2013年1月30日水曜日

アメリカ人の「忠誠心」、血筋や出生地だけでなく

「血筋や生まれ(出生地)だけでなく、建国の理念に対する忠誠心だ」
(What makes someone American is not just blood or birth, but allegiance to our founding principles)

オバマ大統領は29日、移民制度改革に関するスピーチにおいて、ある人がアメリカ人(市民)である条件として、「忠誠心(allegiance)」の重要性をあげた。

今日の世界では、資本、サービス、情報、そして人間が国境を激しく行きかい、かつてのように血筋や出生地で国家のメンバーを決めることの意味が徐々に薄れてきている。そうした世界の変化を、大統領の言葉は象徴しているともいえる。

移民制度改革についてスピーチするオバマ大統領


この地球に新しく生まれた子どもが、アメリカ人であるためには、①アメリカ人の子どもであること、または②アメリカで生まれたこと、が基本的な条件だ(細かい追加条件もある)。
①は血統主義、②は出生地主義といわれている。とくに、アメリカでは歴史的に出生地主義が多くの移民を受け入れる原動力となってきた。
ちなみに日本は血統主義のみ。外国人が日本で子どもを産んでも、その子どもは外国人のままだ。

今日でも、アメリカ国籍(市民権)があれば、将来子どもがアメリカの大学にいくときに有利だろう、などの理由から、出産時にアメリカに滞在する外国人も少なくない。また、かりに親が非合法移民であっても、子どもがアメリカで生まれたら、その子どもはアメリカ市民だ。
この出生地主義は、アメリカ国内に暮らす人々の平等な権利を確保する基盤として重要視されている。

実は、このアメリカの出生地主義。もともとは「忠誠心」と深い関わりがある。


イギリスの植民地だったアメリカが1776年に独立した後、そもそも誰が「アメリカ人」なんだ、という話になった。イギリスと戦った人々は、独立のために命をかけて戦ったんだから、そのままアメリカ人に。しかし、独立後にアメリカに来た外国人はどうしたらアメリカ人になれるのだろうか。

当時のアメリカ国内には、外国人は信用できないから、受け入れは慎重にするべきだという声も強かった。しかし、できたての農業国アメリカが発展するには、マンパワーがないと始まらない。移民受入は新国家の生命線というわけで、外国人がアメリカ市民になるための条件を定めた帰化法が1790年できた。

その条件は第一に「自由な白人」。自由というのは、奴隷などではないということ。そして、「アメリカ国内に2年以上暮らしている」という条件も。さらに1795年の改正で、必要なアメリカ滞在期間は5年に引き伸ばされた。

アメリカ独立宣言は「すべての人は平等」と建国の理念を高らかに宣言しつつも、アメリカ経済を支えていた黒人奴隷にくわえ、白人以外の外国人も「アメリカ人」になることは許されなかった。「自由な白人」という条件が解消されるのは、なんと1952年。アメリカ人になる帰化条件は、162年もの間、かなり人種主義的なものだった。


くわえて、アメリカ人であれ、外国人であれ、アメリカで子どもを産んだ場合、その子どもは何人になるのか、という問題もあった。

ここで出生地主義が関係してくる。つまり、アメリカで生まれたら、誰の子どもでもアメリカ市民。そして、その理由が「アメリカで生まれ育ったなら、アメリカに対して自然と忠誠心があるにちがいない」というものだったわけだ。

そういう意味では、単純にアメリカで生まれたからアメリカ人というのではなく、そういう子どもはアメリカに自然と「忠誠心」があるからアメリカ人というのが、出生地主義の始まりだったわけだ。
ちなみに、この「自然と忠誠心があるにちがいない」という仮定は、イギリス植民地時代の考え方も影響しているらしい。イギリス植民地に生まれたのであれば、生まれながらにして「イギリス臣民」である、と。
その後、出生地主義は、南北戦争(1861~1865年)後に定められた憲法修正第14条に明記されることとなる。

オバマ大統領がアメリカ人の条件を、血筋や出生地だけでなく「忠誠心」も重要だと宣言し、やや新しい時代を感じさせた。しかし、歴史的にはアメリカ人になるためには常に「忠誠心」が問われ続けてきたのだ。

今後、移民制度改革については、アメリカ議会で具体的な議論が始まる。

(スピーチの詳しい内容は、おそらく次回に)
世界中から移民が集まるロサンゼルス=旅客機の窓から、2013年1月10日撮影

2013年1月28日月曜日

ロサンゼルスで、トライリンガルに

ロサンゼルスにある大学院に僕が通っている傍ら、妻は近所にある移民支援の英語教室に通っている。地域のカルチャースクール(こちらでは adult school と呼ばれている)が提供している。

