2012年5月26日土曜日

ユカタン半島の朝鮮半島

昨年6月、メキシコ東部ユカタン半島の歴史ある町メリダを訪ねた。
かつてのスペイン植民地都市は、網の目に整備されており、石造りの教会を中心に当時の雰囲気をいまでも醸しだしている。

教会から4ブロックほど離れたホテルに到着した。
カウンターの50歳くらいの女性が笑顔で迎えてくれる。
「この地図のここに行けば、おいしい郷土料理が食べられるわ。『セリアの紹介で』って言えば大丈夫よ」
ユカタン半島には千年以上前に栄えたマヤ文明の遺跡が数多くあり、郷土料理にもその影響が色濃く残っているという。
ぜひ食べたいと思っていたので、紹介されるまま、その料理店を行くことにした。

午後8時半。あたりも暗くなってきた。
石造りの建物を街灯が柔らかく照らす。その料理店もそんな光に照らされた場所にあった。
郷土料理ポッジョ・ピビル(写真)を注文。お酒は強くないから、飲み物はオレンジジュースにしようと思ったが、「ビール一杯飲んでもなんてことない。地ビールがいいよ」と40歳の男性店員のすすめで瓶ビールを一つ頼んだ。
ポッジョ・ピビルは、地元スパイスで味付けした鶏肉をプラタノ(バナナの仲間)の葉に包んで蒸し焼きにした料理だ。
ポッジョ・ピビル
かつてマヤ人は地面に掘った穴に木炭と石をしいた後、その上に葉で包んだ鶏肉を置き、2時間ほど調理したという。そう男性店員が教えてくれた。
「ピビルは、ティエラ(大地)という意味だよ。作り方は・・・」とレシピを渡してくれた。
この店では一皿に鶏肉半身を使いボリュームたっぷり。
ちまきとはぜんぜん違うが、蒸した葉っぱの香りが印象的で、あっさりとして食べやすかった。

しばらく男性店員と話していると、眼鏡をかけた若い女性店員を紹介された。
この料理店で会計を担当しているらしい。
驚くことに彼女は、100年前にこの地に移住した朝鮮半島出身者の子孫、かもしれない、というのだ。
このまちには朝鮮半島移民記念館もあるらしく、そこで彼女は毎週日曜日にハングルを学んでいるという。

「『かもしれない』ってのは、はっきりとした家系図はないからなの。ただ、父親はもっとアジア人のような目をしているし、私もなんかそうかなって感じるの」

たしかに彼女を最初に見たとき、スペイン語でいう「オリエンタル」な雰囲気が伝わってきた。
彼女が実際にどうかはわからないが、彼女がそう感じてもおかしくない歴史的背景があるらしい。けど、本当にそんな記念館あるんだろうか。

彼女はK-POPに夢中らしく、僕には東方神起以外わからなかったが、いくつもの男性アイドルグループの名前を教えてくれた。
「韓国に興味を持ったのは、日本がきっかけ。ワンピースの主題歌だったでしょ」

食事した時間より話した時間のほうが長くなった。
現地のことを知るには、これにこしたことはない。
オフシーズンなので、たまたま他の客はいなかったが、この料理店はこの地で35年営業している有名店ということもわかった。セリアおすすめに間違いはなかった。
最後に男性店員と彼女と3人で写真をとって店を出た。

後日、彼らに教えてもらった記念館の住所を訪ねた。たしかにあった。「Museo Conmemorativo de la Inmigracion Coreana」と書いてある。

「今日はしまってるよ!」。
向かいの家のおっちゃんが大きな声で教えてくれた。ありがとうと答えると、勢い付いたおっちゃんはめちゃくちゃ大きな声で、つばを飛ばしながら話を続ける。
「このユカタンの町に、ユカテッコでもマヤでもなくて、チーノ(中国人という意味だが、東洋人の総称)の顔をした人がいるなんてね。本当に不思議だろ。ここはチーノの地域なんだよ。だから、チーノやコレアーノ(朝鮮半島系)の顔をした人が歩いていてもおかしかないんだ」。

しばらく話は続き、最後は「会えてよかった」とハグしてくれた。おっちゃんの勢いにやや圧倒されたが、この町に記念館があったこと、そして、いまも朝鮮半島出身移民の子孫が暮らしていることを確認できただけでも十分満足だった。

ユカタン半島の小さな朝鮮半島。移民の規模は小さかろうが、太平洋をまたいで移動した人々の記憶が今もここに息づいている。

地元住民がハングルを学ぶ朝鮮半島移民記念館=メキシコ・メリダ、2011年6月撮影

2012年5月15日火曜日

ロサンゼルス諸語辞書

僕のカシオの電子辞書は「英語、スペイン語、ハングル、日本語」の辞書機能が入っている。もちろん〇和と和〇のセットに、英西(スペイン語)と西英も含んでいるから、実際の本にしたら10冊近くになるだろう。それが、少し厚めの新書一冊ほどの大きさの機械に詰め込んである。

