2016年2月22日月曜日

日本からペルーへ、ペルーから日本へ、日秘移民百年の歴史

汗ばむような陽気の午前中、80歳以上の男女7人が公園でゲートボールを楽しんでいる。

「Allá. Por acá! No se puede!(そこよ。ここから!。それじゃだめよ)」
「Sí, puede, puede!(いや、大丈夫、大丈夫!)」
「Muy bien, 5番!」
「3番上がり!」

ゲートボールを楽しむ日系ペルー人二世の皆さん

ここはペルーの首都リマ市にある日秘文化会館(Centro Cultural Peruano Japonés)内の公園。スペイン語と日本語を混ぜて話すおばあさん、おじいさんは日系ペルー人二世で、毎週一回、午前中にゲートボールを楽しんでいる。

ある女性は「あなたは日本から来たんですか。私の子どもたちと孫は神奈川県に住んでるの。私の親は山口県から来たの」と教えてくれた。そして、別の女性が「建物の中に行った。たくさんおじいちゃん、おばあちゃんがいるわよ」とゲートボールを終えた後、連れて行ってくれた。

会館は、高齢の日系人のためのデイケアサービスを提供している。大きな部屋で100人近い高齢者が「幸せなら手をたたこう♪幸せなら手をたたこう♪」と手拍子を取りながら歌っている。最後は「幸せなら声出そう♪てんぷらー!」と声を合わせてから、みんなで食堂へ歩いて移動した。

ここでボランティア活動をしているおばあさんとたまたま立ち寄った僕で、足腰の弱った白髪のおばあさんに腕をかす。ボランティアのおばあさんに「ここはほとんど二世の方ですか」と聞くと「私は二世だけど、この人は一世よ」という。それを聞きながら、白髪のおばあさんは「一世でも二世でも関係ないの。健康であればいいのよ」と言った。

ここの介護スタッフによると、サービスを受ける高齢者は75歳以上でほとんどは二世。7割以上は沖縄系の日系人という。1980年代以降に日本に出稼ぎに行き、ペルーに帰国した三世も少しいるという。「ここで使う言葉はほとんど日本語です」といい、ペルー人介護スタッフも少し日本語が使えるという。


ペルーは第二次世界大戦前に多くに日本人がより良い生活を求めて移民した国の一つだ。1930年代には2万人以上の日本人移民がペルー国内に住んでいた。今でも多くの日系ペルー人が首都リマを中心に暮らしている。

リマ市にある日秘文化会館
デイケアサービスを少し見学した後は会館内にあるペルー日本人移住資料館を訪ねた。パネル33枚の裏表で、日本人移民や日秘関係の歴史をスペイン語と日本語で説明している。戦前は農業労働を中心に厳しい生活を生き抜いた日系ペルー人は、戦後は行政、経済、医療などの分野で活躍している。

「El fenómeno Dekasegi(出稼ぎ現象)」というパネルは、1980年代半ばに始まったペルーから日本への日系ペルー人労働者移動について以下のように説明している。
ドル払いで高賃金の雇用が約束され、残業代も合わせると実に魅力的な金額になったが、多くの日本人がやりたがらない、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の仕事であった。 
今から100年前、日本は厳しい経済・雇用情勢に直面していた当時、契約移民としてペルーにやってきた1万8千人の日本人移住者が海岸地方の農場やジャングルのつらい条件で働いていたが、その子孫が今日の出稼ぎ労働者である。
現在、日本ではこの出稼ぎ現象の中で、日本に渡って定住している日系ペルー人約4万8千人が暮らしている。明治維新が生み出した経済格差が原因となってペルーに移り住んだ人々の子孫が、労働力を求める日本経済に吸収されている。日本に働きに来た親と一緒に来日した子どもたちは日本での教育や就職などの面で課題を抱えている。

このパネルが説明しているように、日本で働き、また、育つ日系ペルー人の状況を100年以上の日本史の枠組みの中で捉え、外国の問題ではなく、日本の課題として認識し、政府や自治体などが支援していくことは必要だ。これは明治維新以降の日本史を理解し、それを実践できるかどうかという問題でもある。