今月から2学期目がスタートした。彼女は前学期(9~12月)に受講していた英語中級(月~木曜・1日3時間)と英会話(金曜・3時間)に引き続き、参加している。

授業料は今学期から少し値上がりした。英語中級と英会話をどちらも受けた場合、授業料は今学期から20ドル値上がりして40ドルになった。といっても、安いのには変わらない。カリフォルニア州の財政が悪化する前は無料だったとのこと。


さらに妻は今学期からは、毎週火曜日、英語教室後に同じカルチャースクールのスペイン語教室(初級)にも参加し始めた。
「ロサンゼルスはスペイン語を話す人が多いから、こっちで仕事を始めたときに使えるかな」と思って挑戦したらしい。

授業料は3月までの授業10回(1回2時間)で125ドルだ。
英語教室に比べると割高だけど、それでも日本国内のスペイン語教室に比べれば、かなり安い。
ちなみに日本国内大手の外国語教室では、スペイン語の授業を計20時間受講した場合、4万円強になる。

スペイン語教室の先生はチリ人男性。生徒は15人くらい。年齢は20~70歳代と幅広く、男女ほぼ半々だ。妻以外の生徒は、英語の流暢さから、アメリカで生まれ育った人が多そうだ。
授業は英語で進められる。

スペイン語の教科書は13ドル。たまたま自習用に事前に買ったテキストが教室の教材と同じだった。

最初の授業で、生徒らはスペイン語の勉強を始めた理由をそれぞれ話した。
「ビジネスで使うので」「スペイン語圏に旅行に行くから」という理由が大半。ある女性は「大学時代はフランス語を勉強していたけど、今はスペイン語が必要だから、スペイン語をやっておくべきだったわ」と話していたらしい。

妻が自己紹介で「日本人です。英語教室にも行ってます」と言うと、先生は「日本語はスペイン語と発音が似ているから覚えやすいかも」と言ってくれた。
たしかに、スペイン語は「一つの子音+一つの母音」のセットで一つの音節をつくることが多く、発音は日本語に近い。
ただ、英語の感覚でアルファベットを読むとひっかかることも。たとえば、「ge」は「ヘ」は「ja」は「ハ」と発音する。
また、「yo」は「ジョ」「ヨ」に聞こえたり、「lla」は「ジャ」「リャ」と聞こえたり。
それでも「基本的には英語より発音は覚えやすい」と妻は話す。

スペイン語は英語のbe動詞にあたる動詞が、「ser」「estar」と二つある。

妻にとっては、スペイン語の授業が英語で進められるので、英語も同時に勉強しているようなもの。次の学期は、スペイン語中級の授業をとれるように、がんばりたいと話している。


このカルチャースクールは、スペイン語の他に、フランス語と、意外にも日本語の教室もある。
スペイン語の授業で、ある生徒が「なんで日本語なんですか」と質問すると、先生は「たぶん日本の経済力が強いからじゃない。でも今なら中国語だよね」と答えた。

日本人の間でも、おそらくスペイン語や中国語を学ぶ人の数は増える傾向にあるだろう。
ロサンゼルスにはスペイン語や中国語を話す移民の人口がものすごく多い。
その意味では、ロサンゼルスは英語とともに、第二外国語を学び、トライリンガル(三ヶ国語を話す人)になるには、とてもいい環境といえるだろう。

2013年1月21日月曜日

番外編・コスタリカの移民労働者、都市部でも増加

コスタリカは中央アメリカに位置する国だ。
人口は約460万人、面積は日本の7分の1、言語はスペイン語、主要な宗教はカトリックだ。
豊かな自然環境や高品質なコーヒー栽培にくわえ、軍隊を持たない国としても知られている。

僕は2000年2月~2001年1月、高校3年生の時期に、この国のオロティナという町で留学生として生活した。
それから13年たった今月上旬、妻と一緒に再訪した。
2004年に一度訪ねて以来、8年ぶり3回目だ。

このブログの番外編として、コスタリカにおける移民労働者について、簡単に書いておきたい。


1月4日午後2時、コスタリカのフアン・サンタ・マリーア国際空港に到着した。
ホストファミリーの両親と18歳の弟が空港まで迎えに来てくれた。

コスタリカのあいさつのキスは、どっちのほっぺだったけな、と忘れかけていたが、お母さんと再会すると、自然と自分の右ほっぺをお母さんの右ほっぺにつけてあいさつできた。
男性同士は握手だけど、女性と男性、女性と女性の場合は、ほっぺをつけて軽く「チュッ」と音を出してあいさつする。

