう人の流れに少し自分も参加できたような気がした。

平日夕方の「Cafe du Monde」は空いていてゆっくりできた。
山盛りにかかった粉砂糖のほのかな甘みが揚げたてのベニエに合う。

日本にも「ミスタードーナツ」を経営しているダスキンが「Cafe du Monde」の支店を小規模で展開しているけど、ミシシッピー川沿いの本店でしか味わえない歴史がある。


夜はジャズの生演奏を楽しめる有名なコンサート会場「Preservation Hall」へ。フランスやスペイン統治時代の面影を残す地区フレンチ・クオーターの中心部に位置し、午後8時からのライブに観光客やジャズファンが長蛇の列を作る。会場はフレンチ・クオーターで最古の建物の一つで、1960年代から優れたジャズ演奏家がバンド演奏を行う。平日は一人15ドルとチケットも良心的だ。
僕らも7時過ぎから並び、亜熱帯の蒸し暑さの中、ペットボトルの水を飲みつつ待った。

フレンチクオーター中心部にあるPreservation Hall(写真左側)には、開演1時間前から観客が列を作って待つ。

いよいよ開場。小さな会場に観客がぎっちり詰まる。たまたま一番前から2番目の席が空いていた。司会の若者に「それではプリザーベーション・ホール・オールスターズです!」と紹介されて演奏者6人が会場に入ってきた。5人はアフリカ系で、残りの一人は日本人女性ピアニストの「マリ・ワタナベ」という方だった。ジャズは奴隷音楽を含むアフリカ系音楽と西洋音楽が混ざって19世紀末から20世紀初頭に誕生したとされており、現在では世界で愛されている。

日本人ピアニストが本場ニューオリンズで活躍している姿に感激し、また奴隷貿易という人類の悲劇を背景にしつつ、いろいろな文化が混ざって誕生したジャズという音楽の包容力を実感した。

もちろんバンドの生演奏は即興的な要素が加わり圧巻。有名な「What a Wonderful World」を聞いた妻は「じーんときたわ。ジャズに詳しくなくても聞き入ってしまう」と感動していた。


ジャズを楽しんだ後は地元料理を食べに行く。ニューオリンズでは音楽と同様に料理も様々な文化が混ざって発展した。フランスを中心としたヨーロッパの料理とアフリカや先住民の料理などが混ざり合ったクレオール料理と、18世紀に現在のカナダ東部からルイジアナ州に移り住んだフランス系住民が継承したケージャン料理が人気で観光の目玉でもある。

この日は人気店「Oceana Grill」で、炭火焼牡蠣、ワニの揚げ物、ザリガニのエトゥフェー(étouffée)というスープ料理を食べた。エトゥフェーは魚介のダシが効いていて、ザリガニもたくさん入っていて食べ応えがあった。初めてのアメリカ南部。目で、耳で、舌でニューオリンズを満喫した。

スパイスの効いたケージャン風のソースがかかった炭火焼牡蠣

地元産ワニの揚げ物。まずくもなくうまくもない。

ザリガニ入りエトゥフェーは魚介のコクがあり、かつスパイシーで美味しかった。

2015年7月20日月曜日

国際移民と国内移住の交差点、シカゴを歩く

人口規模でアメリカ第三の都市シカゴに到着した。
1925年に完成したユニオン・ステーション駅は神殿のような外観。毎日12万人が利用し、アメリカで3番目に利用者が多い駅という。

19世紀前半のアメリカでは鉄道や運河などの交通網が急速に整う。それに伴い、シカゴには1840年代以降、アイルランド人やドイツ人らが大規模に移住した。1840年に全米92番目の4,470人だったシカゴの人口は、1890年には全米2番目の約110万人に急増した。
1890年、シカゴ市人口の約8割が移民とその子どもという移民都市に成長する。20世紀初頭にはポーランドなど東ヨーロッパ出身の移民も加わった。20世紀初頭、シカゴ大学でシカゴ学派と呼ばれる都市社会学が発展した背景には、このようなシカゴ市の急激な発展があった。

正午ごろにホテルに到着。荷物を預けて目抜き通りのミシガン通りを歩く。シカゴ川に掛かるドュサーブル橋には、17世紀にヨーロッパ人がこの地域に進出したことを祝う説明板が彫られている。1920年代に彫られたものだ。
発見者たち
ジョリエ、マーケット神父、ラ・サールとトンティは、17世紀後半にミシシッピー川につながる五大湖とこの流域を越え、アメリカ中西部の人々の性質に深く根付く勇敢な冒険心を象徴する、恐れを知らない探検家としてアメリカ史にその名を残すだろう。

