2015年11月27日金曜日

感謝祭とショッピング・モール、「アメリカ人」生み出す場所

11月の第四木曜日は感謝祭(Thanksgiving Day)。アメリカの国民的な祝日で多くの人が家族で集まる。

留学してから4回目の感謝祭。これまでは妻と二人だったけれど、今年は先日、生まれた子どもと一緒に迎えた。おっぱい飲んで、うんこして、ねんねしての生活。こちらに視線を向けたり、泣き声を出したりして、妻と僕に何かしら感情を伝えてくるのでおもしろい。

感謝祭は、17世紀初頭に現在のマサチューセッツ州に移住したイギリス人と先住民が神に感謝して一緒にご馳走を食べたことにちなんでいる。けれど、イギリス人の移住が先住民社会に壊滅的な打撃を与えたという歴史的事実を覆い隠しているとして批判の対象にもなっている。また、感謝祭はアブラハム・リンカーン大統領が19世紀の南北戦争中、北部を中心として国民を統合するために設けた祝日でもある。

このようにイギリス人移住者の美化とナショナリズムを伴って生まれた祝日だけれど、その後、家族で集まる祝日として定着した。七面鳥などアメリカ原産の食材を使った料理が多くの家庭の食卓にのぼるので、食材という観点では本当にアメリカ的な祝日といえるだろう。

七面鳥も豪華で楽しいけれど、我が家は普段どおりサンマ、納豆、味噌汁、豆腐などを美味しくいただいた。デザートには、友だちからもらった柿のジュクジュクしたやつを楽しんだ。この日であれどの日であれ、家族と一緒に食事ができることはありがたい。

友だちの住むアパートの庭で育った柿。熟してから食べた。砂糖が少ない時代の人にとって頬っぺたが落ちるほど甘くて美味しかっただろう。


感謝祭は年の瀬のショッピング・セールが始まる日でもある。この日の午後6時ごろから、Macy'sなどの大手量販店が開店。大安売りを目当てに店頭にテントを張って数日前から開店を待つ人もいる。この日は一般的に「ブラック・フライデー」と呼ばれており、一説では感謝祭翌日の金曜日から店の売り上げが黒字化するから、そう呼ばれるようになったという。

どんなものか見てみようと午後9時ごろ、近くの大きなショッピングモールに一人で足を運んだ。駐車場は車でほとんど埋まっていたけど、どうにかスペースを見つけた。店内に入ると、商品が詰まった買い物袋を両手に下げて歩く人たちやレジに長い列を作る人たちで賑わっていた。英語だけでなく、スペイン語やヒンディー語、中国語、日本語などいろんな言語が客の会話から聞こえてくる。多くの移民もここで買い物を楽しむ。

多くの買い物客でにぎわうショッピング・モール

アメリカの移民社会について学んでいるわけだけれど、身体的・文化的に多様なアメリカの人々を一つにするものは何かと聞かれたら、その一つはこうしたショッピング・モールだと思っている。

アメリカでは消費することは資本主義を刺激するいいことであり、消費できることはステータスでもある。節約が美徳である一方、浪費は成功の証でもある。大量生産された商品で溢れるショッピング・モールはアメリカの富を象徴している。アメリカ社会は人種と階級の境界線を伴う不平等な社会だけれど、外見も文化も異なる人々がショッピング・モールで同じように消費を楽しむ様子を見ていると、アメリカの富という渦の中で彼らが一つになっていくような感じがする。少なくともここに来た(来れる)人たちに関しては、そう思う。

その渦は、それを観察している僕も巻き込んでいく。あまり買い物をしない僕でさえ、そこにいると周りの人と同じように、なんとなく楽しい気持ちになる、というか、楽しい気持ち以外はその場に想定されていない。ショッピング・モールの圧倒的な量の商品と賑やかな店内の装飾がアメリカの富の明るい部分だけ極端に照らし出し、そこで10ドルでも使えば、たちまちその富の一部になったような錯覚を生む。