空港近くの首都サンホセの街中を少し散策した。
コスタリカの大手パン店といった懐かしい店にくわえ、2000年当時はなかったジーンズブランド「Levi's」の店舗などもあった。マクドナルドの店舗数もかなり増えているらしい。

サンホセの街中では新しい店も増えてにぎやかだ。かつてはタクシーが列をなして排気ガスだらけの地域もあったが、いまは中心部は歩行者天国になっているという=サンホセ、2013年1月4日撮影


しばらく街中を歩いていると、お父さんがある方向を指さした。
民族衣装のような服を着た先住民系の女性3人が路上に立っていた。
「彼女たちはパナマのインディオで、最近増えているんだよ。農業労働者として来た人もいるんだけど、多くの人は街中でお金を乞うて生活している」

パナマはコスタリカの東どなりの国だ。
僕が留学生だった13年前、パナマの先住民をサンホセの街中で見かけたことは一度もなかった。
今日の世界では、多くの人々は自分の生まれ育った場所で昔ながらの生活がしたくても、外部から安い商品が入って伝統的な産業が廃れて働き口がなくなるなどした結果、賃金労働者として遠い場所へ移動していく。

中央アメリカの土地と最も深い関係にあっただろう彼女たちも、自分たちの祖先が暮らしてきた場所では十分な生活ができなくなり、それでも何かしら生きていこうと、こうしてサンホセの路上に立っているのだろう。

国立劇場前の広場。よくここで日本人留学生と待ち合わせをした=サンホセ、2013年1月1月4日撮影

路上に敷いた布の上に違法コピーしたDVDなどを並べて商売をしている人々もいる。
もちろん路上で無断で商売をするのは違法だから、彼らは警察官が近づいてくると、布ごと商品をくるんで逃げていく。
こうして商売をする人々のほとんどが、コスタリカの北どなりの国から来たニカラグア人だ。
ニカラグア人労働者は1980年代以降、コスタリカ特産のコーヒーやバナナ栽培を支えてきたが、近年は都市部の建設現場などで働くニカラグア人も増えてきているという。
サンホセの街中の公園は、いまでは多くのニカラグア人移民の休憩場所となっている。

サンホセ中心部の公園はニカラグア人移民労働者の休憩場所となっている=サンホセ、2013年1月4日撮影

コスタリカにおけるニカラグア人移民の増加は1980年代の中央アメリカの地域事情もかなり影響していると考えられる。
ニカラグアでは1979年に左翼政権が成立したが、アメリカが軍事介入。さらに混乱がひろがり、それまで中央アメリカでも安定していたニカラグア経済は著しく疲弊した。

一般的に、移民労働者は異なる国の間の経済力の差によって生じる。
アメリカCIAのThe World Factbookによると、2011年の一人当たりのGDPはコスタリカが1万1900ドル(世界100位)に対して、ニカラグアは3200ドル(世界171位)と、両国の差は歴然としている。
中央アメリカ人口センター(Centro Centroamericano de Poblacion)によると、コスタリカで暮らす外国出身者の人数は1984年の約9万人から2000年の約30万人に急増し、そのうち約22万人がニカラグア出身という。

ニカラグア人はコスタリカにおける低賃金労働者として社会的に低く見られる傾向にあり、ニカラグア人のアクセントを真似して冗談にするなど、彼らに対する差別もコスタリカでは根強い。
お父さんに「今でも差別はあるんですか」と聞くと、それは残っているとしたうえで、「彼らは本当に一生懸命に働くよ(son muy trabajadores)」と話していた。

ニカラグア人を中心とした非合法移民を取り締まる移民法が2006年に成立した。
農村でも都市でも外国人の安い労働力に頼りながら、彼らを排除する政治的圧力が強まっている。アメリカで働くメキシコ人を中心としたラテンアメリカ出身移民の状況と重なる。


ロサンゼルスに帰る前に、現地の友人が最高級コーヒー「Café Britt Heritage Blend」をプレゼントしてくれた。
コスタリカに留学して以来、コーヒーは自分の生活には欠かせない飲み物になっているだけに、とてもうれしかった。