興味深いことに、資料館には第二次世界大戦中の日系ペルー人についての説明がほとんどなかった。日本語では「多くの苦しみ」とだけ書かれており、アメリカ合衆国への日本人引渡、またそれに伴う強制収容などについては何もふれていない。資料館の担当者に尋ねると、苦しい経験が多かったため資料館ではあまりふれないようにしていると教えてくれた。こうした展示の在り方を通して、ペルーの日系社会が戦争をどのように記憶しているのかについて少し理解することもできた。


今年はアメリカ大統領選の年だけれど、ペルーでも今年4月に大統領選挙がある。

アメリカにも多くの日系人が暮らしている。日系アメリカ人がアメリカ大統領になる可能性はゼロではないものの、なかなか厳しいのが現状だ。一方、ペルーでは1990年に日系二世のアルベルト・フジモリ(スペイン語では、フヒモリ)氏が大統領に就任している。

なぜマイノリティの日系人がペルーで大統領になることができたのだろうか。ある観光タクシーの運転手は「当時は激しいインフレと汚職で国民がうんざりしていたから、チーノ(フジモリ氏の愛称。チーノは「中国人」という意味だけれど、東洋人全体に使われる言葉)なら何か変えてくれると思った」と教えてくれた。

現在、フジモリ元大統領は軍による民間人殺害事件で有罪判決を受けて収監されている。ただ、彼が危機的状況のペルー経済を立て直したという評価は定着している。

そのフジモリ元大統領の長女ケイコ・フジモリ氏が今年の大統領選挙に立候補している。2011年の大統領選挙では2位で落選した。現在の世論調査では人気を集めているという。リマ市内にもケイコ氏の選挙ポスターが目立った。


リマ市内各地に掲示されたケイコ・フジモリ氏の選挙ポスター。他候補のポスターも至る所で掲示されていた。
大統領選挙について、あるタクシーの運転手は「フジモリ大統領を好きな人もいるけど、嫌いな人もたくさんいる」。別の運転手は「ペルー人の投票先は一日で変わるから、世論調査は当てにならない」と話していた。あるペルー人の友人は「ペルーでは民主主義はまだ定着していない」と言った。日本ではどうだろうか。そんなことも考えさせられるペルー滞在だった。

ペルーに行ったら必ず食べたいセビーチェ。日秘文化会館近くのショッピングモールで食べて大満足。

2016年2月15日月曜日

メキシコシティの都市生活、壁画が伝える歴史

博士論文のための史料調査でメキシコの首都メキシコシティに来た。かつてアステカ文明の都テノチティトランであったこの都市には現在、約2千万人が暮らし、ラテンアメリカ経済の中心の一つとなっている。

セントロと呼ばれるメキシコシティ中心部のホテルに宿泊。メトロブスというバスが運行されていて、ベニート・フアレス国際空港からホテルへは40ペソ(300円程度)で簡単に行くことができた。

到着した翌朝、メキシコ政府の史料館に歩いて向かう。タコスの屋台に立ち寄り、大釜で煮込んだ豚の皮やら何やらが盛られたタコスを食べた。ピコ・デ・ガジョ(細かく刻んだタマネギ、トマト、唐辛子を混ぜたもの)やサルサ、レモンを好みでかけた。脂肪分と汁気が多く食が進む。

「スルティード」という土手焼きのような感じのタコスは30ペソ(250円程度)。
史料館で夕方まで作業。帰り道に喫茶店に入った。コーヒーを一口飲んだところで、店主の50歳代くらいの女性が「メキシコ人ですか」と話しかけてきた。アジア系メキシコ人の可能性もあるから、そう尋ねてきたんだろう。

「日本人です」
「そうですか。メキシコはどうですか」
「素敵ですね」
「日本も素敵でしょ」
「そうですね。それぞれ文化も違いますね」

なんて話していると、なぜか途中から政治の話に変わった。

「私は小学校の先生をしていたんですけど、早期退職して喫茶店を開いたんです。教師に対する風当たりが厳しくて。教職員労働組合のリーダーの女性が汚職で逮捕されたでしょ。メキシコは世界の汚職ランキング3位ですよ。前は1位だったけど、ちょっと悪い枝を切り落としただけでしょう」と笑う。女性は勢いよく話し、その唾しぶきが僕のコーヒーに何度も入りそうになったから冷や冷やした。