現実社会の不平等を消費の力で一瞬でも忘れさせるショッピング・モールは、「アメリカ人」を生み出す原動力の一つを体感できる場所として、いつ足を運んでも興味深い。

そんなことを考えながら、自然と足が向かったのは、赤ちゃん服のコーナー。生まれたばかりの子どもに何か買おうか。人気ブランド「Carter's」の乳幼児用の服が4割引きだった。買う前に妻に電話したところ、「Carter'sは自社サイトでよく半額セールしてるから買わなくていいわ」とのこと。結局、いつも通り何も買わず家に帰った。家に到着すると、子どもがおっぱいをくわえながら眠っていた。

緑色が好きなので買おうかと思って買わなかった子供服

2015年11月14日土曜日

アメリカの出産費用と保険制度、多様な国民生み出す背景

妻が出産したロサンゼルスの病院から出産費用の請求書が来た。

費用合計 2万1657ドル(264万円)

とんでもない額にケタを数えて確認した。

その下に保険会社支払予定額として同じ金額が記載されていたから、自己負担予定額はゼロだった。今回の出産費用が保険でカバーされることは知っていたけれど、日本円で264万円もの費用が出産にかかること自体に改めて驚いた。

アメリカでは出産費用自体が驚くほど高い一方で、低所得者世帯の出産費用に対する公的な支援が整っており、これは多くの低所得者を含む移民の包摂に大きな役割を果てしている。

貧困レベルの所得の家庭は「Medicaid」という公的医療保険制度を利用すれば、自己負担なしで、連邦政府と州政府から出産費用を給付してもらえる。この制度は市民権運動を含むリベラルな社会運動が盛んであったリンドン・ジョンソン政権下で成立した。

連邦政府が定める貧困レベルの所得は、2人世帯では1万5930ドル(194万円)。カリフォルニア州の場合、この貧困レベル所得の約4割増し以下の所得の人は「Medicaid」を利用できる。つまり、夫婦二人の家庭であれば、世帯所得が2万1708ドル(265万円)以下であれば、まったく自己負担なく出産することができる。

この制度が使えれば、出産費用の心配なしに出産できるけれど、僕と妻の所得合計は年間265万円を超えている。貧困レベルではないものの、出産をカバーするような高額の民間保険には加入していないし、自費で200万円を超えるような出産費を払うこともなかなか厳しい。どうしようか。

そういう家庭に対して、カリフォルニア州では「Medi-Cal Access Program (MCAP)」という制度を設けている。制度名は2014年7月に旧「Access for Infants and Mothers Program(AIM)」から「MCAP」に変わった。

MCAPの規定では、これから生まれてくる子供を含めて3人世帯の世帯所得が月3567~5392ドルの場合、642~971ドルの制度利用費を一度支払えば、妊娠・出産費用を給付してもらえる。手続き上、指定された民間の保険会社に加入するけれど、保険会社に対しては何も支払わなくてもいい(ロサンゼルス郡の場合、保険会社は「Anthem Blue Cross」)。

我が家の場合、申請した月の僕のティーチングアシスタントとしての給料と妻のバイト料を足すと、3567ドルを少し超える程度になったので、この制度を利用することができた。というわけで、出産にかかった費用は、MCAPの制度利用費の約650ドルだけだった。

アメリカでは医療費と保険料がそもそも高すぎることが貧富の差の再生産につながっている。ただ、少なくとも出産に関しては低所得者に手厚い支援があることも実感できた。

MCAPのサイトから

ちなみに、我が家の場合、MCAP申請(当時はAIM)から出産までは以下のような形で進んだ。

1.ネットで見つけた医療機関(Asian-Pacific Health Care Venture)で妊娠証明書を手に入れる。スタッフと一緒にAIMの申請書に記入する。
2.スタッフと一緒に準備したAIM申請書類、妊娠証明書、所得を証明する小切手のコピーをAIMに郵送する。
3.AIMから申請内容確認の電話を受ける。
4.AIMから申請受理の通知が郵送される。
5.指定された保険会社から、保険カードが郵送される。
6.保険会社が指定した医師から診察を受け、産婦人科医を紹介してもらう。
7.出産までの間、その産婦人科医から定期的に診察を受ける。
8.産婦人科医と提携している病院で出産する。