昭和と平成という区別は人為的なものだけど、この電子辞書の高機能を「えげつない」と感じるにつけ、自分は昭和生まれやな、と時代を持ち出したくなる。おそらく、平成24年に生まれた子どもたちは、この辞書にえげつなさは一切感じないだろう。

さて、こうした電子辞書は、単純に機械のデータ保存や処理の能力が高いだけでなく、グローバル化した世界の在り方と相通じるところもある。

国際移住機関によると、生まれ育った国を離れて暮らす人々の数は約1.9億人。1965年から1990年にかけて、約4500万人も増えたという。
その国の公用語と異なる母国語を話す人々がどんどん増えるにつれて、「ひとつの国=ひとつの言語」という関係(思い込み)はどんどん崩れていく。

移民の国である米国では、都市部を中心に「米国=英語、スペイン語、中国語・・・」という状況だろう。家庭で英語以外の言葉を話す人々は2007年の時点では、スペイン語が飛び抜けて多い約3450万人、次いで中国語が約250万人、タガログ語が約150万人と続く。ちなみに、日本語を話す人は約46万人と思っていたより多かった。

僕自身も学部生だった2004~2005年、カリフォルニア州のリバーサイドという町に交換留学生として暮らし、日常的に英語とスペイン語、日本語の3言語を使っていた。
ルームメイトと暮らした学生住宅と大学では英語、スーパーやハンバーガー店ではスペイン語、日本人留学生とは日本語という感じで。

そして今夏からの大学院留学では、ハングルも使えるときは使いたい。ロサンゼルスには、韓国からの移民が多く暮らすコリアタウンという地域がある。ハングル表記の飲食店、銀行、病院、教会・・・が集まっている。僕の目当ては飲食店だけど、なにかしらハングルが使える機会があれば、できるだけ使いたい。そんなわけで、電子辞書にハングル機能も加えた。

ロサンゼルスはグローバル化の影響を強く受けている都市。韓国人移民が経営する縫製工場で中南米出身の移民が働く、というケースは珍しくない。「英語、スペイン語、ハングル」を備えた僕の電子辞書は、グローバル都市ロサンゼルス仕様といえる。

ロサンゼルスという一つの町に様々な言語を話す移民集団が入ってくるように、この一つの電子辞書に異なる言語が入っていく。それ何語辞書?、と聞かれたら、ロサンゼルス諸語辞書とでも答えようか。

英語、スペイン語、ハングルで書かれたプロテスタント系教会の日曜礼拝案内板=ロサンゼルス・コリアタウン、2011年6月撮影

2012年5月4日金曜日

変わりゆく天使の町ロサンゼルス

カリフォルニアは1848年、戦争をへてメキシコから米国に割譲された。
だから、ロサンゼルス(Los Angeles=天使)にしても、サンフランシスコ(San Francisco=聖フランシスコ)にしても、スペイン語の地名がかなり多い。
地名だけではなく、スペイン語を話す人もものすごく多い。

昨年、ロサンゼルスに行ったとき、ダウンタウンのど真ん中の食料品店で、カットフルーツを買った。
中南米系の中年の女性店員に「スペイン語、話しますよね」と声をかけると、にこっと笑って「スペイン語しか話しません」と答えた。
つまり、スペイン語が母国語の客も多いから、「しか」で充分やっていけるというわけだ。
実際、ダウンタウンを歩くと「しか」まではいかないにしても、スペイン語「だけ」で十分にやっていける。

そのときは、近くのホテル「Stay」に宿泊した。ここはデザインホテルでかっこいいし、朝はコーンフレークが食べ放題なので気に入った。
そこのフロント従業員の若い女性たちはいつもスペイン語と英語が混ざった「スパングリッシュ」を話していた。清掃アルバイトの20歳代の男性はグアテマラ出身。米国には5年前に来て、「平日は英会話の学校に通っているけど、けっこう難しい」とのこと。たしかに、スペイン語で生活できる環境で英語を勉強するのは難しいだろう。
米国にはスペイン語圏だけでなく、日本も含め、世界中から人がやってくる。そういう意味では、米国はなかなか「英語漬け」にさせてくれない英語圏だ。

ホテル周辺には髪飾り店、おもちゃ店、インド製品店、下着店、置物飾り店、CD店などがひしめき、商品の価格もTシャツ5枚10ドルやDVD1枚2ドルとかなり安い。通りを歩く客はほとんど中南米系の人々だった。

こうした中南米系の人々、いわゆる「ヒスパニック/ラティーノ」は21世紀に入って、米国最大のマイノリティといわれている。2010年の国勢調査によると、彼らの人口は約3530万人(12.5%)に達し、従来は最大のマイノリティだったアフリカ系の約3460万人(12.3%)をしのぎ、さらに今後増える傾向にある。