19世紀初頭に先住民と白人の間で起きた戦いを白人側の視点から表現した彫刻がドュサーブル橋に彫られている。

歴史家リチャード・ホワイトが論じたように、17世紀の五大湖地域では、先住民とフランス人がそれぞれ利益を得るため、ある程度互いに理解し、依存しあう「中間領域(Middle Ground)」が形成された。
そうした相互依存関係は18世紀に崩れていき、19世紀に先住民は新興国アメリカによる支配の対象になっていく。先住民の存在を完全に無視している上記の説明は、白人至上主義がピークを迎えていた1920年代当時のアメリカの歴史観を表しているといえるだろう。

17世紀まで先住民の社会だった自然豊かなミシガン湖岸には現在、近代建築を代表する高層ビルが立ち並ぶ。

そうした近代建築の一つ、シカゴ文化センター(Chicago Cultural Center)に散歩がてら立ち寄った。センターの建物は1897年にシカゴ市立図書館として建設され、1990年代以降、入場料無料の芸術文化施設として展覧会などを開催している。この日は、シカゴのアフリカ系アメリカ人に関する展覧会が二つ開かれていた。

シカゴ文化センター

展覧会の一つは、1920~1980年代、シカゴに住むアフリカ系住民の間で愛用された化粧品会社ヴァルマー社(Valmor Products Company)の商品や広告をデザインしたアフリカ系デザイナー、チャールズ・ドウソン(Charles Dawson)らの作品展。アフリカ系であることに強い誇りを感じていたドウソンは、彼の美的感覚と重なるアフリカ系の人々をデザインに描いた。人種的特徴を強調しない彼のデザインは、化粧品をアフリカ系以外のエスニック集団に販売するうえでも重要だったという。

戦前にアフリカ系住民の間で人気だったヴァルマー社の整髪料。広告デザイナーのドウソンは人種的特徴を強調せずに人物を描いた。

第一次世界大戦中(1914-1918)、ヨーロッパからの移民労働者の流入が滞ると、アメリカ南部から多くのアフリカ系労働者がシカゴに移り住んだ。歴史の教科書では「大移住」(Great Migration)として知られており、国際移民と国内移住が連動していることを示す事例といえる。

創業者がハンガリー系ユダヤ人だったヴァルマー社の歴史からは、国際移民と国内移住がシカゴで重なり、地域経済と広告美術の発展につながっていったことが分かる。

文化センターでゆっくりした後、シカゴ市観光の目玉であるミレニアム公園の銀色オブジェ「クラウド・ゲート」を見た。夜は底が深い鉄鍋で焼くのが特徴のシカゴ風ピザを食べてお腹いっぱいになった。

多くの観光客が訪れるミレニアムパークに置かれた「クラウド・ゲート」

人気店「Gino's East」のシカゴ風ピザ
夜のドュサーブル橋付近


翌日は高さ442メートルのウィリス・タワー(旧シアーズ・タワー)に上った。1973年に建てられ、当時は世界で最も高いビルだった。展望台から見下ろしたシカゴ市の街並みは一見の価値あり。透明の板を使った特別展望コーナーに行くと空中にいるような、もしくは、そのまま地上に落ちてしまいそうなスリルを味わえる。天気もよく多くの観光客で賑わっていた。一泊二日と短かったものの、シカゴの街を満喫して、ロサンゼルスに飛行機で帰った。

ウィリス・タワーの展望台から見下ろしたシカゴの街並み。右手(東側)にミシガン湖が広がる。
足元が透明の板になっている特別展望コーナー

・シカゴ文化センターの歴史は、こちら
・・シカゴの人口については、こちらまたはこちら

2015年7月10日金曜日

市場革命の中心地、シカゴへ走る寝台列車

ナイアガラの滝を見た後、近くのバッファロー駅からアムトラックの寝台列車でシカゴに向かった。

午後11時59分発の列車を待つ。ナイアガラの滝からバッファロー駅までは路線バスを乗り継ぎ待ち時間も合わせると約2時間。ニューヨーク州西端の都市でマンハッタンのあるニューヨーク市から約470キロメートルも離れている。

バッファロー市を経由してニューヨーク市とシカゴ市を結ぶ沿線は19世紀前半、アメリカ経済を一気に発展させた市場革命の中心舞台。田舎の雰囲気が漂うバッファロー駅も歴史深く、かつては時代の最先端だった。待合室の壁には1893年にこの駅を通過する蒸気機関車が当時の世界最速である時速112.5マイル(180キロメートル)を記録したことを説明するプレートが飾ってあった。