ところで、非合法移民がアメリカで出産する場合はどうだろうか。

彼らは一般的な「Medicaid」に加入できない。けれど、救急救命扱いで出産した場合、その費用は公費でカバーされ、実際に多くの非合法移民がこの方法で出産している。これについては、移民反対派は「出産目的の不法入国を助長する」と批判し、移民擁護派は「彼らの移民目的は労働であって出産ではない。出産前の診察などのケアを受けられないから不十分」と反論している。

非合法移民のほとんどはアメリカ経済を影で支える低賃金労働者だ。もはや彼らなしのアメリカ社会は考えられない。「低賃金で働いてほしいけれど、子どもは生んではいけない」という考え方は明らかに不平等であり、彼らの人権を侵害する。そういう意味では「救急外来」扱いの良し悪しは議論の余地が残るものの、彼らの出産費用が公費でカバーされることは重要なことだ。

アメリカには21世紀に入っても、移民が流入し続けている。アメリカで生まれた子どもは、アメリカ国籍を持つ。移民の流入とそれに伴う出産は、多様なアメリカ国民を生み出してきた。妻の出産を通して、アメリカ政府が外国人の出産をどのように支援しているのか具体的に知り、考えるきっかけになった。


日本の場合、外国人でも国民健康保険か勤め先の健康保険に入っていれば出産育児一時金を給付され、出産費用として使うことができる。

多くの外国人が住む愛知県では、県内の医療機関、大学、自治体が共同で「あいち医療通訳システム」を運営。ホームページでは不法滞在者(非合法移民)に対する医療機関の対応についても詳しく説明している。

同システムによると、不法滞在者は国民健康保険には入れないが、勤め先の健康保険には入れる。ただ、無保険の不法滞在者の場合、自費診療となる。その際、医療者は「確実なコミュニケーション確保のために医療通訳者を入れること、治療費のおおよその総額を最初に伝えること、安価な方法でどこまで治療するかを患者とよく相談する」が必要があるとしている。不法滞在者への対応は「病気やけがに苦しむ一人の人間であるとすることから出発するとよいでしょう」としている。

日本では移民受け入れの議論が活発化しているけれど、外国人を労働力としてしか捉えていない議論も目立つ。また、移民が増えれば、様々な理由で滞在が超過する人も増えるけれど、不法滞在者に対する理解は乏しい。愛知県の同システムのように、合法であれ不法であれ、外国人を「一人の人間」として理解しようとする認識と仕組みが政府主導で全国的に広がること、そして、すでに国内に定住した移民とその子孫について歴史的な理解を深めることなしには、どんな移民政策も失敗するだろう。

・MCAPのサイトは、こちら
・MCAP対象者の所得基準は、こちら
・非合法移民の出産費用については、こちら
・「あいち医療通訳システム」による不法滞在者への対応は、こちら

2015年11月1日日曜日

ロサンゼルスで出産、移民看護師が支える医療現場

最近、ロサンゼルスの病院で妻が出産した。移民を含む多様な人々によって支えられているアメリカの医療現場について理解を深める機会にもなった。

出産予定日を4日過ぎても陣痛が来ないため、妻が産婦人科クリニックを訪ねると、インド出身の医師から「羊水の量が減っているから、すぐにでも(出産予定の)病院に行ったほうがいい」と指示された。

大学の授業中に妻からメールを受け取った僕は、授業後の午後3時半からのオフィスアワーをキャンセルして、すぐに電車に飛び乗った。駅で待っていた妻とお義母さんと一緒に車で病院に向かった。アメリカでは、出産前に妊婦が通院する産婦人科クリニックと実際に出産する病院が異なる場合が少なくない。

病院はカリフォルニア州でも屈指の大病院「Ceders-Sinai Medical Center」。ビバリーヒルズ近くの病院で有名人も出産の際に利用するという。その病院は僕たちが指定したわけではなく、たまたま妻の産婦人科クリニックが提携している病院がそこだった。駅から20分ほど走ると、ユダヤ教のシンボル「ダビデの星」を掲げた大きな病院に到着した。