ロサンゼルス郡には今日、ヒスパニック/ラティーノが約470万人に住んでおり、郡としては全米最大だ。メキシコがスペイン領だった18世紀に「ロサンヘレス(Los Angeles)」と名づけられた集落は、その後、19世紀に東海岸から来たアメリカ人に「ロサンジェルス」と呼ばれ、21世紀に「ロサンヘレス」に戻っていくのだろうか。

ダウンタウンにそびえたつワールド・トレード・センタービル(写真左)や大手国際法律事務所(同左)=ロサンゼルス、2011年6月撮影

2012年5月1日火曜日

国境の町ティフアナ

20116月に米国との国境に接するメキシコ北端の町ティフアナを訪ねた。

アメリカ南端のサンディエゴから国境をまたがる歩道橋を渡って、鉄格子の回転扉を二つ抜けるとメキシコだ。

午前10時過ぎ。メキシコ人もサンディエゴからティフアナへ向かう。
となりを歩く50歳代の女性に聞くと、彼らはサンディエゴで働くメキシコ人通勤者らしい。
毎日、国境を行き来する。

観光ブックに書いてあったように、メキシコでは処方箋なしで販売できる薬の種類も多いため、ティフアナには薬局がやたら多い。
ある薬局の男性店主が「ヴィアグラ、ヴィアグラ」と声をかけてきたが、「まだヴィアグラは必要ないよ」と答えると笑っていた。

光地の革命通りは500メートルにわたって土産物店が並ぶ。
日本人とわかると「タダミタイナモノ」「アミーゴ、ミルダケ」とにぎやかだ。
「ヤマモトサン!」という掛け声は秀逸だった。思わず足を止めたくなる。

革命通りを一筋西側にいくと、現地の人々の生活が垣間見える。
市場では、トウガラシやチーズなどが所狭しと並ぶ。
教会にたどり着いた。なかでは、500人以上の住民が神父の説教を聞いている。
しかし、外が騒がしい。
教会の前の通りで、10人ほどのバンドが歌を歌っている。
近づいてみると、警察官のバンドだ。のりのりで歌もうまい。

近くの屋台で1ドル10セントの焼きトウモロコシを買った。
メソアメリカ文明ではトウモロコシは神聖な存在だったというので、メキシコではかならず食べようと思っていた。
レモン汁と塩、それからチリソースをかけてかじりついた。
日本の焼きトウモロコシとはちがって、粒が乾いていて硬い。
食感は、がりがりがり、という感じだ。

警察官バンドのステージ裏側の通りを入ると、雰囲気が変わった。
かなり派手な化粧の女性らが手持無沙汰に建物に寄りかかっている。
建物には「酒場」や「ホテル」と書いてある。
あとで観光案内書のスタッフに確認したが、ここがティフアナの「ソーナ・ロッハ(赤線地帯)」のようだ。
「教会のすぐ近くにあるんですね」と聞くと「いやそうじゃないの。ここら一帯がそもそもソーナ・ロッハなのよ」。

ついでにティフアナの観光客について聞くと、アジア人がもっとも多く、ドイツ人、オーストラリア人、カナダ人、アメリカ人と続くらしい。
たしかにさっき革命通りで、5060歳代の中国人約20人の団体観光客を見た。
成長著しい中国経済を象徴しているのかなと思ったが、ある土産物店の女性店主は「彼らはぜんぜんお金は使わないのよ」と不満げだった。

だいたい中心部は見たので、ご飯を食べて帰ることにした。
帰り際のメキシコ料理店で、エビと野菜のメキシコ風炒め物、ともいうべき一品を頼んだ。小麦のトルティージャに挟んでいただく。これはいける。
しばらくすると、インディオ系の少女が1ペソ(当時8円相当)のガムを売ってきた。
まあいいや、と買うと、3人、4人と集まってきた。
しまいに「水を買って」「1ドルちょうだい」と止まらない。
なんとかしてあげたいけど、切りがないので、ほどほどに対応した。
少女らは610歳。平日は学校に通っているらしい。

料理店ウェイターのおじさんと小一時間話した。
「メキシコでは貧乏に生まれたら、ずっと貧乏。裕福ならずっと裕福」というおじさん。
家計を支えるため、アメリカに出稼ぎに行ったことがあるが、1年で帰ってきたらしい。いまでも生活は厳しい。
それでも「お金はなくても、メキシコ人がメキシコで住めるのは幸せなことだと思う」と話していた。

家族や友人とともに住み慣れた「場所」で安心して暮らしたい。
そんな当たり前のことを人が願うとき、果たして、そこで本当に安心して暮らし続けることができるのか。
そんなことも移民をめぐる不平等な現実を量る一つの指標のように思われた。

チーズや香辛料などが所せましと並び、地元の買い物客でにぎわう市場=ティフアナ、2011年5月撮影