バッファロー駅の待合室
予定より1時間遅れて到着したシカゴ行の列車

僕らの列車は遅延を伝える構内放送もないまま、当たり前のように1時間遅れて出発した。

部屋まで案内してくれた黒人の車掌さんが、そのまま座席をベッドに切り替えてくれた。「朝ごはんはついてますよね」、「ええ、6時半に起こしましょうか。それとも7時にしましょうか」、「じゃあ、7時で。おやすみなさい」と話して部屋のドアを閉めた。妻は下のベッド。僕は上のベッドに。真っ暗な夜景が流れていく。ほとんど何も見えないけど、もったいないからカーテンは閉めなかった。踏切を通るたびに「フォー」とという汽笛が遠くで優しく響き、僕らはすぐに眠りについた。

ベッドに切り替えられる座席横には洗面台とトイレが付いている。


翌朝は妻がちょこんとベッド脇から顔を出して起こしてくれた。食堂車に向かう。高齢の白人男性と一緒にテーブルに座った。僕はオムレツ、妻はフレンチトーストを注文。男性はオートミールとヨーグルトを食べていた。

アムトラックの食堂車

しばらくすると男性の方から「アムトラックの旅は初めてですか」と話しかけてくれた。名前はエドワードさん。6回以上、アムトラックの寝台列車で旅をしているという。今回はニューヨークからシカゴまで一人旅。シカゴで野球の試合を見てから、ニューヨークに戻るらしい。

「ニューヨークで生まれ育ったんですか」と尋ねると「ええ、ネイティブのニューヨーカーですよ」と穏やかに話すエドワードさん。ニューヨークに5泊したけど地元の人と話す機会はなかった。せっかくだから、いろいろ聞いてみよう。

「ニューヨーカーとしては、ニューヨークのどこが一番好きですか」
「さまざまな舞台が見られることかな。先週も二つ見たよ。スポーツも魅力の一つだね」
「ヤンキースですか」
「いや、近頃はヤンキースはお金が絡みすぎて、それほど好きじゃないね。僕の家は球場から四駅のところ。前の球場は良かったよ。その球場とともに育ったからね」

この日、エドワードさんが野球を見るシカゴの球場は100年の歴史があり、その球場を見るのも今回の一人旅の楽しみという。

「これまで暮らしてきた間にニューヨークも様変わりしましたか」
「そうだね。1970年代は一番厳しい時代だったよ。あちこちでストライキがあった。新聞社もストライキ。人種問題も激しかった。ブロンクスの辺りは戦争みたいな感じだったよ。そのあと、本当に悪い市長がニューヨークを一時はつぶしかけたけど、その後はいい市長も続いて、いつものように活気を取り戻した。それと9・11(同時多発テロ)があったでしょ。今でも警察の一部のグループに対する取り締まり方など問題はあるけど、だいぶ昔に比べるとよくなっているよ。ああ、それと1977年の大停電はひどかった。メインからフロリダの一部まで停電したよ」

その他にもニューヨークの冬の厳しさやエドワードさんが信仰しているユダヤ教の過ぎ越し祭などについて話をしてくれた。寝台列車以外の乗客に席を譲るため、食堂車の大きな黒人スタッフが料理皿を下げに来た。エドワードさんは「美味しかったよ」とスタッフに声をかけて席を立つ。僕らもエドワードさんに「お話できてよかったです。よい旅を」と言って部屋に戻った。

午前9時45分、緑豊かな農業地帯を駆け抜けて列車はシカゴに到着した。

アムトラックの寝台車。朝食を食べている間に車掌がベッドをたたんで座席に戻しておいてくれた。

2015年7月9日木曜日

ナイアガラの滝とインド人観光客、「シブキハ雨ノ如ク」

ニューヨークからシカゴへアムトラック(Amtrack)の列車で向かう。
その途中、一泊してナイアガラの滝を見に行った。たまたま独立記念日の夜に立ち寄ったため、滝で打ち上げられた花火を見ることができた。

アメリカ独立記念日に合わせてナイアガラの滝で開催された花火

ナイアガラの滝はアメリカとカナダの国境と重なり、両国の領土から楽しむことができる。アメリカからカナダに橋を渡って入国し、数時間滞在する観光客も多い。アメリカを出国するゲートを通ると、すぐ右手にアメリカに入国するゲートがあり、入国ゲートには人が並んでいるので、ぼけっとしていると出国した直後に入国のための列に並んでしまいかねない。

ぼけっとしていた僕と妻はその列に並んでしまった。移民局職員から「どっから来たの。カナダで観光してきたんでしょ」と言われたものの、これからカナダで観光するところだったので、意味が分からず、そわそわしていたら「大目に見ます」と通過を許された。施設を出ると、もと来たアメリカ側。他の観光客に間違いを指摘してもらい、ああそうか、ということで、改めてアメリカを出国した。