この病院は、1859年にロサンゼルスに移り住んだプロイセン王国出身のユダヤ人企業家カスペアー・コーンが1902年に設立した。1970年代には、美容業界の発展に貢献したユダヤ人マックス・ファクターの財団の寄付で、現在のメイン病棟が建設されたという。この病院はアメリカにおけるユダヤ系移民の成功を象徴する施設でもある。


病院に着くなり、妻は早速、超音波で羊水の量を改めて確認してもらう。白人女性の助産師さんは「羊水が少ないわね。この少ない状況で自宅で陣痛を待つのはよくないわ。陣痛促進剤を打って、今日生みましょう。ちょっと驚いたかもしれないけど、この方法しかないわ」とのこと。妻も僕も予定日を過ぎてまだかまだかと思っていたので、驚くというより、ありがたいという感じだった。

それから陣痛分娩室(labor and delivery room)へ。アメリカでは陣痛室と分娩室の区別はない。陣痛分娩室はアットホームな雰囲気の個室だ。必要な医療器材一式に加え、トイレやシャワー、テレビも付いている。まずは若い黒人女性の看護師さんが部屋を準備し、午後6時くらいに30歳代の白人女性の看護師さんが交代でやってきた。彼女がオキシトシンという子宮を収縮させるホルモンの入った点滴を妻の左手に打ち始めた。

「ロサンゼルスでは何をしているんですか」と彼女に聞かれたので、博士課程で歴史学を勉強していることを伝えると、「私も学部は歴史学専攻だったんですよ。弁護士になろうと思っていたけど、弁護士の仕事は向いてないと思って看護師になったの。こうやって赤ちゃんを世の中に出すお手伝いをする素晴らしい仕事だと思っているわ」と気さくに話してくれた。

午後9時くらいに彼女が「他の妊婦さんの出産が始まったから、別の看護師に引き継ぐわ」と言って、別の20歳代の白人女性に交代した。その後、陣痛がいよいよ強まり、妻が歯を食いしばる時間が増えたので、アメリカでは一般的な無痛分娩のための麻酔エピデュラル(epidural)を受けることになった。

エピデュラルを担当したのはインド系の麻酔科医。麻酔の作業をしつつ、「一日だけ私も京都に行ったことがあるわ。自転車に乗っている年配の女性が多いですね」と日本旅行の思い出を話してくれた。麻酔を始めてから15分ほどで妻の腰から下の感覚がほとんどなくなった。そのまま順調に子宮口も開いていった。

赤ちゃんの頭が見えてくるまで、医師は部屋にいない。それまでは看護師さんと僕が二人で、麻痺している妻のひざを持ち上げて、「One, Two, Three...Ten」と数えて妻がいきみやすいように手伝う。僕はそれを午前4時から1時間以上続けたので「立ち会い」というより分娩チームの一員という感じだった。無痛分娩で痛みはほとんどないものの、いきまないことには出てこない。いよいよというところで、病院勤務の産科医の女性が駆けつけて、赤ちゃんを取り出すと、最初は何か喉に詰まっていたけど、すぐに「ウンギャー」という産声が響いた。

出産分娩室の窓ガラス越しに見えるショッピングモールの背後から、赤ちゃんにとって初めての日光が差し込んできた。


分娩を終えると、産後ケアの個室(postpartum room)に移動した。妻を担当してくれた看護師さんは韓国出身の50歳代の女性。赤ちゃんの世話の仕方についてきめ細かく教えてくれた。いつも笑顔いっぱいで、妻も安心したらしい。授乳の仕方については「フットボールでやりましょう」と、フットボール選手のように妻の脇に赤ちゃんを挟んでお乳を飲ませる方法などを優しく教えてくれた。僕には赤ちゃんを布でミノムシのようにくるむ方法を教えてくれた。ちょうどカリフォルニアのメキシコ料理ブリトーみたいで、出産直後に別の看護師さんも「ちっちゃいブリトー(little burrito)ね」と言っていた。フットボールとブリトーが登場するアメリカらしい産後指導だ。