ロサンゼルスのアパートに戻って、さっそく飲んでみた。
甘いアロマがふわっと広がり、コーヒー独特の苦みもなぜかフルーティにさえ感じる。
コスタリカ産コーヒーが世界で高く評価されているのも納得できる。
同時に、こうしたコスタリカを代表する商品を支えている移民労働者の姿も頭に浮かんだ。

コスタリカの最高級コーヒー「Café Britt Heritage Blend」。まちがいなし。

2013年1月2日水曜日

124年目の伝統、元旦恒例、ローズパレード

ロサンゼルス生活で最初の年明け。
こちらの住民なら誰でも知っている元旦恒例のパレード「ローズパレード(Rose Parade)」を見に行った。

ローズ・パレードは、毎年1月1日、ロサンゼルス郡パサデナ市で開催されている。
目抜き通り「コロラド通り」の約6キロメートルを、色とりどりの花で飾られたフロート(山車)やマーチングバンドなどが約3時間かけて移動するイベントで、沿道は多くの住民や観光客でいっぱいになる。前夜から場所取りをする人さえいる人気だ。地元テレビ局によると、今年は約70万人が観覧したという。

歴史は1890年にさかのぼる。
当時、この地域に住み始めた住民らが、真冬でも花が咲き乱れ、野外スポーツ観戦も楽しめる、カリフォルニアの魅力を伝えようと、この季節に、寒さが厳しい東海岸の仲間らをパサデナに招いたことがきっかけという。その後、マーチングバンドやフロートによる大規模なパレードに発展し、現在に至る。今年は第124回パレードだ。

パレードは午前8時に始まるので、僕らは午前6時半に自宅アパートを出発。7時半前にパサデナ市に到着し、コロラド通りから1キロほど離れた場所に路上駐車。「15ドル」などの看板をたてた即席有料駐車場もあるが、少し早めにいけば、駐車できる場所も見つかる。コロラド通りまで歩き、パレードがある程度、見えそうな場所を見つけた。

というわけで、写真を使って、様子を紹介する。移民の国ならではフロートや楽団もたくさん登場した。

沿道は早朝から場所取りに来た人たちでいっぱいに。
屋根の上にも観客が。
今年はフロート約40台、マーチングバンドなど楽団約20団体、乗馬の隊列約20団体が参加した。

大手テレビ局も生中継するローズパレード。提供しているのは、日本の自動車会社ホンダだ。ホンダの車やスクーターも通りを何度も行き来した。年末に行ったディズニーランドの特別花火イベントもホンダが提供。西海岸での宣伝にかなり力を入れているようだ。

ローズパレードは前日審査によって、いくつかのフロートが賞を受ける。これはテーマ賞を受賞したフロート。アメリカで長い間、愛され続けている子供向け絵本をモチーフにしている。

朝鮮半島の伝統舞踊と音楽も。この団体はロサンゼルスに拠点を置いているので、韓国系の若者たちによる演奏だろう。

日本からはグリーンバンドという楽団が登場。パレード公式サイトによると、島根県出雲市から来ているという。 

パレード途中で、上空に不思議な飛行物体が。初めて見るステルス機はSF映画の乗り物のようで迫力があった。

インドネシア観光省による観光PRフロート。僕と妻の後ろにいたインドネシア人の若者3人は、ここぞとばかりに「インドネシアーーー!!!」と声援を送っていた。

お次の国は、中央アメリカ・エルサルバドルの楽団。エルサルバドル移民の子どもたちも国旗を一生懸命振っていた。

エルサルバドルの楽団の女性らは、カーニバル衣装で登場。

パレードには全米各地から団体が参加する。ジャズ発祥の地ルイジアナ州ニューオリンズからは、音楽の伝統を継承するために活動している団体「The Roots of Music」が参加した。

メキシコからは50年以上の伝統を持つ楽団が参加して、ユニークなダンスを交えた演奏で観客を楽しませた。

午前11時前にパレードは無事終了。観客が帰り始めたころ、もう一つの団体がやってきた。彼らは住宅ローン負債をめぐって大手銀行に抗議する市民団体。華やかで楽しいパレードの後に、現実に根差した抗議パレードが始まるところがアメリカの魅力でもある。

約3時間のパレードはあっという間に終わった。それぞれのフロートもかなり手の込んだものだったので見ごたえがあった。花の飾り付けの作業は、ボランティア住民らが担っているという。
今回、僕らが車を駐車した場所は、コロラド通りから約1キロメートル南側のLos Robles Avenue沿い。少し歩かないといけないが、早朝に体を温める意味でもちょうどよかった。