カナダ側から見たナイアガラの滝(カナダ滝)の様子
アメリカ側から見たナイアガラの滝(アメリカ滝)の様子

ナイアガラの滝は国内外から集まった多くの観光客でにぎわっていた。不思議なくらい南アジア系の家族連れ観光客が多かった。ここはインドかと思うくらい多い。カナダ側の都市トロントには南アジア系移民のコミュニティがあり、そこから来た人もいるんだろうけど、アメリカ側からも多くの南アジア系の人々が足を運んでいる。なんでなんだろうか。

南アジア系の人々に声をかけて聞けばよかったものの、その努力を怠ったので、まったく根拠なくいろいろ考えてみた。インドの人々の間でナイアガラの滝はアメリカ観光の代名詞である可能性はあるけど、それ以上にナイアガラの滝の景色が彼らを引きつける魅力があるんじゃないだろうか。

滝となって落ちていくナイアガラ川の水は感動的に清んでいる。その流れを感じながら、多くのインド人家族が滝周辺の芝生のうえでくつろいでいる。インドの人々が抱く宗教的イメージにナイアガラの滝の姿が重なるんじゃないか。

ネットで「ナイアガラの滝、インド人」と英語で検索すると、僕と同じ疑問を持った人々による質疑応答ページがたくさん出てきた。一時は観光客が減ったナイアガラの滝はインド人が多く来ることで活気を取り戻しているという。2011年にナイアガラの滝を訪ねたインド人のコメントを紹介したサイトがあった。

ナイアガラでインド料理店を営む男性は「(ナイアガラに来ると)ほとんどインドにいるように感じる。これだけインド人が多いので」。観光客の男性は「インド人がアメリカについて話すとき、出てくるのはフロリダ州のオーランドかナイアガラだけですよ」。最後に登場した女性は「川の流れがいいですね。水の音もゆったりで素晴らしいです。その水に触れたくなります。人間はこんなものを作ることはできません」(一部省略)と話していた。

カナダ側から滝の景色を楽しんだ後、アメリカ側に再入国した。カナダを出る際に出国通行料として一人50セント支払う。説明の看板は、英語の他に、フランス語、ドイツ語、そして日本語で書かれていた。今回はほとんど日本人観光客は見なかったけど、きっとかつてはより多くの日本人がナイアガラの滝に足を運んだんだろう。なかばインドに行ったような気分になって、ナイアガラの滝を後にした。

カナダを出国する際には一人50セントの出国通行料を支払う。


ところで、ナイアガラの滝に行く一週間ほど前、1920年代と1930年代にカリフォルニア州内の日本語学校で使われていた日本語の教科書を見つけた。その中にナイアガラの滝について説明する文章があった。
僕らが見た景色がイラストとして描かれ、「梯子ヲ降リレバ瀧ノ音ハ耳ニ聾シ、シブキハ雨ノ如クニ降ル」と説明が添えられている。現在は「エレベーターで降りれば」だけど、およそ100年前の人々と同じ経験を楽しむことができた。

1920年代、1930年代にカリフォルニア州内で使用された日本語の教科書。ナイアガラの滝が紹介されている。

カナダ(左側)とアメリカ(右側)をレインボーブリッジが結ぶ。右手奥の青い建物の中のエレベーターで川辺まで降りると、観光船に乗って間近で滝を見ることができる。

・ナイアガラの滝に来たインド人のコメントについては、こちら

胃腸から考える移民社会、ニューヨークを歩きながら

ニューヨークには世界中から異なる人々が集まり、世界中とつながりながら生きている。他に類を見ない多様性と流動性は、この都市をアメリカの一部というより、それ自体が独立した世界として発展させているように感じる。

そんな雰囲気を楽しもうと意気込んで臨んだ四度目のニューヨーク訪問は、ひどい喉風邪に苦しめられてスタートした。喉の奥が切れたように痛み、熱が出て、6日間滞在の最初の3日間はほとんど機能不全。だけど食べないことには体調も回復しない。そんなとき東アジア料理があって助かった。

初日の夜はホテル近くのコリアタウンへ。ロサンゼルスの巨大なコリアタウンに比べると規模は小さいけどハングルの看板がちらほら。韓国料理店に入って参鶏湯を食べた。17ドルとやたら高かったけど、風邪をひいいた身体にはありがたい。食後は近くの韓国スーパーでショウガ湯の粉を買って帰った。