韓国出身の看護師さんは、僕たちが日本人だったので「私の母親は大阪で生まれたの。ちょうど最近亡くなったんです。父親が一年前に亡くなって母親は寂しくてしていたんでしょう」。僕らの赤ちゃんを見て「日本人の赤ちゃんは小さいことが多いけど、この子は大きいねえ」とニコニコ話してくれた。

彼女が午後7時ごろに勤務を終えると、代わりにフィリピン出身の30歳代の看護師さんがやってきた。赤ちゃんの体重を測るため、僕は妻を部屋に残し、ナーセリーという赤ちゃんの経過を確認する部屋に看護師さんと向かう。赤ちゃんを見失ったり、取り違えたりしないため、母親と父親の腕と赤ちゃんの脚には、同じ情報が記載されたタグをつける。看護師さんは僕と赤ちゃんのタグをそれぞれ確認したうえで部屋を出た。ナーセリーには赤ちゃんが二人ほどいたけど、出産後に新生児室に赤ちゃんを集めることが一般的な日本と違って、アメリカでは出産から退院まで基本的に母親と赤ちゃんは引き離されない。僕も簡易ベッドを出してもらい部屋に泊まれたので、一時的に大学に行ったものの、妻と赤ちゃんと一緒にいることができた。

産後ケア室では一泊目だけ夫の僕にも夕食を提供してくれた。

そのフィリピン人の看護師さんが翌朝まで世話してくれた。その後、出産2日後の朝まで、別のフィリピン出身の看護師さんが二人続いた。2008年のデータでは、ロサンゼルス郡で働く看護師のうち、フィリピン系は27%を占め、白人の35%に次いで多い。1960年代以降、フィリピン国内の雇用不足とアメリカ国内の看護師不足が合わさって、アメリカで働くフィリピン人看護師が増えた。1989年には一部のフィリピン人看護師に対して永住権を取得しやすくする法律も整備された。一方、1990年代の研究によると、アメリカ人看護師より所得が高いフィリピン人看護師の数は少なくないものの、それは夜勤や救急救命といった厳しいシフトに回されている結果であり、必ずしもフィリピン人看護師が平等に扱われているわけではない、という指摘もある。実際に僕らが産後ケア室にいた二泊三日は、どちらの夜も夜勤はフィリピン人看護師だった。夜勤して支えないといけない家族がアメリカにもフィリピンにもいるのだろう。


退院の朝、三人目のフィリピン人看護師から、40歳代後半くらいの細身のロシア人看護師に交代した。

妻は退院後に家の近所の小児科クリニックに通うことになっているけれど、なかなか医師と連絡がつかない。仕方ないので、妻はクリニックの留守電に伝言を残しておいたものの、予約が取れるか微妙なところだった。そんな状況に、ロシア人看護師は「きっと医院から折り返しの電話はないでしょう。アメリカは日本と違うの。私は日本人の労働倫理が好きよ。決めたらちゃんとやるでしょ。ロシア人もそうよ。決めたら実行よ」とロシア語なまりの英語で痛快に語る。それだけならいいけれど、僕と廊下を歩いているときに出会った他の看護師や医師にも「彼は日本人よ。私のイメージ通り。私は日本人の労働倫理が好きなの」と言って回るので、なんだか小恥ずかしくなった僕は「そんなことないです」と小さな声を挟むことしかできなかった。

結局、出産から退院まで代わる代わる10人の女性看護師のお世話になった。白人が4人、フィリピン人が3人、韓国人が1人、ロシア人が1人、黒人が1人。言いかえると、アメリカ出身者が5人で、海外出身の移民が5人だ。妻の出産を通して、多様な背景の人材が集まってアメリカの医療が支えられているという現実を垣間見ることができた。

見ている限りでは、看護師と医師との関係は主従関係というよりは、いい協力関係という感じで、移民であろうがなかろうが、看護師の立場に敬意が払われているような印象を受けた。人種・エスニシティの違いで役割分担が異なるアメリカの社会構造を根本的に変えるわけではないものの、アメリカの医療現場は移民が社会に包摂されていく現場となっている。

妻も看護師さんたちのおかげで安心して退院できたようだ。子どもが大きくなったら、お世話になった看護師さんたちの話をしてあげたい。

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