「日本は汚職はないでしょ」と聞くので「ありますけど、他の国より少ないと思います」と答えたついでに、「メキシコではなんで選挙の仕組みがあっても大統領は人気がないんですか」と質問した。特に現在のペニャ・ニエト大統領については、いい評判をあまり聞かない。

女性は「選びたい候補者がいないのよ。それに投票率が低いから、本当は支持されていない人が大統領になるの」と残念そうに話した。この点は日本もそんなに変わらないか。けれど、僕は投票する。この女性も政治の話をふってくるくらいだから、投票しているんだろうか。


メキシコシティのセントロでは、朝からテントを張った食事や食料品、小物の露店が至る所に現れる。交通量も多く、特に朝夕は自動車、バス、タクシーがひしめき合いながら進む。地下鉄も乗客であふれており、大都市の景色がそこにある。

幼稚園の前では保護者を相手に野菜を売る露店もあった。
セントロでは同時に貧困も目立つ。僕のホテル周辺はホームレスが多かった。だいたいは中高年の男性だったけれど若い男女もいた。あるホームレスの若い女性が地べたに寝転んで仰向けになっている。親しそうな男性が大事そうに毛布にくるんで何か抱えている。うまれて間もない赤ちゃんだった。地下鉄に乗ると、幼い子どもを抱えて物乞いする母親の姿もあった。

そんな状況を目の当たりにして、あるメキシコ人の知人が言った言葉を思い出した。「メキシコは貧しい国ではないのよ。貧しい人たちの国なの」。メキシコはラテンアメリカの経済大国で高層ビルでもコンビニでもなんでもある。セントロを少し離れると、日本の都市部と変わらないような景色もある。けれど、そうしたメキシコシティの都市生活は圧倒的な貧困と隣り合わせでもある。

日本はどうだろうか。もちろん日本とメキシコの経済状況はだいぶ違うけれど、経済成長しても格差是正を念頭に税収を再分配していかなければ、どこの国であれ「貧しい人たちの国」の方向に進んでいく。


とはいえ、メキシコでは社会保障や教育支援制度がいろいろ整っている。日本学生支援機構によると、国立大学の授業料は年間2,600ペソ(2万円程度)以下という。メキシコの大学はどんな感じだろうと思い、メキシコ在住の日本人の友人夫妻と一緒にメキシコ国立自治大学を訪ねた。

メキシコの難関校である同大学の歴史は、スペイン帝国がアステカ帝国を征服して間もない1551年にさかのぼる。現在のメインキャンパスは1949~1952年、60人以上の建築家や技術者、芸術家が関わって建設され、その優れたモダニズム建築を理由にユネスコが世界遺産に登録している。

僕の目当てはキャンパス公園内の建物に描かれた巨大壁画。中央図書館の四方の壁は「先史時代」、「植民地時代」、「現代」、「大学と今日のメキシコ」をテーマにした壁画で覆われている。図書館が公園の緑と空の青に挟まれて、その空間全体が一つの巨大な芸術品のようだった。公園では学生や市民がくつろいでいた。僕も友人夫妻とグアナバナというフルーツのかき氷を食べてゆっくりした。

壁画で覆われたメキシコ国立自治大学の中央図書館。フアン・オゴルマンが制作した。

メキシコでは観光地だけでなく、地下鉄構内などでも迫力ある壁画に出会う。セントロにある国立宮殿内に芸術家ディエゴ・リベラがメキシコ史を題材に描いた壁画も圧巻だった。メキシコの紙幣500ペソには、リベラとその妻で芸術家のフリーダ・カーロの肖像が描かれていることからも、この国が芸術を誇りとしていることが分かる。アメリカ大陸とヨーロッパの要素が時間をかけて混ざり合い、社会的な問題を抱えながらも、新しいものに生まれ変わるようなメキシコの歴史の一部を理解するには、こうした壁画の前に立つことも欠かせない。

学長塔はダビー・アルファロ・シケイロスが制作した壁画「人民のための大学、大学のための人民」で覆われている。