ニューヨークのコリアタウンにある韓国系スーパー

翌日もふらふら。妻に見つけてもらった中国料理店でワンタン麺を食べた。体調が悪くても喉を通り、胃袋に落ち着く。若干ながら体調が回復してきたその翌日はチャイナタウンに足を運び、広東風カニ炒めを食べて気合を入れた。病気になって東アジアの料理に助けを求めるという経験を通して、自分が東アジア出身であることを強く自覚する。

料理番組ホストのアンソニー・ボーディンも足を運ぶ中国料理店「Hop Kee」で食べた広東風カニ炒め。この量で17ドルとお得。


風邪をひいたため、ニューヨークの魅力であるはずの多様な群衆はストレスのもとで、その中で歩くのは苦痛でしかなかった。その群衆の多くは自分と同じ観光客。観光客の中で観光客のように行動していると、五番街を歩いても、自由の女神を仰いでも、ぐねぐねと何か大きな儀式に参加しているだけで、わざわざこの都市に来る必要性がないんじゃないかという気持ちになる。

ヨーロッパの方角を向いて移民を出迎えた自由の女神。奴隷解放と米仏友好を記念して1886年に完成した女神像は20世紀、ヨーロッパ人移民にとっての自由のシンボルとして愛されていく。

ニューヨークで観光から離れたいと発想が無茶であると理解しつつも、このままぐねぐね過ごしたくないという思いで、プエルトリコ系の人々が多く暮らし、「エル・バーリオ(El Barrio)」とも呼ばれるイーストハーレムに向かった。

地下鉄6号線で北上し、116番街通りを東に歩く。さっそくスペイン語の看板の店が並び、ラテンアメリカでおなじみのタマルを売る屋台も。プエルトリコの国旗を掲げているアパートや車もある。聞こえてくるスペイン語もカリブ海地域のアクセントがあり、ロサンゼルスで聞く中南米系の発音と違って楽しい。

イーストハーレムで出店していたタマルの屋台

しばらく歩くと、寄付された生活雑貨などを安価で売る施設を見つけた。立ち寄った地域住民が高齢の修道女にお金を渡して気に入った商品を持ち帰る。小さな赤いカバンを買った女性に「値段はついているんですか」とスペイン語で聞くと「あるわよ。といっても1ドルとか2ドルとか安いわよ」。

安価な生活雑貨を販売する施設。入り口付近に座り込んでいる高齢の修道女が店を切り盛りしている。

一番街通りを北へ歩くと中学校があり、アフリカ系やラティーノの子どもたちが集まっていた。そこから120番街通りを西に曲がって歩き進めると、1910年代に活躍した黒人指導者マーカス・ガーベイの名前が付いた公園にたどり着いた。多くの子どもたちがバスケットボールやブランコなどを楽しんでいる。マンハッタン中心部と違って、地元住民の時間がゆっくり流れていた。そのまま西へ進み、ハーレム界隈を歩いた。体調もだいぶ良くなってきたように思う。

マーカス・ガーベイ公園では多くの子どもたちがバスケットボールを楽しんでいた。


その晩はニューヨークに住む友人宅を訪ねた。久しぶりの再会を楽しむことができた。

彼は市内の大学で腸内細菌の研究をしている。生まれ育った場所によって、それぞれの人間が持つ腸内細菌が異なるらしい。日本人が海外旅行に行くと食事が変化するので、うんこの質が変わることがあるが、それも腸内細菌と食事の関係によるという。

僕はだいたい海外の食事は何でも食べられる。とはいえ、今回のように風邪をひくと東アジアの料理が食べたくなる。やはり日本から持ってきた腸内細菌の影響だろうか。移民が外国に移り住むとき、その人の身体や願望、知識、技術だけでなく、出身国で培った腸内細菌も国境を超えていく。

胃袋に優しいワンタン麺。アメリカに来てから特に好きになった料理の一つだ。

ただ「移民と細菌」をまとめて語ることは差別の方程式の一つだから注意が必要だ。19世紀終わりのアメリカでは「中国人・日本人がばい菌を持ち込む」という偏見を背景に排外主義的なページ法が成立した。

こうした人種主義的言説の危険性を十分に理解したうえで、科学的に証明しうる腸内細菌と移民社会の関係について考えることは有意義なことのように思われる。移民社会でエスニック料理が発展する背景には、移民集団が共有する腸内細菌の影響もあるのかもしれない。風邪をひいてワンタン麺を食べたり、腸内細菌の専門家である友人と話したりして、今回のニューヨーク訪問は胃腸から移民社会を考える機会にもなった。

ニューヨーク在住の友人が教えてくれたイーストリバーフェリー(East River Ferry)。34番街通りの東端からブルックリンまでニューヨークの景色を楽しみながら移動できる。